第5話 最初の音
翌日。悠真は、吹奏楽部の練習室へと向かった。
心臓が高鳴る。野球部を辞めてからずっと感じていた、あの冷たい空虚感は、もうどこにもなかった。
代わりに、新しい世界に足を踏み入れることへの、わくわくするような高揚感があった。
練習室の扉を開けると、そこには、昨日見た打楽器パートのメンバーたちがいた。彼らは、それぞれ真剣な顔つきで、楽器と向かい合っている。
その中に、北原蓮の姿を見つけると、悠真は、少し緊張しながらも、彼の元へと歩み寄った。
「おはようございます!」
悠真が元気よく挨拶をすると、北原は、にこっと笑って応えた。
「おう、おはよう、真田。早速だが、今日も練習に参加してくれるか?」
「はい、お願いします!」
悠真は、力強く頷いた。
その返事に、北原は満足そうに微笑むと、悠真を小さなドラムの前に案内した。
「じゃあ、今日はまず、このスネアドラムから始めてみよう」
そう言って、北原は、悠真に、二本の木製のスティックを差し出した。悠真は、グローブを握るように、力を込めてスティックを握りしめた。
「おいおい、そんなに力を入れたら、音が硬くなるぞ」
北原は、そう言って、悠真の手に優しく触れた。
「もっと、力を抜け。
肩の力を抜いて、手首のスナップで叩くんだ。野球のピッチングと、ちょっと似てるだろ?」
北原の言葉に、悠真はハッとした。
野球のピッチングも、肩の力を抜き、手首のスナップでボールを投げる。その感覚を、悠真は、誰よりもよく知っていた。
「こう、力を込めるんじゃなくて、遠心力を利用するんだ。バチの重さを感じて、手首を柔らかく使って」
北原は、悠真の手首を優しく動かしながら、そう教えてくれた。
悠真は、北原の助言通りに、肩の力を抜き、手首のスナップで、スネアドラムを叩いてみた。トン、と、先ほどよりも、柔らかく、心地よい音が響く。
「……すごい」
悠真は、思わず声を漏らした。
野球のグローブを握るように、力を込めて握りしめていた手が、いつの間にか、楽器と一体になるように、優しくスティックを包み込んでいた。
「だろ? お前、センスあるんじゃないか?」
北原が、にこっと笑った。
その笑顔は、野球部を辞めてから、悠真が誰にも見せることができなかった、素直な笑顔を引き出してくれた。
「よし、じゃあ、次はメトロノームに合わせて、叩いてみよう」
北原は、そう言って、メトロノームのスイッチを入れた。
カチ、カチ、カチ……と、一定のリズムが音楽室に響く。
悠真は、その音に合わせて、スティックを振り下ろした。
「もっと、正確に。
メトロノームの音と、自分の音が、ぴったり重なるように」
北原の指示は、野球のピッチングコーチの指示とは違う。
だが、そこには、同じくらい、熱い情熱があった。悠真は、その情熱に応えたいと思った。
野球を辞めてから、ずっと、心に空いた穴があった。もう二度と、野球をすることができないという絶望。
だが、吹奏楽部の練習室で、新しい仲間と出会い、新しい音を奏でることで、その穴は、少しずつ埋まっていくような気がした。
「いいぞ、真田! その調子だ!」
北原の声に、悠真の胸は、期待で高鳴る。新しいグラウンドで、新しい夢を追う。その決意が、悠真の胸の中で、確かな熱を帯びていた。
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打楽器のパート練習が終わり、悠真は、音楽室の中を歩き回った。
そこには、初めて見る楽器がたくさんあった。金管楽器のきらびやかな光沢。木管楽器の温かみのある木の色。
それらが、悠真の心を、わくわくとした気持ちで満たしていく。
「すごい……」
悠真が、大きなチューバを前に、そう呟くと、背後から、おっとりとした声が聞こえた。
「あの、よかったら、触ってみますか?」
振り返ると、そこに立っていたのは、昨日、音楽室を覗き見した時に、チューバを膝に乗せていた、ふっくらとした体型の女の子だった。
彼女は、眼鏡をかけていて、見るからに柔らかい雰囲気を持っていた。
「あ、いいの?」
悠真が尋ねると、彼女は、にこっと微笑んだ。
「はい。私は、西園寺明日香です。よかったら、名前を教えてください」
「俺は、真田悠真。昨日から、吹奏楽部に入部したんだ。よろしくな」
悠真が自己紹介をすると、明日香は、少し驚いたような顔をした。
「真田くん……もしかして、野球部だった?」
明日香の問いかけに、悠真は、少し顔を曇らせた。
「うん。でも、怪我をして……それで、野球を辞めたんだ」
悠真がそう言うと、明日香は、申し訳なさそうな顔をした。
「そっか……ごめんなさい。変なこと聞いちゃった」
「いや、大丈夫。もう、気にしないから」
悠真がそう言うと、明日香は、少し安心したように微笑んだ。
「じゃあ、せっかくだから、チューバ、触ってみますか?」
明日香は、そう言って、悠真にチューバを差し出した。悠真は、その大きさと重さに驚いた。
「うわ、重っ!」
「でしょう? でも、この重さが、音の深みを出してくれるんです」
明日香は、そう言って、チューバを構えた。そして、ゆっくりと、息を吹き込んだ。
「ブー……」
と、腹の底に響くような、重厚な音が音楽室に響き渡る。
その音は、まるで、地の底から湧き上がってくるような、力強い響きを持っていた。
「すごい……」
悠真は、再び声を漏らした。野球のグラウンドで、応援歌の土台となっていた、あの低音だ。
「この音を出すのが、私の仕事です」
明日香は、そう言って、少し恥ずかしそうに笑った。その笑顔は、おっとりとした雰囲気の中にも、芯の強さを感じさせた。
「明日香、よろしくな」
悠真は、力強くそう言った。
新しい仲間との出会いが、悠真の心に、また一つ、温かい光を灯してくれた。
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放課後の練習時間。
音楽室には、吹奏楽部員全員が集まっていた。これから、新入部員も加わって、初めての合奏練習が始まる。
悠真は、打楽器パートの一員として、スネアドラムの前に立っていた。
「よし、みんな、今日は、新入部員も加わって、初めての合奏だ。気合を入れていこう!」
葛城顧問が、そう言って、指揮棒を構える。その言葉に、部員たちの表情が引き締まった。悠真も、スティックを握りしめ、身構える。
「まずは、『宝島』からだ」
葛城顧問が、そう言って、指揮棒を振り下ろした。
チャララララ……と、軽快なトランペットのメロディーが、音楽室に響き渡る。それに続いて、サックスやクラリネットの音が重なっていく。
悠真は、その音の波に、心を奪われた。
「そして、打楽器隊、最初の音は、スネアドラムだ。行くぞ!」
葛城顧問の指示に、悠真は、スティックを振り上げた。チャッチャラッチャッチャ……と、軽快なリズムが、悠真の耳に届く。
「……ここだ!」
悠真は、そのリズムに合わせて、スティックを振り下ろした。
ドタッ!
と、硬く、不自然な音が、音楽室に響き渡る。合奏が、一瞬止まった。
「……今、どこで叩いた?」
葛城顧問の鋭い視線が、悠真に突き刺さる。悠真は、赤面した。
「すいません……リズムを、外しました」
悠真がそう言うと、葛城顧問は、静かに首を振った。
「野球は、一人一人の力が重要だ。
だが、吹奏楽は、違う。チームの一員として、一つの音を奏でる。
それが、吹奏楽だ」
葛城顧問の言葉に、悠真は、胸が締めつけられるのを感じた。
野球では、マウンドに立つと、たった一人だった。だが、吹奏楽では、たった一人がリズムを外すだけで、全体のハーモニーが崩れてしまう。
「もう一度だ。次は、絶対に合わせるぞ」
葛城顧問の言葉に、悠真は、力強く頷いた。
二度目。三度目。悠真は、葛城顧問の指揮棒と、隣の北原先輩のリズムを必死に追った。そして、四度目。
チャッチャラッチャッチャ……
悠真は、メトロノームの音と、北原先輩のリズムに、神経を集中させる。
「……今だ!」
ドンッ!
と、先ほどよりも、ずっと力強く、そして、周りの音に溶け込むような、心地よい音が響いた。
合奏が、最後まで続いた。演奏が終わると、音楽室には、拍手が響き渡る。
「よくやった、真田!」
北原先輩が、悠真の肩を叩いてくれた。その手は、優しく、そして温かかった。
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初合奏が終わってから、悠真は、北原蓮と、そして同期の西園寺明日香と共に、帰り道を歩いていた。
空は、もうすっかり暗くなり、街灯の光が、三人の影を長く伸ばす。
「真田、今日の合奏、どうだった?」
北原が、悠真に尋ねた。
「……難しかったです。
リズムを合わせるのが、こんなに難しいなんて、思ってなかった」
悠真がそう言うと、明日香が、おっとりとした声で、こう続けた。
「私も、最初はそうでした。でも、みんなで一つの音を奏でるのって、すごく楽しいですよね」
明日香の言葉に、悠真は、ハッとした。
野球を辞めてから、ずっと、一人で戦ってきたような気がしていた。だが、今は違う。この仲間たちと、一つの音を、一つの夢を追うことができる。その事実に、悠真の胸は、温かい気持ちで満たされた。
「うん。楽しい。俺も、もっと、みんなと一緒に、良い音を奏でたい」
悠真がそう言うと、明日香は、にこっと微笑んだ。
「うん。一緒に頑張ろうね」
その言葉に、悠真は、心の底から嬉しくなった。野球部では、誰もがライバルだった。だが、吹奏楽部では、誰もが仲間だった。
「真田、明日香。お前たち二人なら、きっと、この吹奏楽部を、もっと強くしてくれると思う。だから、諦めずに、続けてくれよ」
北原の言葉に、悠真と明日香は、顔を見合わせた。そして、二人で、北原に、力強く頷いた。
「はい、絶対、やめません!」
「うん!」
悠真と明日香の声が、夜空に響き渡る。その声は、二人の新しい夢の始まりを告げる、力強い合図だった。
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家に帰り、自室に戻った悠真は、ベッドに倒れ込む。体は疲れていたが、心は、満たされていた。
机の上には、真新しいスティックが置いてある。悠真は、そのスティックを手に取った。木製の感触が、悠真の手に、しっくりと馴染む。
悠真は、スティックを振り上げ、机の上を、優しく叩いてみた。
トン、トン、トン……
メトロノームのリズムが、頭の中に響く。悠真は、そのリズムに合わせて、正確に、そして力強く、机を叩いた。
トン、トン、トン……
野球の練習では、できなかったことだ。
自分の力だけで、何かを成し遂げること。もちろん、吹奏楽はチームプレーだ。
だが、そのチームの中で、自分の役割を全うするために、自分自身で努力すること。そのことに、悠真は、小さな達成感を感じていた。
右肩の鈍い痛みは、依然としてそこにあった。だが、もう、その痛みは、悠真の心を絶望させるものではなかった。
むしろ、その痛みは、悠真が、新しい夢へと向かうための、力強い原動力になってくれた。
悠真は、スティックを握りしめたまま、窓の外を眺めた。
夜空には、満月が輝いている。その光は、悠真の新しい夢を、優しく照らしてくれているようだった。
明日も、この仲間たちと、新しい音を奏でる。そして、いつか、あの甲子園のスタンドで、この音を、響かせる。
その夢に向かって、悠真は、今、この場所で、最初の音を、奏でていた。
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