第1話 夢の喪失
湿った芝の匂いと、磨き上げた金属バットの光沢がロッカールームの空気を満たしていた。
壁に掛けられたホワイトボードには、今日のスタメンと相手チームの打順が書き込まれている。赤いマーカーの線が、打率の高いバッターの名前を囲っていた。
悠真は、膝の上に置いたグローブの縫い目を、親指の腹で何度もなぞっていた。革は使い込まれ、指先の部分が少しだけ柔らかくなっている。そこから染み込んでくる、土と汗が混ざった匂いが、これから始まる九回を予告しているようだった。
「おい悠真、今日も完封頼むぞ」
背後から肩を軽く叩かれ、顔を上げる。三枝達也がにやりと笑って立っていた。捕手用のプロテクターを膝に掛け、足を小刻みに揺らしている。試合前でもその落ち着いた目は変わらない。
「お前が打たれたら、オレのせいになるんだからな」
「うるせぇ。打たせねぇよ」
言葉では軽口を返すが、胸の奥では心臓が早鐘を打っている。
ロッカールームの外から、かすかにブラスバンドの音が聞こえた。低音のチューバが空気を震わせ、トランペットが明るく響く。そのリズムが、血の巡りを速くしていく。
ガラリと扉が開き、堀川監督が入ってきた。
無駄な動き一つなく、まっすぐに前に進んでくる。グラウンドではなく、室内の蛍光灯の下でも、その存在感は際立っていた。
「いいか、お前ら」
監督は短く言い、ホワイトボードの前に立つ。
「今日の相手は打線がつながるチームだ。だが――」
一瞬、声を止め、部員たち一人一人の顔を順に見渡す。
「勝てる。俺はそう思っている。だから全力を出せ」
抑えられた低音に、不思議な力があった。まるで胸の奥を直接叩かれたように、悠真は背筋を伸ばした。
「行くぞ!」
監督の声に、ベンチ内の空気が一気に張り詰める。全員が一斉に立ち上がり、スパイクの底が床を打つ音が重なった。
グラウンドに出る前、悠真は一度だけ深呼吸をする。肺の奥まで冷たい空気が入り、鼓動の速さを少しだけ落ち着ける。
外の光が差し込む通路を抜けると、甲高い歓声が一気に押し寄せた。土の匂い、白線の眩しさ、スタンドのざわめき――それら全部が、悠真の中で一つに溶けていく。
緊張は、確かな高揚感に変わっていた。
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マウンドの土を、右足で軽く踏みしめる。
この感触を、俺は何度も夢で見た。
スパイクの歯が土に沈み、土埃の匂いが鼻をくすぐる。照りつける春の陽射しに、球場全体が熱を帯びているのが分かる。
「プレイ!」
審判の短い声が、背中を押した。
キャッチャーミットを構える三枝の姿が、視界の奥で揺らめく。
――行くぞ。
振りかぶった瞬間、風が頬をかすめた。腕を振り抜くと、ボールが切り裂くようにミットへ吸い込まれる。
「ストライク!」
低めいっぱい。審判の声に、観客席の一部から小さな歓声が上がる。
二球目、三球目も続けざまに決まり、あっという間にツーストライク。
マウンドの高さは、俺を強くしてくれる。上から見下ろすような視界。相手打者のわずかな息づかいまで感じ取れる。
スライダーを投げ込むと、バットが空を切った。
「三振!」
ベンチから、仲間の声が飛んでくる。
――悪くない。むしろ絶好調だ。
二人目も外角のストレートで詰まらせ、セカンドゴロ。
三人目は初球でファウルを打たせ、最後は外角高めの速球。力で押し切った。
スリーアウト。
走ってベンチへ戻る途中、観客席からの拍手が波のように押し寄せてきた。
あの音が、たまらなく心地いい。球場に響く音は、俺のために鳴っている。そんな錯覚さえ覚える。
ベンチでタオルを受け取りながら、三枝が小さく笑った。
「今日はキレてるな、悠真」
「まぁな」
短く返しながらも、胸の奥は熱く高鳴っていた。
――この調子で、ずっと行ける。そう信じて疑わなかった。
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三回表、スコアボードにはまだ「0」が並んでいる。
風は少し冷たく、マウンドの土は昨日の雨で締まり、スパイクの歯が心地よく沈む。
真田悠真はキャッチャー・三枝達也のサインを見た。人差し指一本、まっすぐ。
うなずき、振りかぶる。全身のバネを一気に解き放つ。――ズバン、と捕球音が響き、審判の「ストライーク!」が遅れて飛んできた。
観客席からは拍手と声援。幼い頃から慣れ親しんだこの音に、胸の奥が熱くなる。
(よし、悪くない)
しかし、その瞬間、右肩の奥で、何かがきゅっと締めつけられるような感覚が走った。
――大したことじゃない。少し力が入りすぎただけだ。
そう言い聞かせ、再び構える。
次のバッターは初球を打ち上げ、あっけなくショートフライ。グラブを胸に、悠真はマウンドを一歩歩き回る。肩の奥が、じんわりと重い。
「おーい、どうした? テンポ落ちてるぞ」
三塁側ベンチから、監督・堀川の声が飛んだ。
「大丈夫です!」と返すが、声が少し上ずっていた。
四回に入るころ、違和感ははっきりと痛みに変わりつつあった。投げるたび、肩の奥で鈍い衝撃が広がる。
(おかしいな……昨日は何ともなかったのに)
達也がマスク越しに首を傾げる。
「悠真、ボール、ちょっと抜けてないか?」
「……そんなことない」
「嘘つけ。握りが浅い」
彼の低い声が、胸に刺さる。
ランナーを一人許し、二死一塁。カウントはツーストライク。
決め球はスライダー......のはずだった。だが腕が振り切れず、外角に大きく外れた。捕手のミットが空を切り、ボールはバックネットへ。
スタンドからため息が漏れる。ベンチ前では監督が腕を組み、何かを考えている。
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五回の表。スコアボードには、まだゼロが並んでいる。
俺は、マウンドに立ったまま、キャッチャーミット越しに三枝のサインを見つめた。指が二本──スライダーの合図。
振りかぶり、全身を使って腕を振り抜く。
……はずだった。
肩の奥が、鈍い音を立てて悲鳴をあげた。
ビリッ、と神経を引き裂くような感覚が右腕から背中に走る。ボールはわずかに高めに浮き、打者のバットにかすっただけで、キャッチャーミットへ。
三枝がすぐ立ち上がり、マウンドへ歩いてくる。
「……大丈夫か?」
「平気だ」
口ではそう言ったが、右腕がじんじんと熱を帯びている。帽子のツバの下から滴る汗が、目にしみた。
ベンチからも監督がゆっくりと歩いてくる。グラウンドのざわめきが、妙に遠く聞こえた。観客席の応援のリズムも、途切れ途切れになる。
俺は、グラブで口元を隠したまま、三枝に言った。
「あと一人、抑えれば回は終わる」
三枝はわずかに眉をひそめて首を振った。「……監督が来る」
監督の堀川が、ゆっくりとマウンドに上がってきた。
細い目が俺をじっと見据える。何も言わない時間が、やけに長い。
その沈黙の中で、背後のアルプス席からブラスバンドの演奏が響く。金管の鋭い音が、夏の空気を震わせる。――あの音、どこかで。
しかし、その記憶を探る暇もなく、監督の口が動いた。
「……もう無理だな」
短い言葉が、心臓の奥に突き刺さる。
「投げられます!」
思わず声が上ずった。だが、監督は小さく首を振るだけだった。
「お前の球は、もう走ってない。これ以上は、ただ壊すだけだ」
言葉の意味は理解できるのに、頭が拒否していた。
背後でベンチから次の投手が走ってくる足音がする。観客席からは小さなざわめきとため息。
俺はグラブの中で拳を握り、爪が掌に食い込むのを感じながら、ゆっくりとボールを差し出した。
新しい投手がボールを受け取り、軽く帽子のツバに手をやって会釈する。
俺は無言でうなずき、マウンドからベンチへと歩き出した。土の感触が、やけに重い。
ダグアウトに戻る途中、ふと観客席の一角が目に入る。吹奏楽部のトランペットが太陽に反射して眩しく光っていた。
子どもの頃、父に連れられて行った甲子園で、同じような光を見たことがある。アルプス席から聞こえる、力強いマーチ。投手でも打者でもない俺を包み込んでくれるような音だった。
ベンチに腰を下ろすと、三枝が水の入った紙コップを差し出してきた。
「……無理すんなよ」
声は小さいが、その奥にある感情は痛いほど伝わる。
「悪い。……頼む」
三枝は無言でうなずき、マスクをかぶってグラウンドへ戻っていった。
俺は紙コップの水を飲み干し、肩を押さえたまま、試合の続きを見つめた。
熱い夏の風が吹き抜け、遠くで金管が再び高らかに鳴った。
その音は、どこかで俺を呼んでいるようだった。
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真田悠真は、病院の白い天井を見つめていた。
淡い蛍光灯の光が、無機質な壁に跳ね返って目に刺さる。野球部のユニフォームはもう脱ぎ、Tシャツとジャージに着替えている。だが、まだ右肩には試合の熱が残っていた。熱く、重く、鈍い痛みが肩の奥に沈んでいる。
隣の椅子には父の健司が座っていた。背筋をまっすぐに伸ばし、腕を組んだまま、何も言わない。無口なのは昔からだが、今は特に言葉を探しているように見えた。
「真田さん、どうぞ」
看護師の声がして、診察室のドアがゆっくり開く。
中に入ると、机の向こうに白衣の中年医師が座っていた。眼鏡の奥から、穏やかながらも慎重な視線が悠真をなぞる。
「MRIの結果が出ました」
紙をめくる音がやけに大きく聞こえる。野球部の試合で感じた歓声や打球音とは違う、静かな部屋に響く乾いた音。
医師は画面を指差しながら説明を始めた。
「右肩の関節唇に損傷があります。軽い炎症や筋肉痛なら休養で回復しますが……これは長期間の酷使による損傷です」
医師の声は淡々としている。だが、その内容は悠真の胸に重く沈み込んだ。
「投手としての復帰は……かなり難しいでしょう」
その瞬間、肩の奥で何かが音もなく崩れる感覚があった。
「……どれくらい休めば治りますか」
自分でも驚くほど、声は冷静に出た。だが内側では、血の気が引いていく。
「完全な回復を目指すなら、手術とリハビリで最低でも一年。それでも以前の球速やコントロールが戻る保証はありません」
健司が、わずかに顎を引いた。父も現役時代に怪我をした経験がある。それでも、この言葉には反論の余地がないことを知っているのだろう。
医師は続ける。
「日常生活には支障ありませんし、別のスポーツなら問題なくできます。ただ、ピッチングは……」
そこで言葉を切った。残りの部分は、悠真自身が理解するべきことだった。
診察室を出ると、病院の廊下には午後の日差しが差し込んでいた。窓越しに見える空は、夏を思わせるような鮮やかな青。
だが、その空は悠真には遠く、どこまでも手が届かない場所のように見えた。
「……これから、どうする」
健司の声は低く、いつものように短い。
「わからない」
悠真は正直に答えた。声が震えないよう、奥歯を噛み締める。
駐車場へ向かう間、二人の間には言葉がなかった。
足元のアスファルトがやけに硬い。野球場の土の柔らかさが恋しい。
あのマウンドの感触――金属スパイクで踏みしめた土の温度や、ロージンの粉の匂い。それらすべてが、もう過去のものになるのかもしれない。
車に乗り込むと、健司がエンジンをかけた。その手は大きく、固く、野球をやっていた頃の面影を残している。
「悠真」
短く名前を呼んだ後、父はハンドルを握りながら言った。
「やめてもいい。けどな、やるなら中途半端にすんな」
それだけ言って、前を向いたままアクセルを踏む。
返事はしなかった。
できなかった。
胸の奥に渦巻く悔しさと空虚さが、言葉を押しつぶしていた。
車窓の外を、白球のような雲が流れていく。
もう二度と投げられないのか――その思いが、青空の下で重く沈んでいった。
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