第18話 音の力(下)
前日の快晴が嘘のようだった。
朝から厚い雲が甲子園の空を覆い、グラウンドには影が落ちていた。湿った空気が肌にまとわりつき、選手も観客も、昨日とはまるで違う緊張感に包まれている。
スタンドに並ぶ悠真たち吹奏楽部も、空模様に押しつぶされるような重さを感じていた。
「……なんか、息苦しいですね」
明日香がフルートを抱えたまま小声で漏らす。
悠真も無言でうなずいた。昨日の勝利の余韻は、雲に吸い込まれるように消えていた。
試合開始のサイレンが鳴る。相手は全国屈指の強豪、春のセンバツを勝ち抜いた名門校。
一回表、いきなりその力をまざまざと見せつけてきた。
金属バットに当たった瞬間の乾いた音が、まるで砲弾の発射音のように響く。打球はライナーで外野を切り裂き、フェンスを直撃。観客席からどよめきが起こる。
三枝が必死に投げ込むが、強豪打線は一歩も引かない。次々と鋭い打球を飛ばし、初回から四点を奪った。
「うわぁ……」
吹奏楽部の何人かが、思わず息を呑む。
すぐに応援曲を始めなければいけない。だが、その音には覇気がなかった。
クラリネットの入りがわずかに遅れ、サックスの音が不安定に揺れる。トランペットも高音が割れて、全体の響きがちぐはぐになる。
観客の耳に届いたのは「応援」というより、必死さの裏返しのような音だった。
悠真は必死にスネアを叩く。だが、気持ちが焦って力が入りすぎ、音が硬く突き刺さる。リズムの流れも速くなりすぎていた。
冷や汗が額を伝い、スティックを握る手がしびれる。
――この感覚。
悠真は、一瞬で過去へ引き戻されていた。
野球部時代、肩を壊した直後に味わった、あの「どうしようもない無力感」。
ベンチでただ声を張り上げるしかなく、試合が崩れていくのを見ているしかなかったあの日。
あの重苦しい空気が、今ふたたび甲子園のスタンドを覆っていた。
スコアボードには「0-6」。
初回で、すでに絶望的な数字が刻まれていた。
吹奏楽部の面々は互いに顔を見合わせる。
明日香は唇を噛み、クラリネットのリードを押さえたまま震えている。
美咲も、まだ吹き続けてはいるが、音は硬く、呼吸の乱れが明らかだった。
――負けムードが、じわじわと応援席を侵食していく。
球場全体が重苦しい。どこか遠くで聞こえる相手校の大応援団の音が、さらにその圧力を増していた。
悠真は、スティックを握る手にさらに力を込める。
指先が白くなるほどに、ただ無我夢中で叩き続ける。
だが、その音が「応援」ではなく「焦り」になっていることに、彼はまだ気づいていなかった。
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打球がグラウンドの奥へと鋭く伸びるたびに、甲子園の空気が震えた。土煙が舞い、スコアボードに並ぶ数字は無情に相手の得点ばかりを刻んでいく。
分厚い雲に覆われた球場は、まるで光を拒むように暗く沈み、スタンドに集う応援団の声すら次第に細くなっていった。
吹奏楽部の演奏も、その流れに押し流されていた。
楽譜を追う指が震え、リズムが乱れ、音がばらけていく。さっきまで勇ましく鳴り響いていたマーチは、今や力を失った叫びのように頼りなかった。
「もう、私……もうダメです」
クラリネットを抱きしめたまま、明日香が小さく崩れ落ちるように座り込んだ。唇が震え、涙が頬を伝っていく。
周りの部員たちも顔を見合わせ、動揺が広がっていた。
その隣で、美咲先輩は懸命にトランペットを吹いていた。けれど、金管特有の明るさはどこにもなく、弱々しい音が空気に溶けて消えていく。
マウスピースに唇を押し当てるたびに、細かく震えるのが分かる。
「甲子園で完璧な音を響かせたい」――その願いが、今や重荷となって彼女を縛っていた。
悠真はスネアを叩きながら、二人の様子に気づいた。
胸が締めつけられる。これはかつて、野球部で味わったものと同じだった。
「プレッシャーに押しつぶされそうになり、誰にも弱音を吐けず、一人で背負い込んでしまった自分」。
あの時の無力感が、今また全身を蝕んでくる。
――いや、同じにはしない。
スティックを握る手に力を込めて、悠真は演奏を続けながら明日香の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だ。俺たちがいる。一人じゃない」
静かに、しかし確かな声でそう告げる。
明日香が驚いたように顔を上げる。涙でにじんだ瞳に、少しずつ光が戻っていく。
次に、美咲先輩に向かって言葉を投げた。
「美咲先輩、俺たちの音は、完璧じゃなくてもいいんです。大事なのは心だ。気持ちを込めて音を出せば、必ず選手に届きます」
それは彼女への言葉であると同時に、かつての自分自身に言い聞かせるような宣言でもあった。
美咲は一瞬唇を噛み、そして小さく息を吐いた。
「……そうね。音に心を込める」
もう一度トランペットを構えたその姿は、先ほどまでの硬さとは違い、ほんの少し柔らかさを取り戻していた。
重苦しい雲に覆われた甲子園に、再び吹奏楽の音が広がり始める。
まだ完璧ではない。けれど、確かに「前を向こう」とする力がそこに宿っていた。
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六回までのスコアボードは、無惨なまでに差を広げられていた。
応援席の空気も重く、音楽はただ形式的に流れているだけのように響く。誰もが「もうダメかもしれない」と心のどこかで思いかけていた、その時だった。
七回裏。
打席に立った四番が、真芯でボールを捉えた。乾いた金属音が球場全体を震わせ、打球は鋭く夜空へと突き抜ける。
次の瞬間、スタンドは揺れた。――ホームラン。
「まだ終わってない!」
野球部ベンチから、選手たちの声が飛ぶ。
さらに続く打者も、渾身のスイングで白球を叩き返した。放物線を描く打球が、再びフェンスの向こうへと吸い込まれていく。
二者連続のホームラン。
観客席に広がっていた敗北ムードが、一瞬にして熱を取り戻した。
吹奏楽部も立ち上がる。
悠真の言葉に勇気をもらった仲間たちは、もう迷わなかった。音は乱れてもいい。心を込めて、最後まで選手たちを支えよう――その思いが、音に宿っていく。
太鼓のリズムに乗せて、トランペットが鋭く突き抜ける。木管が旋律を重ね、応援席全体がうねりをあげる。
悠真のスネアが響き渡る。その一打ごとに、胸の奥の熱が音に変わり、野球部へと届けられる気がした。
もはや応援のためだけではない。
――これは、仲間への誓いであり、自分自身への挑戦だ。
だが、反撃の炎は奇跡には至らなかった。
八回表、相手打線が再び牙をむき、差は縮まらぬまま時間だけが過ぎていく。
そして九回裏。
最後の打者が放った打球は、鋭くも外野手のグラブに吸い込まれた。
その瞬間、雨が降り出す。
グラウンドに打ちつける雨粒が、白球の音と混ざり合い、球場全体を静かに包み込んだ。
ベンチから身を乗り出していた三枝が、帽子を深くかぶり直し、顔を覆った。
誰も声を出さない。観客も、吹奏楽部も、ただ雨音の中でその姿を見つめていた。
悠真はスティックを持った手を下にぶら下げて、深く息をついた。
全力で叩き切った音の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。
――勝利には届かなかった。
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最後のアウトを告げる審判の声が、雨に濡れた球場に重く響いた。
スコアボードに刻まれた数字は、残酷なまでに現実を突きつけている。
しとしとと降っていた雨は、試合終了と同時に嘘のように止み、球場の向こうには淡い虹がかかっていた。だがその美しさは、誰の心にも届かない。観客席も、グラウンドも、涙とため息で静まり返っていた。
整列した野球部の選手たちが、観客席に深々と頭を下げる。
三枝は最後に一人、帽子を胸に抱きしめ、悠真たちのいる吹奏楽部の応援席をじっと見上げた。声は発しない。ただ、瞳に宿る感謝の光がすべてを物語っていた。
吹奏楽部の生徒たちは、楽器を抱えたまま涙をこぼしていた。
「悔しいね……」
誰かが呟くと、堰を切ったように嗚咽が広がる。彼らの音楽は最後まで選手たちを支えた。しかし勝利には届かなかった。その事実が胸を刺す。
悠真は、肩で息をしている美咲の姿に気づいた。汗と涙で濡れた顔。震える唇。
「お疲れ様でした。最高の音でしたよ」
静かに声をかけると、美咲は一瞬驚いたように目を見開き、そして泣き笑いの表情で「……ありがとう」と答えた。
その一言に、悠真の胸も熱くなる。完璧じゃなくてもいい。彼らの音は確かに届いた――そう確信できた。
隣で明日香が、ハンカチで涙を拭きながら呟く。
「悠真先輩の言葉がなかったら、きっと途中で吹けなくなってました。本当に、ありがとうございます」
震える声に、悠真は小さく頷いた。
「俺も同じだよ。みんながいたから叩けた」
視線を空に向けると、虹が少しずつ薄れて消えようとしていた。
甲子園での夢は、確かに終わった。だが胸の奥に、燃え残る炎があった。
――この敗北を無駄にはしない。
――甲子園で果たせなかった夢を、次はコンクールで叶える。
悠真は心の中でそう誓った。




