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第4話 決断の一歩

 夕暮れの光が差し込む職員室は、静かだった。教員たちのデスクは整然と並び、どの席にも人の気配はない。悠真は、校長室の隣にある、吹奏楽部顧問・葛城一真のデスクに向かってゆっくりと歩を進めた。


 デスクの前に立つと、葛城顧問は書類を整理していた手を止め、静かに顔を上げた。眼鏡の奥の細い目が、悠真をまっすぐに見つめる。悠真は、その視線に一瞬たじろいだが、すぐに覚悟を決め、口を開いた。


「葛城先生、あの……」


「来たか、真田」


 悠真が言い終わる前に、葛城顧問は短く、しかし温かい声でそう言った。まるで、悠真がここに来ることを、最初から知っていたかのように。


「はい」


「……この前は、すまなかったな。急に美咲が引き止めてしまったみたいで。」


 葛城顧問はそう言って、デスクの上に置いてあった、飲みかけのコーヒーを一口飲んだ。悠真は慌てて首を振った。


「いえ、そんな……」


「いいんだ。お前の気持ちは、よくわかってるつもりだ。野球一筋でやってきて、突然の怪我。その悔しさも、これからの不安も、痛いほどわかる」


悠真は何も答えられなかった。ただ、葛城顧問の言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいくのを感じていた。彼は、悠真の心の空洞を、的確に、そして優しくなぞるようだった。


「…でも、お前は、あの後、どうしたんだ?」


葛城顧問の問いかけに、悠真は、音楽室の前で聞いた音を思い出した。あの、力強く、そして温かい音。そして、トランペットの先輩、高瀬美咲の言葉。


「……音楽室の前で、音を聞きました。トランペットの音が、すごく、まぶしくて」


悠真は、あの時、音が出なかった悔しさを思い出し、顔を赤らめた。葛城顧問は、そんな悠真を見て、ふっと笑った。


「そうか。まあ、トランペットは、唇の振動をコントロールするのが難しいからな。」


葛城顧問はそう言って、悠真をじっと見つめる。


「お前は、野球を辞めた。それは、お前が投げられなくなったからだ。だが、野球を愛する気持ちまで、捨てたわけじゃないだろう?」


悠真は、ハッとした。胸の奥にしまい込んでいた、野球への情熱が、再び熱く燃え上がるのを感じた。


「……はい。野球は、好きです」


「なら、いい。夢は、形を変えても追えるんだ。お前は、マウンドにはもう立てないかもしれない。だが、甲子園のグラウンドには、立てるかもしれない」


その言葉に、悠真の心臓は、再び早鐘を打った。甲子園のグラウンド。投手として立つことだけが、夢だと思っていた。だが、もし、別の形で、あの場所に立てるのだとしたら……。


「野球を辞めて、吹奏楽部に入る。それは、一見、無関係なことのように思えるかもしれない。だが、俺は、そうは思わない。野球と吹奏楽は、互いに支え合い、高め合う、最高のパートナーだ」


葛城顧問は、そう言って、遠い目をした。まるで、彼自身も、野球と吹奏楽の狭間で、何かを掴み取ろうとしていたかのように。


「俺も、高校時代、吹奏楽部で甲子園の応援に行った。

あの時、グラウンドで戦っている選手たちと、スタンドで応援している俺たちは、確かに、一つのチームだった。

お前が、野球で培った集中力や、仲間を信じる気持ちは、必ず、吹奏楽部でも活かされる。いや、むしろ、お前は、吹奏楽部に、新しい風を吹き込んでくれるかもしれない」


葛城顧問の言葉は、魔法のように、悠真の心を解き放っていく。

野球を辞めたことで、自分は一人になったと思っていた。だが、そうではない。

自分は、新しいチームの一員として、新しい夢を追いかけることができるのだ。


「……ありがとうございます」


悠真は、深く頭を下げた。葛城顧問は、そんな悠真の肩に、ごつごつとした手を置いた。


「いいか、真田。野球で培った、お前のその情熱は、決して失くすな。その情熱を、今度は、音にぶつけるんだ。そうすれば、きっと、新しい景色が見えてくる」


その言葉に、悠真は、顔を上げた。葛城顧問の細い目は、穏やかながらも、強い光を宿していた。


「……はい!」


悠真は、力強くそう答え、入部届を手に取った。葛城顧問は、そんな悠真に、にこっと笑いかけた。


「じゃあ、明日から、正式に吹奏楽部の一員だ。いつでも、職員室に来い。俺は、お前を、いつでも歓迎する」


その言葉に、悠真は、再び深く頭を下げ、職員室を後にした。


廊下に出ると、窓から差し込む夕焼けが、悠真の背中を温かく照らしていた。ポケットの中の右手が、グローブの形をなぞるように動く。もう、そこにグローブはない。だが、その手は、今度は、新しい夢を掴み取るために、強く、そしてしなやかに動く準備を始めていた。



---


 職員室を出てからの帰り道、悠真は、どこか浮ついたような、しかし足取りの確かな感覚を覚えていた。


夕焼けに染まる校舎の廊下を、野球部の喧騒が遠くに聞こえる。

だが、今はもう、その音が耳に痛いだけではなかった。

むしろ、その熱気は、吹奏楽部の練習室から聞こえてきた音色と重なって、悠真の背中を押してくれているようだった。


ポケットの中には、葛城顧問からもらった、新しい入部届がある。紙の感触が、悠真の決意を確かなものにしてくれた。


家に帰ったら、父に、このことを話そう。

そう決心すると、胸の奥で、わずかな緊張と、それ以上の期待が入り混じった感情が湧き上がってきた。


真田家の食卓は、いつも静かだ。父の健司は、昔から口数が少なく、食事中は特に黙々と箸を進める。母の千春が、その日の出来事を明るく話すのが常だった。しかし、今日は、悠真の決意が、その静けさをより一層重く感じさせた。


「……悠真、今日は、早かったのか?」


父が、魚を一口食べた後、静かに尋ねた。その声は、いつもと変わらない。だが、悠真は、父が自分の心の内を見透かしているような気がして、思わず身構えた。


「うん。ちょっと、話したいことがあって」


悠真がそう言うと、父は箸を止め、ゆっくりと顔を上げた。母も、悠真の様子を心配そうに見つめている。


「……何だ?」


父の短い問いかけに、悠真は、喉の奥がキュッと締めつけられるのを感じた。


「あの……俺、野球部、辞めたんだ」


その言葉を口にするのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。父の表情は変わらなかったが、母が「えっ?」と小さな声を上げた。


「……そうか」


父は、それだけ言って、再び箸を手に取った。

その短い言葉と、いつも通りの行動に、悠真は胸の奥が冷えていくのを感じた。やはり、父は、自分の気持ちを理解してくれないのだろうか。野球一筋だった父に、自分の決断が受け入れられるはずがない。そんな絶望的な思いが、悠真の胸を支配した。


「……それで、これから、どうするんだ?」


父の声は、穏やかだった。

だが、その穏やかさが、悠真には、どこか遠いもののように感じられた。


「……吹奏楽部に入ろうと思って」


悠真は、父の反応を恐る恐る待った。父の箸が、ピタリと止まる。そして、ゆっくりと、悠真の顔を見つめた。


「……吹奏楽部、か」


父は、そう呟き、深くため息をついた。

そのため息が、悠真の胸に、重く、重くのしかかる。


「……どうして、だ?」


「俺……甲子園で、野球部を応援する吹奏楽の音を聞いて、すごく、心に響いたんだ。マウンドにはもう立てないけど、あの場所で、あの音を、今度は俺が、奏でてみたい」


悠真は、懸命に自分の気持ちを伝えた。震える声で、それでも、自分の心を、父に、そして自分自身に、語りかけた。


父は、しばらく黙っていた。

その沈黙が、悠真には、永遠のように感じられた。母は、心配そうに二人の顔を交互に見つめている。


そして、父は、ゆっくりと、口を開いた。


「……そうか。お前は、あの音が、好きだったんだな」


その言葉に、悠真は、ハッとした。

父の言葉の奥には、悠真の心を理解しようとする、温かい光があった。


「……あの音は、選手の背中を押してくれるんだ」


父が、幼い頃、甲子園で言った言葉が、悠真の頭の中に蘇る。


「……お前は、自分の夢を、見つけたんだな」


父の言葉に、悠真の目から、熱いものがこぼれ落ちそうになった。

父は、自分の気持ちを、理解してくれたのだ。野球を辞めることを、否定しなかった。新しい夢を追うことを、応援してくれたのだ。


「……はい」


悠真は、声が震えるのを必死に抑えながら、そう答えた。


「……やるからには、中途半端にすんな。野球も、吹奏楽も、一生懸命やることに変わりはない」


父は、そう言って、再び箸を手に取った。その短い言葉は、悠真にとって、何よりも力強い応援歌だった。


「……うん」


悠真は、涙をこらえながら、力強くうなずいた。食卓の静けさは、もう、重くはなかった。

それは、父と息子の間に流れる、温かい、そして確かな絆の証だった。



---



夕食後、悠真は自室に戻った。


机の上には、真新しい教科書と、使い古された野球のグローブが置いてある。 革の匂い、土の匂い、汗の匂い。そのすべてが悠真の過去を語っているようだった。


悠真は、ポケットから、葛城顧問からもらった入部届を取り出した。紙の感触が、悠真の決意を確かなものにしてくれる。

父の「やるなら中途半端にすんな」という言葉が、胸の中で繰り返された。


「……よし」


悠真は、入部届に、自分の名前を書き込んだ。手が震える。


だが、それは、不安や後悔からくるものではなかった。新しい夢への一歩を踏み出す、わくわく感からくるものだった。


翌日。

悠真は、再び職員室の扉の前に立っていた。手の中には、名前を書き込んだ入部届がある。一度退部届を提出した場所に、今度は新しい夢を託すために、再び訪れる。

その事実に、悠真は、不思議な高揚感を覚えていた。


「先生……」


悠真は、葛城顧問に、入部届を差し出した。葛城顧問は、悠真の顔を見て、にこっと笑った。


「ようこそ、真田」


その言葉が、悠真の心に、温かく、そして力強く響いた。


「ありがとうございます!」


悠真は、深々と頭を下げた。


これで、野球部の真田悠真は、終わりだ。これからは、吹奏楽部の真田悠真として、新しい道を歩むのだ。



廊下に出ると、窓から差し込む夕焼けが、床に長い影を落としていた。


遠くから聞こえる野球部の声が、以前とは違って聞こえる。それは、自分の居場所ではなくなった場所の、楽しそうな、しかし少し寂しい音だった。


ポケットの中の右手が、グローブの形をなぞるように動いた。もう、そこにその感触はない。空虚感が、全身を支配していた。



---



悠真は吹奏楽部の練習室へと向かった。入部届を提出したものの、まだ自分の居場所がどこなのか、漠然とした不安があった。

しかし、廊下の突き当たりにある音楽室の扉から漏れ聞こえてくる音に、悠真の足は自然と速くなる。


音楽室の扉を開けると、そこは、今までとは全く違う、新しい世界だった。


木製の床は、野球部のグラウンドとは違う、温かみのある感触。壁には、様々な楽器が掛けられ、楽譜が並んでいる。空気は、楽器の革や木、そして、たくさんの人々の熱気が混ざり合って、独特の匂いを放っていた。


「お、来たな、真田」


悠真に声をかけたのは、打楽器リーダーの北原蓮だった。彼は、スティックを片手に、笑顔で悠真を迎えた。


「はい、入部届、出してきました」


悠真がそう言うと、北原は「おめでとう」と、悠真の肩をポンと叩いた。その手の感触は、野球部の仲間と交わすハイタッチとは違う、穏やかな温かさがあった。


「じゃあ、さっそく、楽器を見てみようか」


北原は、悠真を打楽器のパートへと導いた。

そこには、野球部では見たこともない、様々な打楽器が並んでいた。

大きなティンパニ。その丸い胴体は、まるで、野球のボールがそのまま巨大になったようだ。


「これが、ティンパニ。音程のある太鼓だ。叩く場所や強さで、いろんな音が出せるんだ」


北原は、そう言って、優しくティンパニを叩いてみせた。ドーン、と、腹の底に響くような、重厚な音が、音楽室に響き渡る。

その音は、まるで、マウンドの土を踏みしめるような、確かな重みがあった。


次に、北原が指差したのは、小さなスネアドラムだった。野球部の応援で、軽快なリズムを刻んでいた、あの太鼓だ。


「これが、スネアドラム。野球応援でも、一番使われる楽器だ」


北原は、そう言って、スティックを手に取った。トン、トン、と、軽快なリズムが刻まれる。

その音は、まるで、野球部の練習で聞く、金属バットがボールを弾く乾いた音のようだ。


「そして、これが、シンバル」


北原は、そう言って、二枚の大きな金属の板を悠真に見せた。


「これは、野球応援では、勝利の音を奏でるんだ」


北原は、そう言って、シンバルを打ち鳴らした。カーン、と、甲高く、力強い音が、音楽室に響き渡る。

その音は、まるで、野球部がサヨナラ勝ちを決めた時の、あの歓声のようだ。


悠真は、それぞれの楽器の音色に、野球のグラウンドの記憶を重ねていた。

マウンドの土の感触。金属バットがボールを弾く音。そして、勝利の瞬間の歓声。それらは、もう、悠真の手には届かないものだと思っていた。

だが、そうではなかったのだ。


「どうだ? 野球部のグラウンドとは、ちょっと違うだろ?」


北原が、にこっと笑った。


「……はい。でも、なんか、似てる気がします」


悠真がそう言うと、北原は、不思議そうな顔をした。


「……何がだ?」


「熱気が……仲間と、一つの音を、一つの夢を追う熱気が、似てる気がします」


悠真の言葉に、北原は、満面の笑みを浮かべた。


「そうか。お前も、そう感じてくれたか。だったら、きっと、このチームに馴染める」


北原の言葉に、悠真の胸は、期待で高鳴る。野球部のグラウンドを、新しいグラウンドに重ねる。

もう、空虚感はなかった。そこには、新しい仲間と、新しい夢があった。


「……はい、よろしくお願いします!」


悠真は、力強く、そう答えた。



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