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あの日グラウンドに置いてきた夢の続きは、音楽室で響きはじめた  作者:
第4部 大舞台に立つ

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18/21

第18話 音の力(下)

 前日の快晴が嘘のようだった。

 朝から厚い雲が甲子園の空を覆い、グラウンドには影が落ちていた。湿った空気が肌にまとわりつき、選手も観客も、昨日とはまるで違う緊張感に包まれている。


 スタンドに並ぶ悠真たち吹奏楽部も、空模様に押しつぶされるような重さを感じていた。

「……なんか、息苦しいですね」

 明日香がフルートを抱えたまま小声で漏らす。

 悠真も無言でうなずいた。昨日の勝利の余韻は、雲に吸い込まれるように消えていた。


 試合開始のサイレンが鳴る。相手は全国屈指の強豪、春のセンバツを勝ち抜いた名門校。

 一回表、いきなりその力をまざまざと見せつけてきた。


 金属バットに当たった瞬間の乾いた音が、まるで砲弾の発射音のように響く。打球はライナーで外野を切り裂き、フェンスを直撃。観客席からどよめきが起こる。

 三枝が必死に投げ込むが、強豪打線は一歩も引かない。次々と鋭い打球を飛ばし、初回から四点を奪った。


「うわぁ……」

 吹奏楽部の何人かが、思わず息を呑む。


 すぐに応援曲を始めなければいけない。だが、その音には覇気がなかった。

 クラリネットの入りがわずかに遅れ、サックスの音が不安定に揺れる。トランペットも高音が割れて、全体の響きがちぐはぐになる。


 観客の耳に届いたのは「応援」というより、必死さの裏返しのような音だった。

 悠真は必死にスネアを叩く。だが、気持ちが焦って力が入りすぎ、音が硬く突き刺さる。リズムの流れも速くなりすぎていた。

 冷や汗が額を伝い、スティックを握る手がしびれる。


 ――この感覚。

 悠真は、一瞬で過去へ引き戻されていた。

 野球部時代、肩を壊した直後に味わった、あの「どうしようもない無力感」。

 ベンチでただ声を張り上げるしかなく、試合が崩れていくのを見ているしかなかったあの日。

 あの重苦しい空気が、今ふたたび甲子園のスタンドを覆っていた。


 スコアボードには「0-6」。

 初回で、すでに絶望的な数字が刻まれていた。


 吹奏楽部の面々は互いに顔を見合わせる。

 明日香は唇を噛み、クラリネットのリードを押さえたまま震えている。

 美咲も、まだ吹き続けてはいるが、音は硬く、呼吸の乱れが明らかだった。


 ――負けムードが、じわじわと応援席を侵食していく。

 球場全体が重苦しい。どこか遠くで聞こえる相手校の大応援団の音が、さらにその圧力を増していた。


 悠真は、スティックを握る手にさらに力を込める。

 指先が白くなるほどに、ただ無我夢中で叩き続ける。


 だが、その音が「応援」ではなく「焦り」になっていることに、彼はまだ気づいていなかった。



---



 打球がグラウンドの奥へと鋭く伸びるたびに、甲子園の空気が震えた。土煙が舞い、スコアボードに並ぶ数字は無情に相手の得点ばかりを刻んでいく。

 分厚い雲に覆われた球場は、まるで光を拒むように暗く沈み、スタンドに集う応援団の声すら次第に細くなっていった。


 吹奏楽部の演奏も、その流れに押し流されていた。

 楽譜を追う指が震え、リズムが乱れ、音がばらけていく。さっきまで勇ましく鳴り響いていたマーチは、今や力を失った叫びのように頼りなかった。


「もう、私……もうダメです」

 クラリネットを抱きしめたまま、明日香が小さく崩れ落ちるように座り込んだ。唇が震え、涙が頬を伝っていく。

 周りの部員たちも顔を見合わせ、動揺が広がっていた。


 その隣で、美咲先輩は懸命にトランペットを吹いていた。けれど、金管特有の明るさはどこにもなく、弱々しい音が空気に溶けて消えていく。

 マウスピースに唇を押し当てるたびに、細かく震えるのが分かる。

 「甲子園で完璧な音を響かせたい」――その願いが、今や重荷となって彼女を縛っていた。


 悠真はスネアを叩きながら、二人の様子に気づいた。

 胸が締めつけられる。これはかつて、野球部で味わったものと同じだった。

 「プレッシャーに押しつぶされそうになり、誰にも弱音を吐けず、一人で背負い込んでしまった自分」。

 あの時の無力感が、今また全身を蝕んでくる。


 ――いや、同じにはしない。


 スティックを握る手に力を込めて、悠真は演奏を続けながら明日香の肩にそっと手を置いた。

「大丈夫だ。俺たちがいる。一人じゃない」

 静かに、しかし確かな声でそう告げる。


 明日香が驚いたように顔を上げる。涙でにじんだ瞳に、少しずつ光が戻っていく。


 次に、美咲先輩に向かって言葉を投げた。

「美咲先輩、俺たちの音は、完璧じゃなくてもいいんです。大事なのは心だ。気持ちを込めて音を出せば、必ず選手に届きます」

 それは彼女への言葉であると同時に、かつての自分自身に言い聞かせるような宣言でもあった。


 美咲は一瞬唇を噛み、そして小さく息を吐いた。

「……そうね。音に心を込める」

 もう一度トランペットを構えたその姿は、先ほどまでの硬さとは違い、ほんの少し柔らかさを取り戻していた。


 重苦しい雲に覆われた甲子園に、再び吹奏楽の音が広がり始める。

 まだ完璧ではない。けれど、確かに「前を向こう」とする力がそこに宿っていた。



---



 六回までのスコアボードは、無惨なまでに差を広げられていた。

 応援席の空気も重く、音楽はただ形式的に流れているだけのように響く。誰もが「もうダメかもしれない」と心のどこかで思いかけていた、その時だった。


 七回裏。

 打席に立った四番が、真芯でボールを捉えた。乾いた金属音が球場全体を震わせ、打球は鋭く夜空へと突き抜ける。

 次の瞬間、スタンドは揺れた。――ホームラン。


 「まだ終わってない!」

 野球部ベンチから、選手たちの声が飛ぶ。


 さらに続く打者も、渾身のスイングで白球を叩き返した。放物線を描く打球が、再びフェンスの向こうへと吸い込まれていく。

 二者連続のホームラン。

 観客席に広がっていた敗北ムードが、一瞬にして熱を取り戻した。


 吹奏楽部も立ち上がる。

 悠真の言葉に勇気をもらった仲間たちは、もう迷わなかった。音は乱れてもいい。心を込めて、最後まで選手たちを支えよう――その思いが、音に宿っていく。


 太鼓のリズムに乗せて、トランペットが鋭く突き抜ける。木管が旋律を重ね、応援席全体がうねりをあげる。

 悠真のスネアが響き渡る。その一打ごとに、胸の奥の熱が音に変わり、野球部へと届けられる気がした。

 もはや応援のためだけではない。

 ――これは、仲間への誓いであり、自分自身への挑戦だ。


 だが、反撃の炎は奇跡には至らなかった。

 八回表、相手打線が再び牙をむき、差は縮まらぬまま時間だけが過ぎていく。


 そして九回裏。

 最後の打者が放った打球は、鋭くも外野手のグラブに吸い込まれた。

 その瞬間、雨が降り出す。

 グラウンドに打ちつける雨粒が、白球の音と混ざり合い、球場全体を静かに包み込んだ。


 ベンチから身を乗り出していた三枝が、帽子を深くかぶり直し、顔を覆った。

 誰も声を出さない。観客も、吹奏楽部も、ただ雨音の中でその姿を見つめていた。


 悠真はスティックを持った手を下にぶら下げて、深く息をついた。

 全力で叩き切った音の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。

 ――勝利には届かなかった。



---



 最後のアウトを告げる審判の声が、雨に濡れた球場に重く響いた。

 スコアボードに刻まれた数字は、残酷なまでに現実を突きつけている。


 しとしとと降っていた雨は、試合終了と同時に嘘のように止み、球場の向こうには淡い虹がかかっていた。だがその美しさは、誰の心にも届かない。観客席も、グラウンドも、涙とため息で静まり返っていた。


 整列した野球部の選手たちが、観客席に深々と頭を下げる。

 三枝は最後に一人、帽子を胸に抱きしめ、悠真たちのいる吹奏楽部の応援席をじっと見上げた。声は発しない。ただ、瞳に宿る感謝の光がすべてを物語っていた。


 吹奏楽部の生徒たちは、楽器を抱えたまま涙をこぼしていた。

 「悔しいね……」

 誰かが呟くと、堰を切ったように嗚咽が広がる。彼らの音楽は最後まで選手たちを支えた。しかし勝利には届かなかった。その事実が胸を刺す。


 悠真は、肩で息をしている美咲の姿に気づいた。汗と涙で濡れた顔。震える唇。

 「お疲れ様でした。最高の音でしたよ」

 静かに声をかけると、美咲は一瞬驚いたように目を見開き、そして泣き笑いの表情で「……ありがとう」と答えた。

 その一言に、悠真の胸も熱くなる。完璧じゃなくてもいい。彼らの音は確かに届いた――そう確信できた。


 隣で明日香が、ハンカチで涙を拭きながら呟く。

 「悠真先輩の言葉がなかったら、きっと途中で吹けなくなってました。本当に、ありがとうございます」

 震える声に、悠真は小さく頷いた。

 「俺も同じだよ。みんながいたから叩けた」


 視線を空に向けると、虹が少しずつ薄れて消えようとしていた。

 甲子園での夢は、確かに終わった。だが胸の奥に、燃え残る炎があった。


 ――この敗北を無駄にはしない。

 ――甲子園で果たせなかった夢を、次はコンクールで叶える。


 悠真は心の中でそう誓った。





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