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第2話 空白の放課後

 病室の白い天井から解放された後も、悠真の足は重いままだった。

 グラウンドに向かう道とは違う、職員室へと続く廊下。そこに野球部の熱気は届かない。壁に貼られた部活動のポスターが、やけに鮮やかに見えた。


 野球部のグラウンドは、この時間、大きな声と乾いた打球音で満たされているはずだ。あのマウンドから聞こえてくる仲間の声。スパイクが土を噛む音。

 それらすべてが、遠い世界のできごとのように感じられた。


 職員室の扉を開ける。中にいるのは堀川監督だ。悠真はゆっくりと、監督のデスクの前に立った。

「監督……」

 そう言うのが精一杯だった。手の中には、小さく折りたたまれた退部届の用紙がある。紙の薄さが、自分の決意の曖昧さを物語っているようだった。


 堀川監督は、書類を整理していた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。その目は、グラウンドで見せる鋭さとは少し違う、静かな光を宿している。

 「来たか」

 短い一言だったが、悠真の胸には深く響いた。

 「……これ、です」

 悠真は、震える手で退部届を机の上に置いた。堀川監督はそれを一瞥し、何も言わず、ただ悠真の顔を見つめてくる。その沈黙が、重くのしかかった。

 「お前の気持ちは、よくわかってるつもりだ」

 監督は静かに言った。

 「怪我を抱えながら、それでも投げ続けようとした。その気持ちも、苦しさもな」

 まるで、悠真の心の内側をそのまま見透かしているような言葉だった。

 「……すいません」

 絞り出すようにそう答えるのがやっとだった。どうしようもない悔しさで、視界が滲んでいく。

 「謝るな」

 監督はそう言って、初めて悠真の肩に手を置いた。そのごつごつとした大きな手の感触が、悠真の背筋を伸ばす。

 「お前は、投げられる選手になるために、誰よりも努力してきた。それは、俺が見てきた事実だ。誇りに思っていい」

 悠真はただ、じっと監督を見つめる。

 「野球をやめるわけじゃないだろう」

 監督の言葉に、悠真は顔を上げた。

 「……はい」

 「なら、いい。お前が選んだ道を、俺は応援する」

 そう言って監督は退部届に静かにサインをした。そのインクが滲んでいく様が、悠真の胸に痛く、そして温かく刻まれた。

 「また、グラウンドに顔を出せ」

 監督のその言葉に、悠真は深く頭を下げた。

 「……はい、ありがとうございます」

 もう一度監督に深く礼をし、悠真は職員室を後にした。

 廊下に出ると、窓から差し込む夕焼けが、床に長い影を落としていた。遠くから聞こえる野球部の声が、以前とは違って聞こえる。それは、自分の居場所ではなくなった場所の、楽しそうな、しかし少し寂しい音だった。

 ポケットの中の右手が、グローブの形をなぞるように動いた。もう、そこにその感触はない。

 空虚感が、全身を支配していた。



---



 悠真は、校舎の廊下を歩きながら、退部届を提出した後のなんとも言えない空虚な感覚に襲われていた。手は軽く、右肩にはユニフォームの重みもグローブの感触もない。ただ、制服の生地が肌に触れるだけだ。

 昇降口に近づくにつれ、外から聞こえる声が少しずつ大きくなってくる。

「ナイスボール!」

「一本返せ!」

 活気あふれる声と、金属バットがボールを弾く乾いた音が聞こえた。いつもなら胸が高鳴るはずのその音は、今はただ、耳に痛いだけだった。


 体育館の横を通り過ぎると、グラウンドが視界に入った。

 土煙を上げてノックを受けている仲間の姿が見える。外野でフライを追う者、内野で軽快なステップを踏む者。夕日に照らされた彼らの背中は、まぶしいほどに輝いて見えた。


 --ああ、俺もそこにいたんだ。


 三枝が、キャッチャーミットをパンと鳴らしているのが見えた。彼が受け取るはずだったボールは、今、別の誰かの手の中にあった。

 悠真は、その光景から目を逸らすことができなかった。自分だけが、別の道を選んでしまったような、後ろめたさにも似た感情が胸を締めつける。

 たった一日、いや数時間で、自分の世界はこんなにも変わってしまった。

 ポケットに手を突っ込み、顔を上げる。空はまだ明るく、放課後のざわめきが満ちている。


 サッカー部の練習を知らせる笛の音。体育館から漏れるバスケットボールの弾む音。どの部活も、明日を信じて練習に励んでいる。彼らが全力で打ち込む姿が、悠真には、自分が置いていかれた事実を突きつけるようだった。

 「あれ、悠真じゃん」

 背後から、明るい声がした。振り返ると、野球部の同級生である藤本が立っている。彼は汗で濡れた髪をタオルで拭いながら、不思議そうな顔で悠真を見ていた。

「今日はどうしたんだ?」

 何も知らない彼の無邪気な問いかけが、悠真の胸に突き刺さる。

「……うん。ちょっと、な。」

 悠真は曖昧に答えた。本当のことを言う勇気が、まだなかった。

 藤本は「そっか」と軽くうなずくと、すぐにまたグラウンドの方に目を向けた。

「最近、調子、すげー良いんだよな。やっぱ、あいつすげーよ」

 彼の視線の先にいるのは、三枝だった。

 元は別の中学で競っていたエースだった彼が、悠真のボールを受けたいと、自ら捕手に志願したのだ。

 そしていま、三枝は、悠真の代わりにマウンドを任されるようになった。彼が努力しているのは知っている。だが、その言葉を聞くのは辛かった。

 彼らが、自分の知らないところで、甲子園という夢に向かって進んでいる。その事実に、悠真は孤独を感じた。

 「じゃ、また明日な!」

 藤本が元気よく手を振って去っていく。

 悠真は、その場に立ち尽くしたまま、彼らの練習を見つめていた。

 投げられない。もう、あのマウンドに立つことはできない。

 頭では分かっていても、心がそれを認めようとしない。

 「……なんで、こんなことに」

 誰にともなくつぶやいた声は、グラウンドの喧騒にかき消され、空に吸い込まれていった。



---



 悠真は、自室のベッドに倒れ込んだ。重い鞄を放り出し、そのまま天井を見つめる。昼間の空虚感は、放課後のざわめきがなくなった今、より一層はっきりと感じられた。

 机の上には、真新しい教科書と、使い古された野球のグローブが置いてある。

 革の匂い、土の匂い、汗の匂い。そのすべてが悠真の過去を語っているようだった。

 指先の部分が柔らかくなった革を、親指の腹でなぞる。そこには、何千回と繰り返されたキャッチボールと、何百球と投げられたボールの記憶が染み込んでいた。


 スマートフォンを手に取り、動画サイトを開く。

 画面には、大リーグの好投手のピッチング集が表示されていた。

 しなやかに腕を振るフォーム。キレのあるストレート。バッターを翻弄する変化球。

 一球投げるたびに、スタジアムがどよめく。その歓声が、まるで自分に向けられたもののようだと錯覚する。

 悠真は、画面の中の投手のフォームを、脳裏に焼き付けるように繰り返し見た。

 肘の使い方、手首のスナップ、体の回転。

 すべてが、今の自分には遠い、遠い世界のできごとだった。

 動画を一時停止する。投手の腕が、最も美しくしなる瞬間。

 ――俺も、こんな風に投げたかった。

 いや、投げられると思っていた。

 昨日の自分は、確かにそう信じていた。

 たった一球で、すべてが変わってしまうなんて。


 いつの間にか、画面は別の動画に移っていた。

 高校野球の試合動画だ。夏の甲子園。

 画面いっぱいに広がる緑の芝生と、白線のコントラスト。

 そして、スタンドを埋め尽くす観客たちの熱気。

 悠真は、その中のほんの一部分に目が釘付けになった。

 アルプス席に陣取る、ブラスバンドの応援団。トランペット、トロンボーン、チューバ。きらきらと光る金管楽器が、夏の太陽の下で一斉に音を奏でる。

 画面の向こうから、力強い応援歌が聞こえてくる。


 悠真は、その音に、不思議な懐かしさを感じた。

 そうだ。

 子どもの頃、父に連れられて行った甲子園で、あの音を聞いた。

 マウンドの投手でも、バッターボックスの打者でもない。ただの観客だった自分を、あの音は、まるで抱きしめてくれるかのように、優しく、そして力強く包み込んでくれた。

 あの音を、もう一度聞きたい。

 そう思った瞬間、悠真の右手が、グローブを握り締めていた。

 グローブは、もう野球をすることができないことを知っている。

 だが、その手は、まだ何かを掴み取ろうとしていた。

 夢の続きを、探すように。


 いつの間にか、スマホを握りしめたまま、眠りに落ちていた。

 夢の中で、悠真は白いマウンドに立っていた。

 耳元で聞こえるのは、観客のざわめきと、ブラスバンドの力強い音色。

 投げようと腕を振りかぶると、右肩に激痛が走る。

 だが、その痛みは、どこか遠い場所のもので、自分のものではないようだった。

 そして、気づけば、マウンドの土は、どこか見慣れない、柔らかい地面に変わっていた。

 その地面には、無数の音符が踊るように描かれている。

 悠真は、そこで、もう一度、新しい夢を見るような気がした。



---



 悠真は、どこへ向かうともなく校舎を歩いていた。野球部のグラウンドから少しでも遠ざかりたかった。

 だが、どの道を通っても、活気ある声や打球音が耳に届く。まるで、その音が悠真を責めているようだった。


 ふと、廊下の突き当たりにある音楽室が目に入った。そこは普段、悠真にとって縁のない場所だった。だが、不思議と今日は、その扉の向こうから漏れ聞こえてくる音に、足が止まった。

 木造の扉は、わずかに隙間が空いており、そこから様々な音が漏れ出している。

 低く、重厚な響き。まるで、お腹の底から直接響いてくるような、大きな音。

 その低音に重なって、軽やかな音が宙を舞う。

 そして、その真ん中を貫くように、まっすぐで力強い音が聞こえてくる。

 音の波が、悠真を包み込む。

 それは、野球部の喧騒とは全く違う種類の、熱を帯びた音だった。

 無意識のうちに、悠真は扉に顔を近づけていた。


 中を覗くと、広い音楽室には、様々な楽器を抱えた生徒たちがいた。

 大きなチューバを膝に乗せて座っている、ふっくらとした女の子。

 悠真と同じくらいの背丈で、軽やかにクラリネットを操る男の子。

 そして、一番前で、トランペットを構えているショートカットの女子生徒。

 彼女が楽器を構えると、顔が少しだけ紅潮する。そして、ひと際、輝きを放つ、力強い音が音楽室に響き渡った。

 その音を聴いた瞬間、悠真の脳裏に、まぶしい光景が蘇った。


 夏の甲子園。

 アルプススタンド。

 太陽に反射して、きらきらと光る金管楽器。

 そして、力強く響き渡るトランペットの音色。

 あの音だ。

 俺を包み込んでくれた、あの音だ。

 それは、遠い記憶の底にあったはずの、忘れかけていた音だった。


 あの時、自分は、野球とは関係のない、ただの一人の観客として、その音を全身で浴びた。

 そして、その音に、不思議と心が慰められた。

 悠真は、はっとした。

 自分は、あの音を、球場で聞いたことがある。

 音楽室の中には、たくさんの仲間たちがいる。あの音を、一つのチームとして作り出している。彼らは熱心に、そして真剣に、一つの音を追い求めている。

 マウンドの土とは違う。

 でも、ここにも、確かなグラウンドがある。

 悠真は、扉の前で立ち尽くしたまま、しばらくの間、彼らの音に耳を傾けていた。



---



 音楽室の前を離れ、悠真は再び廊下を歩き始めた。足取りは、先ほどより少しだけ軽かった。

 右肩の鈍い痛みは、依然としてそこにあったが、心の空洞は、あの音によって、ほんのわずかに埋められたような気がした。


 (あの音……あの時、俺を包んでくれた音だ)


 幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇る。

 父の大きな手に引かれて、初めて足を踏み入れた甲子園球場。

 まぶしいほどの緑色の芝生。

 白く光るベースライン。

 そして、遥か遠くのアルプススタンドから聞こえてきた、力強いブラスバンドの音。

 トランペットの鋭い音色。

 チューバの、腹の底に響くような低音。

 それらが一つになって、球場全体を震わせ、まるで命を吹き込むようだった。

 あの時、父が言った。


 「この音は、選手の背中を押してくれるんだ」


 悠真は、その言葉の意味を、今、改めて思い知らされていた。

 あの音は、野球をやっている自分を応援してくれた音ではない。

 ただ、そこにいる、一人の人間を、力強く鼓舞してくれる音だった。

 だから、野球を辞めた今の自分にも、心に響いたのかもしれない。


 悠真は、ポケットに突っ込んでいた右手を出し、掌を開いた。

 グローブを握るためにあったその手は、今は、何もない。

 だが、その指先は、何かを掴み取ろうと、わずかに震えているようだった。

 (もう、マウンドには立てない)

 頭の中で、医師の声が繰り返される。

 「投手としての復帰は……かなり難しいでしょう」

 しかし、あの音は言っていた。


 「夢の形は、ひとつじゃない」


 悠真は、立ち止まった。

 自分は、野球がしたかったのか。

 それとも、あの球場で、あの熱狂の中で、何かを表現したかったのか。

 

 答えは、まだ見つからない。

 だが、心の中にあった、冷たくて重い空虚感に、温かい光が差し込んだようだった。

 もう一度、あの音を聞きたい。

 今度は、遠くから聞くのではなく、もっと近くで。

 そして、いつか、あの音を、自分で奏でてみたい。

 そんな、ぼんやりとした、しかし確かな感情が、悠真の胸に芽生え始めていた。

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