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1.3/元SLドライバーとの出会い 1998年12月

 二度目のカンボジア訪問の時のできごとだ。夕方、バッタムバン車庫へと向かった。実は前日に車庫の入り口付近で蒸気機関車のテンダーを見つけたので、どうしても近くで見たかったのだ。当時のまだカンボジアでのコミュニケーションに慣れていなかったので、英語とタイ語の身振り手振りで車庫入り口にいた鉄道員に車庫内に入れてくれるように懇願した。最初は鉄道員も何を懇願されているのか分からなかったようだが、唯一知っていたカンボジア語の「ロット・プルォーン・チャ(古い鉄道/古い機関車)」に反応してくれた。それで何とか入り口の強行突破に成功した。そこでテンダーをじっくり見て分かったのは、SL131型とかいうフランス製のモデルであることと、機関車の釜がウッドバーニングだったということだった。


 そして車庫の奥へと入っていくと、そこには予想を遙かに超える「遺跡」があった。それは入り口で見ていたテンダーと同じモデルの完全体が横たわっていたのだ。131型103番という番号が読みとれる。東南アジアの蒸気機関車は日本とは違い、固有のナンバー・プレートがなくペンキで描かれているだけだ。おかげで真っ暗な車庫内で、それを読み取るのにはずいぶん時間がかかった。


 SL131型100番代蒸気機関車の前で立ちつくしていると、カンボジア鉄道の職員達が話しかけてきた。


「こいつが好きかい?」「大好きです。美しいでしょう?」「ああ……そうだなあ!」


 この職員達の中にいたディーゼル機関車の運転士は、かつてバッタムバン〜プノム・ペン間で蒸気機関車を運転していた熟練のドライバーだった。鉄道員たちは椅子を用意してくれたので、そこに座り込んで彼らとの使用言語がまったく分からない不思議な会話を楽しんだ。


 彼らは日本の鉄道をよく知っていた。特に新幹線に興味を示していた。そして、カンボジアのディーゼル機関車が旧式であることを嘆いていた。それもそうだろう。カンボジア鉄道が最も多く所有しているディーゼル機関車は1965〜69年に納入されたものだ。タイ鉄道でならば、同年代に当たるKP型やHE型の機関車はほとんどがスクラップになっている。動いているとしても駅や工場での車両入れ替え用機関車として使用されている程度で、決して幹線や亜幹線で列車を引くことはないだろう。しかしカンボジアではそれらの時代の機関車が物資輸送の主役なのだ。カンボジア鉄道の皆さんのご苦労はお察しする。


 カンボジア・タバコのARAを歓迎のサインとして元SLドライバーから勧められたので、ありがたく吸わせてもらう。


「シソポンからバッタムバンまで乗り合いタクシーで来ました。鉄道で来たかったです」


「車の方が早いし楽だぞ」


「鉄道が好きなんです。明日はプノム・ペン行きの列車を見送ります」


「珍しい奴だなあ」「貴男は鉄道は嫌いですか? 私は特に蒸気機関車を愛していますが」


「それは俺と同じだな!」


 そこに別の青年ドライバーがやって来た。


「私は蒸気機関車は運転したことがありません」


「それは若いからでしょう」


「そうです。蒸気機関車の時代、私はまだ子供でした……」


「そうだなあ。あのポル・ポトさえいなければ……」


 彼らの口からポル・ポトの名前が出てきたのは、少し驚いた。だが良い機会なので訊ねてみた。


「ポル・ポト時代、つまり1975年以降に、貴男はカンボジア鉄道で何をしていたのですか?」


 実は虐殺の時代と言われたかの期間に、鉄道関係者は数少ない強力な輸送手段の保全の必要手段として、他の人々と比べればまだマシな待遇を与えられていたという話がある。鉄路の復旧に携わった人々は比較的多めの栄養の接種と家族と共に生活する特権を与えられていたそうだ。もちろん、彼らの労働は交代制の24時間連続で行われていたので、決して楽なものではなかったのだが……。


「特権」というの、せいぜい強制労働による死亡率が低かったという程度である。鉄道労働者の死亡例として有名なのはクメール作家協会のクン・スルン氏(1945〜1978年、代表作は1970年に発表された「第一の洞察」)だろう。彼は1974年からクメール・ルージュの解放区入りし、プノム・ペンで鉄道修理工として働いていたが、ベトナムとの戦争が激しくなった1978年に妻子と共に粛正されてしまった。


 質問に彼らは遠い目をして答えてくれた。


「俺はバッタムバン付近の路線で米を運ぶ貨物列車の蒸気機関車のドライバーだったよ。辛い時代だった……」


 そこまで話した時に、プノム・ペンからの混成列車PB11番がバッタムバンへ到着した。プルサト以南の路線が内戦の被害で走行不能に陥る以前には蒸気機関車の路線であったバッタムバン〜プノム・ペン間も、カンボジアでも蒸気が全廃された1992年はディーゼル機関車が行き来するだけとなった。


 PB11列車をプノム・ペンからここまで牽引してきたディーゼル機関車1001番が車庫へと入って来た。車庫の中はにわかに忙しくなったので、そこを後にした。時間は18時50分。日は落ちたが空はまだ明るかった。蛇足:2001年よりこれと同型の106番がプノム・ペン中央駅で展示されているが、それ以前はSL131型と言えばプノム・ペン工場内以外ではお目にかかれない珍しいモデルだった。このFranco-Belgeの蒸気機関車は2000年には車庫の端へと追いやられてしまったので、その雄志を形式写真的に眺めることができたのは1998年12月が最後の機会だった。

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