110 えっと、知らない
今日もネロはレオさんの家の結構手前で俺を置いて行ってしまった。去り際に渡された今日のデザートを持ってレオさんの家まで黙々と進んでいく。
「あなた、ネロさんの家で世話になってる子?」
レオさんの家まであと数歩という時に後ろから声を掛けられた。聞いた事のない綺麗な艶のある声。初めて聞く知らない人の声だけど、ネロって言葉が聞こえて振り返ってみる。
暗く霞んで視界の悪い中で、民家の灯りに照らされて、こちらに向かって歩いて来る女の人の姿が段々と鮮明になってきた。ハッキリと判別できるくらいに近付いたその人は、大人っぽい落ち着いた感じの綺麗なお姉さんだった。
面識のないお姉さんだけど、ネロの知り合いかもしれない。〈シール〉はしてないみたいで、霧で少しだけ薄茶色の髪も衣服も濡れてきている。
俺より背が高くてスレンダーで、クールで理知的な印象の綺麗な人だ。凄くタイトなスカートを着こなせる程にスタイルが良くて、シャープな感じの美人さんである。斜め分けしたショートの髪型も大人っぽくて凄く似合ってる。
見た事のない綺麗なお姉さんに呼び止められた事で首を傾げてしまう。お姉さんはしっとりと濡れた、少し短い尻尾を揺らしながら、俺に近付いて立ち止まった。
空色の綺麗な瞳が観察するように俺をじっと見つめてくる。こんな綺麗なお姉さんが俺に何の用なんだろ。ネロの名前を出してたし、多分だけど、ネロに用事とかなのかもしれない。
「ネロのお知り合いの方ですか?」
「そうね、お知り合いになりたい方かな。」
ネロの知り合いなら、猫を被っておこう。丁寧に聞いてみたけど違ったらしい。そしてお姉さんの言い回しに首を傾げてしまった。お知り合いになりたい方ってなんだ。
疑問を浮かべつつ、お姉さんをじっと見ていたら、お姉さんがニコっと笑顔になった。笑ってもクールでシャープな印象をキープしてるのが凄い。でも、お姉さんの意図がよく分からなくて困ってしまう。
「ネロさんに私の事を伝えて欲しいかな。でも、あなたも可愛いわね。どう?ちょっと遊ばない?」
困惑した俺にはお構いなしで、お姉さんが話を続けていく。お姉さんの話を聞いていて、何となく分かってきた。ネロ狙いのお姉さんだったみたいだ。ついでに俺を揶揄ってる、と。そういう訳でしたか。そうと分かれば、適当に返しちゃってもいいよね。
「えっと、用事があるので。あと、ご自分で、」
「琥珀。」
お姉さんに断りと、自分で何とかしてって伝えようとする言葉を遮って、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、薄明りの中でレオさんの姿が見える。レオさんは家から出て真っ直ぐに俺達の方に近付いてくる。
「クロエ。俺の家の真横でナンパか?妬けるな。」
そのまま、お姉さんの近くに歩み寄ったレオさんがお姉さんに話し掛けてる。どうやら、レオさんの知り合いだった模様。
クロエと呼ばれた女の人はレオさんの登場でめっちゃ嬉しそうな笑顔を浮かべた。さっきのシャープな印象のクールな笑顔じゃない。凄く可愛い笑顔だ。同じ笑顔には思えない程に嬉しそう。
クロエさんがレオさんの首に腕を回して抱き着いた。レオさんは普通に抱き留めてる。メッチャ大人の抱擁である。ヤバいですな。レオさんの肩越しに見えるクロエさんの表情が輝いて見える。
「だって、昨日は放置されたんだもん。それに、他の女と既にイイコトをしてたレオには言われたくない。」
クロエさんはレオさんに甘えた感じで抱き着きながら、俺を見つめてくる。その状態で、クロエさんが甘えた声でレオさんに文句を言い始めた。空色の綺麗な瞳が潤んでるのが見える。
さっきまで俺と話してた声色や表情とは全然違う。めっちゃ可愛い女の子に見えるし聞こえる。凄い。そして、きりっとした大人の女の人に見えたのに、可愛らしい女の子に変化した。これが女子力というモノなのか。女の子は凄いですね。
「それは、あれだよ。今日はお前は捕まらなかったから仕方ないでしょ。」
「もう少し待ってくれれば来れたのに。でも、今からしようよ。いいでしょ。」
「今からは琥珀と用事があるの。」
「え~、じゃあ。その子も入れてしようよ。そうすれば良くない?」
「琥珀、ちょっと先に家入っとけ。」
クロエさんの圧倒的女子力と、レオさんとの大人な会話に暫し時間が止まって見入ってしまっていた。レオさんが声を掛けてきて時間が動き出した気がする。
「あ、うん。クロエさん、でしたよね。ネロと知り合いたいなら自分で声を掛けた方がいいと思います。ごめんなさい。」
レオさんに返事をしながら、中断されてしまっていたクロエさんへの返答をしてダッシュでレオさんの家に避難する。家に入ってからほっと息を吐く。スゴク大人なラブシーンを見てしまった気がする。ドキドキした。
ミニバスケットをテーブルに置かせて貰う。ソファに腰を下ろして、ふーっと息を吐き出して背もたれに寄り掛かってしまった。
ちょっとだけ状況を纏めてみよう。さっきの二人の会話から察するに、クロエさんは昨日邪魔をしちゃった子っぽい。あぁ、それを謝っとけば良かった。今度会う機会があったら、ちゃんと謝ろう。綺麗なお姉さんだったな。
怒涛の出来事からの反動か、ソファに凭れ掛かってぼんやりとしてしまう。暫くの間、頭を空っぽにして何も考えず、ぼーっと待っていたら漸くレオさんが戻ってきた。
レオさんが外の霧で濡れた髪を適当に手で掃って水気を切ってる。レオさんの行動を視界の端で捉えてぼんやりを続けていて、はっとなった。
「レオさん、タオルで拭いて。せっかく綺麗な部屋が水浸しになっちゃうよ。」
ちゃんとタオルで拭いて下さいって注意をしてしまった。レオさんは素直に従ってくれるらしい。懸垂の所に掛けてあったタオルを持って、体をささっと拭いて、頭も乱暴に拭いていく。
「琥珀悪い。変なのに絡まれたな。」
体を拭き終ったレオさんが俺の隣にどかっと座って謝ってきた。さっきのクロエさんが、多分だけど、昨日の邪魔した子なんだよね。全てを理解した俺はソファの上で膝を抱えて俯いてしまう。
俺の方が二人に謝らなきゃいけない立場なんです。レオさんの謝罪に首を振る。レオさんが頭をポンポンと撫でてくれた。気にするなって事みたいだ。
「レオさんが謝るのはおかしいでしょ。それに、昨日、クロエさんとのアレを邪魔したのは俺だし。謝るのは俺のほ・・・」
俯いたままでボソボソと謝罪をしていて、顔を上げて固まってしまった。話の途中だったけど、固まっちゃったよ。レオさんの姿が目に入って言葉が止まっちゃったんです。
さっきは暗がりで余り見えてなかったから、全く気が付かなかった。明るい家の中でも、ぼんやりしてたし俯いてたしで、今まで気が付いてなかった。慌てて目を逸らしたけど、レオさんの体を見ちゃって、顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。
いつも通りの上半身裸のレオさんの首元や胸元、後はお腹まで、赤い点が沢山残されている。ついでに、歯型と思われるモノまで何か所か存在してる。
さっき、クロエさんは何て言ってたっけ。既にイイコトとかなんとかって、言ってた気がする。これはやっぱ、アレだよね。そういう事なんですよね。
「琥珀?」
立ち上がったレオさんが回り込んで、視界に入ってくる。覗き込んでくるレオさんから更に顔を逸らしてしまう。
「レオさん。少し後ろ向いてて。目のやり場に困るから、後ろ向いて。」
「俺の裸なんて見慣れてるだろ。」
「見慣れてるけど、違うの。取り敢えず、一旦後ろを向こうか。」
文句を言いながらも、レオさんはなんとか後ろを向いてくれた。ふーっと息を吐き出して顔を戻して、また驚いてしまった。
レオさんの背中には赤い線が何本か走っていて、血が滲んでる所もある。メッチャ痛そうな蚯蚓腫れになってるじゃん。怪我をしてるって事は、戦闘でもしたって事なのかな。
「レオさん。背中、怪我してるよ?」
「あ~、両手を抑えてたんだけどな。緩んだ隙にやられた。」
何で怪我したのってニュアンスで聞いたからか、レオさんがサラッと答えてくれる。その内容に絶句してしまった。どうやら、色事関係の傷だったらしい。心配して損した。
そして、両手を抑えるってなんだよ。緩んだ隙にやられるって、嫌がられてたって事じゃないのか。レオさんはどんなアレをしてるんだよ。まさかとは思うけど、犯罪的なナニカはしてないよね。
「レオさん、無理遣りってのは良くないと思うの。」
「無理遣りじゃねぇよ。あれだ、そういう感じに興奮するだろ?お互いに楽しんだだけ。」
ここまで会話をして、急に恥ずかしくなってきた。レオさんには羞恥心は存在していないのか。そして俺は何を言っていたのだろうか。
「えっと、知らない。」
真っ赤になったのを自覚してしまう。顔を覆って背もたれに寄りかかって、もう何も言えない。そして、顔を覆ったままで溜息を吐いて上を見上げてしまった。
レオさんも何も言わずにめっちゃ静かだ。俺と同じく言葉が出なくなったらしい。今更恥ずかしくなったのかもしれませんね。少しの間無言の時間が続いていく。
急に俺の太腿すれすれのソファの座面が沈み込んだ。何が起こったのかと、顔から手を離してみる。目の前にレオさんがいて驚いてしまった。レオさんの深い緑の瞳が何かを訴えるように細められている。
片膝だけを俺のすぐ横に乗り上げたレオさんが、俺の両手首を片手で纏めて優しく掴んできた。レオさんが何をしてるのか分からず混乱していると、レオさんが楽しそうに目を細めた。
レオさんは万歳させるみたいに俺の両手を持ち上げて壁に押し付けた。驚いて目を丸くしていると、レオさんが意地悪に口の端を上げたのが見えた。
「まぁ、こういう感じだ。これよりはちょっと強く掴んだかもだけど、そんなに力を入れてねぇし。俺の方がやられたくらいだよ。っという事で、全然無理遣りじゃないんだよ。分かったか?」
パッと手を離して説明を始めたレオさんをぽかんと見上げてしまった。ニコっとしてくれるレオさんを見つめてしまう。
レオさんはいつの間にかシャツを羽織ってる。俺が顔を覆っている間に服を着てきてくれたみたいだ。ただ、前が全開だけどな。
「レオさん。服を着てくれたのは評価するけど、ボタンは閉めようよ。全く隠れてないよ。」
「見たくないのは琥珀だろ?気になるなら閉めてくれよ。」
溜息交じりに恥ずかしいのが見えてますよって忠告してみた。レオさんが挑発的な感じで言い返してくる。表情もちょっと意地悪に笑ってる感じですね。
なんだ、子供か?子供のああ言えばこう言う的な感じなのか。若干、ムっとしながら、ボタンを留めてあげる事にした。俺の膝に乗りかかる形でソファに片膝をついているから、ボタンが留めやすくていいですね。
「はい。留めましたよ。これで昨日の件はチャラにしてください。」
「うん、これでチャラでいいよ。」
全部ボタンを留めてあげて、はい、終わりましたよっとレオさんのお腹を押す。にっこり笑顔のレオさんが俺の上から退いて隣に座ってくれた。
「まぁ、そんな事はどうでもいいんだよ。ネロの傷はかなり深い傷だったよな。重症ともいえる傷だったよな。どんな手を使ったら数日しか経ってないのに跡形もなく無くなるんだよ。気合いか?」
そんな事って程、どうでもいい出来事じゃないだろ。レオさんは一体全体どんな爛れた生活をしてるんだよ。クロエさんの話的には、今日のお相手は違う子って事でしょ。昨日といい今日といい、ホントに凄くモテてる事だけは伝わってきた。
まぁ、でも、確かにネロの傷がなくなるって驚きしかないよね。あんなに深い傷だったからね。アルさんの凄い魔法以外に、〈気合い〉って能力もあるのかな。響きが凄い、なんか暑苦しそうな能力だね。
「〈気合い〉?そんな能力があるんだ。」
「ネロならあるだろ。」
「そうなんだ。」
どんな能力だろうって聞き返してみたら、レオさんが凄く適当に返してくれた。レオさんの言ってる事は真実なのだろうか。
ネロなら〈気合い〉ってのを持っててもおかしくないのかな。でもな、ネロにそんな暑苦しそうな能力はないと思うんだ。ネロはもっとクールな感じがするんだよ。
「やっぱりネロは凄いな。あんな跡形もなく傷を消し去るとかヤバ過ぎだろ。」
じっとレオさんを見つめてみたけど、レオさんはネロの凄さを語る方に集中してしまっている。まぁ、一応、その〈気合い〉とかではないんだよ。アルさんの凄い魔法だよって訂正しておこう。
「でも、今回はアルさんが直してくれたんだよ。」
「まじか、族長パネェな。」
テンションが上がってるレオさんにおずおずと真実を話してみた。レオさんの目が丸くなって更にテンションが一段階上がった気がする。少しの間を置いて、溜息交じりにレオさんが呟く声が聞こえた。
「うん、アルさんは凄かった。でも、俺は凄い魔法って知らなくてお願いしちゃったんだよ。アルさんを凄い消耗させちゃう結果になって、悪い事をしちゃった。」
「まぁ、あれだ。族長が望んでやった事だろ?気にするなって。」
なんか、レオさんは時々、超優しいよね。言葉選びが最適というか、空気を読むというか。落ち込んでしまった俺に対して、的確に慰めの言葉を掛けてくれた。
すっごく奔放な事をしてるレオさんなのに、気遣いは完璧とか。ヤバいよね。凄く優しく感じる。だからモテるんだろうな。
溜息を吐いて背もたれに寄り掛かってしまった俺の頭を、レオさんがポンポンと撫でてくれた。レオさんは無言で流しに移動していく。
カップに水を入れて戻ってきて、お湯を沸かしてくれてる。レオさんの詠唱する姿をぼんやりと眺めていたら、カップを手渡してくれた。受け取ってニコッとしたら、隣に腰を下ろしたレオさんもニコっと返してくれた。
「レオさん。この家にはお茶はないの?」
「ない。」
そういえば、レオさんの家に遊びに来た時っていつもお湯だな。唐突に疑問が湧き出て聞いてみると、ホントにお茶は置いてないらしい。
「でも、レオさんの家はお客さんが沢山来るんでしょ?」
「まぁ、客っていうか。主にアレだから、客と言っていいのかは分からない。」
でも、お客さんが多そうなのにって追撃をかけてみた。そしたら、レオさん的にはお客さんの意味合いが違うらしい。アレだとしてもお客さんだし、飲み物も必要でしょ。
「あぁ、成る程、アレか~、そうなんだね。でも、飲み物くらい出してあげるでしょ。」
「水が飲めればいいだろ。」
「レオさん、女の人には優しくしようね。」
「優しくしてるよ?」
水って、優しさの欠片もない気がする。お茶を楽しみながらのいちゃつきとか、そういうのはないのか。そして、優しくするの意味が違うだろ、レオさんには困ってしまう。
「そういう意味じゃない。」
「まぁ、そうだよね、分かってた。で、何が言いたいの。」
「お茶くらい美味しいのを淹れてあげたらいいと思うんだ。」
レオさんは俺を揶揄うのが楽しいらしく、いつも軽口で返してくる。何が言いたいかなんて分かってるでしょうに、とニッコリ笑顔でゆっくりと優しく言い聞かせてあげた。
レオさんが目を逸らしてしまったのを見て思う。うんうん、こうやって成長していけばいいんだよ。脳に筋肉と色事しか詰まってないらしいレオさんには、ちゃんと言葉で教えてあげよう。お湯を一口飲んで、ローテーブルに置く。
「琥珀に言われたくない。」
目を逸らしたレオさんがぼそっと呟いた言葉が聞こえて、思わずレオさんを睨んでしまった。俺だってショックな出来事だったんだよ。お茶も淹れられないなんて事実を自身の目で確認してしまったんだよ。それなのに、そんな事を言うんだ、悲しい。
「でも、ネロは美味しいって言ってくれたもん。」
「ちょ、琥珀。冗談だから泣かないで。ごめん。俺が悪かった。」
ウソ泣きプラス弱々しい声で俯いて呟いてみる。途端に、慌てた感じのレオさんが俺の背中を撫でて謝ってくれたからネタ晴らし。顔を上げてニコっとしてみたら、レオさんが呆気に取られた顔を見せてくれた。ドッキリ大成功。俺の演技力はかなり良かったらしい。
「琥珀、そういう冗談は良くないぞ?」
「ネロが美味しいって言ってくれたのは本当です。不味かったけど。」
驚きから回復したレオさんが、静かに苦言を呈してきた。でもね、真実ですし。演技以外は本当の事なんですよ。ネロが美味しく飲んでくれて、嬉しそうにしてくれた笑顔を思い出して俺も笑顔になる。
俺の目を見つめて止まったレオさんが、ホントかよって顔になってしまった。そして、その顔を見た俺も、自分のお茶の味を思い出して顔を顰めてしまった。
「マジな話なの?」
「うん。ホントにホント。自分のカップだけ不味くて、ネロのは奇跡的に美味しいのかと思ったくらい普通に飲んでた。眉一つ動かさないんだよ、で、ホントに美味しいのかなって奪って飲んでみたらめっちゃ苦くて渋くて不味かった。でも、最後まで美味しそうに飲んでくれた。ネロの気遣いに感謝。」
「うわぁ。マジで尊敬するわ。」
少し置いて、レオさんが絞り出すように確認を取ってきた。ホントなんですよ~って、当時のネロの様子を語ってみる。それを聞き終ったレオさんは、凄い不味いモノを口に入れた時のような苦渋の表情で小さく感想を漏らした。
「なんで、そんなに渋い顔になったの。」
「琥珀が淹れてくれた茶の味を思い出した。」
「ホントだね。俺も思い出すと、顔を顰めてしまうくらい不味い味だったよね。」
レオさんの顰めた顔を見ながら呟くと、レオさんが速攻答えてくれた。的確過ぎる答えに、納得するしかない。もうね、納得しかできない返答ですよ。
「じゃあ、琥珀が茶を淹れてくれた時は、眉一つ動かさずに全部飲めばいいんだな?」
そして、レオさんは何故そんな結論になったんだろう。じゃあ、って言葉がどこから繋がってきたかが分からない。でも、凄いネロに張り合ってるのかもしれないね。
「あ、それね。レオさんはネロと競争中だから頑張って。レオさんが少しだけ俺のお茶に近いかもしれない、良かったね。」
俺のお茶を飲んでくれるなら丁度いい。レオさんはネロと俺のお茶を掛けて勝負の最中だからね。頑張りましょう。ニコニコになったら、レオさんが不審そうに片眉を上げてしまった。その顔はちょっとだけカッコいいですね。
「何の話だよ。」
そうですよね。そこは気になりますよね。レオさんの与り知らないところで競争が始まってるんですよ。心の中で呟きつつ、ニコっと笑顔でレオさんを見つめると、レオさんが戸惑った顔になってしまった。
「えっとね。レオさんが俺の速度で意識せずに歩けるようになるのと、ネロの笑顔が自然に出せるようになるので競争になっちゃった。勝者には俺のお茶を楽しむ権利が与えられるんだよ。やったね。」
まぁ、ちゃんと説明をしてあげようかな。いつの間にか始まっちゃった勝負だし、レオさんは知らないもんね。可哀想に。
「それは嬉しい事なのか?そもそも、ネロは笑わないだろ。」
「嬉しくない事かも。少なくとも俺は自分で淹れたお茶は飲みたくない。」
ニコっとしてみても、レオさんは不満な顔を崩してはくれない。まぁね、俺も自分のお茶は飲みたくないから、気持ちは分かるよ。でも、勝負は始まっちゃったんだから、仕方ないじゃん。
「だよな、勝者には得がないじゃないか。それと、ネロが笑わないなら、俺の勝確じゃねぇか。」
甘いな、ネロは笑わなくないから。全然笑うんだよ。ただ、意識したら駄目になるだけだからね。でも、レオさんがこう断言しちゃう程にネロは笑顔が少ないんだ。
まぁ、最近は笑顔もよく見るけど、確かに最初の頃は全く表情の変化がなかった。笑わないって言われると、そうなのかもしれない。
前のネロは表情の変化といえば驚いた顔くらいで、いつも冷静な顔をしてた気がする。そう考えると、最近はずっと笑顔じゃん。
「ネロは笑うよ。見惚れる程いい笑顔してくれるんだよ。でも、意識すると極悪な顔になっちゃうっぽい。レオさんに遅く歩くのを課すなら、自分にも笑顔になる為の筋肉を作るのを課すって言ってたよ。ストイックだよね。」
「見惚れる程いい笑顔?どっちにしても、俺の方が勝ちそうじゃねぇか。嫌だ。」
ちゃんとネロはちゃんと笑顔になるからね。ニコニコで説明をしてみると、レオさんが懐疑的な視線と言葉で俺を見つめてくる。そして、一瞬動きを止めたレオさんが頭を抱えて俯いてしまった。
「しょうがないよ、もう決まった事なんだから。諦めて頑張ろうね。」
そうかそうか、可哀想に。レオさんの頭をポンポンと撫でて、優しくレオさんを鼓舞してあげる。気落ちしたレオさんの猫耳が倒されちゃってて超可愛い。
「なんで、俺のいない所でそんな事が決まったんだよ。」
「えっと、あの、俺が言ったから。」
俺が優しく言い聞かせてあげたのが効いたのか、レオさんが顔を上げて原因究明を始めてしまった。あ、そこ聞かれちゃいますか、そうですか。目を逸らして、そっと、さり気なさを漂わせつつ早口で答えてみる。
俺の言葉で立ち上がったレオさんが俺の太腿の上に跨るように膝立ちになった。顔を逸らしている俺の顎を持ったレオさんが目線を合わせて睨んでくる。
「お前が原因かよ。」
おぉ、顎クイだ。初めて見る、リアル顎クイ。そして、低い声で静かにボソッと言ってきた。イケメンが自分にしてくるこの状況。めっちゃドキドキ、はしないね。でも、テンションは上がったよ。ある意味ドキドキになってる。
開き直って不敵に笑って見せると、気概が失せたのか、レオさんが手を離して隣に座り込んでしまった。背もたれに寄り掛かかったレオさんは体の力を抜いちゃったらしい。ずるずると体を落としていく。
レオさんの余りの気落ち具合が超可哀想。絶賛脱力状態のレオさんの手のひらを両手で握って覗き込んでみる。
「レオさん。大丈夫だよ。」
「あぁ?」
目を合わせたレオさんがぼんやりと見つめ返してきたから、大きく頷いて大丈夫だよって伝える。レオさんは瞬きをして、力なく疑問を返してきた。
要するにですよ、俺のお茶が原因でこんな風になってる訳ですからね。俺のお茶が完璧になればもっと楽しくいけると思うんだ。って事はですよ。二人の特訓に並行して俺も特訓したらいいじゃん。
「俺はお茶を上手く淹れられるように練習する。美味しいお茶になるから大丈夫だよ。」
「そうか。それは良かった。」
俺の決心を熱く語ってみたら、レオさんが持ち直してくれた。脱力状態から脱出して、座り直したレオさんがほっとした顔をしてくれる。
そうだよね、やっぱりソコが重要だよね。美味しいお茶は幸せになるけど、反対は、反対の事になっちゃうからね。っという事で、今日から特訓開始ですよ。
「今日もうちに帰ったら淹れてあげるね。」
「毎日罰ゲームか?」
ニコニコと、今日から頑張るよ、って伝えてみる。途端に、レオさんの眉が寄ってしまった。そんな、罰ゲームとか大袈裟でしょ。
「ん~。いつか罰ゲームじゃなくなるよ。大丈夫。」
まぁ、あの味は罰ゲームか。そうだね、間違いのない事実だ。でも、いつかは美味しくなるでしょ、ニコッと返事を返してみたら、レオさんが上を見上げてしまった。
レオさんはまだ見ぬ美味しいお茶に思いを馳せてるのかもしれない。遠くない未来に、俺のお茶は劇的進化を遂げているだろうからね。楽しみだね。
そのまま、黙ってぼんやりとしてしまったレオさんは置いておいて、カップに手を伸ばしてお湯を一口飲む。うん、お茶の方が美味しいと思う。レオさんは女の子にお茶も出さない程、雑なんだ。それであんなにモテるとか。凄いですね。
「そうか、琥珀がその気なら。」
「ん?」
呆然と虚空を見つめていたレオさんが低く呟いた声が聞こえた。顔を向けると、凄い決意を胸に秘めたらしい険しい表情のレオさんと目が合った。
「茶だよ茶。俺が教えればいいんだろ?」
そんな気合い入れなくたって、俺はもうマスターしてるから平気だよ。ネロが美味しいお茶を淹れてくれたのを目の前で見てたからね。もう、9割方完成されてると考えていいんですよ。
「あ、ネロが淹れてたのを見たから大丈夫。俺のまっずいお茶の後にネロが淹れてくれたのが、メチャクチャ美味しかった。今まで飲んだお茶の中で一番美味しかった。」
「そうか。今日、その美味しいお茶とやらを再現できるんだな?」
すっごく疑いの目で見てくるレオさんは慎重派なんだね。俺にできない訳ないでしょ。だって、目の前で見てるんだからね。
お茶っぱの量から、お湯に浸ける時間まで、全ての所作をこの目で目撃した。ネロの行動の全てを頭に入れたから完璧だよ。俺に不可能はない。
「勿論だよ、誰だと思ってるの。」
「その自信はどこから出てくるんだ?」
「だって。お茶くらい淹れられるよ。余裕だよ。」
「でも、お前。不味かったよな、その余裕の茶が。」
「ここのお茶を知らなかったからなの。知ってしまった俺にできない訳ないでしょ。まぁ、大船に乗った気で待ちたまえ。」
「そうか、期待せずに待ってるよ。さて、行くか。」
「うん。行こ。」
立ち上がったレオさんに手を差し出されて、その手を掴んで俺も立ち上がる。ん~、と伸びをしてる間に、テーブルの上に置かれたミニバスケットを持ったレオさんはスタスタと入り口に向かってしまった。そのまま〈シール〉をして外に出ていくレオさんを追いかける。




