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二章 深まる謎

 五月最初の休日、シンシアは修道院にいなかった。

 それは遡ること数日前――。


「アイリス、ごめん。今度の休日は金曜日の夜から出かける」

 講義の後、片付けをしているとシンシアがふと思い出したように告げた。

「別に構わないけど、どうしたの?」

「実は、ルスワール地方の村長と会談出来ることになったの。でも、遠いから早めに出ないといけないんだ。一応、日曜日の夜には帰ってくる予定だけど……」

「危険じゃない?確か、関係が最悪なんでしょ?」

 前に争いが絶えないと言っていた気がする。そこに少女一人だけで行って本当に大丈夫だろうか?

「大丈夫だよ、ドレスじゃなくてスーツを着る予定だし」

「スーツって……そういう問題?」

「それに、相手も簡単には手が出せないと思うよ。ユースティティアの人間は恐れられているからね。だから、今のところ僕が適任なんだよ」

 自分が国務を任されている間に異民族との関係はある程度解消しておきたかった。こういうことは先延ばしにすると大変なことになることはよく知っている。

「それから、会談は何回か重ねる予定。ゆっくり話し合って、解決方法を見つけたいからね」

「なるほどね。分かった、気を付けて行くんだよ」

「うん。ありがとう」

 甘えた声で、シンシアは抱きついてくる。全く、この妹は甘え方が不器用なんだから……と思いながら頭を撫でた。

 金曜日の夜、シンシアは借りた馬に乗って行こうとした。

「シンシア」

 名前を呼ばれ、乗馬したまま顔だけ向くと、アドレイとガザニアが包みを持っていた。

「これ、お弁当。作って持って行ってくれって、殿下が」

「別に、野宿は慣れているから大丈夫なのに……」

 長期間離れるわけでもないし、いざとなれば熊でも狩ればいいだけだ。わざわざ弁当を持っていくまでもない。

「「本当は俺がやるべきことなのにお前に任せっきりで申し訳ない。だが、俺は料理が得意というわけでもないから」とおっしゃっていた」

「……まぁ、分かりました。ありがとうございます、作って下さって」

 アドレイから包みを受け取り、カバンに入れる。アドレイは「そ、その、気を付けてね?」と顔を赤くしながら言った。

「はい、行ってきますね」

 今度こそ、シンシアは修道院から発った。


 正直、心配でならないがシンシアなら何とかするだろう。アイリスは自分がすべきことをする。

 アドレイは温室にいた。今日は水やり当番だったのだ。

「……あれ?」

 こんなところに植木鉢なんてあったかな?

 温室の端に複数の白い植木鉢があった。そこにはいろいろな種類の花や薬草が植えられているようだ。

 珍しいなと思いながら、アドレイは一緒だったガザニアに「これ、水をあげてもいいかな?」と聞いてみる。

「……あぁ、いいと思う。だが、こちらの種類はあまりあげすぎてもいけない」

「なるほど……ありがとう」

 アドレイは水を汲み、その植木鉢にも水をあげる。……見たところ、かなり手入れされているようだ。前に当番だった時はなかったのでその後置かれたものだが、ちゃんと分けられていて世話がしやすい。誰のものだろうか。

「そういえば、今日は先生が講習を開くそうだが、行くか?」

 ガザニアが思い出したように聞いた。アドレイは「うん、行こうかな」と頷いた。

「……お前は、シンシアが好きなのか?」

 突然の質問にアドレイの頭の処理が追いつかなかった。やがてアドレイはシンシアを送り出した時と同じぐらい赤くした。

「い、いきなりどうしたの?」

「何となくだが……シンシアをよく見ているからな」

 アドレイは気付かれていたか……と気恥ずかしさに飲まれながら話し出す。

「実はね、昔、僕達きょうだいを助けてくれた少女に似ているんだ。両親が亡くなった後できょうだい達に食べさせていかないといけなくて……その時は冬だったんだけど、凍えていたらその女の子が助けてくれたんだ。洞穴だったんだけど、食事もくれて、暖も取らせてもらって……春になるまでそうやって世話してくれたんだ。その後、領主様に拾われて養子になったんだ」

「そうだったのだな。確かに、行動がシンシアによく似ている」

 話を聞いているだけでシンシアによく似ている子だと思った。自分を救ってくれた子を彼は忘れられないのだろう。自分と同じように。


 ガザニアは、兵士を前にして自分はここで死んでしまうのだと悟った。

(俺達は――ただ平和に暮らしていただけだ)

 なぜ理不尽に奪われるのか。その時のガザニアには分からなかった。しかし、剣を振り落とされようとした瞬間、金髪の少年が前に出た。

「やめてくれ!彼に罪はない!」

 それが王子ユーカリだったわけだが、そのことを知るわけもなく。ただ、あぁ、こんな状況でも神様は救ってくれるのだと思った。

「殿下、お退きください」

 兵士がユーカリに告げるが、彼は動きもしなかった。やがてしびれを切らした兵士が怒りに任せて斬ろうとすると、

 カンッ!

 二人を庇うように、フードを被った何者かが剣を受け止めた。

「……騎士の国に生まれながら、主君の言うことを聞けぬとは何事だ?」

 声からして、少女であることは分かった。しかも、相当な実力の者。

「ひっ……!」

「貴様は我らが殿下をないがしろにし、他の腐った貴族共の言うことを聞くのか?事実もロクに確認せず、罪なき者を殺すのか?……騎士失格だな」

 話を聞く限り、少女は王国出身なのだろう。彼女は自分よりもガタイのいい男の前でも堂々としていた。

「お、お前に騎士の何が分かる!?」

「貴様こそ、騎士になっていながら何も理解していないのか?騎士というのは、主君や身分の高い者にただ従うだけではない。悪いことを注意し、止めることも必要だ」

「だまれだまれだまれ!」

 兵士はこれ以上聞きたくないと少女に剣を突き立てる。少女は一歩も動かなかった。その剣は少女の肩をかすめ、そこから血が流れる。

「……所詮、この程度の覚悟か。くだらない、アルバート陛下に顔向けも出来ないな」

「な、なんだと!」

「意志が弱い、と言っている。ただ主君に言われたからやっているだけだろう。そうでなければ、貴様らの邪魔をする僕を殺せたハズだ」

「くっ……!」

 言いすくむ兵士に少女はコツ、コツ、と近付く。

「今なら見逃してやる。……とっととどこかに行け」

 その言葉にはじかれたように兵士は逃げていく。その後ろ姿を見届けて、ガザニア達の方を向いた。

「ご無事ですか?お二方」

「……なぜ、助けた?」

 最初に出てきた言葉はそれだった。目元まで深くフードを被った少女は「疑わしきは罰せず、です」と口の端をあげた。

「ユーカリ殿下、お怪我は?」

「あ、あぁ、大丈夫だ……」

 その時、オレンジ色の髪の騎士がやっていた。

「殿下!ご無事ですか!?」

「アダリム!あぁ、その方が……」

 ユーカリがアダリムに告げると、少女が一礼する。そして、「どうか、彼を匿ってあげてほしい」と言った。

「彼、とは……」

「この、フレットの民だ。理不尽に殺されそうになっていたから庇ったんだ」

「そうだったのですか。分かりました、ところであなたは……」

「ただの、旅の者さ。名乗るほどの者ではない」

 少女は笑い、「では、これで」と去っていく。怪我の手当てだけでも、と言おうとしたがその声は届かなかった。

 そうしてガザニアはユーカリと共に王城に向かった。ユーカリはガザニアを従者にしたいと言うと、貴族達がうるさく言ってきたが、ヨハンの一声でガザニアはユーカリの従者になったのだ。


 あれから、もう四年か……と思いながらガザニアはアドレイと共に教室に向かう。思えばユースティティア家の人達には助けられてばかりだ。ヨハンも、ユーカリの従者になるにあたってルドルフ以外に認めてくれた人物で、シンシアも自分によくしてくれる。テレンスも出来る限り力になろうとしてくれているのが分かる。そんな彼らに報いることは出来るのかと思う程に。

 教室に着くと、アイリスがユーカリと共に準備をしているところだった。

「あぁ、二人共来てくれたんだね」

「はい。あの、僕もお手伝いしましょうか?」

「ありがとう、ならそれを持ってきてもらえる?」

 アイリスの指示に、二人は従う。準備が終わった頃には皆、教室に来ていた。

「あー、そういえばシンシアは出かけているんでしたね」

「そういえばって……シンシアは他の人達が行きたがらないからって会談を自ら行ってくれたのよ」

「シンシアがいないのか……ならば、先生に鍛錬をつき合ってもらうか」

「シンシアちゃんはいつも頑張っているものね~。たまにはご褒美をあげたいわ~」

「でも、お菓子じゃ多分喜ばないよね?」

 オキシペタルムクラッスの生徒達がワイワイ言い出すと、教室にローズルージュクラッスの生徒とガヴォットクラッスの生徒も入ってくる。

「おう!先生の講義を受ける機会があるとは思ってなかったぜ!」

「楽しみなのよね」

 椅子と机がいつもより多いのはこのためか……と皆が思う。だが、親睦会としてはいいのかもしれない。

 アイリスは「好きなところに座って」と彼らに伝えた。

「ん?そういやシンシアは?」

 グロリオケが不意に尋ねた。男子制服の少女は目立つ、その子がいないことに違和感を覚えたのだろう。

「あぁ、ちょっと用事でね。月曜日には帰ってくるよ」

 それじゃあ、講習を始めようかとアイリスは黒板に書き始めた。

「ここはどうするべきだと思う?アネモネ」

「ここは…………するべきよね」

「その通り。だからこの作戦が使える。だけど、これが使えない可能性もあるんだ。ユーカリ、それはどういう可能性か分かるかな?」

「それは…………だな。だからこの作戦は得策ではない」

「そうだ。なら、どうしたらいいかな?グロリオケ、答えられる?」

「その場合、…………した方がいいよな」

「そうだね。そしてさらにこうしたらもっと効率よく敵を一掃出来る」

 アイリスの指導は分かりやすい。勉強が苦手な生徒にも配慮しているのだろう、ゆっくり説明をしていく。

「……今日はここまでにしようか」

 楽しい時は過ぎるのが早い。アイリスの言葉に「あっ……」と声を漏らしたのは誰だったか。

「どうしたの?」

 その声を聞き逃さなかったアイリスは首を傾げた。

「……っ!あ、あの!」

 すかさずアネモネが声を出す。キキョウに「アネモネ様、冷静に」と言われているが、それが聞こえているかは分からない。

「その、もう少し……」

 しかし、甘えるということが出来ないアネモネの言葉の続きに気付き、アイリスは少し考える。そして、

「これ、片付けたら昼食にしようと思うけど。一緒に食べる?」

 自分から聞くと、アネモネは顔を明るくした。こういうところはシンシアによく似ているなと思う。やはり、半分とはいえ血の繋がった姉妹だ。

「先生?どうしたの?」

「あ、ううん。何でもないよ」

 ちょっと待っててね、と言ってアイリスは片付けを始める。ユーカリが「手伝おう」と立ち上がって手伝ってくれた。

 片付けが終わり、「じゃあ、食堂に行こうか」と誘うと皆が来た。

「……何?私と先生の時間を邪魔する気?」

「何を言う?先生は俺達の学級の先生だ」

「おっと、ユーカリはいつでも先生と過ごせるだろ?」

 級長達が口喧嘩を始めた。それを止めたのはアイリスだった。

「喧嘩はよくないよ、三人共。せっかくだから一緒に食べようよ」

 もちろん、この一か月でアイリスに興味を持っていた彼らはすぐにやめた。「おー、分かりやすいな」とシルバーはまじまじと見ていた。

 食事をとっている間、皆で楽しく話していた。ここにシンシアがいたらよかったのに、と一人思ったのはアイリスだけの秘密だ。



 シンシアはルスワール地方に来ると住民に迎え入れられた。

「シンシア殿、ようこそいらっしゃいました」

「突然申し訳ございません」

 快く……ではないが、追い返すつもりもないようだ。そのことにひとまず安心する。

 村長の家に入れられ、軽食としてパンとスープが出される。シンシアはそれをよく観察した。

 ――毒、は入っているけどこの程度なら死なない。

 しかし、念には念をと先に自前の解毒薬をカバンからこっそり取り出す。そして、まずはパンから口に含む。……どうやらこちらにも毒がまぜられていたようだ、全て食べ終わる頃に目の前が少しぼやける。だが、思考が奪われる程ではない。誰も見ていない間に、すぐに解毒薬を飲む。こういう時、味がないというのは大変だ。

「それで、私から提案なのですが……」

 とりあえず、話を始めようとシンシアは資料を出す。村長は最初、嫌々受け取ったが、

「……なるほど」

「どうでしょうか?何か問題や訂正してほしいところがあれば、言っていただければ出来る限りそちらの要求を受けようと思っていますが」

「これはどこから出されるのですか?」

「最初は、私の領地から出そうと思っております。そちらもご存知の通り、我が国は貧しい。出せる資源は限られています。なので、双方が納得出来るようなものにしたいと考えております」

 王国の脅威になるものは含めていないが、それでもルスワール地方の人々に有利なものだと思う。一応、出せる分より少なめに見繕っているが、これは交渉の基本だ。

 そもそも、ルスワール地方の人々と仲が悪いのは教団が異民族と関わらないような施策をしているからだ。それでは衰弱している王国は成り立たなくなってしまうだろう。ユーカリもそれは自覚している。だからこそ、シンシアも出来る限り良好な関係にしたいと思っているのだ。

「……分かりました。もう少し、検討させていただけませんか?」

「はい。ただ、私も今は勉学に励んでいる身、休日にしか時間が取れません。いつまた来たらいいか教えていただけたら私もその日に合わせます」

「では、二週間後に」

「分かりました。本日は時間を作っていただき、ありがとうございました」

 シンシアは一礼し、すぐに帰る準備をした。今は土曜日の夜だ、すぐに出ないと約束の時間に帰れない。

 村長に泊っていくよう言われたが、そんな時間がないシンシアはその厚意だけ受け取り、すぐに発った。そもそも、初対面で毒を混ぜる人のところに泊ったら危険だ。

 朝まで馬を走らせて、一度休憩をはさむ。そして、ガザニアとアドレイが作ってくれたという包みを開いた。食べやすいようにとサンドイッチにしてくれたらしい。それに、水筒も入れていてくれたようだ。感謝しながら、それを口に含む。……胸が少し温かい。これで味覚があったらもっとよかったのだろうなと思う。馬がシンシアの頬に擦り寄ってきたので、シンシアは「こら、お前はこっちだよ」と馬用のエサを与える。

「ごめんな、もう少し頑張ってくれよ」

 優しく馬に聞かせると、それが伝わったのか馬は頷いた気がした。

 近くの川で水も飲ませ、再び走り出す。日曜日の夜、修道院の近くまで来たので洞穴で少し仮眠しようとしたその時、事件が起こった――。



 月曜日、シンシアの帰りが遅いことが気になった。少し長引いているだけだろうと思っていたが、講義が始まりそうになったところで心配になってくる。シンシアは「誠実」を体現した少女、講義までには帰ってくるハズだが……。

 講義が始まった直後、走ってくる音が聞こえてきた。バンッと大きな音を立てて入ってきた人物は……。

「シンシア……!?どうしたの、その怪我!?」

 そう、シンシアだ。しかも、かなりの重傷で息が切れている。相当走ったのだろう、足に至っては靴を履いてなく、血が流れていた。

「大丈夫!?何者かが襲撃していない!?被害とか……!」

 アイリスの質問には答えず、シンシアは必死な様子で聞いてきた。アイリスは「だ、大丈夫だよ」と言うと、一応ホッとしたらしい。

「よかった……撒いたかいがあったよ」

「撒いたって……会談で何かあったの?」

「ルスワール地方の方はまあまあだったよ。ただ、帰ってくる時に「奴ら」に襲われてね。修道院が近かったからそこまで行こうかとも思ったんだけど、それだと連れて来てしまうと思ったものだから、戦いながら修道院から離れて撒いたところで走ってここまで戻ってきた」

 「奴ら」というのは恐らくトリストのことだろう。シンシアをここまで苦戦させるとは、やはりただ者ではない。ちなみに、靴はヒールで走りにくかったから脱ぎ捨てたらしい。

「シンシア、今日はもう休んだ方がいい。アンジェリカ先生に言って、すぐに怪我の処置をしてもらうようにするから」

 とにかく、今は部屋に戻した方がいい。そう思って近付こうとした途端、シンシアは座り込んだ。いや、崩れ落ちた、と言った方が正しい。

「あ、あはは……。まいったね、致死量の毒が塗られていたのか……」

 シンシアの呼吸が荒くなっていく。苦しいのを耐えるように床をひっかいている。

「ユーカリ!手伝ってくれ!」

「分かった!」

 ユーカリも近付き、シンシアを背負う。身体が冷たい。相当危険な状態だ。

「シンシア、すぐに部屋に連れて行くから」

 意識も曖昧なのだろう、シンシアから返事はない。ただ、苦しそうにしているだけだ。いっそ、気を失えたら楽だろうに、それもさせてはくれないようだ。

 数分後、アンジェリカがシンシアの容態を診る。

「相当な毒ね、生きているのが奇跡よ。一応、飲み薬も置いておくけど、飲めない可能性もあるから塗り薬も渡しておくわね」

 明日、また来るわ、とアンジェリカはつらそうにしながらも部屋から出る。残されたアイリスとユーカリは顔を見合わせた。

 そもそも、自分達を気遣わなければこんなことにはならなかっただろう。ユーカリや他の生徒はまだ実戦経験が少ないが、それでもある程度は戦える。アイリスに至っては傭兵だ、自分達以上に戦えるハズだ。

 ……いや、分かっている。自分達の手に負えない相手だからこそ、シンシアは一人で引きつけて、修道院に攻めてこないようにした。自分の無力さに腹が立つ。

「……あの、シンシアは……?」

 どうやら心配になったらしい、学級の者達がシンシアの部屋に押し掛けた。

「あぁ、今は落ち着いてる」

「その、くらった毒って……?」

「かなりの猛毒で、生きているのが奇跡なほどらしい」

 全身に包帯が巻かれている。アイリスとユーカリは見ていないが、アンジェリカはシンシアの身体を見た途端、かなり驚いていた。相当酷い怪我やその痕が残っているのだろう。

「……あい、りす……?」

 声が聞こえ、アイリスは「どうしたの?」と優しく尋ねる。シンシアは手を彷徨わせて「み、ず……」と呟く。

「あぁ、水だね」

 ユーカリが起き上がらせている間にアイリスは水差しからコップに水を注ぐ。コップを渡されたシンシアはそれを飲むが、今だに辛そうだ。丸くなったその背を優しく撫でる。

 ……随分小さいな。

 一緒に戦っている時は大きく見えるのに。本当にただの少女なのだと思った。

 シンシアはアイリスの顔を見て、手を伸ばす。

「……大丈夫、心配しないで」

 あぁ、この子は自分のことより他人を心配するのだから。

 安心させるように笑う少女の顔は真っ青だ。あんなに血を流した上に毒が回っているのだから当然だ。――自分は今、どんな顔をしているのだろう?

「……先輩、棚」

「え?」

「一番上の棚の、右から三番目のビンと五番目のビンを取ってくれる?」

 言われた通り、棚を開けるとたくさんのビンが置いてあった。その中には薬草が入っていて、指示通りにそれを取る。

「これ?」

「そう。……それ、混ぜてお茶として飲んだら解毒薬のかわりにもなるし、リラックス効果もあるよ」

「……!ぶ、分量は?」

「一対一の比率で混ぜたら……スプーンも棚に置いていると思うけど」

 探してみるが、なかなか見つからない。焦っていると後ろから「ほら、ここ」と手が伸びてきた。「シンシア!」と他の人達が名前を呼んでいる。それでこの手の主が誰か分かった。

「シンシア、休まないと駄目だよ!」

「探すのに苦労しているみたいだったから。それに、先輩酷い顔をしているよ」

「だからって……」

 他の人には分からないが、アイリスはすごく辛そうな表情をしていた。こんな顔を見たいために、守ろうと思ったわけじゃない。

 急に抱きついてきて、シンシアは耐えられずしりもちをついた。それでもなおぎゅうぎゅうと抱きついてくる。それが傷口に響いて「痛い痛い」と言うが、アイリスは「たまには私の気持ちにもなってみたらいいんだ」とシンシアにとってよく分からないことを言ってきた。

「君はいつも、他の人ばかり優先して……私が、私達がどんな気持ちで怪我してくる君を見ているか……!」

 アイリスは言葉が達者ではないが、何が言いたいのかは分かった。

「……はぁ」

「なんでため息をつくの?」

 ジトッと睨むアイリスの頭をシンシアは撫でる。

「勘違いしているみたいだから言うけど、私は決して皆を見くびっているわけじゃない。ただ、実戦経験がないのにいきなり強い敵と戦えって言われても簡単には出来ない。……きっと皆、経験を積んでいけば私と肩を並べるぐらいか、それ以上に強くなれる。それまでは誰かが「防衛線」になっていないといけない。その役目が私だったってだけだよ」

「……でも」

「私も、さすがに今回の件で懲りたからね。今度からは護衛をつけてもらうようにするよ。だから安心して、あなたは他の人達を守ってあげて」

 「防衛線」……そうだ、シンシアは他人より圧倒的に実戦経験と大人顔負けの知識があるゆえに常に前線に立っていないといけない、今の王国にとってまさに「要」だった。

「それから……ごめん。私が安直だった。少し考えればこうなる可能性も十分に考えられたのに……」

 違う。シンシアは当然の判断をしたまでだ。修道院内でユースティティア家の嫡子であるシンシアが倒れたら、トリストは攻めて来てしまう。次の指導者達だけでなく、アヤメも身の危険がそこまで迫るところだったのだ。時間稼ぎのためには、シンシアの行動が正しかった。

「少しは落ち着いた?」

 なだめるように言われ、これではどちらが年上なんだか、と心の中で笑ってしまう。

「僕のこと、嫌いになった?」

 冗談交じりに尋ねてきた少女にアイリスは首を横に振った。シンシアは「よかった」と僅かに笑った気がした。

「ティーポットはそこにあるよ。何ならお湯ぐらい炎魔法で沸かすけど……」

「あ、それならあたしに任せてよ!」

「俺も手伝おう」

 アイリスから離れたシンシアは少しふらつく足で取ろうとするが、先にガザニアに取られてしまう。ビンもサライが受け取った。アドレイがシンシアの傍に来て、支えながらベッドに座らせる。

「ほら、座ってて。何か食べたいものとかある?」

「食べたいもの……特には……あ」

 いつものようにない、と続くのではないかと思っていたが、予想外の反応に「何?何でも言って」と目を輝かせた。

「あ、いえ……今じゃなくても……自分で作ればいいですし……」

「たまには甘える立場になってみろって」

「シルバー、あなたは料理作れないでしょ?」

 シルバーの脇腹をメーチェが肘で突く。そしてシンシアを見て、

「シンシア、言っていいのよ?たまには食べたいものを食べた方がいいわ」

「え、えっと……」

 無意識とはいえ、なんであんな反応してしまったのだろうと思ったが、後の祭りだ。シンシアは近くにあった本で口元を隠し、

「その……シチューが食べたいなって……思って……」

 耳まで真っ赤にしながら、だんだん小さくなっていく声で伝えた。その後すぐに「あぁあああいややっぱりいいです!自分で今度作ります!」とあたふたし始めた。

「大丈夫!作れるから!」

「全員分を作ってくれるか?」

「任せてください、殿下!」

 張り切ってしまったアドレイにシンシアはそういえば彼は料理が好きだったのだと思い出した。あぁなってしまっては止めることも出来ない。

「その……すみません……」

「気にしないで、僕がやりたいだけだから」

 じゃ、行ってくるとアドレイは駆け足で食堂に行ってしまった。

「おー、まるで恋人だな」

 シルバーがからかうとシンシアが「……今ここで塵にしてさしあげましょうか?」と強力な炎魔法をためる。しかしその前にユーカリが彼の頭を掴んだ。

「シルバー、俺が幼い頃に鎧を素手で壊したことは覚えているよな?」

「もちろんですよ、あの時から殿下はかいり――痛い痛い!すみませんでした!」

「余計なことを言うからだ、この色情魔」

「シンシア、シルバーの言うことは気にしないでね」

 本当にこの幼馴染組は仲がいいな~、と思う。いつの間にか、お湯を沸かしていたサライがガッシャーン!と何かを割って「あー!ごめんなさーい!」と泣きそうな目をして謝った。

「いえ、いいですよ。それ、そこまで高くないからまた買えばいいですし」

「うー……でもぉ……」

「サライ、危険よ~。ここは私が掃除するわ~」

 アンナが掃除を始めたので「あ、私もてつだ」と言いかけたところで「ダメだ!」と全員から止められた。「えー……」とシンシアは不満そうな顔をする。そして頬を膨らませて「一応、ここの部屋の主なのに……」とむくれた。

(か、可愛い……!)

 ここにアドレイがいなくてよかったと心の底から思った。こんな顔を見たら、彼女に恋心を抱いているアドレイは気を失ってしまうかもしれない。

 と、その時「出来ましたよ~」とアドレイが顔を出した。なんとまあタイミングがよろしいことで、と思った。

 アドレイは固まっている。あまりに動かないのでガザニアが確認すると「……気絶している」と端的に告げた。

「え、なぜ急に……!?わ、私はソファに座りますから、ベッドに寝かせて……!」

「いや、大丈夫だ。すぐに目覚めるだろうし、女性の、しかも病人のベッドを使うわけにもいかないだろう。安心しろ、ソファに寝かせる」

 慌てたシンシアが立ち上がろうとするが、ガザニアがそれを止めてアドレイをソファに寝かせる。

 数分後、アドレイが目を覚ました。シンシアと目が合うと、彼は顔を赤くしてしまう。

「……それにしても。この部屋は少し特殊なんだな」

 ユーカリが部屋を見て、そう漏らした。シンシアは「あぁ、どうやらここはユースティティア家専用の部屋らしくて……」と答えた。

「どういう意味だ?」

「ここはユースティティア家の嫡子が使う部屋だと大司教に言われて……母もかつてここを使ったらしいんです」

「エステル嬢もか?」

「はい。そこに飾っている旗も、かつてユースティティア家がグリュックリッヒ公国の王だった頃のものらしいですね」

 暖炉の上には、青い生地に薔薇と月が刺繍されていた。どちらも所以のあるものだ。

「そういえば、君のミドルネームが「ブルーローズ」だよね?何か関係あるの?」

「あぁ、初代大公爵……公王のミドルネームが「ブルーローズ」で、そこから誕生花がミドルネームに使われるようになったんです。月は初代大公爵がアスルルーナ……「蒼い月」という名前だから旗に描かれるようになったみたいです」

「そうなんだ……初代の人と同じミドルネームってすごいね」

 そこでん?とアドレイは気付く。

「えっと……公、王……?」

「あぁ、王国が出来る前は公国があって、ユースティティア家はその時の王だったんですよ。アストライア家……今でいう王家に手を貸して、一緒に王国を建国し、公国は王国と合併することになったのでユースティティア家は「大公爵」という立場におさまったんです」

「え、じゃあ、本当なら、姫殿下……?」

「え?……まぁ、そう言うことになりますね。その時の習わしが残っていて、本当なら士官学校に入学する時は従者も一緒に、って決まりもあるみたいですし」

「でも、君、従者なんていないよね?」

「私の場合、戻って急に決まりましたからね。自分の身も自分で守れるからって、特別に許可してもらったんです」

 それでいいのか貴族令嬢様。そう思ったが、あえて言わなかった。

 その時、ドタドタガシャン!と大きな音が近付いてきた。

「おいコラ、エイブラム!あまり音を出すな!」

「そんな無茶な!団長!」

「……アルフレッド?それにエイブラム殿も。どうされたんですか?」

 少し引きつった笑顔でシンシアは出迎える。アルフレッドは冷や汗をかいた。

「……とりあえず、そこに座って下さるかしら?」

「……はい……」

 腕を組んだシンシアにアルフレッドは素直に従った。エイブラムも彼が素直なことを疑問に思いながら座った。シンシアは一度息を吐き、

「あんたらは一体何を考えているんだ!こんなに騒いで!今日の体調不良者は私だけだったからよかったものの!もし他の人が体調不良で休んでいたらどうするつもりだったんだ!治るものも治らなくなるだろ!」

 なんと、説教を始めたのだ。アイリスは「あー……始まっちゃったか……」とため息をついた。

「……シンシアは、傭兵時代もあんな風に?」

「うん。あれでも結構控えている方だよ……本気で怒ると、あの子怖いから……アルフレッドですら怖がるぐらいだから……」

 あれで控えている……本気で怒ったら斬りかかられるかもしれない。あまり怒らせないようにしようと心に誓う。

 「……ははっ」とアルフレッドがかすかに笑ったのを見逃さなかったシンシアは「なんで笑う?アルフレッド」と睨んだ。

「いや、お前がエステル嬢によく似ていると思ってな」

「お母様に?」

 どういうことかとなおも睨みつけていると、再び走ってくる音が聞こえてきた。今度は誰だと見ると、

「シンシア!大丈夫か!?」

「おじい様!?テレンス叔父様もなんでここに!?」

 そう、ヨハンとテレンスだ。予想外の来客に皆して驚いていた。

「え、あの方達がシンシアのおじいさんと叔父さんなんですか?」

「あぁ、そうだ。アドレイとサライとアンナはご覧になられたことがなかったよな」

「どうして二人共来られたんですか?」

 思わぬ出来事に説教はそっちのけになる。ヨハンは「お前が大怪我をしたと聞いてな」と答えた。そしてアイリスを見て、

「おや?そちらのお嬢さんはもしや、アルフレッドのご息女か?」

「……はい、そうです。ヨハン様。アイリス、挨拶しろ」

「え、あ、うん。お初にお目にかかります。私はアイリス=カサブランカと申します。元傭兵ですが、今はオキシペタルムクラッスの担任をしております」

 アルフレッドに言われ、アイリスは疑問符を浮かべながらもヨハンに挨拶をする。普段なら依頼主にも挨拶しろと言わないあの父が、なぜ彼の前ではそう言ったのかが分からなかった。

「アルフレッド、こんな美しいご息女が生まれたのならこちらに顔を出したらよかったろうに」

「あの時はそんな余裕がなかったのですよ、ヨハン様。妻も亡くなったもので……」

「あの、失礼ながら、お二人はどのようなご関係で……?」

 さすがに会話が気になり始めたユーカリが尋ねると、ヨハンは「あぁ、殿下。そういえば言っていなかったな」と思い出したようで、

「彼は私の元従者だ。私を守って大怪我したところをアヤメ大司教に救われてな、修道院に仕えることになって側を離れたんだが。まさか数年で「アリシャ騎士団最強の団長」などと呼ばれるようになるとは思っていなかった」

「へぇ……は?」

「「「「「「「「「「「はぁああああああああ!?」」」」」」」」」」」

 今日一の叫びが修道院中に響き渡った。

「え?アルフレッドが、従者?おじい様の?」

「あぁ。長年仕えてくれたんだ。カサブランカ家は由緒正しき騎士の家系でね。側仕えの騎士として代々我らがユースティティア家に仕えてくれているんだ」

「わたしの従者もカサブランカ家の者ですからね。姉上はアルフレッド殿のいとこの娘を従者にしていて……もしアルフレッドが父上に仕えたままで、子供が生まれたら姉上の子供の従者として仕えさせようと思っていたらしいんです」

「……と、いうわけだ。だから俺はエステル嬢の幼い頃を知っている。テレンス令息も赤子の頃だったら知っているな」

「…………つまり、アイリスが、従者になっていたかもしれなかった……ってこと?」

 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだろう。シンシアはただ一言、

「……運命って、不思議なものなんだね……」

 と言った。まさか主君と従者になるハズだった者達が、平民として出会い、こうして教師と生徒になっている。なんたる運命だろうか。

 ……でも確かに、こんなに仲がいいのなら本当に主従関係になってもいいような気がする。

 ユーカリはそう思ったが、心の中が少し曇った。それはアドレイも同じだった。しかし二人にまだその気がないようなので抑え込んだ。

「シンシア、身体を大事にしなさい。お前がなんと言っても、今は貴族令嬢なんだから」

「はーい」

「やる気のない返事だな……まぁいい。お前が無事でよかった」

 ヨハンは「アルフレッドのご息女の顔も見られたし、戻ろうか」とテレンスに言うと、彼は「自由ですね、父上……」と呆れながら帰っていった。

「……相変わらず嵐のような方だな……」

「……あんな性格でも、仕事は出来る人だから文句を言えなくて……」

 アルフレッドとシンシアが僅かに顔を赤くする。性格をよく知っているからだろう。

「……とりあえず、シチューを食べたい……」

 もはや現実逃避を始めるシンシアに「あ、それじゃあ持ってくるよ」とアドレイが走っていった。

「それじゃあ、俺達も退散しようかね」

「では、また今度!」

 アルフレッドとエイブラムも去っていき、その場に残ったのは静かになった学級の生徒と担任だけ。

 アドレイがシチューを持って戻ってくると、皆で話し出す。

「……まさか、アルフレッド殿がヨハン殿の元従者だったとはな……」

「私も初めて聞きました……」

「でも、それって先生があたし達の同級生になっていたかもしれなかったってことですよね!?ちょっとそんな未来、見てみたかったかも」

「そうね~。先生の制服姿、見てみたいかも~」

「あ、制服ならありますよ」

 シンシアはクローゼットから一着の女子制服を取り出した。

「なんであるの?」

「えっと……ディアー殿に「男子制服でもいいが、女子制服も持っておきなさい」と言われて……」

 そういうことか。こうるさく言われ、シンシアも折れたのだろう。今はいいと言うとシンシアは片付けた。

「そういえば、シンシアの誕生日っていつなの?」

 アイリスが尋ねると、皆が驚いた顔をした。

「え、先生も知らないのか?」

「知らないのかって……?」

「いやぁ、シンシア、全然教えてくれないんですよ~」

「……あー、いや……」

 シンシアは困ったような顔をしていた。それに気付いたアドレイが「何か、言いたくない理由でもあるの?」と聞いた。

「あ、言いたくないならいいんだけど」

「ううん。大丈夫ですよ。ただ、誕生日ってあまり好きじゃないどころか大嫌い寄りの大嫌いで……」

「それはもう同じ意味なんじゃ……」

 だが、そこまで言わせる何かがあるということでもある。下を向いていたシンシアは意を決して話し出した。

「私の誕生日は……母の命日でもあるんです。だから、どうしても思い出したくなくて……」

「……!それは、配慮のないことを聞いてしまったな」

「いえ、善意で聞いてくださったのでしょう。でも、私なんかにそういった気遣いは不要ですよ」

 あの日を思い出す。目の前で首を斬り落とされた母。燃え盛る村。悲鳴をあげながら殺されていく村人達――あの日の光景はまさに「凄惨」以外の何物でもなかった。

 あの時、シンシアに残されていたのは母の短剣と手記、そして指輪だけだった。それ以外は、全て燃えてしまった。

 少女は村に攻めてきた帝国軍を一掃した後、靴も履かず必死になって逃げた。足がボロボロになるまで走り続けた。息を切らして木に寄り掛かり、近くに川があることに気付き、そこで血を洗い流した。透明な水が、冷たい身体が、ボロボロで痛む怪我が、傍に誰もいないのだと、誰も助けてはくれないのだと絶望に叩きつけた。

 ――その日から、誕生日はシンシアにとって「一年の内でもっとも寒く孤独に震える日」だった。それならば、そもそも「誕生日」などなかったことにしてしまえばいいと普通の日として過ごすようになった。

「…………あの、それなら、ヒントだけでも教えてくれる?」

「ヒント?」

 アドレイの突然の言葉にキョトンとする。彼は「思い出したくないなら、無理に言わなくていい。でも、僕はやっぱり祝いたいよ」とシンシアの目を見つめた。それは本気で言っている瞳だった。

「だったら、僕達が君の誕生日を当てたらいいんじゃないかって思って」

「それはいい案だな。まぁ、後はシンシア次第だが」

「うん、そうだね」

 ユーカリとアイリスも乗ってきた。シンシアは考え、

「……ブルーローズ」

「え?」

「さっきも言った通り、ユースティティアの人間はミドルネームを誕生花から取ります。だから、私の場合は「青いバラ」が誕生日なんです。ちなみに雪が降る時期ですが、十二月ではないです。ここまでヒントを出したら、後は調べたらいいと思いますけど」

「なるほど……分かった、調べてみるね」

「花関係の本は書庫に入って左側の棚の、右から三番目の棚の下側にありますよ」

 なんでそこまで詳しく言えるのか、と思ったがこの少女の記憶力が常人越えしているだけだろう。いつものことだ。

「あ、もしかして男装しているのって、そういった、その……お母さんが死んでしまったことと関係あるの……?」

 それは地雷だぞアドレイ、とシルバーは思ったがシンシアはただ微笑んで頷く。

「そうですね。……私が男だったら助けられたのかな、とか、もっと力があったらよかったのに、って思っちゃって……正直、女の身体付きになっていく自分ですら憎いぐらい」

「シンシア……」

「分かっているんです。どんなに誤魔化しても、どうしようもないっていうのは。でも、今の私にとっては……「男」でいることが自分の心を守る唯一の鎧なんです」

 そこまで深い理由があったとは思っていなかった。誰も守ってくれず、手を差し伸べてくれず、変えようのない自分の身体にすら憎しみを抱いているなんて。それを与えてくれたのが、我らが担任だったのだろう。

 少女の瞳は僅かに虚ろになっていた。思い出して、沈んでしまったのだろう。

「そういえば、シチューって君の好物なの?」

 慌てて別の話題を振ると、意図を読み取ったのか何も言わずシンシアは笑った。

「はい。昔、母がよく作ってくれて。何でも、普段はあまり食べないのにシチューだけはよく食べたらしく、それでいつも作ってくれるようになったみたいなんです」

「そうなんだね……」

 その言葉にハッとアドレイは気付く。

「なら、シチューを毎日作ればちゃんと食べる……?」

「アドレイさん?何を考えているんですか?」

「ちょっと待って。明日の料理を考えてるから」

 あー、真面目モードに突入してしまったな……とシチューを食べながら彼を見ていた。味は相変わらず分からなかったが、いつの間にか皿に入っていた分を食べきっていた。

「あの……」

 おかわりでももらおうかと思ったが、慌てて口を塞ぐ。いけない、皆も食べるのだから自分だけが。しかし、

「ん?どうした?おかわりならしてもいいと思うぞ?」

 シルバーが勝手についでしまった。まぁいいかとシンシアは食べる。

「……本当によく食うな……」

 フィルディアが呟く。シンシアが一杯食べきるだけでも珍しいのに、今回はもう三杯目に突入している。

「え、あ、ごめんなさい。つい……」

「いや、いいんだ。気にせず食べるといい」

 普段ほとんど食べないから今のうちに食べさせておこう、というユーカリの魂胆にシンシアが気付いたか否か。

 それにしても、幸せそうに食べるな~、なんて思う。普段は表情をほとんど変えずに食べるのに。それほどに好物なのだろう。

「どうしました?そんなニコニコして」

 顔を覗き込むシンシアは眩しかった。恐らく今、ものすごく真っ赤になっているだろうと思う。アドレイなんか、意識が飛びかけていた。

「いや、本当に幸せそうに食べるなって思って。おいしいの?」

 アイリスが尋ねる。あぁ、嬉しそうに笑っているなと思いながらシンシアは答えた。

「おいしい、かは分からないけど……でも、お母様が作ってくれたものと同じ感じがする。なんて言うか……安心する」

「そう。安心出来るならよかった。そういえば、聞きたいことがあるんだけど」

 シンシアは紅茶を飲みながら「ん?何?」と耳を立てる。

「「ハニトラ」って何?」

「ぶっ……!?」

 何とか吹き出さずにすんだが、気管に入ったのか咳込むシンシアにアイリスは「大丈夫?」と背中を撫でた。

「えーと……どこで聞いてきたのかな?その言葉」

 すっごく引きつっている。一応、知識として知っているがあまりよくないものなのだろう。アイリスは「傭兵仲間から」と答えるとシンシアは「はぁあ……」と大きなため息をついた。

「なんか、私に向いているとかなんとか……」

「アルフレッドが聞いたら殺されそうだ……」

「聞いてたよ、隣で」

「あ、死んだな、そいつ」

 心の中で顔も知らぬその人に敬礼しておく。あの世で元気に過ごせよ……とは口が裂けても言えない。

 アイリスはというと、「教えて教えて」と幼い子供のように目を輝かせてシンシアを見ていた。なぜかしっぽが見える気がするが気のせいだろう。

「えっと……私も本で読んだだけだからよくは分からないけど……どうやら頑固な男性に女性を送り込んで情報を得る方法……らしい」

「そうなの?それって私でもでき――」

「私が目を光らせている間は絶対にやらせません。シンシアちゃんそんなこと絶対に許しません」

 そんなことやらせたらアルフレッドにも殺される。結構本気で。そうじゃなくても絶対にやらせはしないが。シルバーも「その方がいいぜ~……」と言ってきたので女性が危険な目に遭う可能性があるのだろう。

「まぁ、とりあえずシンシアはもう休もう。夕食はどうする?」

「気にしないで。あんなに食べたんだし」

「またシチュー作ろうか?」

 アドレイが魅力的な提案をしてくる。少女はかなり考えたようだが、

「……………………お願いします……」

 好物の前にはさすがの軍師様も逆らえなかったようだ。ニコリとアドレイは笑う。

 夕食はアドレイとガザニアが作ったシチューを食べ、紅茶を飲む。久しぶりにゆったりした気がするが。

「どうしよう……太らないかな……?」

「シンシア、君はむしろ太った方がいい。元々が痩せすぎ」

 シンシアはかなり軽い。本当に年頃の少女かと思う程にやせ細っているのだ。まぁ、出会った当初に比べたらまだマシにはなったが。

「でも、今の体重が動きやすいんだよね……」

「君の動きはすごいからね。よくあんな大胆かつ繊細に動けるよね……さすがにあれは出来ない……」

「義賊時代に培ったものです。一人でやっていかなければいけなかったので」

 時計を見ると、既に夜六時過ぎ。講義のことなどすっかり忘れていた。

「……まぁ、今日ぐらいは構わないさ。シンシアのことも知ることが出来たしな」

 ユーカリが笑ったのでそれならいいやと開き直ることにした。「紅茶、たくさんもらってしまってすまなかった」と謝られるとシンシアは「いえ、別に……一応、安物ですし」と答えた。実際、そこまで高いものは買っていない。

「そうなのか?結構いい香りだったんだけどな」

「気に入ったのなら、商人を紹介しましょうか?ここまで来ているので」

「いいのか?いやぁ、助かるなぁ」

「……女遊びはほどほどにしてくださいね、シルバーさん」

 シンシアは主に紅茶やコーヒー、子供達用のお菓子を買いに行く時に使わせてもらっている。いわゆる行きつけの店の一つだ。かなりの穴場で、時には珍しいお菓子や茶葉も売っているのでそれを買って行ってやると子供達も喜んでくれるのだ。

 その店をシルバーに教え、他の人達が食器類を回収して帰る。残ったのはアイリスだけ。

「なんであなたはここにいるの?」

「君の監視。誰かが見ていないと、絶対に仕事をするでしょ?」

 図星だ。本当にこの姉貴は自分の性格をよく知っている。……そりゃあ、「繰り返して」いて何年も一緒なのだから当然なのかもしれないが。

「今日はもう休んだ方がいいよ。明日の講義も無理して出なくていいからね」

「……でも」

「でも、はなし。君は少しぐらい甘えなさい」

 シンシアは納得していない表情をしていたが、お構いなしだ。……特にシンシアは、自分に対しては妥協を許さない子なのだから。だからこうして無理やりにでも休ませた方がいいのだ。

「あ、そういえば湯浴びはいつ行っているの?」

「結構遅い時間だよ。十一時とか十二時とか。鍛錬した後で人がいないから、割と穴場なんだよね」

 道理で見ないわけだ。ほとんどの人は九時までに入っているのだから。

「今日は一緒に入る?」

「え、でも、その……身体とか、見せられたものじゃないし……」

 その言葉で察する。

 傷だらけなんだな。

 手袋をしているのも、その理由だろう。

「なら、九時三十分に入ろうか。その時間なら誰もいないと思うし」

「……まぁ、アイリスだけなら」

 そう約束して、時間まで雑談する。

 時間になり、浴室に行くと確かに誰もいなかった。アイリスが躊躇いなく脱いでいくのに対し、シンシアはやはり渋っていた。

「シンシア、大丈夫。私しかいないから」

 その言葉にようやく決意したのか、シンシアは服を脱いだ。

 予想よりも酷い傷にアイリスも驚く。これは躊躇うのも無理はないし、アンジェリカも驚くだろう。

「丁度よかったね。今日は薬湯の日なんだ。ゆっくり浸かろう」

「うん」

 汗を流し、湯船に浸かる。そして他愛のない会話をしていた。

「これって、効果あるのかなぁ?」

「分からないけど、癒されるよね」

 アイリスはシンシアの首元を見る。そこには「ジェニー」の刻印。

「……君は本当に、皇族でもあるんだね」

「ん……そうだね。これのせいで、随分避けられるようになった」

 王国と帝国の仲は、お世辞にもいいとは言えない。二国の血を引いたシンシアはさぞや肩身の狭い思いをしているだろう。しかし、それでも諦めない心を持っているこの子はすごいと思う。

「そういえば、教師生活には慣れた?」

「うーん……やっぱり、何度やっても慣れないね……」

「そうかもね。あなた、他人とはほとんど関わらなかったし。いきなり貴族の子供達相手に教えろなんて、無理難題もいいところだよ。……多分、アルフレッドも言っていると思うけど、慣れるのは構わない。でも、気は抜かないでね。大司教が何を企んでいるかは僕の方でも調べてみるつもりだけど……」

「うん、ありがとう。……それじゃあ、そろそろあがろうか」

 アヤメが何を企んでいるのか……。確かに、結局何も分かっていない。一つ分かったことといえば、女神の再臨を望んでいることだけ。

 着替え、寮まで戻る。そして、当然のようにシンシアの部屋に入った。

「……なんで僕の部屋に?」

「寝かしつけるために」

「つまり抱き枕か……」

 うなだれると、アイリスは「そう落ち込むな」と言ってきた。誰でもいいからツッコんでほしい。

 まぁいいや……ともはや諦めの境地に至ったシンシアはそのままベッドに転がる。アイリスはその隣に入って、シンシアに抱きつく。

「あー……久しぶりの抱き枕……」

「それ、他の人の前でやったらただの変人だからね?」

 呆れながら抱き返すシンシアに安心したのか、数分もすると寝息が立ち始めた。

(……寝た、か……)

 優しく頭を撫でながら、シンシアは姉の寝顔を見る。他の人達は気付いていないようだが、目の下にクマが出来ているのだ。

 ――まぁ、当たり前か……。

 何度も父の死を見て、教え子を手にかけるのだ、その苦痛は計り知れない。一度だけ、「ヴァイオレット」も兄を庇って死んだのだ。あとから聞いた話だとそれによってユーカリは改心し、ルドルフは死なずにすんだのだが、そこからアイリスの精神が病んだらしい。幸い、繰り返していることを知っているのでユーカリのように酷くはなかったらしいが……。それ以降はかなり怖がるようになってしまった。

(そんな中で「皆のために死ぬ」なんて言って……酷いよな……僕も……)

 だが、これしか思いつかない。今も考えているが、失敗に終わるどころか最悪の事態に陥る可能性が高い。というより、絶対になるだろう。

 ――まぁ、アリシャは本気で殺したいけど。

 アヤメのせいでこうなっているのだから、その罪は贖うべきだ。彼女のエゴが、遠い未来に大戦争をもたらすのだ。

(……それを修正するのは、「女神」の役目……)

 かつてアモールとユスティシーがやったように、自分達もやるだけ。それまでは皆を、彼女を守り続ける。

 アイリスの寝顔を見ながら、シンシアも目を閉じた。



 シンシアの体調も無事に回復し、いつも通りの日常に戻る。宣言通り、二週間後の会談はしっかり護衛をつけたおかげか、重大なことにはならなかった。

 そうして盗賊退治の日。実戦経験のあるアイリスとシンシアが中心となって戦っていくことになった。

 しかし、「そんなのはまどろっこしい」とフィルディアが単独行動を始めてしまった。

「フィルディア!」

 盗賊の斧がフィルディアに振り落とされそうになる。しまった、と死を覚悟するが、

 カンッ!

 目の前に、菫色が広がった。それが髪であることに気付くのに少しかかった。

「……っ、はぁあ!」

 シンシアが持っていた剣で盗賊を飛ばした。それで庇われたのだと分かった。

「シンシア、そっちをお願い!」

「分かりました!」

 行きますよ、フィルディアさん、とシンシアが呼ぶ。周囲には既に盗賊が囲んでいた。

「十……いや、二十人か……」

「勝てるのか?」

 フィルディアは冷や汗を流しながらシンシアに尋ねる。実戦経験のない彼にとってはまさに多勢に無勢状態だ。しかし、

「――誰に聞いているのですか?」

 ニヤリ、と少女は悪人の笑みを浮かべた。それと同時に盗賊達が襲い掛かってくる。しかし、さすが元義賊。たった一人で一掃してしまった。

「……それで?私に喧嘩を売るなんて、随分な度胸だね?」

 残った盗賊達に笑顔を向ける。盗賊達は顔を青くしていて死神が来た、と思っただろう。腰を抜かしながら逃げようとするが、後ろからアイリスに斬られる。

「ありがとう、引きつけていてくれて」

「お安い御用ですよ、先輩」

 剣を構えなおし、シンシアとアイリスは盗賊の頭を見た。

「さて……では、一応お尋ねいたしましょうか?」

 シンシアはしりもちをついた盗賊の頭すれすれに剣を突き刺す。「ひっ!」と怯えたような声を出すが、彼女にそれは無意味だった。

「なぜ、我らが殿下の命を狙った?誰の指示だ?」

「て、てめぇに教えるわけ……!」

「質問にだけ答えろ!」

 ドコッ!と足で脅しをかける。

「わ、分かった!話す!話すから!」

「事実だけを話せよ?」

 すごく黒い笑みだ。あれは……どんなに強固な騎士でも恐れて腰を抜かすか裸足で逃げ出すだろう。

「ま、魔導士に命令されたんだ!あの外套のガキ共を殺せって!」

「……魔導士?男か?女か?」

「わ、分からねぇが……!」

 ……何となく分かった気がする。いや、薄々感づいていたけれど。

 これはもっと聞き出すべきだと判断したシンシアは騎士団に聞く。

「……アリシャ騎士団の方々」

「はい、どうされました?シンシア様」

「こいつ、私の方で捕らえても構わないでしょうか?もう少し聞きたいことがあるので」

「その後の処罰は……」

「私の方でやっておきます。大司教にもそう言っていただけると助かるのですが」

「承知いたしました。ですが、アヤメ様が言われた時は……」

「分かっています。すぐに処断いたします」

 許可も得たので捕らえ、青薔薇神栄騎士団に引き渡した。

「シンシア様、こいつはどうしたら……?」

「地下牢に繋いでおけ。近い内に私自ら出向いて尋問する。その時までは死なせるなよ」

「はっ」

「後の盗賊共は?」

「放っておけ。深追いするほど、こちらも戦力がない。頭が捕まった以上、何も出来ないだろうしな。何かあった時は、私が責任を持って対応させてもらうから安心してくれ」

 ここが引き際だとシンシアが指示を出していく。傭兵時代は軍師をやっていたと言っていたので、やはり慣れているのだろう。アリシャ騎士団の人達も「シンシア様がいてくださって助かるな」と言うほどだ。

「先輩、皆を連れて先に帰っていてください。私はこちらの対応をしますから」

「分かった。ごめんね。皆、先に戻ろうか」

 アイリスはシンシアの右足をチラッと見て、そのまま皆を連れて戻った。

「フィルディア、勝手な行動をしないの。シンシアがすぐに対処出来る子だったからよかったものの、下手したら死んでいたのよ」

「まぁまぁ、メーチェ。こうして無事に助かったんだし、忘れようぜ?」

「シルバー、あなたね……もしシンシアが実戦経験者じゃなかったらどうするつもりだったの?本当ならあんな数の敵を一人で相手するのも危険なのよ?」

「メーチェ、後で俺からも注意しておくから落ち着いてくれ」

 メーチェは納得していないようだったが、殿下が言うのならばと口を閉ざした。

「それじゃあ、今日は近くの店で食事をしようか」

 修道院に近付いた時、アイリスが皆に言った。生徒達はキョトンとしていたが、

「え、いいんですか?」

 サライが聞き返すと、アイリスは頷いた。

「でも、シンシアが……」

 アドレイは心配そうにするが、「シンシアも知ってるよ。あとから合流する予定」と答えた。

「知っているのか?」

 ガザニアが珍しく驚いた顔をする。アイリスはコクンと首を振った。

「皆は初めての実戦だったから、相当な負担なんじゃないかって二人で話し合ってね。それで課題の後は食事にでも行って気晴らしはどうかって。だからあっちはシンシアが対応してくれているんだ。本当は私がやるべきなんだけど、そういったものはシンシアの方が慣れているからね」

「なるほど……それなら言葉に甘えようか」

 そしてそのまま、近くの店に入った。

 適当に注文し、来たので食べていると「遅くなってすみません」とシンシアが息を切らしながら入ってきた。

「いや、いいよ。お疲れ。はい」

「思ったより厄介でしてね……。あ、飲み物ありがとうございます」

「君も注文したら?」

「皆、もうすぐで食べ終わりそうですし、私は修道院に戻ってから食べますよ」

 シンシアは座って受け取ったコーヒーを飲んだ。待たせるわけにもいかないし、仕事も残っているのでそのまま帰ってもシンシアとしては別に構わないのだが。

「いやいや、シンシアも何か食べろよ」

「……シルバーさん、一応、お酒は飲まないでいただけません?」

「あんたも飲む?」

「まだ飲める年齢ではないのでお断りします」

「まぁ、酒はともかく……確かにシンシアも食べるといい。俺達も待つさ」

 シルバーとユーカリに言われ、シンシアも適当に頼む。待っている間に報告書を書いているとアンナが「こんな時までお仕事はしなくてもいいのよ~」と笑った。

「あー、いえ……これ、早めに済ませないといけないもので……まぁ、祖父に渡すものなので多少遅れても怒られはしないでしょうけど……」

 実は先程、ここに来るまでに怪しい動きをする集団を見たのだ。それは知らせておかないといけないと思って今書いている。

「はぁ……マジで仕事増やさないでくれ……」

「心の声が漏れているぞ」

 手伝うぞ?とユーカリは言うが、大丈夫だと好意だけを受け取った。

 ――これ、おじい様とアイリスしか知らないしね……。

 隠密活動が得意なシンシアにとっては慣れたものだ。これぐらい出来ないで、義賊など務まらない。

 食事が来たので、シンシアはそれを片付ける。

「あ、それにしたんだ」

「はい。少ないし、値段もお手頃だったので」

 別に遠慮しなくていいのに、と思いながらそれが彼女らしいとアイリスはかすかに笑った。

 手帳を見ながら食べているシンシアは面倒だな……と言った表情をしていた。

「……どうしたの?シンシア。手帳とにらめっこなんてして」

「あ、いや。ちょっとね……来月はほぼ休みがないなー……って思っただけ……」

 ズゥウン……とでも聞こえてきそうなほど沈むシンシアに「そ、そう……大変だね?」としか言えない自分は酷い担任なのだろうか?

「えっと……無理しすぎないようにね……?」

「気を付けるわ……」

 あぁ、クマが出来るだろうな、とアイリスは近い未来を想像した。



 その後の休日、ユーカリが「先生、先日の課題の時はありがとう」と礼を言った。

「お前のおかげで誰一人死なずにすんだ。特にフィルディアの時、シンシアが傍にいなければどうなっていたか……」

 あの後みっちり言ったから、安心してくれと告げるユーカリに「あぁ、あれか」とアイリスは真相を話す。

「あれね、作戦考えたのはシンシアだよ」

「え?そうなのか?確かに天才軍師と聞いていたが……」

「うん。で、フィルディアが単独行動をするのも想定内。だからそうなった時はシンシアが自ら囮になるって。そのために後衛にまわっていたんだ。すぐに対処出来たのはシンシアのおかげだったんだよ」

 先の先まで読んで、全員の性格を把握して、たくさんの作戦を考えて……。天才軍師の名は本物なのだと実感する。

「すごいよね、私じゃあそこまで作戦は考えられない」

「そう、だな」

 自分だって出来ないとユーカリは思う。将来は立派な指揮官になることだろう。

「あと、シンシアのところに行くのなら」

「どうした?」

「あの子、多分右足を捻挫しているから気にかけていてくれないか?それから、手荒れも酷いから、必要なら薬ももらってきてあげて」

「あぁ、分かった」

 確かに、最近歩きにくそうだとガザニアやアドレイと話していた。表情こそ変わらないが、やはり違和感は拭えず。しかし直接聞くわけにもいかなかったのでそのままだったのだ。

 ユーカリはすぐに教室へ向かう。その途中、アドレイやガザニアと会ったので彼らも連れて行った。

 教室ではシンシアが一人で書類を見ていた。

「シンシア」

 ユーカリが声をかけると、シンシアは三人の方を見て「あ、こんにちは。どうしました?うちの者が何か問題でも起こしました?」と聞いてきた。

「いや、そうじゃない。先日の課題、お前が作戦を考えてくれたと聞いてな。礼を言いに来たんだ」

「あぁ、そのことですか。私は当然のことをしただけですし、わざわざお礼をされるようなことでは……」

「全て想定内だったんだろう?あれを全部把握出来るのはなかなか出来ない。……アルフレッド殿に「天才軍師」と言われるだけあるな」

「いえ、私なんて、記憶力がいいだけですので……」

 シンシアはやはり自分を卑下する。記憶力がいいだけで軍師など出来るわけがない。しかも、誰一人死なせることなく作戦を考えることなど。彼女が優れた指揮官であることを誇りに思っているぐらいなのに。

「……なぁ、シンシア。前も言っただろう、「私なんて」などと言うなと」

「ですが……」

「お前は王国にとっても、俺個人にとっても自慢の「貴族」であり「妹」なんだ。もっと自分を誇りに思ってくれ」

 シンシアは俯いたまま。……やはり、母親の死を引きずっているのだろう。助けられなかった自分、弱い自分、一人だけ生き残ってしまった自分……。ユーカリには、その苦しみが痛いほど分かる。自分も同じ経験をしたから。

 だからこそ、彼女には甘えてほしいのだ。その苦しみを、痛みを、分けてほしい。ここには彼女を否定する人などいないのだから。

「それから……」

 ユーカリは不意にしゃがむと、シンシアの右足首を軽く掴んだ。彼女は「いっ!?」と悲鳴をあげた。

「やはり……ほら、靴を脱げ」

「え、いや、自分でやりますし……」

「駄目だ。お前の場合、このままにするだろう?」

 ……図星だ。何も言えなくなったシンシアはおとなしく靴を脱いだ。どうやら足だけ出るタイプのタイツだったらしく、素足が見えた。思ったより傷だらけで先日の襲撃だけのものではないのだろうと分かった。

「酷いな……」

「あー……母が亡くなった時、裸足で必死に逃げていたので……おじい様に言われて医者に見せましたけど、完全に治らないだろうと告げられて……」

 あ、これ聞いたらいけないことだったと思ったが既に遅い。シンシアは「あの時は命懸けで逃げていましたから……靴を履く暇もなくて」と寂しそうな笑みを浮かべた。

「まぁ、そんなことなので気にしないでください。……はぁ、見られるんだったら足まで覆うタイツを履いていたらよかった……」

 この期に及んでまだ隠そうとするか……と思わなくもないが、それは置いておこう。

 足首を見ると、かなり腫れていた。これでは歩くのもつらいだろう。

「ガザニア、包帯はあるか?」

「はい、こちらに」

 どこから出したのか、ガザニアが包帯を渡す。ユーカリは慣れているのか、すぐに包帯を巻いた。

「ある程度痛みはひいたか?」

「……そうですね。すみません、わざわざ……」

 あとは手の荒れだと手袋も取るよう言おうとした時、コソコソと声が聞こえてきた。

「何様のつもり?殿下に手当てしてもらうなんて……」

「大貴族様は違うわ~」

「そもそも、帝国の血も引いているんでしょ?よく何でもない顔で王国にいられるね」

「噂でしか聞いたことがないけど、刻印も二つあるみたいだよ」

「えー、マジ?化け物かよ」

「刻印を持ちたくても持てない人がいるのに、生意気だよね」

 そのほとんどがシンシアを罵倒するものだった。もちろんシンシアがユーカリに指示を出したわけではないし、全てが言いがかりで何も悪くない。出生のことなどなおさらだ。

「……あの、ユーカリ様達も気を悪くされるでしょうし、あまり私と関わらない方がいいと思いますよ」

 しかし、シンシアは怒ることも文句を言うこともせず、ただユーカリ達を遠ざけようとした。こういった態度も、シンシアに対する不満要素だった。

「シンシア、お前が悪いわけではないだろう」

「ユーカリ様はいいかもしれませんが、周りはそうではありませんからね。誤解されたら解くのも大変ですし」

 ここは私が何とかしますから、という言葉にプツンと何かが切れた。

「ちょっとユーカリ様!?それにガザニアさんとアドレイさんも!待ってください!」

 三人が罵倒している人達のところに向かって行ったのだ。シンシアは慌てて止めるが、三人は聞く耳を持たない。

「お前達」

 ユーカリが低い声で呼ぶと、その生徒達はビクッと肩を震わせた。

「な、なんでしょうか?殿下……」

「俺が、「いつ」シンシアに強制されているように見えたんだ?」

「で、ですが……」

「シンシアは確かに帝国の血を引いているかもしれない。だが、影口を言われても一生懸命に俺やお前達を守ろうとしてくれているんだ。それどころか、本来なら俺がやるべきものまでシンシアがやってくれている。むしろ、これだけでいいのかと思うぐらいだ」

「だ、騙されているんですよ!帝国の人間はそうでしょう!?」

「君達にシンシアの何が分かるんだ!」

 ユーカリが対応していたが、いよいよ耐えられなくなったアドレイが叫んだ。

「帝国の人間帝国の人間って言うけどさ!シンシアはお母さんが死んで誰にも頼れなくて一人で頑張ってきたんだよ!今回だって、おじいさんが体調を崩したからって後ろ指差されるのを覚悟して戻って仕事を引き受けて、騎士団の人達の指導もして!僕達なんかよりよほど苦労しているのに偉そうに言うな!」

 それは一部の人しか知らないことだ。心配をかけないようにと、笑顔の下に隠していた苦悩。

 普段はおとなしいアドレイの憤慨に皆が驚いていた。

「わ、悪かったよ……」

 シンシアではなくアドレイに対して謝ってくる生徒を涙目になりながら睨みつけると、温かい何かが肩に触れた。

「大丈夫、もういいよ。アドレイさん」

 それはシンシアの手だった。シンシアは優しく、彼に微笑んでいた。

「ありがとう。でも、いいよ。彼らの意見もよく分かるから」

 やはり怒るでもなく、優しく静かに諭していく。そこでようやく、自分が息を切らしていたことに気付いた。

 落ち着かせるように背中を撫でられていると、アドレイも冷静になっていく。

「ほら、座ろう?」

「うん……」

「それから、私の悪口を言うのは構いませんが、他人を巻き込むのはやめていただけませんかね?私も彼らも一応、勉強しに士官学校に来ているので」

 アドレイを座らせた後、シンシアが笑顔で威圧を与えて退散させる。あぁ、やっぱり彼女には守られてばかりだとアドレイは悔しく思った。

 その様子を見ていたシンシアは彼に手を差し出した。籠手も手袋もつけていない、小さな素手を。ボロボロで、見ていて痛々しかった。

「アドレイさん、手を握ってみてください」

「え……こ、こう?」

 アドレイはシンシアの手を握った。思ったより小さな手。

「私はここまでボロボロになって、やっとあれぐらいの実力を身につけた。でも、あなたはもっと強くなれますよ。きっと、私と同じぐらいボロボロになってしまった時には私以上になるでしょうね」

 そうなったら、彼女を守ることが出来るのだろうか。盗みを働いていた自分でも、傍で守ることを許してくれるのだろうか。

「落ち着いたなら。もう大丈夫ですね。部屋まで送りますよ」

 対応が紳士すぎる……とどこか負けた気分になりながら、アドレイは部屋まで送ってもらった。シンシアが「では、また」と一礼して去ろうとするが、どこか物寂しい気分になる。

「し、シンシア!」

 気付けば、呼び止めていた。シンシアは振り返り、首を傾げる。

「あ、えっと……」

 なぜ呼び止めたのか、自分でも分からなかった。ただ、彼女ともう少しだけ一緒にいたかった。

「その……一緒にお茶会をしない?」

 絶対に断られると思いながら、精一杯声を出す。心臓はバクバク言ってうるさい。

 シンシアはキョトンとした後、

「構いませんよ」

 笑って、頷いてくれた。それが信じられなくて、夢でも見ているのではないかと思う。シンシアはアドレイのところに行き、

「おすすめの茶葉はありますか?」

 その言葉で、これが現実なのだと実感した。

「あ、その……僕、ハーブティーが好きで……」

「なるほど……なら、それにしましょうか。アドレイさんは茶菓子を持ってきてくれますか?」

 シンシアがお茶を準備してくれるようだ。アドレイは食堂にお菓子をもらいに行く。

 その後、夕方まで一緒にお茶をしていた。


 六月六日、朝一番にシンシアがアイリスのところに来た。

「どうしたの?シンシア」

 今日何かあったかな?と思い返してみるが、やはり何もない。しいてあげるなら夜にまた会議をすることぐらいだ。

「誕生日おめでとう、アイリス」

 シンシアは花と箱、手紙を渡した。キョトンとして、あぁ、そういえば今日は自分の誕生日だったと思い出す。

「これ、開けてもいい?」

 箱を見ると、シンシアは頷いた。開けてみるとそこには小さい青色の石がついているイヤリングが入っていた。

「これ、もらってもいいの?」

「うん。本当はブローチにしようかと思ったんだけど、兄様が渡すし。こっちの方がいいかなって」

 一応、こう言ったものも必要でしょ?と笑った。

「ありがとう。大事にするね」

「いいんだよ。それじゃあ、授業に行こうか」

 その日の講義中、アイリスは少しご機嫌だった。ユーカリからも受け取り、いい思い出になった。



 それから数日後、ヒイラギ卿が反乱を起こしたこと、それの後処理をすることが課題であることを告げられた。

 夜、今日はアイリスの部屋で作戦会議をしていた。

「僕の方で一応使者を送ってみたけど……無理だね。武器を持って行っていなかったから殺されそうになったって言ってた」

「やっぱり駄目か……」

「おじい様からも使者を出すとか、手紙を送るとか、尽くせる手は全て尽くしたけど……逆に煽るだけだろうからこれ以上はやらない方がいいね」

 祖父の言うことですら耳を傾けることがないとなると、やはり最終手段を使うほかない。幸いにして、アヤメからはユースティティアの令嬢だからと今回の指揮は任されている。

「アイリスは皆を守ることに専念して。アリシャ騎士団の人には話をつけて、ヒイラギ卿は僕が対応することになってる」

「ありがとう。……本当に、面倒な役目ばかりやらせてごめんね」

「ううん。アイリスを失うわけにはいかないからね」

 アンドレアが納得いかない顔をしていたが、これも作戦のため。利用出来るものは利用しなければ、目的を達成出来ない。

「一応、ユーカリ達にはこう言って……」

「僕はこういう行動をして……」

 確認し合って、解散する。

 その後、仕事をしていると扉を叩く音が聞こえてきた。誰かと思い、開けると、

「……アドレイさん?」

 真っ青な顔をしたアドレイだった。シンシアはすぐ部屋に入れ、ハーブティーを淹れた。

「どうぞ」

「うん。ありがとう……」

 アドレイは受け取り、口につける。

 ――相当参っているな……。

 僅かに震えていて、信じられないと瞳が訴えている。

「……話なら聞きますよ」

 シンシアがそう言うと、アドレイは目を伏せながらヒイラギ卿との思い出を話し出した。

「そうですね……確かに、信じられないでしょう。私も、ヒイラギ卿がそんなことをするお方ではないと存じ上げていますから」

「……でも、本当のこと、なんだよね」

「えぇ、残念ながら」

 縮こまるアドレイをじっと見ていたシンシアだったが、不意に立ち上がり、

「しっかりしろ」

 アドレイのその背を、軽く叩いた。突然のことにアドレイはシンシアの方を見る。

「大丈夫、自分の信じる道を行けばいい」

「自分の信じた、道……」

「今は見つけられなくてもいい。でも、前に進んでいかないといけないから。きっと、ヒイラギ卿もそう言うだろう?」

 その言葉が、アドレイの心の底まで染み渡った。

「……うん、そうだね」

 そう頷くと、緊張が取れたのか眠気が襲ってきた。

「あー、私、まだ仕事が残っているので、ベッドを使ってもいいですよ」

 あくびをするアドレイにそう言うと、眠気に逆らえなかったのか「ありがとう……」と彼にしては珍しく何も考えずに従った。それを見て、シンシアは机に向かう。

 寝息が立ったことを確認し、シンシアはベッドに座った。

「……おやすみ、いい夢を。私の――」



 そうして、反乱の後処理の日が来てしまった。シンシアは反乱軍を蹴散らしながら(ただし気を失わせるだけで殺していない)ヒイラギ卿のところまで向かった。

「……ヒイラギ卿、ですね?」

「なんだ、教団の狗が。殺すつもりの相手に名前の確認もいらないだろう」

「あらあら、取り付く島もない。私はただ、もう少し話をしたいと思っているだけなのに」

「女狐の手下が何を言う?我が息子を、有無を言わさず処断したくせに」

 あぁ、あんな女の手下かと思われているのか。まぁ、確かに教団の命令で来ているわけだから当たっているのだが、一括りにはされたくない。

「……一つ、お聞きしたいことが」

 シンシアはどうしても、聞きたいことがあった。

「あなたのご令息様は、なぜ処断されたのですか?」

「我が息子が教団に刃を向けようとしていたと告げ口をした輩がいたらしくてな。もちろん、我々がそんなことをするわけがない。しかし、教団はそれを聞かなかった」

 告げ口、処断、そして反乱……なぜか、偶然とは思えなかった。まるでこうなることを想定していたような……。

「聞きたいことはそれだけか?」

「えぇ。……ヒイラギ卿、今退くのならば命は助けます。もし従えぬのならば……」

 シンシアは炎魔法をためる。もちろんこれは、燃やす、の意だ。しかしヒイラギ卿はただ少女を睨みつけたまま、動かなかった。従う気はない、ということだ。

「――あぁ、残念です」

 シンシアはそのまま強力な炎魔法を放った。――瞬間、全身に痛みが走ったが、気にしなかった。

 ヒイラギ卿のいた場所は誰か判断出来ないほど黒く焼けた焼死体があり、誰か判断出来なかった。他の人達からはここまでやるか、とか非情だ、と言ってくる声が聞こえてきた。だが、ここまでやらないといけないのには理由があるのだ。

「シンシア様、他の反乱軍は……」

「逃がしてやれ。私達の目的はあくまでヒイラギ卿の討伐だ、これ以上はいい」

「しかし……」

「彼らはただの領民だ。殺す必要はない。どうしても心配だというのであれば、我が騎士団を一定期間ここに留まらせておくが?」

 アリシャ騎士団の者達がうるさかったので、シンシアは騎士団の中の数人を留まらせることにした。

 夜、シンシアは自分の天幕に入る。そこには死んだハズのヒイラギ卿がいた。

「大丈夫ですか?ヒイラギ卿」

「あ、あぁ……お前は?」

「あぁ、申し遅れました。私はシンシア=ブルーローズ=ユースティティア。一応、ユースティティア家の嫡女です」

 その名前に彼は驚く。そして彼はシンシアに質問した。

「ここは?私は死んだハズでは?」

「えぇ。あなたは死んだことになっています。なので、ほとぼりが冷めるまでは我が領地で匿うことにしました」

「は……?」

 わけが分からないと言いたげな表情をする。当然だ、先程まで殺し合っていた相手が助けると言っているのだから。

「安心して、あなたが生きているということを知っているのは私とヨハン殿、それから私の担任だけです」

「アドレイ……アドレイは無事なのか?」

「はい、彼は無事です。少し怪我はしたようですが、勉学や訓練には支障ないでしょう。それから、あなたが生きているということはまだ言いません。大騒動になってしまってはいけませんから。ただ、いつか私の方からあなたに会いに行くよう言いますから」

 彼の質問にシンシアは答えていく。ヒイラギ卿は何も分かっていないようだ。ただ、アドレイが無事と聞いて安心したようだ。

 その時、外から「シンシア様」と小声で呼ばれた。

「おっと、タイムアップか……。こんな時間に呼び出してしまってすまない」

「いえ、シンシア様のご命令でしたら」

「早速で悪いのだが、この方をヨハン殿のところまで連れて行ってくれないか?わけあって保護して……」

「なるほど。分かりました。それでは、私は彼を送り届けた後、一直線に修道院に戻りますね」

「お願いする。名前は決して聞くなよ」

 シンシアはヒイラギ卿の方を見て、「すみません、バタバタしていて。顔は出すようにしますから」と笑った。彼は何が何だか分からないまま、連れて行かれた。

 その後、シンシアはアイリスの天幕に向かった。

「ヒイラギ卿は?」

「さっき送り出したよ。明日にはついていると思う」

「そう、それならよかった。……怪我の手当てするから、服を脱いでくれる?」

 アイリスの言葉にシンシアは素直に従った。そこには本来ならあるハズのない大やけどの痕があった。

「……自分の身体だからって無茶はダメだよ」

「でも、こうしないとヒイラギ卿の死体じゃないってすぐに気付かれるから」

 塗り薬を塗ってもらいながら、シンシアは答えた。

 そう、あれは偽物なのだ。焦げていたのはシンシアの生き写しのようなもの。ヒイラギ卿はシンシアが未来を変え、そのまま自分の天幕に飛ばしたので生きていたのだ。その生き写しは自分の身体と繋がっているのでやけどしたということだ。

「次はニールか……」

「魔獣になるから面倒なんだよね……そうなる前に何とかするよ」

 まぁ、やろうと思えば魔獣になった後でも助け出せるのだが……かなりきついのだ。下手をすれば倒れるほど、身体に負担をかける。だから、魔獣になる前に神の遺産から遠ざける必要がある。

 だが、その前に西方教会だ。……頭が痛い。ただでさえ厄介ごとをたくさん抱えている王国内の仕事をやっていて、さらにここまで抱えるのは正直大変だ。だが、どうせアヤメに押し付けられるので何とかやりくりするべきだろう。

 包帯を巻いてもらいながら、シンシアは先日の盗賊の話を思い出していた。



 休みの日の夜、シンシアは領地に戻った。着替えもしないまま、牢番のところに向かう。

「シンシア様、おかえりなさ――」

「私にそんなのはいいです。その前に、先日の盗賊はどこに?」

「は、はぁ……その、ご指示通りに地下牢に……」

「ありがとう。おじい様に私が言ったと話して特別給付をもらいなさい。あとは私がやっておきます」

 牢番の言葉も聞かず、シンシアは進んでいく。そして、先日捕らえた盗賊の前に立つ。

「さて……では、尋問を始めましょうか」

 シンシアは彼の首に剣を突きつけた。

「先に言っておくが、事実だけを話せ。嘘をついたら、その時点で首を飛ばすと思えよ」

 彼は冷や汗を流しながらコクコクと頷いた。

 そして、聞き出した内容がこれだった。

 指示を出してきたのは、フードを被った人だったこと。

 声を聞く限りでは女性であろうこと。

 身長は百七十ぐらいであること。

 その人は魔法も使えたということ。

 この大陸にかなりの恨みと憎しみを呟いていたこと。

 女神をほめたたえていたこと。

「……なるほど」

 正直、わけが分からなくなっていた。

 ――アマンダではない、ということか……?

 女性、魔法が使える。これだけなら、アマンダだと思っていたのだが。身長は自分より明らかに低いし、大陸に恨みや憎しみを呟いていない。さらに、女神をほめたたえていると言ったことは聞いたことがない。かといって、身長的にもチェーニに化けているユーベルが変えているわけでもないだろうし……。

(誰だ……?)

 トリストの一人ではあるのだろう。だが、心当たりがない。義賊をしていた時も、フードを被った女性に会ったことなど一度だってない。

「し、知っていることは全て話した!助けてくれ!」

 この期に及んでまだ命乞いをするのか……と思ったが、もう少し情報が得られるかもしれない。だが、今はそんな時間がない。

「……分かった、ヨハン殿にお前の処分を決めていただこう。だが、ここから出すわけにはいかない」

 シンシアは剣を鞘におさめ、背を向ける。そして戻ってきていた牢番の者に、

「あいつから聞き出せるだけ聞き出しなさい。手段は問わない。最悪死なせてしまってもいい。そして分かったことがあったら手紙で送ってほしい」

 そう言うと、牢番は「分かりました……尋問官に任せます」と頷いた。

「すみません、仕事を増やしてしまって……」

「いえいえ、シンシア様は我々のために頑張って下さっているのを知っていますから!」

 頭を下げ、シンシアは休む暇もなく修道院への道を戻った。



 女神……これが何なのかが分からない。アモールとユスティシーのことなのか、それとも違うのか。

「シンシア、巻き終わったよ」

「ありがとう、アイリス」

 姉の言葉にハッと現実に戻ってきた。あの盗賊の話は、まだ話し出せていない。今のうちに話しておこうとシンシアはアイリスと向き合った。

「……あのね、前の課題で捕らえたあの盗賊からある程度の情報が得られた」

 それを全て話すと、アイリスは「他にもいるの……?」と僅かに青くした。

「うん。しかも見当もつかない」

「謎は深まっていくね……」

 だが、ここでこんな話をしていても意味はない。

「とりあえず、帰ったら調べてみるね」

「私の方でも探ってみる。それじゃ、おやすみ」

「おやすみなさい、アイリス」

 シンシアは外に出て、自分の天幕に戻った。今は騎士団の人達が火の番をしてくれている。シンシアは手帳に何かを書いていた。

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