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1.0/カンボジア鉄道最北の列車に乗ろう 〜混成列車BS32の奮闘〜 2000年3月

 カンボジア鉄道初乗車前夜


 2000年3月のある晩、興奮して眠ることができなかった。TVでは「ヨハネ・パウロ二世が間もなくエルサレムに到着する」と、しきりに繰り返している。


 そう言えば、コンクラーベで瓢箪から駒的に、ソ連の縄張りであった東欧出身者が法王へと選ばれた事は、当時の欧州、特にイタリアでは大きな驚きをもって受け止められたとか。確か、ヨハネ・パウロ二世は信者の前に登場直後に、何とかイタリア語でのご挨拶に挑戦した筈だ。


 兎も角、そのニュースへ接した時に、何だかんだでキリスト者には一生に一度の義務であるらしい聖地巡礼を、カソリックを束ねる神の代理人がまだ行っていなかったというのは意外だ、と思った。何故かと言うと無神論者であり、ここにいる貧乏日本人ですら、巻き込まれる形でとっくにエルサレム詣でを済ましていたからだ。


 あのころは良かった。


 それでその晩にどうしてそんなに興奮しているのかというと、別にヨハネ・パウロ二世が初めてエルサレムを訪れるからではない。実は翌朝にカンボジア鉄道への初乗車する予定だったからなのだ。とって長いこと夢だったカンボジアでの鉄道の旅を実現させ、シソポンからバッタムバンへ移動するのだ。そう、何年か指をくわえて眺めていたあの列車の座席に腰を下ろせるかと思うと、天にも昇る想いである。何と素晴らしいことであろう!


 ハレルヤと唱えれば天使の歌声が聞こえそうなほどに気分が高まる。


 その晩、シソポンのホテル・プノム・サワイ(=マンゴー山ホテル)に宿泊していた。マネージャーから紹介されたホテル隣のアプサラ食堂で夕食も食べたし、シャワーも浴びて、歯も磨いたというのに、ぜんぜん眠れない。駄目だなあ、もう。そう思ってカンボジアでは何処でも大好評だった電子ライターでタバコに火を着けた。TVでは技術系の番組を中止して突然のライブ・ニュースが始まった。ヨハネ・パウロ二世がイスラエルのテルアビブ空港へ到着したらしい。空港には赤い帽子をかぶったカソリックの大司教やユダヤ教のラビ、そして今は亡きイスラエル首相のラヴィン氏などが出迎えに出ていた。このくらいに豪勢にカンボジア鉄道に迎えてもらえればなあ、などと祈ってしまった。空港でヨハネ・パウロ二世がスピーチを行った後で、そのホーリー・マンはヘリコプターでエルサレムと向かった。


 その晩の最後の記憶は、ヨハネ・パウロ二世がエルサレムに到着したニュースだった。


シソポン駅


 12時00分、つまり正午にカンボジア鉄道の暫定的な最北の駅であるシソポン駅に立っていた。正確にはセーレイ・ソーポアン駅というのだそうだが、カンボジアの一般人はシソポン駅(=スターニー・ロット・プルォーン・シーソーポンッ)としか言わないので、シソポン駅で統一させてもらおう。


 シソポン駅は小さな駅舎とプラットホームがあるだけの普通の駅で、最北の終着駅なんていう大層な肩書きは似合わない。南線の通過駅であるカムポットの方がまだ印象深いかと思う。


 シソポン駅は本来ならば極普通の通過駅に過ぎず、終着駅として必要な鉄道施設を要していない。必要な施設とは、例えば車両回転用設備(ターンテーブルやトライアングルスイッチバック)や列車の待避場となる留置線などの設備のことだ。車両回転用設備とは一方向にしか運転台が向いていない蒸気機関車には絶対に必要なものだ。これが無ければ蒸気機関車は後ろ向きで列車を牽引するしかない。おかげで1992年までに蒸気機関車が全廃されたから良いものの、それ以前はバッタムバン駅〜シソポン駅間を往復する列車にはディーゼル機関車をあてがわなければならないという車両運用の難しさがあった。おそらく、こういった設備は本来最北の駅はカンボジアとタイ国境近のポイペッド駅にあったのだろう。


 また広く知られていない真実であるが、1975年、カンボジア共産党が革命を達成した直後からこのシソポン駅はプルサト始発の「地獄の鈍行列車」の終着点でもあった。地獄の鈍行列車とは、反カンボジアの烙印を押された哀れな人々が極めて劣悪な乗車環境で「満載」された人間輸送列車のことである。地獄の鈍行列車の始発駅がプルサトであったのは、1975年初頭に列車が運行可能だった路線はシソポン〜プルサト間だけであったからだ(プルサト〜プノム・ペン間が復旧した後はプノム・ペン発となった)。カンボジア共産党支配時代初期には先の内戦の被害で鉄道路線がダムレイ山脈で破壊され、プルサト駅以南の大規模な輸送インフラは壊滅していたということである。カンボジア全土からシソポンへ輸送されてくる不幸な人々は、プルサトまでは徒歩やトラックで輸送されて来たということだ。


 当時のシソポン駅の鉄道員によれば、地獄の鈍行列車は2日に1度の間隔でシソポン駅へ到着していたそうだ。そして、到着した列車の貨物車両からは目ばかり大きくなった栄養失調気味の人々と哀れな多数の死体が下車していた。そしてその列車のプルサトへの帰り道には、タイから密輸した食料で満載であったそうだ。赤い思想に染まったカンボジア人達の同胞に対する残酷な仕打ちには驚くばかりである。「君が生きていることはもしかしたら大きな問題になるかも知れないが、君が死んでしまっても社会的な損失などは一切ない。だから念のために殺しておこう」このシソポンでの悲劇も、そんな大それた文句を言いながら、ポル・ポト(サロット・サル)の命令通りに、時にはそれ以上に効率良くクメール版大文化革命(クメール版大躍進運動も平行して)を実行した、カンボジア共産党という組織の悪行の一つである。キリング・フォールドは決してプノム・ペンだけのものではなかったのだ。


 そして1976年、カンボジア共産党の内ゲバ(ドイツ語/ゲバ=ゲバルト=闘争)にポル・ポト派が勝利すると、ポイペッド〜シソポン間のレールが放棄されることなった。それはカンボジア共産党の採用した鎖国政策を徹底するためだった。


 そんな歴史を持つシソポン駅は街の外れ、国道5号線のロータリーから伸びる細い一本道の突き当たりに位置するので、旅行者にはなかなか目に付かない。街を通り過ぎるだけでは、そこにそんなインフラがあることも気づかないだろう。実際、初めて目にした時、踏切のところでレールが2本ともプラスティック系のゴミに埋もれていたので、「廃線になってしまったのか……」と、勝手に深い落胆していたくらいだ。


 シソポンの小さな駅の壁を満足するまで撫で回した後、小さな駅の切符売り場で小さなトラブルに遭遇した。駅員との交渉に5分以上を費やした。「お願いします。切符を売ってください」「駄目、外国人には売れない」「どうしても鉄道に乗車したいんです」「じゃあ、勝手に乗りなさい」「でも、切符が記念に欲しいんです〜」


 駅員は予想通り切符を売ってはくれない。当時のカンボジア鉄道では原則的に外国人の乗車は禁止されてたのだ。でも、それには「ただし、勝手に乗って来る奴に対してはカンボジア鉄道は責任を持つ必要がないので、まあ多目に見ようじゃなか」という抜け道があった。おかげで我々外国人はカンボジア鉄道では乗車料金が無料という、外国人特権を味わうことができたのだ。思えば素晴らしい時代であった。しかしこれは裏返せば、万が一に列車事故に遭遇しても、無賃乗車の外国人への保証は期待できないということでもある。実際に、1998年にカンポット近くで列車が通過中に鉄道橋が崩壊するという最悪の事故もあったらしいし、外国人の鉄道への乗車はあくまでも個人の責任で、ということなのだ。


 もちろん、楽天的な「まあ大丈夫だろう」と自分の幸運を信じて、編成中たった1両客車にさっさと乗り込んだ。


 カンボジア鉄道では、1969年以前に納入された機関車と客車は黒緑と薄緑の二色ツートンというなかなか渋い標準色で統一されている。緑を基調とした列車が緑豊かなカンボジアの国土を走るのかと思うと、まるで保護色の様だ。その様子を連想する者にはカンボジアがプレイ(=森)の国であることを思い出させて止まない。


 乗車前にプラットホームを見渡したところ、今日の混成列車BS32番列車を牽引するのはアルストーム社製のディーゼル機関車1053番で、見事な重装甲が施されていた。カンボジア鉄道で1969年以前に納入された機関車、つまり内戦を経験した機関車には分厚い装甲が施されている。いわゆるカンボジア名物の装甲機関車といういうものだ。この装甲はかつてのUNTAC時代にカムポン・トムに派遣されていた、DES(国連ボランティア)の中田厚仁さんの命を奪ったカラシニコフ(AK-47)の射撃や、多くのカンボジアの農民の足を奪った地雷の流弾から、運転士の命を守る為には必然の装備である。


 ところで、混成列車BS32番とはシソポン→バッタムバンへ向かう列車のダイヤ上でのスジ線の略号である。逆にバッタムバン→シソポンの列車は混成列車BS31番という。始発駅から出発する列車が奇数番号で、始発駅へ折り返す列車が偶数番号となるのだ。


 そんなことを考えながら、座席に横になって車窓から足を出して寝ていると、カンボジアの子供達が集まってくる。彼らとの合い言葉は「ハロー!」だ。それは彼らは外国人とみるとかならず「ハロー!」だからである。こちらも笑顔で「ハロー!」で返す。そんな小さな努力さえ怠らなければ、向こうはとびきりの笑顔を返してくれる。だから、子供は素晴らしい。しかし、問題は青年だ。彼らはまず最初に「What is your nationality?」、「What is your name? 」、「How old are you?」、「What is your job?」なのであるが、質問の答えが英語で返答されることを想定していない様なのだ。例えば、質問の答えとして職種などをいくら説明してもよく理解してもらえない。いろいろな英語のフレーズだけが先行していて、意味までは考えていないのかも知れない。時々なのだが、紙を見ながらクメール語で書かれた英語で話しかける紳士もいたりするのだ。彼らとしては自分の英語が外国人に通じたことに興奮するらしい。しかし、英語を話さない外国人も多いぞ。例えば、フランス人とか……日本人とか。


 シソポン駅の駅長室の黒板に書かれたスジ線によれば、混成列車BS32番の出発時間は14時00分。客車の座席で一眠りして目を覚ますと時計は13時15分だった。まだまだ時間がある。タバコに火を着けて、風景が流れていかないレイジーな車窓に肘をかける。あまりの暑さに堪りかねたのか、二匹の犬が目の前の池に首から下を沈めて気持ちよさそうに目を細めているのが見えた。二つの頭だけが並んで水面から出ていたので、まるで日本猿の温泉の光景の様だった。


 ここはカンボジア。この国を覆う熱帯気候では3月末〜4月末が一年で最も暑い時期にあたる。列車乗車当時は3月末だったから、それはつまり猛暑のまっただ中ということだ。おかげで首に巻いたカンボジア・マフラーの「クロマー」も汗でびしょぬれだ。


 「クロマー」とはカンボジア人が誰でも携帯している薄手の布地で、ターバンの様に頭に巻いて日差しを避けたり、月光仮面の様に顔を覆って舞い上がる土埃を避けたり、風呂敷代わりにしたり、まあ思い付くがままに何にでも使って良い便利なアイテムである。多くのカンボジア人はその「クロマー」を首に巻いて街を歩いているので、カンボジア・マフラーなどと勝手に呼ばせてもらっている。


 後の座席を見てみると、そこは車内販売の売り子のおばさんのスペースに使用されている。ミネラル・ウォーターやコーラ、タバコに気付け薬に飴などを売っている。座席の背もたれのところで頭を目から上だけ出して観察していたら、おばさんが気づいた。こちらが微笑むと向こうも微笑み返してくれた。とりあえず彼女も「何だか毛色の違った奴がこの列車に乗り込んでいるなあ」と認識して「まあ、いいか……」と存在を容認してくれたみたいだった。


シソポン〜モンゴル・ボーレイ間


 やがて、ガッツンと2回ほど大きな衝撃が客車に伝わった。機関車が列車に連結されたのだろう。耳を澄ますと遠くで「ぼぼぼぼぼぼぅ……」とディーゼル・エンジンの音が響いている。そして定刻よりも4分早く混成列車BS32番はシソポン駅を出発した。客車の座席は七割ほど埋まっている。車窓をみると、線路脇には世界で最も古い職業に従事する女性達の職場であり住処でもあるバラックが並んでいた。おかげで、カンボジア鉄道初乗車を、聖女マグダラのマリアからの祝福で開始することができた。


 混成列車BS32番は国道5号線と交差し、最初のシソポン川の鉄橋に迫る。この鉄橋は旧泰緬鉄道で有名な「戦場に架ける橋(クウェー・ヤイ川の鉄橋)」と同じプレート・ガーター式であるようだ。鉄橋はトラス構造の台形一つだけで川を渡し切っている。鉄橋には晩御飯のおかずになる小魚を釣る子供たちの一団がいたが、機関車が警笛を鳴らすと橋の上にある待避場にゆっくりと移動した。川の水位は乾期の終わりであったためにかなり低かったが、雨期になれば大増水して、釣りをしている子供も水遊びに興じることだろう。


 鉄橋を渡りきると今まで平行していた国道5号線が線路から離れ始めた。すぐに列車からは一面の水田しか見えなくなってしまう。車窓から首を出すとすでに遠くなったシソポン山の鉄塔が見えた。内戦時代は戦略拠点の一つであったシソポン山も、平和な時代を迎えた現在では通信の拠点となっている。タイから長いことカンボジアを見つめ続けてきたので何とも感無量である。


 水田を抜けた混成列車BS32番は大きく西にカーブしながら、再び国道5号線と交差した。交差後はまた東に大きくカーブし、熱帯雨林に突入する。椰子の木やバナナにパパイヤ、そして食用でない熱帯性植物がいっぱいだ。20年も前にはこんな熱帯雨林の中でも、非公認政府軍(ヘンサムリン政権の軍隊)、ヴィエトナム軍(カンボジア駐留軍)、旧政府軍のゲリラ(ポル・ポト派・シハヌーク派・ソン・サン派の民主カンボジア勢力)、逃げまどう難民たちが右往左往していたことだろう。そして時にはマラリアやデング熱などに感染して命を落としたに違いない。合掌していると混成列車BS32番は熱帯雨林の真っ直中にあるモンゴル・ボーレイ駅に到着した。駅から街は見えない。線路の左右にあるのは多数の古びた倉庫と蒸気機関車用の給水塔だけだ。


 もしモンゴル・ボーレイへ国道5号線からアクセスしたなばら、街に近づくに連れて徐々にコンクリートの建築物が増えていき、最後に道の両脇に広がる大きな青空市場に到着したことだろう。そこが街の中心地だ。大き目の街なのでカンボジア人向けの病院などはあるのだが、残念なことに外国人用の宿泊施設はないので旅行者には気軽に滞在することはできないだろう。しかしどうしてもというならば、ここはシソポンからのバイクタクシー圏内であるので、片道20分かけて通うことはできる。


 鉄道にとってのモンゴル・ボーレイ駅は単に貨物車両の終点であり、貨物の積み降ろしの現場であり、留置線も兼ね備えている。混成列車BS32番はそこで六両の空になった貨物車両を拾ってからバッタムバンへと向かうのがお約束だ。


 ところで混成列車BS31/32番の走行する路線を含むポイペッド〜シソポン〜モンゴル・ボーレイ〜バッタムバン間は、1936年以降に国境を越えてタイ鉄道と連絡していた。その国際連絡線を含むポイペッド〜モンゴル・ボーレイ間のレールを敷いたのは、第二次世界大戦前後に当地に駐留していた旧日本陸軍である。


モンゴル・ボーレイ〜ジョム・カーヂェイ間


 混成列車BS32番はモンゴル・ボーレイ駅を出発すると再び国道5号線が線路と再び出会う。するとすぐに西側の丘の上に巨大な黄金の大仏様を祭った寺院が線路横に出現した。艶めかしいほどに煌びやかな大仏に列車の乗客は目を奪われた。カンボジアの人々は極楽浄土や輪廻転生を思い浮かべているようだった。


 おそらく大仏だけは戦後に再建された物なのだろう。というのも、仏教という観念や精神的な束縛を「唾棄すべき迷信」と言い放ったポル・ポト派がこれほど目立つ大仏に迫撃砲を撃ち放つ誘惑にうち勝つことができた筈がないと思うからだ。


 混成列車BS32番は山の麓に作られた切り通しを抜ける。これもまた旧泰緬連接鉄道で有名なチョンカイの切り取り(切り通し)を思い起こされる風景だ。やはり鉄道建設は直線が基本で回避などは以ての外なのだろう。


 黄金大仏の山を通り過ぎると線路は国道5号線と別れ、手つかずの熱帯雨林にのみ込まれてしまい。あまりに手つかずなので、線路脇の木々の枝や葉が車内にまで入ってくる(鉄道施設にまで「手つかず」なのだ!)。そうでなくても車壁を常になでている。オマケに客車の屋根にまで何かがぶつかっている音がする。ああ、屋根に乗っている無賃乗車のカンボジア人はどうなっているのだろう?


 そんな好奇心から屋根に上ってみた。するとまず第一の障害に襲われた。屋根一面に貼られた鋼鉄の板が強い日差しを受けて、ホスタイルなまでに熱くなっている。生肌では火傷をしてしまう。熱いのを我慢して屋根に座ると第二の障害。何とも揺れの激しいこと……、峠の走り屋御用達の4点ハーネスのシートベルトとバケットシートが欲しくなってしまう。コンパスで円を書けば同じ角度でも支点から距離が離れた方が円周は長くなる。振動の震源地である車輪とレールの接点から客車の座席より、客車の天井の方が離れているので、体感する揺れは大きくなるのだ。昔の理科や算数の授業でそんなことを習ったという記憶がかすかに思い出された。


 理論はともかく、列車の時速はせいぜい20kmだというのに客車上部では縦揺れ横揺れ前後揺れが3Dに乗客を襲うのだ。この環境で屋根に長時間も座り続けて、よく振り落とされないものだと思う。戸惑っていると屋根の上のカンボジアの先輩方が足の掛けやすい場所を譲ってくれた。フラフラしているこちらを見て、彼らも笑っている。それを写真に撮ろうとカメラを用意していると、カンボジアの先輩達は突然に屋根の上に伏せて頭の高さをギリギリまで押さえた。ジェスチャーでも急げと合図している。「何だろう?」と思って前方を見てみるとそこには第三の障害である、樹木の枝の茂みが急速接近中!


 もう伏せる時間はない。カメラだけを守って、上半身ごと地上3Mの高さに現れた茂みにつっこんだ。バキバキバキ……、時速20kmでも痛いものは痛い。ああ、太い枝がなくて良かった。茂みを通過後に回りの皆さんは呆れて笑ってる。恥ずかしいのでタバコを吸って誤魔化していると、列車がジョム・カーヂェイ停車場に停まった。これはチャンスとコソコソと客車内に戻ってしまった。


 売り子のおばさんは客席に戻ってきためちゃくちゃになった髪の毛を見てことの次第を理解いたらしく、首を縦に何度か振って笑った。このおばさんからとりあえず、とコーラを買う。値段は車外と同じで1500リエル。ちなみにミネラル・ウォーター(=トック・ボリソット)は500リエルである。


 ジョム・カーヂェイ停車場は何もない森の切れ目にある草むらにある。近辺には信号などの鉄道施設は一つも見あたらないので、そこで停車するなど予想すらできなかった。しかし乗り降りする乗客の数は意外に多い。また木材などの積み降ろしをする人も多い。ような外国人にはそんな事情がさっぱり分からないので戸惑うことばかりだ。


 ところでカンボジア鉄道の列車の駅や停車場への停車時間は1分程度である。これは遅延が当然となっている列車運行を少しでも早く目的地へ到着させよう、という誠意の表れであるらしい。


 これは物理的に実現不可能な要求に、根性で応えようとする鉄道員の心意気を感じる。しかし現実路線に基づいて、そろそろダイヤを書き直してみてはどうだろうか?


 運行表によればシソポン〜バッタムバンの列車の移動は2時間であるが、実際には3時間半、運が悪ければ4時間、大雨が降れば遅延どころか運休となるのだから……。


ジョム・カーヂェイ〜チュンダー・スワー間


 ジョム・カーヂェイ停車場から先は停車場にちょくちょく停車することになる。ここからは6つの停車場と1つの駅が続くのだ。停車場の中のいくつかはフランス統治時代やシハヌーク統治時代には駅であった。しかし内戦で駅舎が破壊され、また乗客の減少が著しくなったために停車場に格下げさせてしまったという経緯がある。またそれ以外の停車場は強制移住などの愚行が繰り返された内戦の後、沿線の村の位置や物資の流通ルートが変わったことにカンボジア鉄道が対処して新しく作られたものだ。


 ジョム・カーヂェイ停車場の次に列車が停車するプノム・トム停車場は乗客よりも貨物輸送を目的の停車場である。プノムには山、トムには大きい、という意味がある。そこにはプノム・トムを崩して砂利を作る採石場がある。ここの砂利は当然カンボジア鉄道の保守作業にも使用されるが、それ以上に多くの工事現場で必要とされている大切な資源である。


 プノム・トム停車場には分岐機があり、採石所に向けて20M程度の引き込み線が伸びている。そこにはトロッコのような砂利運搬車両が停車されていて、砂利が満載されるとバッタムバン行きの混成列車BS32番がスイッチバックによって、編成の最後尾につなげる。逆にシソポン行きの混成列車BS31番の場合は機関車の前方に砂利運搬車両を連結して、スイッチバックで引き込み線に押し入れることになっている。


 次に停車するプノム・トイ停車場にも当然のように、プノムがある。トイとは小さいという意味があるのだが、そこにある山は決して小さくはない。そこでよく考えてみると、山の上に寺院がある。その寺院の名前がワット・トイなのだ。つまり「小さな寺院のある山」、という意味なのだろう。この山の上にある小さな寺院は長い歴史があり、カンボジアでも老若男女に人気のある寺院の一つだ。客車から乗客を見ていると、ワット・トイに遊びに来たと思われるお洒落なカップルたちが、客車ではなく貨物車両に乗車するのが見えた。


 このワット・トイはUNTAC統治時代に、タイからの文化援助の恩恵を受け、新しいチェディー(仏塔)を立ててもらった。そしてそのチェディーには内戦終結までプノム・トイ停車場横に安置されていた古い仏像が納められている。


 実は内戦終結後のカンボジアの仏法界とタイの仏法界のつながりは内戦前以上に親密になっている。カンボジアで仏教(南方上座仏教)のサンガが崩壊し、宗教的な汚れのない存在である「僧」となれる人間が一人もいなくなっていた。これはポル・ポト時代に僧は全てが強制的に還俗させられるか、粛正されたからである(カンボジアで粛正は死刑を意味する)。そうなってしまうとカンボジアでは独自に南方上座仏教を復活させることができない。汚れない僧でなければ汚れない僧を育てられないからである。そこでタイの二大サンガである「マハー・ニカイ」と「タンマ・ユット」は組織としてへ僧を送り、そしてある時は個人の想いでカンボジアへ赴いた。中には内戦終結直後に危険もかえりみずカンボジア・タイ国教の難民キャンプにいたカンボジア人を連れて、カンボジアの民衆を励まして歩いて回ったタイの僧もいる。地雷原を裸足で歩く僧たちの姿が人災に苦しむカンボジアの民衆をどれだけ勇気づけたことだろうか……・


 混成列車BS32番はただ単調な水の張られていない乾いた田園風景のトゥール・ワムロン停車場とヂュロイ・サダオ停車場を通り過ぎて行った。途中、車内で知り合ったカンボジア人の子供が、車窓から見える牛を指さして「あれはカンボジア語では『ゴーッ』というんだ」と教えてくれた。お返しに日本語では『うし』というんだと教えてあげた。


 そう言えばカンボジアに入国すると、豚や牛の鳴き声がどんなものだったか思い出し、出国後にそれが聞こえないことに違和感を感じる傾向がある。それは、カンボジアではいたるところで、家畜がうろついているのに対して、タイのマンションや日本のアパートの周辺では一頭もお目にかかれないからだろう。


チュンダー・スワー〜バッタムバン間


 混成列車BS32番はやっと昔は駅扱いであったチュンダー・スワー停車場に到着した。だがここでも駅舎は半壊していて、鉄道施設としての機能が失われていた。後で分かるのだが、だいたいカンボジア鉄道で切符を買えるような立派な駅舎が建っている駅は列車の始発着の駅や列車同士の交差ポイントといった、何か大きな役目のある駅だけなのである。


 夕日がかなり落ちかけた頃に、混成列車BS32番はオーターキ駅に到着した。オーターキも大きな街だが、駅からは繁栄ぶりはうかがえない。何故なら駅舎はほとんどが崩れてしまっていたからだ。しかもよく見れば崩れ落ちた壁には風化した弾痕らしきものもある。この付近にUNTAC統治時代にはカンボジア難民の受け入れキャンプがあったなんて、平和になったカンボジアではもう過去の記憶となってしまったかも知れないという考えが吹き飛んでしまった。


 タイ領内の難民キャンプに避難していたカンボジア人の多くがこのオーターキのことを記憶に留めているに違いない。それは彼らがこのオーターキにあった難民センターを経由して自らの故郷へ帰ったからである。


 UNTACが行う総選挙を前にして、国連とタイが強制的に難民をカンボジアへ帰国させることを決定した。それは彼らの持つ1票を選挙の投票で、当時まだ参加が予想されていたポル・ポト派や強くヴィエトナムの影響されているフン・セン派(旧カンボジア人民共和国勢力)の有するだろう議席数を減らしたいという思惑があったに違いない(もちろん、タイにとってカンボジア難民が厄介であったことも真実だ)。そんな行き場のなくなった人々を受け入れたのが「オーターキ難民センター」だったのだ。なお、帰国を拒否した者は難民申請して第三国に受け入れ先を求めるか、脱走してタイの首都バンコクなどを目指すしかなかった。


 もっとも1997年のラナリット第一首相とフン・セン第二首相が張り合った内戦によって、タイのシーサゲット県に再び難民が押し寄せたことはまだまだ記憶には新しい。その時も難民が警官の威嚇射撃におそれず、脱走してどこかに消えていくのを目撃した。カンボジアが普通の発展途上国になるにはまだ遠い遠い道のりがあるのだろう。


 オーターキ駅発車後、車掌のプゥーウ・ソカさんにお願いしてやっと切符を売ってもらった。それはカンボジア文字しか書かれていない硬券で、とても美しい作りだった。念願の切符を手にして感動するこちらを見ながら、無料なものを何もわざわざお金を払うことはないのに……と言うプゥーウ・ソカさん。カンボジア人はまだ鉄道趣味というものに理解できないようだ。しかし面白いのは、鉄道趣味が存在しない国の鉄道でありながら、鉄道員の中でもSLドライバー経験者は自分の職業に誇りを持っている。なお、切符に対応するカンボジア語は「ソムバット」である。


 夕日はほとんど落ちてしまったようだ。地上スレスレのところに見え隠れしている。混成列車BS32番は西に大きなカーブを描きながら警笛を鳴らし続ける。いつの間にか茶色い煉瓦の建物が見えてくる。カーブを抜けると踏切があり、通過直後に突然景色が開けた。分岐機がいくつもあり、幹線、待避線、着発線、留置線などに分かれている。そこが終着駅のバッタムバン駅だった。


バッタムバン駅


 17:30、2本のプラットホームのあるバッタムバン駅に混成列車BS32番は到着した。車窓からも機関車の車庫や、蒸気機関車時代の給水塔が留置線の周辺に何本も見える。バッタムバンはその日も夕日でつつまれていて、見えるものすべてがオレンジ色だった。


 降車後にあたりを見回したが、知った顔がいなかったので、早々にホテルを目指そうと思った。すると、駅のすべての出口の所には無賃乗車の乗客にプレッシャーを与える為にか、切符を回収する駅員が立っている。これはカンボジアでは初めてみる光景だった。万が一にも折角手に入れた切符を回収されたら困るので、無賃乗車の乗客の方々と一緒に線路伝って歩いて、一番近くの踏切からバッタムバンの街へと入った。


 それにしても乗車中にはすいぶんと激しい揺れをに驚いた。シソポン〜バッタムバン間の路線はやはり前評判通りにすごいコンディションだった。客車の揺れは、時々車輪が直線部分でレールにせり上がっていたに違いない。


 この保線状態は、内戦によって列車運行が停止されり、長期間保線業務が放棄されていたせいだろう。雨期の洪水と乾期の植物の浸食で道床は沈下し、レールは土で埋まり、枕木もずれてしまったのだ。レールの素材の鋼鉄すらもくたびれてしまっていて、張りを失っている有様だ。もし新幹線で活躍する電気軌道総合検測車「ドクターイエロー」がこの路線を検測したら、どんなデータを示してくれるのだろうか?


 ここまで痛んでしまっては、路線の補修には相当な予算と時間がかかるだろう。しかしその予算は今のカンボジア鉄道にはない。この凄いムーヴメントがあり、乗っていて絶対に飽きが来ない路線はしばらく現状が維持されるだろう。未来にそれが改善されるのか改悪されるのかは、誰も知らない。

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