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65 いや、今直ぐ出る

 アルさんの居室の手前でネロを振り返ってみる。俺に手を引かるままに、のろのろと後ろをついてくるネロの少し濡れた服の袖を見て思い出してしまった。


「ネロ、〈浄化〉と〈乾燥〉をお願いするの忘れてた。今できる?」


 アルさんに会う直前のこのタイミングでのお願いでも、ネロは頷いてくれた。ネロの詠唱で、冷たい水が俺の周りを包み込んでいく。その後に、暖かい風がふわっと吹き荒れてさっぱりとした。


 これくらいの風量なら髪は乱れない、かな。そう思いながらも手櫛で少し整えてみる。俺が髪に手を触れたら、ネロも俺の髪に手を伸ばしてくれた。ネロが髪に優しく指を滑らせてくれる。髪を整えるのはネロに任せて、ネロを見上げていると、俺と目を合わせたネロが優しく目を細めてくれる。


「大丈夫そう?」


 ネロを見上げて聞いてみる。ネロは静かに頷いてくれた。ニコッと笑顔でネロにお礼を言って、失礼しますっとアルさんの居室のカーテンに手を伸ばしてみる。


 カーテンを開けると、ふんわりと柔らかい笑顔のアルさんが出迎えてくれた。今日のアルさんはベッドの上じゃなくて、椅子に座ってお茶を飲みながら待ってくれていたみたいだ。アルさんは今日も若々しく見える。今日は、そうだな。俺の姉くらいの歳に見える、かな。


「こんばんは、アルさん。」


 にこっと挨拶をしてみると、こんばんは、とアルさんもほわっと和やかな笑顔を返してくれた。俺の後ろに一瞬視線を飛ばしたアルさんは、俺に視線を戻してにこにこ笑顔を浮かべてくれる。


 居室の入り口で挨拶していたからか、アルさんが俺を招き入れてくれた。自発的に動く気配のないネロの手を引いて中に入らせて貰う。部屋の中で俺も後ろを振り返ってネロを見てみると、ネロは少し俯いていて元気がない。やっぱり体調不良で間違いない。


「アルさん。ネロはちょっと体調が悪いみたいなの。お仕事は今日じゃなきゃダメかな。」


「ん~。困ったわね。でも、体調が悪いというのなら仕方がないわね。」


 俺的には体調が悪いネロを送り出すのは心配だ。ネロもできれば休みたいって感じにみえる。って事で到着そうそう、アルさんにネロはお休みできるかを切り出してみた。アルさんは少しだけ困ったように眉を寄せてしまったけど、頷いて了承してくれた。


「良かった。ネロ、おやすみしていいって。」


「ネロなら五日もあれば片付く仕事だと思うけど、しょうがないわね。治ったらもうちょっと遠くに行って貰う事にするわ。その場合は、多分、帰って来るのに二週間くらいかかっちゃうかもしれないけど、しょうがないわよね。」


 普通に聞こえていただろうけど、振り返ってネロにOKを貰った事を伝えてみる。ネロが顔を上げて俺と目を合わせた後で、視線をアルさんに移した。アルさんがネロに向かって話し始めたのが聞こえる。


 顔を前に戻すと、笑顔のアルさんが目に映った。アルさんは優しい口調でネロに次回の仕事についての話をしている。にっこり笑顔のアルさんはいつも通りの優しい笑顔な筈。なのに、何故か背筋がゾクッとしてしまう。


「そうだよね。体調悪いままで仕事に行くより、ちゃんと治ってから行った方がいい気がする。ネロ、良かったね。」


「いや、今直ぐ出る。琥珀を頼む。」


 俺の言葉に被るように、アルさんの台詞に反応したネロに、え?っとなってしまった。振り返ってみると揺れるカーテンしか見えない。ネロは体調が悪いのは確実なのに、大丈夫なのかな。不安になりながらアルさんに視線を戻してみた。


「アルさん、ネロは大丈夫かな。仕事の途中で倒れたりしない?」


「ネロなら大丈夫。死にかけても仕事を終わらせて戻って来るわよ。」


 アルさんの笑顔が怖いです。死にかけてもって、ただの冗談だよね。死ぬほどキツイ仕事ですよって意味なだけだよね。判断に困ってアルさんをじっと見つめてしまうと、アルさんがニコっとしてくれた。やっぱ冗談っぽい。良かった。


「それより琥珀さんはまだ眠くないかしら。大丈夫?今日は寒いから一緒に寝ましょうね。」


 優しい気遣いのアルさんの言葉を聞き流して頷いてみる。後半部分をもう一回頭の中でリピートしてみた。一緒に寝るって言ってたような気がする。寒いから一緒に寝るって言ってた。


「アルさん。俺はソファとかで寝かせて貰います。凄く寝相が悪いし、寝言を言っちゃうかもだし。」


「問題ないわ。みんなそんなモノよ。ガトの子達なんて大暴れでベッドが壊れるかと思っちゃうくらいだもの。少しくらい寝相が悪くても気にしないわ。」


「えっと、あの。一応俺は男だし、アルさんと一緒に寝るのはちょっと問題かなって。」


「あら、こんなお婆ちゃんでも女扱いをしてくれるのかしら。気にしなくていいわよ。」


 やんわりと断りの言葉を出してみても、アルさんは巧みに絡めとるように肯定に持っていってしまう。駄目だった。流石族長さんである。アルさんは言葉が巧みで太刀打ちできなかったでゴザル。


 まぁ、ベッドもネロのトコ以上に広いから、端で寝かせて貰えば問題ない筈。断る言葉の選択肢が尽きてしまって諦める事しかできない。にっこり笑顔のアルさんに、困った笑顔を返すのが精一杯になってしまった。


 でもね、せめてもの足掻きで、まだ眠くないから、と睡眠の件については先延ばしにしてみる事にする。眠くない件は了承してくれたアルさんが、本でも読む?と奥の棚から本を沢山出してきてくれた。ペラペラと捲って読めそうな本を探してみる。


 挿絵の沢山入った武器の本が目に留まって、本を開いてみた。アルさんが用意してくれた椅子に腰を下ろして、流し読みをしていく。伝説の武器の特集らしい本の中のある見開きで指が止まってしまった。


 装飾も見た目も全く違うけど、何となく雰囲気の似ている2本の赤い色の武器達の挿絵だ。東の大陸で千年以上も前に伝説の職人が鍛えた二振の武器。


 威力は相当なもので、大太刀を振るえば雲が沸き立ち陽が隠れ、薙刀を振るえば大気が震えて月が霞んだという。伝説の波に埋もれた二振の宝剣は、今は存在すらも確認できていない。


 そう説明されていた。挿絵は伝承を元に絵師が書き下ろしたもので、実際のモノとは異なる場合があります、と訳注がついていた。


 うん、この挿絵より実物の方が何百倍も、何千倍も比較にならないくらい美しいし、可愛い。そう思いながらも挿絵を撫でてしまった。頭を撫でられて顔を上げる。アルさんが近くに立っていて、俺の読んでいる本を覗き込みながら頭を撫でてくれていた。


 アルさんは表情が優しくて、慰めてくれるように頭を撫でてくれている。俺がこの本を見ながら感じた事を悟ってくれてる感じがする。アルさんはネロにも最初からあの子達を解放してって助言してくれていた。何かを知ってるって事なのかな。


「アルさんはどこまで知ってるの?」


「ん~。全部、かな。結末まで全部分かってる。ごめんね、ツラかったよね。」


 アルさんに問い掛けてみると、一瞬悲しそうに顔を歪めたアルさんが答えてくれる。言葉を返してくれながら、アルさんが頭を撫でてくれた。優しいアルさんの口調でほんわかと心が解けていく。


 確かにツライ選択だった。でも、あの子達が俺の為に行動してくれたのは凄く嬉しい。あの子達の想いが凄く嬉しかった。会えなくなったのは寂しいけど、あの子達はいつかは戻ってきてくれるって知ってる。だからもう平気。


「この指輪も知ってる?」


「うん。いい指輪ね。琥珀さんを守ってくれてる。」


「そう。胡蝶も、白雪も。俺の大事で大切な子達。」


「琥珀さん、名前、あげたの?」


 ゆっくりと穏やかに、思い出話をするように話していたアルさんの、最後の言葉だけが驚いたよな響きを含んでいた。指輪に向けていた視線を上げてアルさんを見上げる。金色と緑の混ざり合った綺麗なアルさんの目が驚きで大きく瞠られていた。


「うん。名前が欲しいって。だから俺が名付けた。あの子達はこの名前が好きって喜んでくれた。でも、父親がくれた名前も大切にしてたよ。」


「そう。きっと、無事に戻って来るわ。大丈夫。」


 俺の話を聞いたアルさんは、少しだけ落ち着いてくれたみたいだ。その後で、俺に、というよりは自分に言い聞かせるようにアルさんが小さく呟く声が聞こえる。


「うん。戻って来るよ。約束したから。」


「また、元気なあの子達に会えるといいわね。」


「うん。ありがと。」


 俺をぎゅっと抱き締めてくれるアルさんの体は柔らかくて温かかった。でも、アルさんの呟いた声も体も少し震えていて、思わず手を伸ばしてアルさんの背中を撫でてみる。


「アルさん、どうかした?」


 椅子に座った状態で、立ったままのアルさんの背中を撫でていると、少ししてアルさんは落ち着いてくれたみたい。体の小刻みな震えが収まってきたけど、俺に抱き着いたままで離れてくれないアルさんに声を掛けてみた。


「何でもない。何でもないの。」


 俺の声で、再び震えるアルさんの体で感情がぶり返してしまったって分かった。掠れて泣いているような、いつもと違う幼い喋り方のアルさんに、少しだけ困惑してしまう。


 よく分からないながらも、落ち着いて貰おうと、アルさんの背中をゆっくりと撫でてみる。長い間、俺にしがみ付いて離れてくれないアルさんから少し体を離そうとしてみた。アルさんは嫌がる感じで、縋りつくように寄ってきてしまう。


「アルさん、横になろうか。立ったままで泣いてたらキツイでしょ。俺は隣で座ってるから、近くにいるから大丈夫だよ。横になった方が落ち着くでしょ?」


「琥珀さんも、一緒。」


 理由は分からないけど、何かが不安になってしまったらしいアルさんに提案をする事にした。イヤイヤとアルさんが首を振る振動が伝わってくる。それと同時に、幼い喋り口調でアルさんの掠れているけど綺麗な声が響いてきた。


 胡蝶と白雪の事が原因で不安になった事は分かる。俺が名前を付けたって事に動揺をしてしまった感じもする。でも、それ以外はアルさんが話してくれないと分からない。


 今の状態では聞く事もできないし、聞いていいのかも分からない。少なくとも、アルさんは何でもないって答えている。答えたくない事なのかもしれない。何れにしても、アルさんが落ち着く事が一番重要だ。


「分かった。じゃぁ、一緒に横になろ。ゆっくり寝れば不安なのもなくなると思うから、ゆっくり休もう。」


 頭の上で頷くようにアルさんの体が揺れた。俺から離れてくれたアルさんが、のそのそとベッドによじ登っていく。ワンピースの裾がよじ登る後姿で少し捲れて、綺麗な白い太腿が見えてしまった。


 張りがあって若者のような綺麗な脚と、白い毛が混じる艶のある薄桃色の尻尾が二本見える。尻尾が誘うように揺れて、思わず目を逸らしてしまった。


 ベッドによじ登ったアルさんはブランケットに包まってしまう。アルさんは俺にも入ってこい、とブランケットの片側を持ち上げてくれた。ベッドに片手をついてよじ登ってみる。


 ブランケットの中に入る時にちらっと見えた、アルさんの金色と緑の混じる目はやっぱり濡れて潤んでいる。寝転がりながら、一瞬迷った後で、アルさんの頭を撫でみた。アルさんが俺にしがみ付いてくる。


 そっと頭を撫でながら仰向けになって天井を見上げる。仰向けになった俺の右腕をアルさんが抱き締めてきて身動きが取れなくなってしまった。アルさんの頭を撫でていた左手を離して、自分の頭の下に差し込んで枕にしてみる。


 ボンヤリと見上げる天井は見慣れたモノではない。ネロの家より高い位置に太い梁が巡らされていて、天井の隙間から暗い空が見える。テントっていうより、古民家って感じの光景かな。でも、覆っているのは布っぽいから、やっぱりテントって感じなんだよね。


 天井で輝く〈照明〉の光の中に反射して、溜まった雨粒が透明な隙間を流れ星のように流れていく。空が見える所は透明な布、なのかな。そんなのがあるかは分からないけど。ネロの家より天井の透明な部分の面積が大きい。晴れていれば空が良く見えるんだろうな。


 アルさんは少し落ち着いてくれたみたい。〈照明〉を消したアルさんは、俺の右腕を抱き締めたまま、俺の首筋に顔を寄せて寝始めてしまった。寝息が首元に当たってくすぐったい。


 アルさんが落ち着いたみたいだから、っと腕をそっと引き抜こうとしてみた。アルさんが嫌だって感じで、ぎゅっと右腕を抱き締め直されてしまう。その上で、右太腿にも足を絡められて、更に固定されてしまった。


 さっきまで全く気にならなかったアルさんの胸の柔らかさと、太腿の柔らかさと首に届く温かい息でドキドキしてきてしまった。アルさんのバニラのような香りで更にドキドキが加速していく。ダメだ、耐えろ、俺。相手はお婆ちゃん猫だ。孫と祖母が一緒に寝ているようなモノだ。


 ちらっと横を見るとアルさんの綺麗な髪が暗闇でも少し輝いている。後ろを向いてしまおうと、もう一度、腕を引き抜いてみた。失敗してしまった。ギュッと腕を抱き締められて、アルさんの太腿の間に俺の手のひらが固定されている。


 上腕、手のひら、太腿を固定されてどうにも身動きが取れない状態になってしまった。動けない。しかも、アルさんの太腿の間に手のひらが入ってしまった事で、指一つ動かせない状況になってしまっている。柔らかいアルさんの太腿の感触が手のひらに伝わってくる。


 さっき、アルさんがベッドによじ登る時に見えた、白くて張りのある太腿が脳裏を過ってしまった。腕に当たる柔らかい胸の感触もヤバい。ピクリと指が動いてしまった。反応するように聞こえるアルさんの吐息のような声。


 ホントにマズい。非常にマズい。ピンチなほどヤバい。どうすれば、そうだ。公式。数学の公式だ。物理でもいい。こんな時は公式なんだよ。思い出せ。えっと、え~っと。


 数学といって思い出す単語はやっぱりサイン、コサイン、タンジェントだよね。そして、三平方の定理。確か、斜辺の2乗は他の2 辺の2乗の和に等しくなるだったよな。公式は c² = a² + b² 。


 間違ってるかもしれない、でもいいぞ。高校の先生、俺が覚えるのに時間がかかっても根気よく教えてくれてありがとう。今この瞬間にメッチャ役立ってますよ。やっぱり数学の公式って重要だよね。


 他には、ん~。等加速度運動は一直線上を一定の加速度で進む運動で公式が3つあった、筈。えっと、あ~、v=v0+atと、ん~、あ、s=v0t+(1/2)at²。あともう1つの公式、あぁ、思い出せない。


 そもそも、公式はこれであってたかな?いや、間違っててもいい。そこは問題じゃない。あ、そういえば、この世界って魔法があるから、この公式では物理法則を導き出せない気がしてきた。


 まあ、いいか、そんな事も今は問題ではない。正解とか正しいとかは二の次なんだよ、他のだ、思い出すんだ。こうして俺のアルさんの横での一晩は、煩悩を消す為に公式を永遠と思い出す作業で終わった。


 空が薄明るくなってきた頃に、アルさんが身動ぎして腕を解放してくれた。俺の煩悩よ、さようなら。ベッドの端に寄って体を丸めて安堵の睡眠に入る事にする。


 眠りに落ちようとした時に、背中にくっついてくる温かい塊と俺の胸の前に回された細い腕で意識が戻ってしまった。背中に当たるのはやっぱり柔らかい体。


 寝れない。眠れる訳がない。アルさんてホントに何歳なんだろ。おばあちゃんとか、大昔とか何十年とか言ってたし、結構なご高齢だと思うんだよ。俺が邪な心を持つのもどうかと思うよね。小さく深呼吸しながら寝ようと試みたけど、やっぱり寝られない。

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