第21話 新体制の始動
十月の空は、夏の名残をきっぱりと切り捨てるように高く澄んでいた。
校舎の窓から射す夕日が、赤茶色の校庭を淡い金色に染めている。フェンス越しの銀杏の葉はまだ青さを残しつつも、ところどころが黄に色づきはじめていた。微かな風がその葉をゆらし、かすかにカサリと鳴った。
金木犀の香りが、風に乗って鼻先をかすめる。ふわりと甘く、どこか切ない匂いだ。
吹奏楽部の部室へ向かう廊下を歩くたび、床板がキュッと鳴った。夕日が長い影を伸ばし、窓の向こうには野球部の面々がグラウンドでノックを終えたところだった。
キャッチボールを続ける二人の笑い声が風に乗って届く。その響きが、胸の奥を小さく締めつけた。
つい半年前まで、あそこが自分の居場所だった。守備の一歩目を意識しながら白球を追いかけ、泥にまみれたスパイクの感触を誇らしく思っていた。
だが、肩を壊し、最後の夏を待たずしてバットを置いた。
――もう気持ちは整理したはずだ。それでも、夕暮れのグラウンドを眺めると、指先に硬球の冷たい感触がよみがえる。
ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、美咲から「今日、遅れないでね」と短いメッセージ。
思わず苦笑がこぼれた。先輩らしい簡潔さだ。
今日で三年生が正式に引退する。
頭では理解していても、実感はまだ遠い。北原先輩たちがいなくなる吹奏楽部――その未来を想像するだけで、胸の奥にぽっかりと空洞ができる。
階段を上がると、音楽室の扉からわずかにトランペットの音が漏れてきた。
金属が冷えているのか、かすかにくぐもった音。北原先輩だろうか。
扉を開けると、ひんやりとした空気にロジンの香りが混じった。
先に到着した数人の部員が、楽器を組み立てたり譜面を広げたりしている。
窓際では明日香が、フルートの頭部管を光にかざして磨いていた。細い指が銀色を優しくなぞる。
彼女がこちらに気づいて顔を上げ、ふわりと微笑む。その笑顔が、夕日を受けて柔らかく揺れた。
「悠真、早いね。もうみんな来てるよ」
「いや、ちょっと落ち着かなくてさ」
自分でも声が少し上ずっているのがわかる。
窓の外から、再び野球部の掛け声が聞こえてきた。
明日香が視線をそちらへ向け、「今日、すごく空が高いね」とつぶやく。
その言葉に、悠真は思わず頷いた。
校庭を染める夕日。風に乗る金木犀。吹奏楽部で迎える新しい季節。
胸の奥で何かが静かに動き出す音がした。
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音楽室の空気は、外気よりひと足早く冷えはじめていた。
窓のすきまから吹き込む秋風が、譜面台に立てかけた楽譜をわずかに揺らす。
楽器の金属部分に触れると、ひやりとした感触が指先を走った。
チューニングのためのAの音がクラリネットから放たれる。
澄みきった基準音が、静まり返った室内にゆっくりと満ちていく。
金属と木の響きが微細に絡み、薄く冷たい空気を震わせた。
北原先輩はトランペットを膝にのせ、銀色の管にじっくりとオイルを差していた。
ピストンをゆっくり押し込み、手のひらで軽く回す。
その指の動きは無駄がなく、まるで儀式のように美しい。
悠真はその横顔を、知らず知らずのうちに見つめていた。
鍛えられた指先と、演奏前特有の静かな集中。
自分もいずれ、ああなれるのだろうか。胸の奥が少し熱くなる。
三枝先輩はサックスのリードを湿らせながら、口角を上げて言った。
「悠真、今日は一段と緊張してる顔だな」
軽口に思わず苦笑いする。
「バレました?」
「そりゃあね。俺だって一年のときは同じ顔してたよ」
三枝はリードを軽く吹き鳴らし、乾いた音を確かめると、
「でもさ、緊張してるくらいがちょうどいいんだ。音に全部出るから」
と、いつもの人懐っこい笑みを見せた。
部屋の中央では、美咲先輩が指揮台に立っていた。
細い肩に、今夜の責任のすべてを背負うような静けさ。
バトンを軽く掲げ、ゆるやかに振り下ろすと、練習用の短いフレーズが始まった。
フルート、クラリネット、トランペット、パーカッション――
各パートが一拍遅れずに重なり、音楽室に柔らかな厚みが広がる。
悠真は深く息を吸い、トロンボーンのスライドを滑らせた。
冷たい金属管が頬に触れる。
空気が肺から流れ出て、ベルの奥で微かな振動が生まれる。
その震えが自分の鼓動と重なっていく。
明日香が、合奏の合間にふとつぶやいた。
「これで、先輩たちと合わせるのは……最後なんだね」
その言葉に、部屋の空気が一瞬やわらかく沈黙する。
悠真は何も返せなかった。
代わりに、窓の外でカサリと鳴る銀杏の葉音が、ささやくように響いた。
北原先輩が低い声で言う。
「最後って言うなよ。音楽は終わらない」
それは叱責でも慰めでもなく、ただまっすぐな音のようだった。
悠真は、胸の奥に小さく火が灯るのを感じた。
リハーサルは、やがて本番さながらの張り詰めた空気へと変わっていった。
微かなチューニングの狂いも見逃さぬよう、耳を研ぎ澄ます。
打楽器のスティックが皮をたたく乾いた響き。
トランペットが光を弾くたび、音楽室の壁がかすかに震えた。
秋の夕暮れが窓を染め、黄金色の光が譜面台に斜めに差し込む。
その輝きが、先輩たち一人ひとりの横顔を照らしていた。
北原先輩の瞳の奥、三枝先輩のわずかな笑い皺、宮本先輩の落ち着いた息づかい。
悠真はそのすべてを目に焼きつけながら、静かに決意を深めていった。
この音、この時間――
きっと、忘れることはない。
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夕焼けが窓を染めていた。オレンジ色の光が音楽室の床に斜めの帯を作り、譜面台の銀色をやわらかく反射している。窓際から吹き込む風は、かすかに金木犀の香りを運んできた。
ステージ袖でスタンバイしている僕は、胸の奥で何度も息を整える。楽器を握る指先がひんやりとして、少し汗ばむ。――今日で三年生の先輩たちは部を去る。その実感はまだぼんやりしているのに、鼓動だけが妙に早い。
顧問の葛城先生が、ゆっくりと前に出てマイクを握った。
「皆さん、今日は三年生の引退式です。これまでの努力と、素晴らしい演奏を…」
低く、けれど温かい声が音楽室に広がる。部員たちの視線が一斉に先生へ注がれ、空気がきゅっと引き締まる。窓の外から聞こえるグラウンドの歓声さえ、どこか遠くに感じられた。
先生の挨拶が終わると、部長の北原先輩がステージへと歩み出た。真っ直ぐ背筋を伸ばしたその姿は、どこか眩しく見える。
「では、一曲目。三年生最後の演奏です」
その一言に、場内が小さくざわめく。悠真も息を飲み、トロンボーンを構えた。
指揮台に立つのは、北原先輩。指先でテンポを刻み、視線が合った瞬間、先輩がほんのわずかにうなずく。――始まる。
軽やかなパーカッションのカウントが空気を打ち、曲は一気に動き出した。
トランペットの高音が天井を突き抜ける。フルートが金色の糸のように旋律を編み、サックスが深い呼吸でその隙間を縫う。悠真のトロンボーンは、低く豊かな和音を支える。
一音一音を吹くたび、胸の奥まで響きが伝わり、心臓の鼓動と重なる。野球部だった頃に味わった試合前の高揚感に似ているが、それとも違う。音が、仲間の息づかいと一体になって空間を満たしていく感覚。
ふと視界の端に、パーカッションの宮本先輩が見えた。大太鼓を打つたびに表情が輝いている。隣のサックス三枝先輩は、目を閉じて身体を揺らしていた。
その姿を目に焼き付けながら、悠真は思う。――この瞬間が永遠であればいい。
クライマックス。北原先輩のトランペットが、澄みきった高音で天井を突き抜けた。音楽室の空気が震え、窓ガラスが微かに鳴る。息を合わせ、全員が一斉に最後の音を吹き切る。
余韻が静かに消えていった。
誰もすぐには動かない。楽器の金属がほんのり温まった匂い、ロジンの粉の甘い匂いだけが漂う。
次の瞬間、割れるような拍手が響いた。
「ブラボー!」
後輩たちの声が重なる。涙を拭う部員、笑顔でうなずく先輩。悠真も思わずマウスピースを外し、深く息を吐いた。
北原先輩がマイクを取り、少し笑った。
「ありがとう。――最高だった」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。僕は気づく。今日、ここで先輩たちは本当に卒業していくのだ。
窓の外では、夕日が校舎の向こうへ沈もうとしていた。オレンジから群青へ移ろう空。その下で、悠真たちの新しい時間が静かに始まろうとしている。
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演奏の余韻がまだ胸の奥で震えている。窓の外はすっかり群青色に変わり、音楽室の蛍光灯が白く床を照らしていた。
譜面台の上の楽譜がわずかに揺れ、誰かが小さく息を吐く。沈黙は、さっきの拍手よりも強く心に響いた。
顧問の葛城先生が軽くうなずくと、北原先輩が一歩前へ出た。ステージ中央で立ち止まり、部員全員を見渡す。
「……みんな、本当にありがとう。最高の演奏だった」
いつもの張りのある声が、今日は少し柔らかく響く。
「正直、ここまでやってこれると思ってなかった。コンクールの前、何度も心が折れかけたけど――みんながいたから最後まで走れた」
先輩の視線が、一人ひとりを丁寧に撫でるように動いていく。
「お前たちなら、絶対に全国に行ける。俺が保証する」
胸が熱くなる。
気がつくと、木村が鼻をすすっていた。低音パートの仲間たちもそっと目頭を押さえている。
北原先輩はトランペットを掲げ、にかっと笑った。
「音楽って、最後は気持ちだ。楽譜通りに吹くのは当たり前。でも、それだけじゃ届かない。――心を込めて吹け。絶対、聴く人に伝わるから」
その言葉は、悠真の胸の奥に鋭く突き刺さる。野球を辞めてからずっと探していた何かが、音楽の中にあるのかもしれない。
続いてサックスの三枝先輩が前に出る。
「明日香、ちょっと来い」
呼ばれた明日香が少し緊張した顔で立ち上がる。
「お前、最初は音が細くて心配したけど、今は立派な音を持ってる。音は心だ。上手い下手じゃなく、どれだけ自分を込められるか。これからも自分を信じて吹きな」
「……はい」
明日香の声が震えていた。瞳が潤み、悠真は思わず目をそらした。胸がざわつく。
パーカッションの宮本先輩がにやりと笑い、スティックをくるりと回した。
「リズム隊、これからはお前たちがバンドを支えるんだ。低音と打楽器は屋台骨。前に出なくても、全員がお前たちに乗ってる。頼んだぞ」
打楽器パートの後輩たちが一斉に背筋を伸ばす。空気が少し引き締まった。
先輩たちはそれぞれ、後輩一人ひとりに声をかけ始めた。
北原先輩は木村に、使い込まれたマウスピース袋を手渡した。
「これ、俺が初めての大会で使ったやつ。低音の柱、頼むぞ」
木村はもう涙腺が崩壊していて、顔をぐしゃぐしゃにしながら「はいっ、はいっ」と繰り返した。
その姿に場が和み、みんなが小さく笑った。
三枝先輩は明日香に、自分の名前入りリードケースを差し出した。
「俺のお守り。お前ならきっと、もっと遠くへ行ける」
「……ありがとうございます」
明日香は胸にぎゅっと抱きしめる。
宮本先輩はパーカッション隊に、磨き上げたスティックを一本ずつ。
「音楽は楽しんだ者勝ちだ。苦しくても、まず楽しめ。そうすりゃ自然にいい音になる」
贈られる小さな品々は、どれも汗と時間が染み込んだ宝物のように見えた。
受け取る後輩たちの手が震え、瞳が光る。悠真の胸も同じ熱で満たされていく。
最後に北原先輩が僕の前に立った。
「悠真」
名前を呼ばれ、思わず背筋が伸びる。
「お前、途中から入ってきて、最初は正直、吹奏楽なめてると思った」
先輩は軽く笑った。
「でも、今じゃ立派な仲間だ。これ、俺のラッキークリーニングクロス。全国で何度も助けられた」
淡いブルーの布を差し出される。
受け取った瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。言葉が出ない。ただ「ありがとうございます」とだけ絞り出す。
ひととおりの贈呈が終わると、音楽室には再び静かな空気が広がった。
窓の外、夜風が金木犀を揺らし、甘い香りがふわりと漂ってくる。
その香りが、今日という日の記憶を深く胸に刻んでいくようだった。
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顧問の葛城先生が、ゆっくりと譜面台から視線を上げた。
音楽室の空気が、まるで秋の夕暮れのように静まり返る。
窓の外では金木犀がかすかに香り、開け放たれた窓から吹き込む風が譜面をそっと揺らした。
「――それでは、新体制の発表をします」
その言葉に、全員の背筋が同時に伸びた。
さっきまで先輩たちとの別れに涙を流していた空気が、別種の緊張に塗り替えられていく。
先生の手元の紙が、カサリと鳴る。
悠真は心臓がどくん、と大きく打つのを感じた。
その音が、耳の奥でやけに大きく響く。
「次期部長は――二年、高瀬美咲」
一瞬の静寂。
そして、どっと拍手が起きる。
部屋の温度が一度上がったかのように感じられた。
「え、わ、わたし……?」
美咲先輩が椅子をきしませて立ち上がった。
長い黒髪がふわりと肩で揺れる。
驚きで目を丸くしながらも、唇はきゅっと結ばれていた。
「高瀬なら、きっと部をまとめていけると確信しています」
葛城先生はやわらかく言った。
「……はい、全力でがんばります」
小さな声が音楽室に吸い込まれる。
美咲先輩はゆっくりと頭を下げ、再び大きな拍手が鳴り響いた。
拍手に包まれながら、悠真は美咲先輩の横顔を見つめた。
緊張で指先がわずかに震えている。
それでも背筋を伸ばし、まっすぐ前を見据える彼女の姿は、さっきまでのものではなく、確かに“部長”だった。
「そして――副部長は、一年、真田悠真」
自分の名前が呼ばれた瞬間、悠真の胸がきゅっと締めつけられた。
空気が一瞬止まった気がした。
自分の耳だけが、ざわめきをゆっくりと拾う。
周囲から一斉に向けられる視線。
美咲先輩が驚いたようにこちらを振り向く。
明日香が小さく「やった」と口の形だけでつぶやいた。
「副部長……俺が?」
声にならない声が喉の奥で転がる。
野球部を離れたあの日。
肩の痛みとともに、夢も途絶えたはずだった。
それでも、吹奏楽部で過ごした時間が、こんな形で自分を呼び戻すとは思わなかった。
葛城先生が穏やかに笑う。
「真田は、仲間をよく見ている。
音も、人も。副部長として支える力があると見ています」
悠真は膝の上で両拳を握った。
心臓が早鐘を打つ。
息を吸い、立ち上がる。
「……はい。副部長として、皆さんを支えます」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが確かに鳴った。
野球部で聞いた歓声とも、トロンボーンの低音とも違う、静かな確信の響きだった。
拍手がまた音楽室を包む。
北原先輩がにやりと笑い、
「泣き虫副部長、頼んだぞ」
と茶化した。
皆が笑い、空気が和らぐ。
悠真も思わず笑みをこぼした。
美咲先輩と目が合う。
その瞳は、少し涙を含みながらも、きらりと強い光を宿していた。
彼女が小さく頷く。
悠真も、深く頷き返した。
秋風が窓の隙間から吹き抜け、金木犀の香りがふわりと広がる。
この匂いは、今日の決意をきっと何年経っても思い出させてくれる――悠真はそう感じていた。
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演奏の熱気と涙の余韻が、まだ音楽室に漂っていた。
窓の外はすっかり茜色に染まり、夕日が床の木目を長く伸ばしている。
金木犀の香りを含んだ秋風が、開け放たれた窓からそっと吹き込み、譜面をかすかに揺らした。
先輩たちが帰ったあと、残された悠真たちは、しばし言葉もなく椅子を片付けていた。
トロンボーンのベルを布で磨くと、ほんのり冷たい金属の感触が指先に伝わる。
演奏直後の熱を帯びた息づかいが、まだ部屋の隅に残っているようだった。
「これから本気の練習だな」
低音パートの大輔が、いつもより低い声でつぶやいた。
その響きは、金管の残響に溶けて、夕暮れの静けさに吸い込まれていく。
彼はケースの留め具を一つひとつ確かめるように閉め、ゆっくりと立ち上がった。
明日香は、リードを磨きながらじっと見つめている。
目の奥には、どこか憧れと不安が入り混じった色。
吹き込んだ風が彼女の前髪を揺らすと、かすかに眉が動いた。
(先輩たちみたいになれるかな……)
彼女が心の中で呟いている気配が、なぜかこちらにも伝わってくる。
木村はといえば、鼻を真っ赤にしてティッシュを握りしめている。
「俺、もっと低音響かせる! 今日みたいにズシンとさ!」
鼻声まじりに宣言し、照れ隠しのように笑った。
その声に、みんなも思わず笑みを浮かべる。
隣では結衣がクラリネットを拭きながら、ちらりと明日香の横顔を見ていた。
その瞳に浮かぶ光は、静かな競争心のようにも見える。
(次は私が引っ張る番――)
誰にも聞こえないその誓いが、確かに空気の中で揺れた。
僕は窓辺に歩み寄り、校庭を見下ろした。
グラウンドには夕焼けが溶け、遠くのバックネットが黒いシルエットになっている。
かつて野球部で追いかけた白球の残像が、夕日と重なって浮かび上がる。
胸の奥がかすかに痛む。
けれどその痛みは、もう後悔ではなく、未来へ押し出す力に変わりつつあった。
(ここが――俺のフィールドだ)
心の中で、はっきりとそう言葉にした瞬間、
背中に秋風が触れ、汗ばんだシャツがひんやりとした。
「悠真、片付け終わった?」
振り向くと、美咲先輩が楽器庫の前で僕を呼んでいた。
新しい部長としての余韻が、彼女の背筋を凛とさせている。
細い指で譜面ファイルを抱え、視線はまっすぐ。
その姿を見て、胸の奥で静かに何かが灯った。
「はい。これで全部ですよ」
「じゃあ、施錠しようか」
二人で楽器庫へ入り、トロンボーンを定位置に収める。
棚板の木の香り、金属の冷たい反射、わずかなオイルの匂いが入り混じる。
その匂いすべてが、これからの日々の匂いになるのだと思う。
扉を閉め、鍵をかけた。
カチリという音が、今日一日の終わりを告げる合図のように響く。
廊下に出ると、夜の気配が少しずつ広がりはじめていた。
窓の外には三日月が浮かび、白い光が廊下に淡い影を落としている。
美咲がゆっくりと振り向いた。
金木犀の香りがまた、ふわりと漂う。
「これから……よろしくね、副部長さん」
差し出された右手は、少し冷たく、それでいて温かい。
悠真はその手をしっかりと握り返した。
指先に伝わる鼓動が、静かに、しかし確かに未来へのリズムを刻んでいた。




