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あの日グラウンドに置いてきた夢の続きは、音楽室で響きはじめた  作者:
第1部 喪失と出会い

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3/22

第3話 トランペットの先輩

 翌日、再び音楽室の前を通った悠真は、その扉の前からしばらく動けずにいた。

 中から聞こえてくる音は、野球部のグラウンドから聞こえるそれとはまったく違う。だが、確かに熱を持っている。それは、一人ひとりの楽器が奏でる音が、一つの大きな流れになって、聞く者の胸を震わせるような、不思議な熱気だった。


 しばらくすると、中から「休憩!」という声が聞こえ、一斉に音が止んだ。静寂が訪れると、かえって先ほどの熱気が鮮やかに脳裏に蘇る。

 悠真は、ハッと我に返り、その場を離れようと一歩踏み出した。


 その瞬間、ガラリと扉が開く。

 ショートカットの女子生徒が、トランペットを片手に外へ出てきた。悠真と目が合うと、彼女は少し驚いたように目を丸くし、そしてすぐににこっと笑った。

「あれ? 野球部の人だよね。もしかして、見学?」

 その声は、トランペットの音色のように明るく、澄んでいた。まぶしいほどに快活な笑顔に、悠真はたじろぐ。

「いや、その……通りかかっただけ、です」

 咄嗟にそう答えたが、不自然な言い訳だと自分でもわかっていた。彼女は「ふーん」と楽しそうに首を傾げた。

「そうなんだ。でも、音楽室の前に立ち止まってたから。よかったら入ってみる?」

 彼女はそう言って、持っていたトランペットを差し出してきた。きらきらと光る金色の金属が、悠真の視界に飛び込んでくる。冷たい金属の感触が、手のひらに伝わる。ずっしりとした重みは、想像以上だった。グローブやバットとはまったく違う、未知の重さだ。

 悠真は戸惑いながらも、その楽器を受け取った。彼女はトランペットの持ち方を教えるでもなく、ただニコニコと悠真を見ている。

「よかったら吹いてみる? せっかくだし」

「え、でも、吹いたことなんて……」

「いいからいいから!」

 彼女は悠真の手からトランペットを奪い取ると、マウスピースの部分を拭いて、再び手渡してきた。その手つきは、まるでボールを投げる前のルーティーンのように、淀みがなかった。

 悠真は言われるまま、マウスピースを唇にあてがう。子どもの頃に吹いたリコーダーのように、ただ息を吹き込めばいいのだろうか。

「あの……どうやって吹くんですか?」

「唇をブーって震わせる感じで、息を強く吹き込むの。そう、野球のボールを投げるみたいに!」

 彼女はそう言って、実際に「ブー」と唇を震わせる。悠真は言われた通りに唇を震わせ、力いっぱい息を吹き込んでみた。

(ぐっと、力を込めて……)

 だが、いくら息を吹き込んでも、音は出なかった。ただ、空気が抜ける「スー」という音と、唇が震える「ブー」という音が虚しく響くだけだった。

「あれ? なんでだ……」

 悠真がもう一度強く息を吹き込むと、彼女は思わず吹き出した。

「ふふっ、ごめんごめん! そんなに力入れなくても大丈夫だよ。もっとリラックスして」

 彼女は笑いながらそう言った。その笑い声が、悠真の胸に刺さった。

 野球を始めて以来、できなかったことなんて、ほとんどなかった。どんなに難しい球も、練習すれば必ず投げられるようになった。だが、この小さな楽器は、どれだけ力を入れても、声さえも出してくれない。まるで、お前には無理だと嘲笑っているようだった。

 悔しさが、じわりと胸に広がっていく。

 その瞬間、悠真の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。

 それは、父に初めて連れられていった甲子園球場。

 夏の日差しが降り注ぐ中、球場のアルプススタンドから、まぶしい光と音が聞こえてきた。

 トランペット、トロンボーン、チューバ。きらきらと光る金管楽器を掲げた応援団が、力強く、そしてどこまでもまっすぐな音色を響かせている。その音は、マウンドの投手でも、バッターボックスの打者でもなく、ただ観客席に座っていただけの、まだ小さな自分を、優しく、そして力強く包み込んでくれた。

(ああ、あの音……)

 あの音を奏でていたのは、こんなにも軽くて、でも、こんなにも難しい楽器だったのか。

 悠真が呆然とトランペットを見つめていると、彼女はトランペットを受け取ると、もう一度笑顔を見せた。

「難しかったでしょ? トランペットは、肺活量もいるし、唇の振動をコントロールするのがすごく難しいんだ。でも、野球で鍛えた体なら、すぐに上手くなると思うよ」

「俺は……もう野球は……」

 悠真が言葉を詰まらせると、彼女はふっと表情を真剣なものに変え、悠真の目を見つめた。

「野球を辞めたからって、夢まで捨てることないんじゃない? この音、好きでしょ?」

 その言葉は、まるで心の内側を直接見透かされているようで、悠真は何も答えられなかった。

「今日、初めて音が出なかったの、悔しかったでしょ? その気持ち、大事だよ。また、いつでも来てみなよ。いつでも歓迎するから」

 そう言い残し、彼女はひらひらと手を振って、再び音楽室の中へと入っていった。

 悠真は、その場で立ち尽くしたまま、しばらくの間、彼女の言葉を反芻していた。

(また来てみなよ……)

 右手のひらには、先ほどまでトランペットが乗っていた場所が、ほんの少し熱く感じられた。

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