第15話 コンクールへの想い
決勝戦の興奮から一夜明けても、体と心に刻まれた熱は冷めることがなかった。県大会優勝。甲子園出場決定。
そのニュースは瞬く間に学校中に広まり、翌日の朝練は祝福の言葉と笑顔に包まれた。野球部の選手たちが誇らしげに校門をくぐり、吹奏楽部の面々もまた、その胸を張って音楽室へ向かう。
しかし、悠真の心は、歓喜とは異なる感情で揺れていた。体は鉛のように重く、肩も腕もスティックを握るのがやっとなくらいにだるい。
何よりも、心にぽっかりと穴が空いたような、妙な空虚感がまとわりついていた。
「悠真、顔色悪いよ。大丈夫?」
音楽室に入ると、すぐに美咲が声をかけてくれた。その快活な笑顔に、悠真はぎこちなく笑い返す。
「大丈夫です。ちょっと、昨日の疲れが残ってるみたいで…。」
嘘ではなかった。
昨日の応援演奏は、これまでのどの試合よりもハードだった。体力的にきつかったのはもちろん、精神的な集中力も極限まで張り詰めていた。しかし、それだけではなかった。
(俺は、野球で甲子園に行きたかったんだ。)
ふと、心の中でそんな独り言がこぼれる。
野球部の勝利は、心から嬉しかった。でも、それは、自分がかつて目指していた場所だ。あのグラウンドに立つことは、もう二度とない。
その事実が、甲子園行きの切符を手に入れた喜びを、少しだけ曇らせていた。
「無理しなくていいからな。今日は軽めにやろう。」
北原先輩がそう言って、悠真の肩を叩いてくれた。打楽器パートの練習が始まる。
いつものように、基礎練習から。
メトロノームの無機質な音が、練習室に響く。タッ、タッ、タッ、タッ。しかし、悠真のスティックは、そのリズムから少しずつずれていく。
(だめだ、集中できない…。)
頭の中には、昨日の試合の映像がフラッシュバックする。三枝の最後の投球、キャプテンのサヨナラ打。そして、歓喜に沸くスタンド。その熱狂の中に、自分はいた。
でも、それは、あくまで「応援する側」だ。
「悠真、リズムが走ってる。」
北原先輩の穏やかな声が、悠真の思考を現実に引き戻す。
「すみません…。」
悠真は、素直に謝った。
北原先輩は、何も言わずに悠真の隣に座り、一緒にリズムを刻み始めた。その音は、完璧に、そして優しく悠真の音に寄り添ってくれる。その音に導かれるように、悠真のスティックも、少しずつ安定していく。
「お前が頑張ってくれたから、野球部は勝てたんだ。俺たちの音で、あいつらを甲子園に連れていけたんだ。」
練習の休憩中、北原先輩はそう言った。その言葉に、悠真はハッとした。
「俺は…、ただ、自分のためにやってるだけです。」
思わず、そう答えてしまった。北原先輩は、静かに笑う。
「それでもいいんだ。でも、お前が叩いた音は、確かにあいつらの力になった。それは、間違いない。
だから、胸を張れ。」
その言葉は、悠真の心に深く染み渡った。そうだ、自分は、野球を諦めたわけじゃない。
形を変えて、夢を追いかけているんだ。
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その日の練習後、悠真は一人、音楽室に残った。まもなく迫ったコンクールに向けて、個人練習をしたかった。
コンクールの課題曲は、応援曲とは全く違う。繊細で、緻密で、そして感情豊かな表現力が求められる。悠真が担当するティンパニは、その曲のクライマックスで、重要な役割を担っていた。
(この音を、完璧に…。)
悠真は、ティンパニの前に座り、静かにマレットを構える。マレットの感触、皮の張り具合。すべてが、応援演奏とは違う。
それは、ただ、力強さを求めるだけではなかった。
フゥー、と息を吐き、目を閉じる。心の中で、曲のメロディを思い浮かべる。
そして、マレットを振り下ろす。
ドォン…
響き渡る、深い、深い音。その音は、悠真の心の中の、靄のかかった部分を、少しずつ晴らしていくようだった。
その音に、美咲が、明日香が、そして仲間たちが、それぞれの楽器を合わせていく。
音色が一つになり、ハーモニーを奏でる。それは、甲子園のスタンドで響かせた、力強い音とは違う。しかし、そこには、同じくらい、いや、それ以上に強い、絆と情熱が宿っていた。
夜空には、星が瞬いていた。
窓の外から、吹いてくる風が、心地よい。
悠真は、ティンパニの皮に頬を寄せ、静かに目を閉じた。
この音を、舞台に響かせる。
それは、野球で叶えるはずだった夢とは違う。
でも、紛れもなく、自分たちが、この夏、掴んだ新しい夢だった。
そして、その夢は、一人では決して辿り着けない場所だった。
仲間たちの音が、悠真の心を温かく包み込んでくれた。
 




