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あの日グラウンドに置いてきた夢の続きは、音楽室で響きはじめた  作者:
第4部 大舞台に立つ

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17/21

第17話 音の力(上)

  甲子園の朝は、想像していた以上に熱かった。

 まだ午前十時にもならないというのに、太陽は空のてっぺんから容赦なく光を浴びせつけ、球場全体を蒸し器のように包み込んでいた。黒い土のグラウンドからは陽炎が立ち上り、スタンドに座る俺たち吹奏楽部員の制服を、汗で瞬く間に重たくする。


 目の前のダイヤモンドでは、母校の野球部が入念にキャッチボールを繰り返していた。マウンドに立つ三枝は、キャッチャーへ力強くボールを投げ込み、その度に「パァン!」と乾いた音が球場に響く。その音を合図にするように、俺の鼓動も高鳴った。


「よし、最初の応援いくぞ!」

 葛城顧問の声が背中を押す。


 悠真はスティックを握り直し、太鼓の前に腰を下ろした。手の中のスティックは既に汗で滑りそうになっていたが、そんなことは言っていられない。甲子園のスタンドで叩く音――それは、もう二度と訪れないかもしれない瞬間の音だ。


 プレイボールの声と同時に、ブラスの一斉奏が球場を揺らした。金管の鋭い音が太陽の光を切り裂くように突き抜け、木管の柔らかな旋律がその隙間を満たす。悠真は腹の底からリズムを刻み、ドラムのビートで全体の波を支えた。


 最初は緊張で腕がぎこちなく、音も固かった。けれど、何曲も続けるうちに、体は少しずつ音楽の波に馴染んでいった。汗が頬を伝い、ユニフォームの背中が肌に張り付く。息を吸うだけで熱気が喉を焼いた。それでも、目の前で全力でプレーする野球部員たちの真剣な眼差しが、悠真に力を与えてくれる。


 三枝の投げる速球。内野手の鋭い送球。外野手のダイビングキャッチ。

 その一つひとつが、悠真たちの音に応えてくれているように思えた。


「まだまだいけるよ、悠真!」

 隣で美咲先輩が汗を拭いながら叫ぶ。


 悠真は歯を食いしばり、スティックを振り下ろした。

 体力は削られていく。視界が少し霞んできた。けれど、ここで倒れるわけにはいかない。自分たちの音がある限り、野球部は走り続ける。



---



   試合は中盤、五回表。相手校の攻撃が始まると、スタンドの向こう側から強烈な音が響いてきた。

 相手の吹奏楽部が一斉に演奏を始めたのだ。


 その音は、まるで軍隊の行進のように統率されていた。ドラムのビートは一糸乱れず、金管の高音は鋼鉄の槍のように突き刺さり、全ての音がひとつの巨大な壁となって押し寄せてくる。悠真たちの音が一瞬でかき消されるほどの圧倒的な音圧だった。


「……すごい……」

 美咲先輩の声が震える。隣を見ると、彼女は唇を噛みしめ、視線を相手のトランペットに向けていた。

 相手校のソリストが放つ高音は、まるで天空を突き抜けるかのように澄み切っていた。その完璧な響きは、美咲先輩の心を容赦なく突き刺したのだろう。


 悠真たちの音も乱れ始めた。管楽器の息が合わなくなり、和音が微妙にずれていく。スネアのリズムも迷いがちに揺れた。


 そのときだった。

 葛城顧問がスタンドの後方から鋭い声を飛ばした。


「向こうは完璧だ! でもな、お前たちの音には“心”がある! 心を込めて吹け!」


 その一言で、悠真の胸に電流が走った。

 思い出した。県大会で勝てた理由は、決して技術だけじゃなかった。仲間とぶつかり合い、必死に音を重ねてきたからこそ生まれた“心の音”だった。


 悠真はスティックを握り直し、腹の底から叫ぶようにドラムを叩き始めた。

 一打ごとに、仲間への想いを乗せた。野球部の夢、吹奏楽部の誇り、そして自分自身の悔しさと願い。すべてをリズムに込めた。


 美咲先輩も、震える指でトランペットを再び構えた。最初の音はかすかに揺れたが、すぐに力を取り戻し、相手校に負けない強さを帯びていく。明日香も震えながらクラリネットを吹き続け、木管の柔らかさで全体を包み込んだ。


 ――これが、俺たちの音だ。



---



   試合は九回裏に突入した。

 スコアは同点。ツーアウト満塁という緊迫した場面。


 球場全体が息を潜めているようだった。蝉の声すら消えたかのような静けさの中で、悠真たち吹奏楽部の応援だけが鳴り響いていた。


 疲労は限界を超えていた。腕は鉛のように重く、スティックを握る手が震える。唇を真っ赤に腫らした美咲は、もう音が出るのかさえ分からない表情でトランペットを構えていた。明日香は、酸素を必死に取り込むように荒い呼吸を繰り返し、それでも譜面を離さなかった。


 悠真たちはもう、ただ音を出しているのではなかった。

 魂を、球場にぶつけていた。


 キャプテンがバッターボックスに立つ。背番号「1」の三枝が、マウンドからその背中をじっと見つめている。彼の祈りのような視線を背負いながら、キャプテンは深呼吸し、バットを構えた。


 相手投手が渾身の一球を投げ込む。

 その瞬間、悠真たちの演奏が一段と大きく膨れ上がった。ドラムの音は地鳴りとなり、金管は稲妻のように走り、木管は大地を優しく包み込んだ。


 ――カキーン!


 乾いた快音が、甲子園の空に突き抜けた。

 打球は一直線にライトの頭上を越え、芝生を転々と転がっていく。


 ランナーが次々にホームへ駆け込み、最後の一人が生還した瞬間、球場が割れるような歓声に包まれた。

 逆転サヨナラ。勝利の瞬間だった。



---



   試合終了のサイレンが鳴り響く中、野球部員たちはグラウンドに整列し、深々と一礼した。その姿を、俺たち吹奏楽部は楽器を抱えながら見守った。


 夕陽が球場を赤く染めていく。熱気と汗と涙が入り混じる匂いが、夏の匂いとして胸に焼きついた。


「悠真!」


 三枝が、帽子を脱いで走り寄ってきた。顔は土と汗にまみれ、息も荒い。それでも、その目は誰よりも澄んでいた。

「お前の音……聞こえたぞ。ありがとう」


 普段は多くを語らない三枝の口から出たその言葉に、悠真の胸が熱くなった。

「俺も……お前たちの野球に、勇気をもらったよ」

 声が震え、涙がこみ上げた。


 そのとき、美咲先輩が泣き笑いの顔で俺に抱きついてきた。

「やったね! 本当に勝ったんだよ!」

 その声に、悠真も堪えきれずに涙を流した。


 葛城顧問はスタンドの隅でそっと目頭を拭いながら、静かに言った。

「最高の音だった。胸を張れ」


 悠真はこの仲間たちと共に掴んだ勝利の重みを、全身で感じ取った。

 野球を諦めた悔しさは、もう過去のものだった。

 吹奏楽という新しい夢が、確かに俺の中に根を下ろしていた。

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