32 ご自由にお生き下さい
寝室を出るとネロは書類仕事をしていた。俺が出てきたのを見たネロが書類を纏めて端に置き、お茶の用意を始めてくれた。ごめんなさい、と謝る俺に、ネロは落ち着いたか?と低く優しい声で気遣ってくれる。
優しい声に安心しながら、ネロに応えて頷く。椅子に座るように促されて、腰を下ろし、ネロに手渡されたお茶を飲む。
ネロはなんでこんなに優しいんだろう。アルさんの言う月の神の化身だからなのだろうか?でも俺が少し貧弱な普通の人だと分かってるって言ってたし。
「琥珀。ガトが、俺が怖いか?」
考え込みながらお茶を飲む俺を見守っていたらしいネロが口を開いた。ぼんやりとお茶を飲みながら考え込んでいた俺は、ネロが何を言い出したのか分からず首を傾げてしまう。別にネロは全然怖くない。ちょっとびっくりしただけで、ガトの人達も怖くない。
「一人で過ごしたいのであれば、俺は他の家に移る。お前はここを使え。」
「えっ、ネロは出てっちゃうの?」
「共にいる事が嫌であれば出て行く。」
「そんなのやだ。一人の方がやだ。怖い。」
子供みたいに駄々を捏ねてしまった。スツィがいたけど、一人で過ごしたあの時間は気が狂いそうな程きつかったのだと改めて思う。今も平常でいられる方がおかしいくらいに。またここで一人にされるのは絶対に嫌だった。怖かった。
まだあの時は自分が何処にいるかも分らず、一杯いっぱいで唯一話せるスツィがいれば平気で、きついという感覚はなかったかもしれない。でも、対面して話せる人と一緒に過ごす時間が増えた今、一人は無理だ。泣きそうになる。
「大丈夫なのか?俺がいて。」
ネロにこんな口調ができるのかと驚く程に、子供に話し掛けるようにゆっくりと、今までで一番優しく問い掛けてくる。こくり、と頷く俺に少し目を細めたネロが、分かった、と言って立ち上がった。
「今日もこの家で食事をしよう。」
テーブルの上の書類を纏めて持ち上げながら、静かに語り掛けてくるネロから視線をカップに移して頷く。俺の持っているお茶の水面が少しだけ揺れているのが見える。
ネロが気を使ってくれているのが声からも伝わってきて、一人じゃないって実感できた安心が指先に伝わったらしい。書類を棚に片付けたネロが向かいに座るのを視界の片隅で確認する。
「ネロは、俺がいて迷惑じゃないの?寝なくても大丈夫って言っても睡眠もあまり取れてないみたいだし。約束があっても俺に付き合ってるから行けないし、仕事も俺がいると中断されちゃうし。」
さっきは凄い拒絶の姿勢を見せちゃったのに、余りに静かに俺を受け入れる姿勢を見せてくれるネロを見て、自分が子供っぽい主張をしているのだと自覚してしまった。
「ネロこそ嫌だったら俺は神殿に戻るよ?学び舎は行きたいから、手間かもだけどちょっと迎えに来て貰わなきゃだけど。それも迷惑なら俺は一人でも大丈夫。何とかなる。」
精一杯強がって先程の自分の主張に自分で反論するような言葉を絞り出していた。カップを抱えている自分の手元を見てた筈なのにどんどん俯いていってしまう。微かな甘い香りが近付いたと思ったら、頭を優しく撫でられていた。
「俺は問題無い。」
ネロの低くて優しく断言する声が耳に響く、凄く安心できる声。あんなに酷く拒絶したのに、こんなに優しい声で受け入れてくれるネロの存在が嬉しい。
スツィ、俺はダメ人間になるかもしれない。このネロの優しさに頼ってしまう、このままネロに甘えてこの世界で生きていってしまいそう。俺がダメ人間になってもスツィはずっと一緒にいてくれる?離れて行かない?
(はい。『ダメニンゲン』の定義が分かりませんが、私は永遠に琥珀様と共にいます。琥珀様に行動制限はありません。ご自由にお生き下さい。)
ありがと、スツィ。ごめんね、俺かなり気弱になってるっぽい。少しの間、頭を優しく撫でてくれるネロの優しさに浸っていたけど、ふと気が付いた。そういえば、さっきは突然の事で驚いてネロに運び出されちゃったけど、取り残されたニル君とシリアさんはどうなった。二人共めっちゃ驚いてたのは記憶に残ってるから、心配になってきた。
「あっ、ニル君は大丈夫かな?シリアさんも。さっきはめっちゃびっくりしてたよね。」
顔を上げて話し掛けたら、ネロが少し驚いた顔をしてしまった。なんか、学び舎の子達の話だとネロってクールさが売りでいつも無表情で冷静な所がいいって事だけど、驚いた顔をよく見る気がする。俺って、そんな非常識な事ばっかしてるのかな?少し凹みながらも今はニル君とシリアさんっ、と考えを戻す。
「シリアはともかく、ニルは放っておけ。」
冷たく言い放つネロに、そういう訳にはいかないでしょ、と宥め賺して何とかもう一度工房に向かう事を了承して貰った。その前にトイレ~、と断りをいれて、一応、不慮の事故に備えてトイレでこっそり〈根性〉を発動させておく。
もう一日以上経ってるし発動しても、精神異常値は大丈夫な筈、と思いたい。寝室に戻って綺麗に畳まれていたマントを掴む。マントを羽織りながらリビングに戻って準備万端、行こ、とネロに視線を向けた。
俺と目を合わせたネロが渋々といった感じで入り口を開けてくれた。もう覚えた工房までの道を元気良く歩いていく俺の少し後ろを、ネロが黙って静かについてくる。
黙っている上に歩く音もしないから、ちゃんとネロが後ろにいるか振り返って確認してしまった。相変わらずの無表情なネロが目に映る。そして、周りの道行く若い女の人から子連れの奥さん、お婆さんまで色々な年代の女の人がネロに注目しているのも同時に目に入ってきた。
注目してると言う表現はかなり湾曲した表現かもしれない。実際には、どう見ても皆さん、ネロを見て頬を染めて夢中になってる表情だ。どう見ても、周りの女の人達はネロに惚れてます、って感じだよね。まぁ、綺麗な顔と恵まれた体格、寡黙で優しいとくれば惚れても間違いはないのかな。
それにしてもネロはあんな注目されてるのに一切動じてない。慣れてるというか、興味の欠片すらないって感じで完全に無視してる。渦中の人じゃなきゃ分からない悩みもあるだろうけど、こんなにモテるのは素直に羨ましい。
俺は普通にネロとそれを取り巻く環境を冷静に眺めて、色々考えていたんだけなんだよ。でも、俺が元気に歩く姿をカラ元気と捉えたのか、ネロが俺に追いついてきた。
隣に並んだネロを見上げたら、心配そうに見下ろしているネロの瞳が見える。心配ないよって、笑顔を浮かべたらネロが眉を少し寄せるのが見えた。余計心配させてしまったのかもしれない。言葉以外で思いを伝えるのは難しいね。
「琥珀、辛いなら今日じゃなくてもいい。ニルならいつもあの工房にいる。」
「大丈夫。俺もさっきは驚いただけだから。」
心配そうなネロを安心させようと、にっこりと笑顔を浮かべてみた。そして、止まらずに工房を目指して歩き続ける。工房の入り口の前で、少しだけ躊躇した後で中に入ってみた。
「ニル君、いますか?」
中に入って小さく声を掛けたけど、いつも座っている作業台にはニル君の姿が見えなかった。更にはその奥にいた筈のシリアさんの姿も見付からない。
二人を探して、工房の中に視線を巡らせてみる。驚愕の表情を浮かべたニル君が、工房の隅のちょっと暗くなっている所で俺を凝視しているのと目が合った。シリアさんは困った表情で膝を抱えて座り込んでいるニル君の傍に立ち尽くしてる。
ちょっとどういう状況か掴めなくて二人を眺めてしまった。俺を目で捉えたニル君が急に立ち上がって、ぽてぽてと俺の近くに歩み寄ってくるのが見える。やっぱ、毛色は違うけど雪丸に似てる。ニル君の足音を聞きながら少し和んでしまった。実家の愛猫とは見た目も毛色も全然違うけど、ニル君の存在から何となく雪丸を思い出してしまう。
ニル君が歩み寄ってきた事に警戒したのか、ネロは俺の斜め前に立ってニル君の進行を妨げている。ネロの体越しに見えるニル君は、耳が極限まで後ろに倒されて、尻尾をだらんと垂らしていて、反省してる感じが凄いする。
「琥珀、さっきはすまなかった。僕は興味を惹かれる細工品や紋様を見ると、言葉が出る前に体が動いてしまう。浅はかだった。許して欲しい。」
ネロの少し手前でニル君がおずおずと話し出した。後姿を見る限りでは、ネロは黙ったままニル君を見下ろしてるみたいだ。ニル君の話し方が凄くしゅんっとした感じで、滅茶苦茶凹んでる感が伝わってくる。
まぁ、確かに俺も驚いて動揺しちゃったけど、それ以上にニル君も驚いたよね。それにニル君は部屋の隅で蹲ってたけど、さっきのが原因で怪我したとかじゃないよね。マジで心配になる。
「うん、俺もごめんね。ちょっとびっくりしちゃっただけだから大丈夫。ニル君はケガとかしなかった?シリアさんも目とか大丈夫?めっちゃ明るい光だったし。ルーペしてたよね?」
「私は大丈夫。光に驚いて顔を上げただけだから。」
「僕も、大丈夫だ。」
心配を言葉に出して聞いてみたら、全然平気って感じで答えてくれるシリアさんとぼそぼそとしゃべるニル君。さっきの指輪を調べてた時の迫力どこ行ったって感じてしまう程に、ニル君が借りてきた猫みたいに大人しくなってる。ネロの手前で立ち止まったまま、それ以上近づいてはこないで俯いているニル君の姿が、反省している猫みたいで凄く可愛い。
「ニル、謝罪が済んだなら、仕事にかかれ。納期が迫ってるんだよ。」
俺に謝ったのを区切りとしたのか、シリアさんが悲痛な声で仕事の継続をニル君に訴えている。でも、ニル君はシリアさんの声なんて聞こえてない感じで、しょんぼりと動かない。
「ニル君。俺は平気だから、大丈夫だから。仕事しよ。ね。俺もニル君が作る装飾品を見てみたい。ダメかな?」
かつて姉ちゃんが父さんにしていたオネダリの口調を精一杯真似て、ニル君に近寄って手を握ってみた。冗談半分で今の暗い雰囲気を払拭したくて、明るく甘えた口調でニル君に話しかけてみる。
まぁ、女の子のぶりっ子なら可愛いけど男の俺がやっても気持ち悪いよな。無言の空間が広がり自己嫌悪に陥りかけた時、ぽてぽて足音と共に作業台に戻ったニル君が、高速で紋様をリングに刻み始めた。
普通に効いたっぽいのか、姉ちゃん直伝のオネダリ。近くに寄って紋様を刻んでいるニル君の様子を眺めてみたけど、集中しているのか俺には一切反応しなくなっている。
「琥珀さん、ありがとう。ニルがこのまま使い物にならなくなるかと思った。部屋の隅で蹲って動かなくなるし。何を話し掛けても無反応。ダメかと思った。」
「戻ってきて良かった。ネロの言う通り明日とかにしてたら可哀想だったね。」
「本当に感謝してるよ。この仕事が一段落したらニルに何か装飾品を彫らせて贈るよ。」
「いや、貰えないです。気持ちだけで十分です。それに、俺が原因だったし、ごめんなさい。」
「分かった。ありがと。その内『気持ち』を贈らせて貰うよ。」
「ホントに大丈夫だから。気持ちだけで。」
「だから『気持ち』を贈るよ。」
ダメだ噛み合わない。ネロに助けを求めて見上げたけど、興味なさそうに無表情で立ってるだけだ。全く使えない。ってか、このまま話を続けても平行線だよね。困ったな。
「じゃ、俺がいても邪魔になりそうだし。またね。」
ぺこっとお辞儀をして逃げる事にした。テントを出て、謝罪も済んで気持ちも落ち着いた。ニル君のあの感じを見ると後回しにしなくて本当に良かった。
外はまだ全然明るくて、折角外に出たのにこのまま家に帰るのは勿体無い気がしてくる。俺に続いて出てきたネロに、この後はどうしよっか、と聞いてみる事にした。
鍛錬を、と短く答えたネロが、俺の横をすり抜けて鍛錬場の方にさっさと向かってしまうのを、小走りで追いかける。少し歩いた所で、思い出したように途中で立ち止まったネロが、後を追いかける俺に振り返った。
「琥珀は鍛錬はできなかったな。希望はあるか?」
「いや、見てるだけでも面白いから見学しとく。」
「そうか。」
質問してきたネロに首を振って答える。俺が追いつくのを待ってくれたネロは、俺が隣に並んだらゆっくり歩き始めた。鍛錬場に着いて中に入ると髭の鯖虎おじさん、えっと、ヤミさんが一人で鍛錬をしていた。
相変わらず渋い見た目だ。短い髪はつんつんして、その中からぴんと尖った三角の厚い毛に覆われたぼてっと見えるとんがり耳が飛び出ている。顎鬚も相俟って渋くてかなりカッコいい。かなりゴツイマッチョな体から覗く長い尻尾も、綺麗な鯖虎模様である。
猫というよりホントに虎っぽく見えて実にいい、渋さが滅茶苦茶いい。俺がヤミさんを見つめたのとヤミさんが視線を上げたのが丁度かち合ってしまった。お辞儀をしたらニヤリと笑顔のヤミさんが迎えてくれた。
ヤミさんが手に持っているのは、レオさんやネロみたいな比較的小型な武器の短剣や短刀ではなく、両手剣のようなゴツイ武器だ。ヤミさんのムキムキマッチョな体に良く似合った豪快そうな武器。某狩りゲーを思い出してしまう、と関係ない事を考えてしまった。
後ろから入ってきたネロが無言でヤミさんと向かい合い、いきなり切り結んだ。どうやってあの大剣をあんな小さな短刀で捌けているのか良く判らないけど、ヤミさんの扱う大剣の軌道がネロが動くとスイスイと逸れていく。
今回のネロも攻撃を受けるだけで、自分からは仕掛けないらしい。体術と短刀でヤミさんの攻撃を躱したり弾いたりしている。時間が経過する毎に、最初は汗もかいていなかったヤミさんの額や腕から汗が噴き出てきた。息が荒くなり表情も険しくなっていって、ヤミさんの必死さが増していく。
対するネロは時折鋭く冷たい視線を向けてる時もあるけど、基本はいつもの通り無表情で動きの乱れも息の乱れも一切ないように見える。ヤミさんの振るう大型の武器を捌くって事は、運動量は相当ありそうな気がするんだけどな。
ネロは事も無げにヤミさんの相手をしている。大剣の重量を活かしてネロに食いついていたように見えたヤミさんだったけど、時間の経過と共にだんだん動きが鈍っていって、最後はネロの蹴りを食らって鍛錬場の床に転がってしまった。
「相手を予測して動け。」
「ネロ相手に予測も糞もあるかよ。」
転がったままで肩で息をしているヤミさんに冷たく言い放ったネロに、見てただけでも納得できる正論をヤミさんが吐き出した。レオさんの相手をした時も今も、ネロの戦闘能力の高さが際立ち過ぎててヤバい。
体格的にはどう見ても格上そうなヤミさんすらも、全然比較にならない戦闘技術を持っているってのが見てて分かるって凄いよね。いや、本気を出せるのはアルさんだけって言ってたけど、アルさんってどんだけ強いの?あのほんわか、優しくて綺麗で可愛いアルさんだよ?全く想像できないのですけど。
まだ続けるか、と問い掛けるネロに、もういい、と寝転がったままのヤミさんが手を振って意思表示をしている。もう言葉を発する気力もないようだ。大の字に転がったままのヤミさんは立ち上がる気配もない。
大丈夫か心配する俺に、行くか、と短く話し掛けたネロが外に出て行ってしまった。いや、ヤミさんを放置で大丈夫なのかな。ヤミさんの近くに寄って覗き込んでみる。ヤミさんが手を上げてふいふい、と手を振ってくれた。
大丈夫だから行っていいよ、って事かな?なんか二人の組み合いや、遣り取りのニュアンスからいつもの感じって事よね。ヤミさんに小さく手を振ったら、応えて手を振り返してくれたヤミさんを置いて鍛錬場から外に出た。




