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あの日グラウンドに置いてきた夢の続きは、音楽室で響きはじめた  作者:
第4部 大舞台に立つ

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16/21

第16話 甲子園開会式

 東海道新幹線の車窓は、いつもの通学路では決して見られない風景を次々と映し出していった。

 長いトンネルを抜けた瞬間、車内に差し込む光が一気に強くなる。視界いっぱいに広がる高層ビル群、複雑に絡み合う高速道路のジャンクション。そのどれもが、地方都市で育った悠真には異世界の光景のように思えた。


 車内はにぎやかだ。野球部員たちは席に座っても落ち着かず、窓に張り付いて「おい、あれ東京タワーか?」「いや違うって、スカイツリーじゃね?」などと声を上げている。顧問の堀川監督が「静かにしろ!」と一喝しても、抑えきれない興奮はすぐにこぼれ出す。


 一方、吹奏楽部の車両は対照的だった。誰もが胸に緊張を抱え込んでいる。

 楽器ケースを膝に抱える者。黙って楽譜を見返す者。空気そのものが、張り詰めた糸のように硬い。


 悠真も、例外ではない。

 イヤホンから流れるのは「栄冠は君に輝く」。スマホにダウンロードした入場行進曲の音源を繰り返し聴いている。

 音楽が耳から心臓へと直接叩き込まれるようで、胸の鼓動が大きく跳ねた。


 けれど、その鼓動には喜びと同時に痛みが混ざっていた。

 悠真はこの甲子園に、「選手」としてではなく「吹奏楽部員」として来ている。マウンドに立つことを夢見ていたあの日々との落差が、ふいに心を締め付ける。

 ――本当に俺はここにいていいのか。

 窓の外を流れる街並みを見ながら、そんな問いが胸の奥に沈殿する。


「ねぇ、悠真」

 隣の席から、弾む声が飛んできた。高瀬美咲だ。

 彼女の瞳はきらめき、子どものように輝いている。

「甲子園だよ! 夢みたい!」

 声を潜めるつもりが、どうしても抑えきれなかったのだろう。車両の静けさの中で、その一言は瑞々しく響いた。


 俺は笑おうとしたが、頬が強ばる。美咲はすぐに気づいたらしい。

「……悠真、緊張してる?」

 その眼差しは優しくもあり、少し心配そうでもあった。俺は返事をせず、イヤホンを外して窓の外を見つめた。


 前方の席では、西園寺明日香が楽譜を握り締めていた。

 ページの端を何度もめくるが、目は泳ぎ、内容がまったく頭に入っていない様子だ。手は小刻みに震えている。

「私……ちゃんとできるかな……」

 ぽつりと漏らした声は、電車の揺れにかき消されそうなほど弱かった。


 その不安を打ち消すように、葛城顧問が立ち上がり、車両全体を見渡す。

「ここにいるのは、全国の精鋭だ。その音を、肌で感じてこい」

 低く、落ち着いた声が車内に響いた。

「勝ち負けよりも大事なのは、今日という日を全力で生きることだ。お前たちにとって、ここが新たな出発点になる」


 その言葉に、美咲先輩も明日香も、少しだけ表情を和らげた。

 悠真もまた、握りしめたスティックケースを膝に置き直し、深く息をついた。



---



 新大阪駅から甲子園駅までの電車。

 すでに多くの学校の応援団や選手が乗り合わせ、車内は異様な熱気に包まれていた。ユニフォーム姿の球児たち、そろいのシャツを着た応援団、胸に校章を輝かせた吹奏楽部員。ここにいる全員が、ひとつの夢のために集まっている。


 甲子園駅を降りた瞬間、むっとする熱気が全身を包んだ。

 アスファルトの照り返しが強烈で、額から汗がにじむ。

 歩道橋を渡ると、視界の先に巨大な銀色の照明塔がそびえ立っている。甲子園球場だ。


 球場の外周を回り込み、一歩、足を踏み入れた瞬間。

 蒸し暑い空気と、独特の土の匂いが押し寄せてきた。

 眼前に広がるのは、芝の緑がまぶしいほどに輝くグラウンド。白線の鮮やかさに、息を呑む。


 悠真は思わず立ち止まった。

 この土を、選手として踏むことはもうできない。そう思うと胸にチクリと痛みが走る。

 けれど、懐かしさもあった。キャッチボールの音。観客の歓声。マウンドの高さ。――記憶が鮮明によみがえる。


 そのとき。

「おう」

 低い声が背後からかかった。振り向くと、そこには堀川監督と、かつてのチームメイト三枝がいた。

 三枝の視線が一瞬、悠真の右肩に留まる。次の瞬間、何も言わずに前を向き直った。

 だが、目が合ったわずかな時間に、互いに無言のメッセージを交換していた。

 ――頼むぞ。

 ――任せろ。


 去り際に、三枝が振り返り、小さな声で言った。

「お前の音、楽しみにしてる」

 その言葉は、夏の熱気よりも熱く俺の胸を満たした。


 スタンドの設営場所に向かう途中、隣の区画で準備をしている他校の吹奏楽部員とすれ違った。

 その中に、ひときわ精悍な顔立ちの男子がいた。背は高く、腕は無駄なく引き締まっている。彼が太鼓の前に立つと、自然と周囲が彼を中心に動いているように見えた。

 彼――神崎健吾は俺を見て、挑戦的な視線を送ってきた。

 一瞬のことだったが、ぞくりとするほど強い意志を感じ取った。



---



 甲子園球場のスタンドに集められた全国の吹奏楽部が、一斉に楽器を構える。リハーサルの開始を告げる指揮棒が振り下ろされた瞬間、空気が爆ぜるように音が広がった。


 数百人の奏でる行進曲。金管の鋭い輝き、木管の柔らかなうねり、打楽器の重厚な響き。それらが渾然一体となって押し寄せ、悠真の胸を容赦なく打ちつける。

 音が壁のように迫ってきて、鼓膜を震わせ、全身を圧倒する。思わずスティックを握る手に力がこもった。


(……すげえ。これが、全国の音か)


 自分たちが練習してきた演奏が、いかに小さな世界の中でのものだったかを思い知らされる。県大会で勝ち抜いた誇りも、いま目の前に広がる圧倒的な音の洪水の前では、あっという間にかき消されてしまいそうだった。


 隣の席では、美咲がじっと口を結び、真剣な眼差しでトランペットのソロに耳を傾けている。澄み渡るような音色に、彼女は感嘆の吐息をこぼすこともなく、ただ自分の唇を強く噛んでいた。

 一方、明日香は手のひらを膝に置き、指が小刻みに震えている。肩が強張り、目は譜面を追っているはずなのに、何も見えていないようだった。


 悠真がそんな仲間たちの姿を確認したとき、強烈なリズムが響き渡った。

 舞台の一角から鳴り響いたのは、鋭く揃った打楽器群の一撃。ティンパニ、スネア、バスドラムが寸分の狂いなく重なり、地を這うような振動を生み出す。


 その中心に立っていたのは、短髪で精悍な顔つきの男子――神崎健吾だった。

 彼は太鼓の皮を叩くたびに、まるで戦場の兵士が軍を統率するかのような確信を宿した目をしていた。リズムは正確で、音は重く鋭い。生半可な気持ちでは到底太刀打ちできない迫力がそこにあった。


 悠真は無意識に彼を凝視していた。神崎もまた、演奏の合間に視線を向けてくる。

 その瞳は挑戦的で、「お前はこの音に耐えられるか」と言っているようだった。


 悠真の心に熱いものがこみ上げる。

(……負けてたまるか。俺の音は、お前たちのコピーじゃない。俺にしか出せない音がある)


 恐怖と同時に燃え上がる対抗心。その炎が、彼の胸を強く突き動かしていた。



---



 翌朝。甲子園はすでに観客で膨れ上がっていた。

 照りつける太陽の下、満員のスタンドから響く歓声は地鳴りのように広がり、球場全体を揺らす。悠真は打楽器の位置につき、スティックを構えた。手のひらにはじっとりと汗がにじむ。


 大きな緊張の波が押し寄せる――だがそのとき、グラウンドを見下ろした悠真の視線は、行進する野球部員の列に吸い寄せられた。

 真っ白なユニフォームに身を包み、堂々と胸を張って歩く彼らの姿。その中に三枝がいた。


 三枝の背筋は伸び、顔は真っ直ぐ前を向いている。彼はふと視線を上げ、スタンドの方へ目をやった。

 目が合った瞬間、悠真の心にかつての記憶が蘇る。練習で投げ込んだボール、マウンドから見下ろした仲間たちの背中。すべてはもう叶わない夢――しかし、音楽という新たな場所で再び並び立てるのだ。


 三枝はほんの一瞬、口元を動かした。

「――頼むぞ」

 声は歓声にかき消され、届いたかどうかも分からない。だが悠真には確かに聞こえた気がした。


 同じく視線を感じ、横を向くと神崎がいた。彼もまた打楽器を構え、鋭い眼差しで前を見据えている。

 その横顔は「負ける気はない」と言い放っているようで、悠真の胸に再び火がついた。


(そうだ……俺は逃げてここにいるんじゃない。俺の音で、この舞台に立つんだ)


 指揮棒が振り下ろされ、入場行進曲が鳴り響く。

 トランペットの高らかなファンファーレ、クラリネットの流れるような旋律、そして打楽器の重厚なリズムがひとつになり、球場を揺らす。


 悠真はスティックを振り下ろした。心臓と同じ鼓動がバスドラムに伝わり、音となって空へと突き抜ける。

 もう迷いはなかった。


「……俺たちの夏は、今、始まるんだ」


 その決意は、音楽とともに甲子園の空に高らかに響いていった。

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