34 あの時は少し動揺していた
アルさんの居室に到着すると、アルさんが何か書き物をしていた手を止めてくれた。キラキラした瞳でこちらを見つめて、こんにちは、とにっこり笑顔のアルさんが挨拶をしてくれる。
緑と黄金が混ざり合って、とても綺麗な瞳だ。俺も笑顔を返して挨拶をする。今日のアルさんは年寄りと言うよりは、落ち着いた大人の女性に見える。毎回、アルさんの見た目の年齢の印象が変わって見えて不思議な感じが半端ない。
「琥珀さん、この前は本当にごめんなさいね。私ったら年甲斐もなくはしゃいじゃって迷惑を掛けてしまったわ。」
「いえ、大丈夫です。俺こそ凄く心配を掛けちゃってたみたいでごめんなさい。」
口を開くとお互いの謝り合戦がスタートしてしまった。
「族長。」
低く短い声が俺とアルさんに割って入ってくる。ちらっとネロを見たら、全くの真顔でアルさんを見据えている。せめて、族長というか、上司の前では愛想良くすればいいのに、と思ってしまった。
「ああ。そうだったわ。琥珀さんにこれをお渡ししようかと思って。」
そう言ってアルさんがネロに指示を出した。ネロは無言で部屋の隅の年代物っぽい美しい保管箱の中から、水色の如雨露を取り出して戻ってきた。ガラス製に見える、少しくすんでいて年代を感じさせるけど綺麗な如雨露だ。
ああ、と思い出した。あの時に赤い毛の子、すなわちアルさんが持っていた如雨露だった気がする。あの時は子供時代のアルさんにしか注意がいかなかったけど、あの時、あの子猫が手に持っていた如雨露だった筈。やっぱりアルさんがあの子だったのかと改めて実感する。
「これは大昔、私が使っていた水差し。元々は代々、凄い昔の時代からガト族に伝えられている水差しなの。琥珀さんが神殿に、神樹様にお会いしに行くと聞いて、是非使って貰いたいと思ってしまったのよ。急に呼んでしまってごめんなさいね。」
「ありがとうございます。両手だとあんまり水をあげられないから、助かります。でも、貴重な物みたいだけどいいんですか?落として壊しちゃったりしそうで怖いから、他になんか桶とかあればそれでもいいんですけど。」
「いえ、この水差しで是非お願いします。神樹様もお喜びになると思うの。」
「了解です。終わったら返しにきますね。ちょっとだけ使わせて貰います。」
如雨露を受け取って、手で持ってみる。手に吸い付くような滑らかな質感で、ガラスだと思うけど全く重さを感じさせない不思議な如雨露だ。俺が受け取ると、にっこり笑顔で送り出してくれるアルさんにお辞儀をしてテントの外に向かった。
外に出て、俺について出てきたネロに振り返ってみる。ネロが一点に視線を向けてから俺を見た。ネロの視線を辿った先には、もう既に籠が用意されている。マントで体を包んで、籠の中に納まるとフワッと浮き上がる感覚があった。ネロが籠を持ち上げて直ぐに移動を開始したらしい。
ホント、ネロは細く見えるのに力はあるな。感心しながらアルさんから渡された如雨露に視線を落としてみる。陽の光を反射して、古ぼけた如雨露はくすんでいるのに少し輝いてるようにも見えた。
如雨露を光にかざしてみると、ガラスの濃淡が鮮明になって何か紋様に見える模様が描かれているのが分かった。筆で描いたり表面を削ったりして描かれているのではなく、色の違うガラスを混ぜ合わせてそのまま形になったようにも見える紋様のような模様。もし、意味のある紋様を狙って作ったのだとしたら相当凄い技術だと思う。
集中して如雨露を観察していたら、陽の光を反射していた角度が代わって籠の上の方に光の道筋が見えた。光の方向を辿ったらネロの顔に当たっている。俺のかざしていた如雨露が光を反射してネロの顔に照射されたらしい。眩しそうに目を細めながら前を向いて移動するネロにごめん、と小さく呟いて膝の上に如雨露を膝の上に下ろした。
久しぶりに感じる神殿の風景は凄く新鮮に感じる。いつもは内側から出て眺める先の森側から神殿を眺めているからだと思う。白い石造りの古い、今にも崩れそうな建物が崩れた橋を挟んだ向こう側に建っていた。
池の中州の右寄りに鎮座する神殿とそれに寄り添うように左寄りだけど、ほぼ中央に立つ巨大な古木。こう遠くから眺めてみたら、神殿の横に大樹が立っているのではない気がしてきた。大樹の脇に神殿を建てたのかもしれない。前後関係は判らないけど、古木の方が主張しているような気もする。
ネロは腕を組んだまま動かない。ここで待つらしい。ちょっと行ってくるね、とネロに声を掛けて左側に迂回して木の根っこの橋を渡る。今まで気が付いていなかったけど、中州は少し歪だけど三日月のような形をしているらしい事が見てとれた。
窪んだ中州の中央部に古木がいるから、古木の近くにすぐ水辺があるみたいだ。神殿の反対側は水辺が少し遠くて、古木側は水辺が近いから、神殿が真ん中に立っていると思い込んでいたのかもしれない。
根っこの橋を渡り、古木に近付く。幹にそっと手を触れると、上空でさわさわと木の葉の騒めきが聞こえた。木の幹に手を置いて少し目を閉じる。俺を助けてくれてありがとう、と小さく呟いて目を開けた。ちょっと待ってね、と声を掛けて、手に持っていた如雨露で水を汲む。
水が多すぎると重くて持てないから少しだけ。そう思いながら水面から如雨露を持ち上げる。透き通った如雨露の胴体の内部には、ちゃんと水の揺らめきが見えるのに全く重くない。何も入っていない如雨露と全く重さが変わってない感じがする。不思議な力なのか、力が全くない俺にも優しい仕様になってるらしい。
重さが変わらないなら、水をマックスまで入れ直す事にした。満タンの如雨露で木の根元と幹にゆっくり掛けていく。樹の幹を一周ぐるっと注いで回って、丁度如雨露の中の水を使い切った。
また来るね、と樹の幹に手を置いて声を掛けてみる。その瞬間、周囲に薄緑色の蛍みたいな小さな光の玉が無数にふわふわと現れた。陽の光を反射とかじゃなくて、自らキラキラと煌めく小さな光達に驚きながらも、周囲を見渡してしまった。綺麗、だけどなんだこれ。蛍、かな?
(神樹の子供達のようです。)
子供?種って事かな?
(はい。正確には神樹はもう植物という枠を遥かに超えている為、神樹から生まれる精霊や妖精のような存在です。移動し、他の地で定着する事により神樹の眷属として繁殖していきます。)
こんなに沢山の子供達が他の土地に移動してそこで定着するんだ。凄いね。
(他の地に移動し定着するモノと、この地に留まり土地を潤すモノが存在しているようです。他の地で定着するものは極少数です。多くはこの地に留まります。)
神樹がこの土地を潤してるって事?めっちゃスゴイ。他の土地に言った子ともいつか出会えるといいね。そう思った途端にふわふわと光の玉が俺の周りに集まってきた。喜んでくれたのかな?
暫くの間、俺の周りは無数の光の玉に包囲されてしまって身動きが取れなくなってしまった。周り中、光の玉だらけで動いても神樹の子供達に害がないのか判らない為、動けない。光の玉って言うのが脆くて儚い感じがして、動いたら消えてしまいそうだから困ってしまった。
周りの神樹の子供達はいつまで経っても俺の周囲で漂って離れてくれない。どうしようかと思い始めた時に上空で葉っぱの擦れる音がした。
葉の騒めく音を機に、光の玉達は名残惜しそうにゆっくりと俺から離れて、四方八方に飛び去っていった。木の幹に手を置いてありがと、と呟く。木漏れ日がちらちらと俺の顔に降りかかり、葉っぱの音が優しく響いている。
また来るね、と別れの言葉を呟いて、根っこの橋を渡る。まだ腕を組んでいるネロの傍に近付いて、籠の中に納まろうとする俺をネロが制してきた。止められた事に対して首を傾げてしまった俺を、ネロがじっと見てくる。
「先程の光はなんだ。体に異常は無いのか?」
真顔で淡々と話しかけてくるネロに頷いて、問題ないですと伝える。どうやら心配してくれているみたいだ。最近の感じだと、俺の危険を察知したら直ぐ反応してたのに、今回はここから動かなかったらしい。
「心配ならネロも一緒にこれば良かったのに。」
「あの場所は聖地。無暗に足を踏み入れていい場所ではない。」
「俺は無暗に足を踏み入れてるよ。不可抗力な部分もあるけど。」
「琥珀は問題無い。そういうしきたり。」
成る程、ガト族の人達的は特別な事情がない限り、あの中州には入っちゃダメって事なのか。
「でも前に一回、神殿の前で俺を待ってた事あったよね。俺がガトの村に初めて来た次の日だったかな。神殿から出たら目の前にいたじゃん。あれってあそこだよね。」
「あの時は少し動揺をしていた。」
神殿の入り口を指差す俺に頷いたネロ答えてくれた。真顔で答えたネロに少し笑ってしまう。少しどころじゃなかったよな、あの感じは。なんでも淡々と冷静にこなす日常生活のネロを思い出して更に頬が緩んでしまった。俺の様子を見たネロは問題ないと判断したのか、籠に入れと促してくる。
はいはい、と籠に潜り込んでおっけー、とネロを見上げた。俺を見ながら籠を持ち上げたネロが一旦遠くを見てピクリと耳を動かした。そのまま跳び上がる事もなく、俺の入った籠を抱えたネロが立ち尽くして動かない。
疑問に思って声を出そうと思った時に、森の中から赤茶色の小さな塊が飛び出てきた。俺の入っている籠の縁に掴まって俺を見つめてくるこの可愛い子は、あの時の仔猿だ。えっと、名前は確か。
「カイム、そこから降りろ。」
そうそう、カイムって名前だった。カイム、っと声を掛けて仔猿の小さな頭を撫でてみる。つぶらな濃い茶色の瞳で俺を見つめたカイムが、首を気持ち良さそうに傾げてくれる。
少しの間撫でさせてくれたカイムは、お礼なのか小さな手で大きくて深紅の果実を差し出してきた。ありがと、と受け取ったら、カイムは籠の縁からネロの肩に飛び乗ってしまった。行動も見た目もめっちゃ可愛い。
ネロの肩に乗ったカイムは、くりくりした濃い茶色の目でネロを見つめている。ネロも静かにカイムを見ている。少しの間ネロと見つめ合った後で、カイムはまた森の中に消えて行ってしまった。
行くぞ、低く呟いたネロが跳び上がる。膝の上に乗っている水色の如雨露と赤い果実を見比べている間に村に到着していた。
静かに籠が降ろされた気配で顔を上げると、ネロが手を差し出してくれていた。手を掴んで立ち上がる。落とさないように如雨露と果実を抱えて、目の前の族長のテントに入って行くネロに続いて中に入らせて貰った。




