91 なんでもない
雨で霞む視界では、ネロを捉える事はもうできないと諦めて部屋に戻る。入り口で少しうろうろした後で椅子に座って待つ事にした。ぼーっとテーブルに頬杖をついて待っていると風が動いた。顔を動かすとネロがびしょ濡れで立っている。
「また考え事をしてたの?」
「そうみたいだ。」
俺の質問に低い声で答えたネロが最大出力の〈乾燥〉をかけ始めた。風が止んだ後で、ネロは自分で髪を乱暴にかき上げてソファに移動していく。無言でソファにどかっと座り込んで、背もたれに寄りかかり、俺に視線を向けてきた。俺を見ているというか、ぼんやりと俺を眺めてるみたいだ。
「なんかあった?」
「なんでもない。」
「そっか。」
あらら、俺の沈んでたのがネロに伝染してしまったのかもしれない。これは宜しくないですね。ネロの近くに移動して、ネロの足元の床に座ってみた。俺を目で追って、見下ろしているネロに首を傾げる。
「なんでもない。」
「ネロの耳がぷるぷるしてたのをまた見れて良かった。癒される。」
手を伸ばして俺の頭を撫でてくれたネロが、もう一回小さく呟いた。ネロを見上げながら感想を伝えてみると、少しの間、俺を眺めていたネロが上を向いてしまった。ん~、ネロが元気になりそうな事、なんかないかな。立ち上がって武器の保管庫の前に移動する。
大きな両開きの扉に手をかけて開けてみた。けど、開かない。鍵がかかってるのってくらい、びくともしない。鍵がかかってない事は知ってるから、片方の扉を両手で持って思いっきり引っ張ると漸く少し動いた。ってか、この扉、メッチャ重いじゃん。
隙間に指を入れて開けようとしたら、するっと開いてくれた。ついでにもう片方の扉も自動的に開いてくれる。後ろから伸ばされた手が見えるね。振り返ると、ネロが開けてくれたのが分かった。この新しいおっきな武器の保管庫はヤバい。重厚な造り過ぎる。
「何か見たい物があるのか?胡蝶と白雪を下ろすか?」
「ネロが元気なくなった気がしたから。武器を見れば元気になるかなって。」
ネロを見上げて首を振る。困った顔で俺を見下ろすネロに、にっこり笑顔で答えてみた。俺の言葉で呆気にとられた顔のネロの表情を楽しませて貰う。口を半開きにして少し驚いたネロのレアな顔もカッコいいですね。
「ネロは何を考えてたの?」
「琥珀が今直ぐ出て行く気分になった。」
取り敢えずは、ネロが凹んでしまった原因らしきものが知りたい。と聞いて、返ってきた答えに驚いてしまった。今直ぐ出て行くって、それで元気がなくなる程の衝撃を受けちゃったの?
びっくりし過ぎてネロをじっと見てしまう。ネロは俺から視線を逸らさずに、静かに見下ろしてくる。少し嬉しくて、ふっとなってしまったら、ネロも頬を緩めてくれた。
「俺は今の段階で外に出てもやってけないでしょ。だから体を鍛えるんだよ。」
「そうだな。」
ネロの瞳を見ながら、ゆっくりと話してみると、ネロが目を細めた。少しの後で、ネロは静かに同意してくれる。そうなんですよ、って頷いたら、ネロは俺の頭に手を伸ばしてきた。ゆっくりと梳くように俺の髪に滑らすネロの指が、ネロ自身を落ち着ける行動に思えて好きなさせてあげる。
「武器が使えるくらいに強くなったら、この中から一本頂戴。」
「全部持っていけばいい。」
冗談で言った事に返ってきたネロの一言で、むっとしてネロを睨んでしまった。全く冗談に聞こえない上に、確実に本気な感じが凄く伝わってくる。
「こんな重いの使えないでしょ。」
ネロも苦手だと言っていた大斧を指差して文句を言ったら、ネロが苦笑するように口の端を上げた。表情を緩めてくれたネロに少し安心する。
「ネロ、ごめん。なんか変な質問攻めをしゃちゃってたね。俺はまだ外には行けない。自分でも分かってる。力も知識も何もないから、外は無理。だから、もう少しの間お世話になります。」
「いつまでいてくれても構わない。」
「言葉に甘え過ぎちゃうかもよ?」
改めてネロにお礼とこれからも宜しくって伝えてみた。ネロが返してくれた言葉が凄く嬉しい。ちょっとウルってきたのを誤魔化すように軽口を叩いてしまった。
俺の言葉で、ネロが嬉しそうな笑顔になってくれた。笑顔のネロにほっとして、武器はもういいかなっと扉を閉めようと手を伸ばしてみる。勿論、重過ぎて閉めれなくてネロが閉めてくれました。
ソファに戻るネロにくっついてソファに移動する。ネロの隣で、さっきネロが乱暴に掻き上げていた髪の乱れを直してあげる。無造作に撫でつけているネロの髪型もカッコいいんだけどね。でも、ちゃんと整ってる髪型はもっとカッコいい。
丁寧にネロの髪を整えていたら、外からユリアさんの声が聞こえてきた。ネロが出迎えるとユリアさんが飛び込んでくるくらいの勢いで入ってきた。
「ネロさん、肉って注文は何ですか。琥珀さんの食べるのはちゃんと注文して下さい。琥珀さんがいないのかと思いましたよ。琥珀さんはまだ体調が良くないと思うから、お肉じゃダメなんです。ちゃんと別のを用意してきて良かったです。これからはちゃんとお願いしますね。」
俺に向かってにっこりした後で、ユリアさんはネロを見上げて勢いよく注意をし始めた。ネロを大きな目で睨みながら、勢いよく叱っているユリアさんはやっぱり可愛い。
言いたい事が終わったのか、ユリアさんはぷいっとネロから視線を逸らしてしまう。そして、何事もなかったかのように、いつも通り楽しそうにテーブルに食事を並べていってくれる。
成る程、レオさんはこんな感じでユリアさんに叱られたのか。ユリアさんは怒ってても可愛いのが分かった。ネロは無表情だけど少し反省している、感じがした。
ネロの態度が神妙過ぎて、少しクスっとなってしまった。俺が笑ったのに気が付いたのか、ネロの表情が少し柔らかくなった。
料理を並べ終わったユリアさんがくるっと振り向くと、またネロは無表情になってしまった。あとは宜しくです、と出て行くユリアさんに手を振って送り出す。立ち上がった俺と一緒にネロも移動する。同時に席について、テーブルの上を眺める。
ネロの前には大きな肉の塊が鎮座している。俺の前にはクリーム色のシチューと白パン。それに、薄く切って少しだけ炙ったタコと、薄切りのマリネした白身魚を和えたグリーンサラダもある。サラダには柑橘系の香るドレッシングが和えられていて美味しそう。それと赤紫色のムースがデザートで用意されていた。
「ネロのお肉はでっかいね。」
そう、ネロの前に置かれているのは肉の塊なのだ。ソテーしたお肉ではなく、大きなブロックのお肉をローストした物が大きなお皿の上にどん、と鎮座している。圧倒される存在感だ。
「確かに、肉とだけ伝えて直ぐ戻ってきたような気もする。」
「ネロはそんなに俺がいなくなるのが寂しかったのか。そうかそうか。本当に俺がいないとネロは駄目だね。そんなネロにお知らせです。ここにいる間は存分に甘えさせて貰う事に決定しました。ネロが困るくらい、甘えまくるから覚悟してね。」
にっこり笑顔で冗談半分、本気半分の軽口を言ってみると、ネロが嬉しそうな笑顔を浮かべてくれる。綺麗な笑顔のネロに、拒否や文句の言葉を返されなくてちょっと安心した。俺のせいで気落ちさせてしまってごめんなさい。心の中でもう一度謝っておく。
「じゃあ、いただきます。」
手を合わせると、ネロも静かに祈りを始めた。ネロが顔を上げたら食事開始だ。最初に手を伸ばしたのは、炙ったタコと白身魚の切り身を乗せたサラダ。
タコと緑の葉っぱを一緒にフォークに刺して口に運んでみた。炙ったタコも美味しい。歯ごたえが堪らない。炙ってるから香ばしさも加わってヤバい。あと、ドレッシングの酸味がとても合ってる。
この美味しさをネロにもお裾分けしたい。あとは、お肉だけじゃ流石に可哀想な気もする。タコと葉っぱをフォークに刺して、顔を上げる。
ネロと目が合った途端に、ネロは俺の意図を分かってくれたらしい。ネロは身を乗り出して顔を寄せて、口を開いてくれた。ネロの口元にサラダを運んで、そっと口に差し込んでみる。
どう反応するかな。ワクワクとネロの顔を窺っていると、ネロは味わいながらゆっくり咀嚼している。喉ぼとけが動いて、飲み込んだのが分かった。ネロは目を細めて頷いてくれた。美味しかったらしい。
「これ、昼間のも美味しかったけど、炙ってもヤバいね。」
「ああ、美味い。」
「ネロはお肉だけだから、サラダを半分食べる?」
「琥珀も少し肉を食うか?」
「ん~。じゃあ、ちょっとだけ貰う。」
小皿にサラダを半分乗せて、タコと白身もいい感じに盛り付けてネロに手渡してみる。ネロもブロック肉から綺麗にスライスしたお肉を三切れ乗せた小皿を渡してくれた。
渡されたお肉を口に入れると、何かが違う。アレ、素材の味しかしないよ?首を捻ってしまった。ちらっとネロを見ると、器用にお肉を切り分けながらどんどん食べ進めている。まぁ、美味しい事は美味しいんだよ、とモキュモキュごくんと口の中のお肉を飲み込む。
「これは何の味もなし?お肉の味だけ?」
「みたいだな。」
やっぱそうだよね、スパイスも塩もない。シンプルなローストお肉だね。火加減はばっちりでほんのりピンク色の低温調理で火が通ってるのにレアっぽくて美味しいのは美味しい。でも、野性味が存分に溢れているお肉の風味だよね。
「美味しいのは美味しいけど。ちょっとだけ、塩とか欲しくない?」
「そうだな。」
余り気にせず食べているネロだけど、やっぱ塩とか何かの味が欲しい気がする。ネロは何も言わずに食べ進めてたから、普通にいつもの美味しいお味かと思ってた。
マスターさんが味付けをし忘れるって事はなさそうだし、敢えての、味なしな気がする。あ、さっきのユリアさんの剣幕と関係してる気がしてきた。
「もしかして、ユリアさんが怒って調味料なしのお肉の塊にしたとかなのかな。」
「多分。」
あ~、そうだよね。さっきは凄い怒ってたからね。そりゃ、料理の注文で肉とだけ言って帰っちゃったらどんな肉だよって思っちゃうよね。この家は調味料とかなさそうだからな。せめてお塩でも置いてあれば良かったんだけどな。
「そっか。せめて、あのソースがあったらもっと美味しいかったと思うんだけどな。」
「あるぞ?」
「え?あるの?」
塩より美味しそうなあの生姜味の美味しいソースがあったらいいなっと言葉に出したら、あるらしい。びっくりして聞き返してしまったら、頷いたネロが懐から小さな小瓶を出している。そんなネロをじっと見つめてしまった。
「なんで、そんな所に隠し持ってるの。」
「マスターに呼び止められて渡された。今思い出した。」
ネロの行動が不思議過ぎて何とか質問をしてみた。ネロはさらっと答えてくれる。ってか、マスターさんはユリアさんの怒りに従って味付けなしの肉を用意したんだね。
そして、ネロには救いの手を差し伸べてくれてたんだ。マスターさんは優しいですね。マスターさんの優しさでネロのお肉は救われた。それを使って美味しく食べようね。
「成る程。じゃあ、ネロはそれで美味しく食べれるね。素材の味だけでも十分美味しいけど、その量は流石に飽きがくるでしょ。」
「そうだな。」
ネロに良かったねって話しかけたら、頬を緩めたネロが同意してくれる。それと同時に、ネロが手を差し出してきた。この手はなんだ、とネロの手のひらをじっと見てしまう。俺の反応が面白かったのか、ネロがクスッと笑った。
「琥珀の皿。」
「あ、俺はサラダと一緒に食べるからいいよ。ソースはそんなちょっとしかないから、ネロが使って。」
「分かった。」
ネロの一言で理解できてふふっとなってしまった。ネロのお肉は大量なのに、そんなちょっとのソースを俺のに使ったら直ぐなくなっちゃうじゃん。でも、ネロの気持ちは嬉しい。
ネロがソースを肉の上にかけるのを見ながらシチューを食べる。見た目通り、甘くて優しい味のシチューだ。サツマイモっぽい甘さが口いっぱいに広がって美味しい。
ネロを見ていた視線が自然とシチューに移っていく。器の底には、大きく切った野菜が沈んでいて、今日はお肉は入っていないっぽい。甘くてほっこりして温まる。白パンを時々口に運びながら、シチューをゆっくりと味わう。
箸休め的な感じで、スライスしたお肉の上にドレッシングがかかったサラダを乗せてくるっと巻いて口に入れる。最初に広がる赤身肉のあっさりとした肉汁、それを追って広がるドレッシングの酸味、シャキシャキ野菜も食感が堪りませんね。白パンを口に入れると、シチューの時にはあっさりと感じた白パンも甘く感じる。
白身魚とサラダを同時にフォークに刺して口に入れる。これも、やばい。白身のアッサリした甘さとドレッシングがいい。あと、野菜と白身の相性も抜群だ。タコも美味しかったけど、こっちも美味しい。
それにしても、タコも白身魚も綺麗な薄切りだ。白身魚なんて透けるほど薄い。マスターさんのあの肉球が存在しているであろう手で、どうやってこんな綺麗なスライスができるんだろう。
そもそも、手とか、髭とか、火を使った時に毛がちりちりになっちゃったりしないのかな。心配だ。心配なんだけど、お料理はマジ美味い。マスターさんの心配より今は食事に惹かれてしまう。シチューを食べ進めて最後の一口はタコで〆る。ご馳走様でした。
食べ終わって顔を上げると、ネロはもう既に食べ終わっていた。ネロは背もたれに寄りかかりながら俺を眺めている。目が合うと、ネロは目を少し細めてくれる。俺も応えてニコってしてみた。その後で、いつも通りにお茶を淹れてくれたネロは片付けをしていってくれる。
因みにデザートはお腹がいっぱいで後で食べる事にした。デザートの赤紫色のムースに〈シール〉をかけて貰ったんだけど、よく考えると、これはどうすればいいんだ。考え込む俺を覗き込んできたネロが、疑問を伝えるように小首を傾ける。
「俺は解除ができなかった。」
「そうか。」
俺の言葉で気が付いたのか、ネロも困った感じでテーブルの上に置かれたデザートを見つめる。あ、でもあれだ。レオさんがいるじゃん。レオさんは〈シール〉を解除できる人だった。
「あ、この後、レオさんのトコに行くよね。レオさんに解除して貰えばいいかな。この家まで送って貰えるなら、どうせここに来るし。どうだろう。」
「そうだな。」
デザートは一安心、って事になってにっこにこになる。




