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予熱

作者: 枕ヶ星

昼前に降り始めた雨が、 火照った街の粗熱を、淡々と洗い流してゆく。 それは、あまりに唐突な飛雨であって、 私たちは時にゲリラ豪雨とも呼ぶ。 朝にリビングで呟いた、 「暑すぎる」 という愚痴はもはや過去のものとなり、 数度ほど涼しくなった雨上がりの街へ、 私は歩き出そうと考えた。

玄関から南東の方角へ鼻先を差し向けると、山を隔てた反対側の海の方から、薄暗い雲たちが、うろうろと浮かんで来ている。 雲は、塩水をふんだんに喰って育ったらしい。

層雲と言ったかしら。

易しい名は忘れた。 比重の大きな白雲は、 広大な空の底部へと溜まるばかりである。

玄関先に植わるツツジは、全身の緑葉に幾らかの水滴を携えている。 これより、 散歩に赴く私を見送るかのようだ。 日光を弾き散らして僅かに輝いている。

住宅街を闊歩すると、 たまに植栽に凝った庭を見る事ができる。

しかしながら、 無教養な私が一目で識別のできる植物と言えば、 紫陽花か、 百合が関の山である。 青紫にはえる紫陽花を可愛らしいと思い、あそこの庭はやや酸性なのだなと考え、 また白飛びするほどの百合を綺麗だと思っては、人に例えたらあの人だなと考えたりする。

道端に落ちているきらめきを、数倍にも興味深さを増幅させることが出来る能力を、 知性 感性と呼び、 自分にも人並みに備わっていることを嬉しいと思うのである。


この街は、全体が緩やかな岡のような土台の上にあり、 高くまで上ると大きな公園が在る。 幼い頃毎日通ったこの公園に、数ヶ月に一度くらいの頻度で訪れると、ボールを追いかけ活発に走り回る少年少女に、かつての自分を投影することができるのだ。

「急な階段をやっとの思いで登り切り、公園の敷地へと踏み入れる。

雨上がりの公園は、清々しいほどにスッキリとしている。

青空の勇ましく育った積乱雲は、まるで王宮のよう。

地上の人間の足取りも、心なしか軽やかである。

私の歩く小豆色のランニングロードの向こうから親子連れが歩いて来る。 五歳くらいの小さな少年と、 若い母親のようだ。 少年は道端の水溜まりを指して言った。

「ママ、見て! 水にボクがいるよ!」

なるほど。 あの子からすると、 水鏡は摩訶不思議な現象なのだろう。 少年は目を輝かせ、 反対側の世界を珍しそうに観察している。 身の回りに溢れる科学の美しさに浸る私たちを、冷たい言葉が邪魔をした。

「あっそ、 だから何?」

母親の尖った声である。

少年は黙ってしまった。 同時に、私も絶句する。

せっかく生えた知的な好奇心の芽が、こうもあっさりと摘まれてしまうのか。

何かを思い出してしまったような、私。

いたたまれずに呟く。

「全反射、 だよ。」

「え?」

頭上から受け取る私の声に、 少年が反応する。

小さな頭を傾げ、 上目遣いに見つめてきた。

「平らな水面に、 光が一定以上の角度で入ろうとすると、 光が読みたいに反射されるの。 それで景色が映って見えるのよ。」

「へーぇ。 そーなんだ! 面白い!」

「でしょ。」

鼻と眉間の間に細やかなシワをいくつも作り、 少年は笑顔を作ってみせた。 厚ぼったい瞼の内側に、硝子細工のような美しい瞳をはめている。 澄んだ、球状に反射する世界が、 私を心ごと引き込もうとした。 すると、 「ち」 と舌打ちが聞こえた。少年の母親は、私を睨んでいる。 それに一体どんな意味があるのか、 皆目の見当をつけぬことにした。

「ほらっ、 いくよ。」

母親に腕を引っ張られていく少年は、 短く小さな腕をめいっぱい振り、 私に何かを伝えようとしている。 垣根の植栽に姿が遮られるまでの少しの時間だけ、 私も腕を振り返した。


より高きに位置する住宅と、あの南東の山との間に、またもや、 雲が見える。

墨汁を八滴垂らして混ぜたかのような、 罪深い水蒸気。 私は、 逃げるように緩やかな坂を下り始めた。

どうか、あの少年の知的好奇心の種火が消えませんように。

そして、私が家に着くまでの間、 このまま晴れていますように!

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