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あの日グラウンドに置いてきた夢の続きは、音楽室で響きはじめた  作者:
第5部 新しい景色

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22/22

第22話 冬の練習

 午前の光は、すでに真冬の淡い色を帯びていた。

 音楽室へ向かう渡り廊下は、昨夜の霜がまだ残っているのか、足裏からきしりとした冷えが伝わってくる。吐いた息は白く、ひとつ歩くごとに小さな雲が生まれ、ゆっくりと空気に溶けた。


 窓の外では、裸木の枝に細い雪の結晶がきらりと光る。低く垂れた灰色の雲が日を覆い、世界全体が薄い硝子の中に閉じ込められたようだ。

 音楽室のドアを開けると、かすかに金木犀の名残り香が漂う。誰かのマフラーに付いた香りが、冬の空気と混じりあっているのかもしれない。


 すでに数人の部員が集まっていた。窓ガラスは白く曇り、外の景色はぼんやりとした水彩画のよう。金管楽器のベルが鈍い光を反射しながら並べられ、その金属の冷たさを思うだけで指先が縮こまる。

 クラリネットの早川は、ケースを開けるなりリードを手で温め始めていた。息を吹きかけても、冷たい樹脂がなかなか体温を受けつけない。パーカッションの健太は、スネアのヘッドを掌で軽く叩いて張り具合を確かめ、低く息を吐く。


 悠真はトランペットを抱え、マウスピースを唇にそっと当ててみた。ひやりとした金属が肌を刺し、思わず息を呑む。野球部時代の冬練習を思い出した。あの頃のグラウンドも、朝はこんな風に凍りついていた。今は楽器を持っている。それが不思議で、少し誇らしかった。


 美咲先輩が入ってきた。マフラーを外す仕草も、部長になってからどこか凛として見える。

 「おはよう」

 澄んだ声が部室の冷気に響く。けれどその指先は小刻みに震えていた。

 今日もみんなをまとめなきゃ

 胸の奥でつぶやく。部長としての責任が、冬の空気よりもずっと重い。


 ウォーミングアップが始まった。

 チューニングのAの音が、まだ硬く揺れる。金管の唇は乾いて、息を吹き込むたびにざらついた音が混じった。クラリネットのキーは冷えきっていて、早川が小さく舌打ちする。

 ロングトーンの響きが室内をゆっくり回る。天井の蛍光灯の微かな唸りと、窓の外で枝を揺らす風音が、不意にひとつの旋律に聞こえた。


 美咲は指揮棒を持ち、ひとりひとりの音を耳で追った。

 もっと柔らかく……でも焦るな

 頭では分かっていても、寒さに縮む体が細かく震える。肩に入った力を抜こうとするたびに、指揮棒がかすかに揺れた。


 悠真は、そんな美咲の横顔を盗み見た。真剣な眼差しの奥に、緊張が張り付いている。

 自分も副部長として支えなきゃ

 野球をやめたあの日、居場所を失った自分に手を差し伸べてくれたのはこの部だった。その重さを、今、はっきりと感じる。


 息の白さがゆらぎ、楽器の金属が淡く光を返す。

 冬の音楽室。吐息と音が混ざり合いながら、彼らの長い午後が始まろうとしていた。



---



 ウォーミングアップがひと段落すると、美咲先輩は指揮台に立った。指揮棒を握る手はわずかに震えている。

 冬の音楽室は冷え切っており、楽器の金属部分に触れるたびに指先が軽く凍りつく感覚が走った。クラリネットやフルート、トランペットのベル。どの音も、まだ完全には暖まっていない。ひとつ息を吹き込むたびに、音が微かにかすれ、わずかに揺れる。


 「よし、行くぞ」

 自分の声に、少しの震えが混ざっていることに美咲先輩は気づいた。

 部長として、しっかりしなきゃ……

 胸の奥が張りつめ、空気が重く感じられる。呼吸を整え、指揮棒を持つ手に力を込めた。


 最初の合奏が始まった。

 金管の高音は、冬の冷気でわずかに不安定に揺れ、クラリネットやフルートの音も硬い。

 美咲先輩は眉をひそめ、指揮棒を左右に揺らす。テンポを正確に保とうとするが、部員たちの音が微妙にずれて重なる。

 こんな時、どう声をかければ……?

 焦る気持ちが胸を締め付ける。指揮棒が小さく跳ね、手のひらに汗がじわりと滲んだ。


 葛城顧問が部室の入り口に立ち、静かに言った。

 「焦るな、音の芯を聴け」

 その一言が部室の空気を一層張り詰めさせる。部員全員が肩に力を入れ、呼吸が微妙にそろった。言葉は少ないが、重みがある。


 美咲先輩は目を閉じ、耳を澄ませた。

 部員たちの呼吸、楽器の響き、床を伝う振動……すべてが「音の芯」に通じる手がかりになる。

 私が未熟だから、こんなに揺れる……でも、皆を守らなきゃ

 小さな独白が胸をよぎる。自分の未熟さへの苛立ちと、皆への申し訳なさ。何度も何度も心の中で繰り返す。


 一方で部員たちの顔も見渡す。

 明日香は、目を大きく開いて美咲を見つめている。少し不安げだが、音に集中しているのもわかる。

 大輔は唇を噛み、冗談で場を和ませようとした気配はあるが、今は空気を読んで黙っている。

 木村は低音のリズムを正確に刻もうと必死で、背中から肩にかけて力が入っている。息づかいも荒く、手首の小さな動きまで気を配っている。


 美咲は指揮棒を一度上げ、深く息を吸った。手首を柔らかく動かし、腕全体で音楽を呼び起こすように振る。

 「ゆっくり、焦らず……」

 心の中でつぶやく。口には出さない。声を出さずとも、視線と棒の動きで伝える。微かな揺れに、部員たちが呼応する。少しずつ音がまとまり、空間が温かみを帯びる。


 合奏は、冷たく硬い冬の空気の中で、少しずつ柔らかさを帯び始めた。

 トランペットの高音が天井で微かに響き、クラリネットの低音が床を伝う。フルートの高音が澄んだ光のように流れ、パーカッションのリズムが全体を支える。

 美咲は手首の微妙な動きで強弱をつけながら、音を紡ぐ。息づかいを合わせることで、部員たちの心拍までも感じられるような気がした。


 これが、私たちの音……

 独り言のように心の中でつぶやく。自信と緊張が交錯し、胸の奥がじんわりと温かくなる。未熟でも、皆と一緒に作り上げる音は確かに存在する。


 合奏が一区切りつくと、部室に静寂が戻った。床に落ちる指揮棒の音が、まるで小さな拍手のように響く。部員たちは息を整え、互いに目を合わせる。寒さで赤くなった頬、握りしめた楽器、微かに震える手――そのすべてが、この冬の練習の証だった。


 美咲は小さく息を吐き、棒を下ろす。

 「よく頑張った……」

 自分への声かけでもあり、部員たちへの感謝でもある。

 寒さに凍える音楽室で、彼女たちは少しずつ信頼を重ね、音の芯を感じる感覚を取り戻していった。



---



 合奏がひと区切りつき、部員たちは自然とストーブの周りに集まった。

 窓の外は冬の灰色の光に包まれ、木々の枝にかすかな霜が光る。部室の中も冷気に満ちていて、金管楽器のベルやクラリネットのキーに触れるたび、指先がじんと冷たさを帯びる。息を吐くと白く立ち上る湯気が、ストーブの周囲で柔らかく揺れた。


 美咲は指揮台から離れ、手をかざして暖を取る。息を整えながら、先ほどの合奏で感じた緊張を思い返した。指揮を振りながら見た部員たちの顔、微妙にずれる音程、そして顧問の一言。「焦るな、音の芯を聴け」。その響きがまだ胸に残っていた。


 「寒いな……」

 大輔が小さくつぶやき、思わず笑いを誘った。緊張の糸を解くための無意識の冗談。部員たちは一瞬息をのんだが、やがて微かに笑みがこぼれ、部室の空気が少し柔らかくなった。


 悠真はストーブの隣で、缶コーヒーを取り出した。湯気が上がり、手に取ると温かさが指先に伝わる。手を温めるために近づく美咲に、そっと缶を差し出した。


 「……ありがとう」

 美咲の声は小さいが、微かに震えていた。指先を缶に押し当て、温もりを感じながら、胸の奥で緊張が少しだけ溶けていく。


 悠真は微笑み、そっと言った。

 「一緒に基礎に戻りましょう。無理に先を急がなくても、俺たちなら大丈夫ですよ」


 美咲はその言葉に一瞬目を閉じ、息を吐く。目の奥で揺れる感情が、胸の内で少しずつ整理されていくのを感じた。責任感と不安が入り混じる中で、悠真の存在が静かな支えになっていることに、彼女自身も驚いていた。


 部員たちも思い思いに手をかざし、ストーブの暖かさを指先で感じながら息を整える。

 明日香はフルートを膝に置き、手袋を脱いだ指先を暖める。マメができた指先を見て、ため息をつきながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべる。隣の結衣は熱心に指の柔軟体操をし、音の安定を自分なりに確かめていた。


 大輔は缶を片手に、冗談まじりに「俺、指揮してもいいかな?」と言う。声のトーンは軽いが、皆の緊張を和らげる意図があることを部員たちは理解している。美咲は小さく苦笑し、手の冷たさを覚えながらも「冗談は後でね」と返す。


 その隣で木村は低音パートの譜面を開き、次の練習のために軽く指を動かす。健太はバスドラムのスティックを手の中で回し、リズムを頭の中で繰り返す。皆の息づかいや心拍が、まるでひとつの呼吸のように重なり合う。


 悠真は、美咲に向かってそっと言葉を続ける。

 「焦らなくていい。まずは基本に立ち返れば、音は必ずつながる」


 美咲は頷き、手を胸の前で組んで深く息を吸った。指揮者として、部長としての覚悟を改めて胸に刻む。目の前には、少しずつ音を取り戻しつつある部員たちの姿がある。彼ら一人ひとりの努力が、この寒さの中でも確かに息づいていることを、彼女は感じ取った。


 「よし、もう少し休憩したら、次はパート練習だね」

 大輔が再び声を出し、軽く腕を回す。皆が小さく笑い、頷く。緊張は残るが、寒さの中で互いに支え合う安心感が生まれていた。


 部室の小さな暖の中で、冬の冷たさと温かさが入り混じる。手を温め、息を整え、互いの視線を交わすたびに、部員たちの心の距離が少しずつ縮まっていくのを、美咲は確かに感じた。

 それは、冬の試練を乗り越えるための小さな第一歩であり、この後の練習に向けた静かな決意の瞬間でもあった。



---



 休憩が終わると、部室は再び緊張した空気に包まれた。ストーブの暖かさは残っていたが、指先の冷えは完全には消えていない。

 美咲は深呼吸をひとつして、次の練習の段取りを確認した。今日はパートごとの細かい練習に時間をかけ、弱点を補強する。全員が集中できるように、まずはフルートパートから始めることにした。


 明日香はフルートを構え、指先にマメができた感触を確かめながら息を吸い込む。音を出すたびに、指の皮膚が少し痛む。隣の結衣は淡々と音を安定させ、どこか余裕すら感じさせる。明日香はその差を敏感に感じ取り、内心焦りを覚えた。


 「よし、次は高音域のスケールを丁寧に吹こう」

 美咲の声に従い、明日香は再びフルートを唇に当てる。息を送り、指を動かす。高音の一音が空気を震わせるたび、指先の痛みと向き合いながら、明日香は小さくうなずいた。結衣が先に音を安定させると、焦る気持ちが胸の中で膨らむ。しかしその焦りは、ただの不安ではなく、ライバルとしての刺激でもあった。互いに見つめ合う視線の中で、明日香は必死に自分の音を整えようと呼吸を合わせる。


 一方、トランペットパートでは伊藤陸が高音に挑戦していた。普段よりも唇を強く震わせ、呼吸のコントロールに細心の注意を払う。音が抜けるたびに眉をひそめ、舌先でリズムを刻む。悠真はそっと側に立ち、姿勢やアンブシュアの微調整を伝える。


 「肩の力を抜いて、息は下腹で支えるんだ」

 悠真の言葉は決して大きくはないが、陸の耳に確実に届く。彼は息を整え、再び高音に挑む。吹き上げる音が少しずつ安定し、部屋の空気が柔らかく震えた。悠真はその瞬間、教える立場としての責任感と喜びが胸に芽生えるのを感じていた。副部長としての自覚が、冷たい冬の空気の中で少しずつ温かい確信に変わる。


 パーカッションの健太は、低音のリズムを重く、しっかりと支えようと集中していた。スネアやバスドラムを打つたびに、部室の床が微かに振動し、その波動が他の楽器に伝わる。健太のリズムが安定することで、他の楽器も音程を確認しやすくなる。彼の呼吸と打撃のタイミングに合わせ、全員の息が少しずつ揃い始めた。


 部員たちは、互いの音や視線、息づかいに細かく反応しながら練習を続ける。

 明日香は結衣の音を意識し、焦りを力に変えようと必死だった。陸は悠真の助言を受け、吹き方を微調整しながら音の安定を追求する。健太は低音で全体の芯を作り、木村はそのリズムに呼応するかのように低音パートの譜面を丁寧に確認する。大輔は金管の仲間と呼吸を合わせ、音の波を意識しながらリズムを刻む。


 練習中、部員たちの表情は真剣そのものだった。眉間に寄せられたしわ、唇の微かな震え、呼吸の速さや息遣い。美咲は指揮台からそれを見つめ、一人ひとりの努力を胸に刻む。自分の不安を押し殺し、部長としての冷静さを保ちながら、全員が少しずつ成長していることを感じた。


 「明日香、もう少し指先を柔らかくして。高音の押し出しが変わるから」

 美咲の声に、明日香は小さく頷き、指を軽く動かす。結衣も横で微笑みながら音を揃え、互いの音を尊重し合う雰囲気が生まれた。緊張は依然としてあるが、焦燥感は少しずつ温かい競争心に変わっていく。


 悠真はトランペットパートの陸に向かって言う。

 「良くなってきた、でも息はもっと一定に。力まなくていい」


 陸は息を整え、音を再び吹き上げる。わずかなミスも気にせず、ただ音を身体で受け止めるように。悠真は、その姿勢に少し胸を熱くした。教えることの意味、そして共に挑む喜びを実感する瞬間だった。


 フルート、トランペット、パーカッション、それぞれのパートが個々の課題に挑戦しながらも、部室全体に微かに一体感が生まれていた。音楽はただの技術ではなく、互いを感じ取り、支え合う心の交流でもある。寒さに凍える指先と心を、部員たちは少しずつ溶かしていく。


 「よし、そろそろ合奏に戻ろうか」

 美咲が声をかけると、皆が頷き、楽器を構え直す。パート練習で得た手応えと小さな達成感が、これからの全体練習への自信へと変わりつつあった。冬の寒さの中で培った努力と絆が、次の音へとつながっていく。



---



 パート練習を終え、部室は再び合奏のための空気に包まれた。各自が自分の楽器を手に取り、指先の冷たさや緊張を振り払うように構える。フルートの明日香は、まだ指先の痛みを感じながらも、深呼吸をひとつして音を出す準備をした。結衣は横で淡々と音を確認し、音程の安定感を微笑みで支えている。


 美咲は指揮台に立ち、静かに目を閉じた。寒さで少し固まった肩を回しながら、息を整える。部員たちの心拍と呼吸が、微かにだが揃い始めているのを感じた。


 「じゃあ、チューニングから行こう」

 美咲の声は穏やかだが、力強さを含んでいる。各パートが自分の音を確認し、呼吸を合わせる。金管は低音から高音まで、フルートは軽やかに、パーカッションは柔らかく床に響く。最初は少しぎこちない音の波が、少しずつ整い、部屋全体が音の呼吸で満たされていく。


 悠真は隣で様子を見ながら、部員たちの音の微調整を頭の中で整理する。トランペットの陸はまだ少し高音が安定しないが、息のタイミングが徐々に合ってきている。フルートの明日香も、高音域の指先の痛みに負けず、結衣の音を意識して微妙な指の動きを調整する。


 「いい、そこからだ」

 葛城顧問が静かにうなずきながら声をかける。言葉は短いが、全員に重く届く。部員たちは息をひとつ合わせ、音の芯を感じるように演奏を続ける。最初はぎこちなく、互いにぶつかるような音の波だったが、次第に柔らかなハーモニーが生まれ始めた。


 美咲は指揮棒を握る手に力を入れながら、心の奥でじんわりと温かい感情を覚えた。今、目の前の音は、部員一人ひとりの努力が重なった結果であり、音楽室全体に確かな一体感を生んでいる。指揮台の高さから見下ろす部員たちの姿は、真剣でありながら、どこか安心感に包まれていた。


 大輔は横で息を揃えながら、ふと小さく笑みを浮かべる。音の波に乗り、仲間と呼吸を共有する楽しさを噛みしめているのだろう。木村は低音パートを支えながら、手元の譜面と音のバランスを確認し、リズムの芯を強く意識して打ち込む。健太もまた、低音の重みで全体を支え、音の波動が自然に揺れるようにリズムを刻んでいた。


 「これが、みんなの音…」

 美咲は心の中でつぶやき、少し息をつく。部長としての不安や焦りはまだ完全には消えていないが、今は確かな手応えがある。個々が課題に向き合い、互いを感じ取りながら音を重ねることで、音楽室の空気が生き生きと変わったのだ。


 フルート、クラリネット、トランペット、サックス、パーカッション――一つひとつの音が互いに絡み合い、柔らかく広がっていく。美咲は視線を巡らせ、部員たちの集中した顔、呼吸、指の微妙な動きを確認する。胸の奥にじんわりとした温かさが広がり、冷たい冬の空気も、音の波に包まれているように感じた。


 悠真は微笑みながら、陸の高音を耳で追う。息づかいや姿勢を見守りながら、少しずつ安定してきた音を聴き取り、心の中で小さな拍手を送った。副部長としての誇りと喜びが、胸の中に静かに広がっていく。


 明日香は結衣の音に呼応し、指先の痛みに耐えながらも、自分の音を芯から響かせようと努力する。音が揃った瞬間、彼女は思わず息をのむ。その小さな成功が、次の一音への自信に変わっていく。部室全体が音の一体感で包まれる瞬間、冬の寒さは遠のき、心まで温かくなるようだった。


 「よし、ここまでで一度止める」

 美咲が指揮棒を下ろす。部員たちは肩の力を抜き、互いに微笑みを交わす。疲れたはずの体も、達成感に包まれて軽く感じられた。


 「音が繋がりましたね」

 悠真が静かに声をかける。皆が頷き、少し照れくさそうに笑う。緊張と努力、そして互いを支え合った結果としての音の重なりは、単なる演奏ではなく、部員たちの絆そのものだった。


 美咲は指揮台から部員たちを見下ろし、心の中で確信する。寒い冬の練習も、互いの努力と心の交流によって温かいものになり、部全体が「個からチーム」へと変わっている。今、この瞬間こそが、音楽の力と仲間の力を実感する瞬間だった。



---



 合奏が終わり、部室には静かな疲労感が漂っていた。金管楽器の輝きが夕暮れの光を受けて鈍く反射し、フルートやクラリネットの管体がほのかに温もりを帯びる。部員たちは肩の力を抜き、譜面台を片付けながら互いに小さく笑いを交わす。


 窓の外に目を向けると、冬の夕空は茜色に染まり、校庭の白く凍った土がその光を反射して淡く輝いていた。足元に残る自分たちの足跡が、まるで今日の練習の軌跡を描いているかのようだ。呼吸の白さがほんの少しだけ、冷たい空気の存在を思い出させる。


 明日香は自分のフルートをケースにしまいながら、結衣の方をちらりと見た。今日の練習では、結衣の音の安定感に何度も助けられた自分を思い出す。尊敬と焦燥が入り混じった複雑な感情に、彼女の頬がわずかに紅潮した。「私もあの音に負けないようになりたい」と心の中でつぶやく。


 一方、大輔はケースを肩に掛けながら、部員たちの間に軽く冗談をはさんで歩く。今日はみんなの前で少しでも笑わせようと心に決めていたのだ。笑いの瞬間、緊張が少し和らいだ表情を見て、心の中で満足感を噛みしめる。声は控えめでも、その空気は確実に仲間たちに伝わっていた。


 悠真はトランペットのケースを手に、後ろで歩く美咲をちらりと見た。部長として、そして副部長として、今日の練習の成果をどう受け止めているのか。その表情は冷静さの中に微かに安堵の色を含んでいるように感じられた。悠真は胸の奥で、教える喜びと部員たちの成長を静かに実感する。冬の練習は辛かったが、今、この一体感の中で温かさを感じることができる。


 道を歩く足取りも、自然とゆったりとしてくる。冬の夕暮れは冷たく、頬を刺す風が顔に当たるたびに、今日の練習で感じた指先の冷たさや息の乱れを思い出す。しかし、仲間と奏でた音の余韻が心を温め、体の冷えを忘れさせる。冬の寒さが音の温かさに溶けていくような、そんな感覚があった。


 部員たちは互いに声をかけ合いながら校門を出る。明日香は思わず結衣に「今日はありがとう」とつぶやく。結衣は少し照れながらも「こちらこそ、頑張れたね」と返す。小さな言葉が、互いの絆をさらに強く結びつけていく。


 大輔は横で笑いながら、「明日はもっと上手くなるぞ」と声をかけ、部員たちは自然と頷く。健太は低音パートとしての責任感を胸に、背筋を伸ばして歩き、木村も静かにその後ろをついていく。冬の夕暮れの光の中、部員たちの影が長く伸び、互いに重なり合う。


 悠真はふと空を見上げる。茜色の空が、まるで今日の練習の余韻を優しく包み込むように広がっている。音楽室での呼吸合わせ、指先の緊張、そして互いの音に耳を澄ました時間――すべてがこの夕暮れと溶け合い、静かに胸の奥に染み渡る。


 「冬の音は冷たいけれど、今日の音は温かい」

 悠真は心の中でそっとつぶやいた。部員たちの顔を順に思い浮かべる。笑顔、真剣な表情、焦り、喜び――音の波とともに刻まれた一瞬一瞬が、胸に温かい重みとして残っている。


 自転車に乗る準備をする美咲に、悠真は軽く声をかけた。「今日の練習、よく頑張ったね」。美咲はわずかに頷き、微笑む。疲労と達成感が入り混じった表情に、部長としての責任感が滲む。


 部員たちはそれぞれの帰路につく。冬の冷たい風に包まれながらも、心の奥には今日の音楽の温もりが残り続ける。夕暮れの道は静かに染まり、部員たちの一歩一歩が、確かな成長と絆を映し出していた。



---



 練習を終えた校庭は、もう薄暗く沈みかけていた。冬の夜は早く、空気は冷たく、深く吸い込むと肺の奥まで刺すような寒さが走る。踏みしめる砂利の音、遠くの街灯に照らされた樹木の影が長く伸び、静けさが校舎全体を包み込む。練習で火照った身体が少しずつ冷えるのを感じながら、美咲は自転車のサドルに腰かけ、ブレーキを握る手に力を込めた。


 夜風が頬を撫でるたびに、今日の練習の残像が脳裏に蘇る。午前中の基礎練習、指揮棒を握ったときの緊張、パートごとの細かい調整、そして再合奏で感じた音の一体感――。胸の奥にじんわりと温かいものが広がり、冷えた手足とは対照的に、心はほのかに満たされている。


 「私、ちゃんとできる」

 美咲は小さく、しかし確かな声で自分に言い聞かせた。部長としての重責、部員たちへの責任感、すべてを抱えたまま立ってきた自分を認める瞬間だった。今日の音楽室での呼吸合わせ、一人ひとりが音を探し、支え合った時間――それが胸を温め、明日への自信を生む。


 後ろから、悠真が自転車でゆっくりと近づいてくる。顔は冷たさに赤く染まり、吐く息が白く立ち上る。「美咲先輩、帰り道、大丈夫?」

 軽く微笑みながら美咲はうなずいた。「うん、大丈夫。悠真も?」

 「うん、今日は…すごくよかったです。音が、ちゃんと重なった」

 悠真の声には、今日の練習の喜びと副部長としての達成感が混ざっていた。互いに自転車のペダルを踏みながら、二人は無言でその空気を共有する。言葉にならない温かさが、夜の冷たさに溶けていく。


 通学路沿いの街灯に照らされる雪の残りかすが、淡い光を放ち、二人の影を路面に長く落とす。美咲は目を細め、夕暮れから夜へと変わる空を見上げる。オレンジから群青色に変わるグラデーションが、今日の練習の余韻を静かに包み込む。耳にはまだ、部員たちの呼吸や楽器の余韻がかすかに残っているようで、心の奥に反響していた。


 家路に着くと、各自の部屋や窓の明かりがほのかに温かさを伝えてくる。明日香は帰宅途中、ふと思い出す。結衣の安定した音色、木村が低音で支えたリズム、大輔の小さな冗談に笑った瞬間――。ライバルへの焦りと尊敬が交錯し、胸が軽く締め付けられるが、それと同時に仲間と共に成長しているという実感が湧き上がる。


 大輔は自転車のスピードを少し落とし、息を整えながら笑みをこぼす。「明日も、もっとみんなを笑わせるぞ」と心の中でつぶやき、冬の夜風に声を乗せることはせず、ただ胸に秘めた。健太や木村もそれぞれの家路につき、パーカッションや低音の重みを支えた日の充実感を噛みしめている。


 部室での一日が完全に終わった後も、音楽の余韻は彼らを包み続ける。音の波動が身体に残り、呼吸の一つひとつにリズムが刻まれているようだ。静かな夜道を進むたびに、胸に温かさが広がり、明日への決意を自然と固めていく。


 悠真は自宅に着くと、短い日記を取り出した。ペンを握り、ゆっくりと文字を綴る。


 ――冬の音は冷たいけれど、みんなと奏でると温かい。今日の音の波を忘れずに、明日も一緒に練習を重ねよう。


 ペンを置き、窓の外を見やる。夜空は深い群青色に染まり、遠くの街灯がぼんやりと輝く。その光が、部員たちの未来をそっと照らしているように思えた。今日の一日、すべての汗と努力は、確かに次の成長へとつながっている。冬の寒さの中で育まれた絆と、音楽を通じて交わした想いが、静かに心に刻まれる――。


 美咲もまた、自転車を玄関前に停め、深く息をつく。今日の一日を胸に抱き、明日もまた、仲間たちと共に音を重ねていく決意を心に秘めながら、ドアを開けた。


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