第Ⅰ章∶新入生、ヒカリと凍てつく予感
新入生、光と、心の壁
真新しいローブの裾が、ひんやりとした石畳を擦る。その音さえも、ホシノ・ヒカリ(星乃 光)にはひどく大きく響いた。耳の奥では、まるで波打ち際のように生徒たちのざわめきが押し寄せ、彼女の薄い皮膚を直接震わせるかのようだった。それは単なる喧騒ではない。それぞれの生徒が放つ魔力の波動が、感情の渦となって光の心に直接流れ込んでくる、特殊な感覚だった。喜び、期待、興奮、そして微かな不安や孤独。それらの感情が、まるで鋭い針のように光の心を突き刺し、全身の細胞が縮み上がる。これは、彼女の能力の副作用――他者の感情と魔力に過敏に共鳴してしまう特異体質だった。
光が身を置いているのは、世界中の若き魔法使いたちが憧れる最高峰の学び舎、エレメンタル・アカデミーの広大なエントランスホールだ。天井からは眩い光の魔法具が吊るされ、磨き上げられた大理石の床には、六つの属性を示す複雑な魔法陣が精緻に描かれている。ホール全体に満ちる魔力の波動は、新緑の匂いと古書の香りが混じり合い、まるで魔力そのものが呼吸しているかのようだった。
しかし、光はひとり、壁際に身を寄せ、俯いていた。透き通るような白い肌に、いつも伏し目がちな大きな瞳。その視線は、人混みを避けるように床を見つめ、誰かの視線を感じるたびに、反射的に身を固くした。誰かと目を合わせることも、自分から話しかけることも苦手な極度の人見知り。それは、彼女の無意識が築いた、感情の奔流から身を守るための防衛本能だった。
「ひ、人、多い……」
口から漏れたのは、蚊の鳴くようなか細い声。入学式の喧騒は、光にとっては何よりも強烈な魔法だった。見渡せば、すでに友人同士で笑い合う生徒たち、初対面でも臆することなく会話を弾ませるグループ。そのどれもが、光には眩しすぎた。彼女はまるで、自分だけが透明なガラスケースの中に閉じ込められているような疎外感を抱いていた。
(心の声) みんな、あんなに楽しそうに話せるなんて、信じられない。私には、無理だ。ここにいる資格なんて、きっとない。早く、この場から消えてしまいたい。
そんな彼女の耳に、熱を帯びた声が飛び込んできた。
「俺の故郷、ベネチアの魔法都市は、運河を流れる魔力で動いているんだ! 毎年、水の祭典では……」
燃えるような赤いローブを纏った少年レオン(イタリア出身)だ。彼の魔力は、彼の情熱と同期し、炎のように激しく燃え盛る。レオンの一族は、古くから都市の守護者として知られており、彼は一族の誇りを背負い、自身の炎の力を高めるためにこの学園へ来ていた。故郷の仲間たちの期待、そして自身の使命感。その熱い思いが、光の心に灼熱の波となって押し寄せる。
その隣では、静かで冷たい青のローブを纏った少年シャオ(中国出身)が、レオンの話に静かに耳を傾けていた。シャオの周りを漂う風の精霊の気配は、他の生徒の魔力と一線を画し、まるで澄んだ泉のように静かだった。彼の祖国では、古の魔術が失われつつあり、その再興のために彼は孤独な探求心と、強い責任感を胸にこの学園に身を置いていた。
光は、レオンの情熱とシャオの静かな責任感、そして他の生徒たちの様々な感情の波に、ただただ圧倒されていた。その一人一人の魔力の波動が、まるで五線譜に描かれた不協和音のように聞こえ、頭痛を引き起こしていた。
光は心の中で自問した。なぜ、自分がこの学園にいるのだろう。祖母はいつも「お前には特別な力がある。それは、心を繋ぎ、闇を浄化する力」と語りかけてくれた。しかし、具体的な魔法として使うことなど一度もなかった。それでも、エレメンタル・アカデミーの入学許可書は、彼女の元に届いた。手にした真新しい杖が、ひんやりと掌に重い。杖の柄には、魔力を宿すためのクリスタルが埋め込まれ、淡い光を放っている。才能がないのに、この学園にいていいのだろうか。不安に胸が締め付けられる。それでも、祖母の期待を裏切りたくない。ただそれだけの理由で、光は今、この場所に立っている。
叡智の樹の囁きと、祖母の形見
学園生活は、光が想像していた以上に慌ただしく始まった。毎朝、属性別に分けられたクラスで基礎魔法を学ぶ。
魔力制御の訓練では、小さな火球を手のひらに灯したり、水滴を宙に浮かせたり。隣の席のレオンが流暢な呪文を唱え、燃え盛る炎を出現させる中、光の手のひらに灯るのは、頼りないほどの小さな火花だけだった。
「フレイム・アロー!」
レオンが放った炎の矢が、標的に正確に命中する。彼の周りには、クラスメイトたちが集まり、感嘆の声を上げていた。光は、その光景を遠くから見つめることしかできなかった。発言しようとすると喉が張り付き、心臓が早鐘を打つ。結局、最小限の作業に徹する光に、クラスメイトたちは次第に「静かな子」として認識するようになった。彼女は、その静寂に安堵すると同時に、深い孤独を感じていた。
そんな中で、学園内には様々な噂が飛び交っていた。中でも新入生の間で人気だったのが、**「開かずの間」と「叡智の樹」**に関する噂だ。
「知ってる? 旧校舎の地下には、学園創設時から封印されてる『開かずの間』があるらしいよ」
休み時間、光の斜め前の席に座るイリーナが、小声で友人のアメリアに話しかけているのが聞こえた。イリーナは、光にも時折気さくに話しかけてくれる、数少ないクラスメイトの一人だ。
「へえ、どんな部屋なの?」アメリアが興味津々に尋ねる。
「それがさ、夜になると時々、奥から変な音が聞こえるって話だよ。うめき声とか、鎖の音とか……」イリーナの声が、途中でひそめられた。
光はノートにペンを走らせるふりをして、耳を傾けた。開かずの間。封印。不思議な響きだった。しかし、彼女の心には、恐怖よりも、その噂から漂う、微かな**「嘆きの感情」**が、彼女の能力と共鳴し始めていた。
そして、もう一つ。学園の校庭にそびえる古木**「叡智の樹」**の根元からは、夜になると「微かな嘆きの声」が聞こえるという噂だ。
ひそひそ話す声が、光の耳に届く。「あれ、魔法の暴走で命を落とした生徒たちの声なんだって……」
光は思わず、窓の外に目を向けた。葉を茂らせた叡智の樹が、風に揺れている。その葉擦れの音の中に、本当に、耳鳴りのように微かな哀しみが混じっているような気がした。それは、彼女の特殊な感覚が捉える、生きた感情の残滓だった。
その日の夜、光は祖母の形見である古びたブローチを眺めていた。それは、不思議な六角形のルーン文字が刻まれた銀製のブローチだ。祖母はいつも「このルーン文字は、愛と希望、そして絆の力を表す。このブローチが、あなたを守ってくれる」と語りかけてくれた。光は、そのルーン文字に、不思議な懐かしさを感じた。それは、まるで、彼女の血の中に刻まれた記憶の、遠い断片のようだった。
消えたルーンストーンと、不協和音
異変は、実習室から始まった。その日の実習は、古代文字ルーンを刻んだ石を用いて、基礎的な魔力付与を行うというものだった。
「さあ、みんな! 手元のルーンストーンに、自分の魔力を注ぎ込み、光を灯してみなさい」
担当の先生の声が響く。光は緊張しながら、ルーンストーンに手をかざす。しかし、彼女の魔力はうまく制御できず、ルーンストーンは淡い光を放つだけで、すぐに光を失った。
その時、異変は起こった。先生が数を数え始めた途端、その顔色をサッと変えた。
「誰だ! **『古代のルーンストーン』**がいくつかなくなっているぞ!」
クラス中に緊張が走った。空気は一瞬にして凍りつき、誰もが隣の生徒と顔を見合わせた。先生はすぐに学園側に報告したが、結局、学園の発表は「管理ミス」の一言で片付けられた。しかし、光はその発表に拭いきれない違和感を覚えた。先生の声は、明らかに「管理ミス」などという軽いものではなかった。もっと、深い、何かを隠しているような響きがあった。
ルーンストーン消失事件以降、奇妙な現象が続くようになる。
光のクラスの生徒たち、特にルーンストーンが置かれていた場所の近くに座っていた生徒たちの間で、原因不明の体調不良を訴える者が増え始めたのだ。授業中に突然、魔力が暴走して杖から不規則な光が漏れ出したり、めまいや吐き気を訴えたりする生徒が後を絶たなかった。普段は冷静沈着なイリーナが魔力暴走を起こし、実験器具を粉々に壊してしまう、といった具体的な事例も増えていった。
光自身も、夜、寮の自室で眠ろうとすると、微かな頭痛に襲われることがあった。それは、まるで空気中に溶け込んだ不協和音のような、奇妙な違和感だった。胸の奥がざわざわと落ち着かない。眠ろうと目を閉じても、消えたルーンストーンの形や、体調を崩した生徒たちの顔が脳裏にちらつく。
ある月の晩。光は、窓の外を眺めていた。寮の部屋の窓からは、雄大な学園の敷地と、その奥にそびえる旧校舎が見える。夜風に揺れる叡智の樹の枝が、闇夜に不気味な影を落としている。その時、光の視界の端に、青白い光が揺らめくのが映った。旧校舎の、誰もいないはずの窓だ。その光は、まるで誰かを呼んでいるかのように、微かに点滅を繰り返していた。それは、光の「何か」を呼び覚ます、導きの光のようにも見えた。心臓が、微かに高鳴る。
光の胸に、拭いきれない不穏な予感が募っていく。この学園は、ただの魔法学園ではない。華やかな表の顔の下に、何か、恐ろしい秘密が隠されているのかもしれない。そして、その秘密は、ゆっくりと、しかし確実に、光たちの日常に影を落とし始めている。その予感は、確信へと変わりつつあった。光は、この不可解な現象に、自分が関わっているような、抗い難い引力を感じていた。
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