さよなら、
ブランコをこぐと、その度に金属の擦れあう気味の悪い音が響く。
足を思い切り振り上げて勢い任せに体を揺らせば、ブランコは大きく波打って、高く高くあがっていった。
最近、気がつくとこの場所にいる。
家に帰る気になれず、公園に立ち寄って、遊んでいる子供の姿をぼんやりと眺めている。
中学校に上がってすぐ、私は学校に通うことが嫌になった。
その理由は簡単で、明確だ。
小学校の時には無かった制服があるため、体育があると着替えなければいけない。その時に、見られてしまうことが怖いのだ。
『それ』はいつも見えない場所につけられる。対象となるのは、大体お腹や背中。
『それ』以外にも、首筋に残されたこともある。目印のようにくっきりとそれが残った時は、さすがにまずいと思ったのか、あれ以来、それだけはしなくなった。
おびえながら生きるのは辛い。ずっと続くもの、逃れられないもの、鎖のように絡みついて離れないものを、振り切ろうとしても無駄なのかもしれない。
お腹がきりきりと痛む。
最近はいつもそうだ。考えると苦しくなって胃が押されるように痛くなる。耳鳴りが頭の中を這いずり回り、思考が停止してしまう。
――私は、追いつめられているのかもしれない。
「お姉ちゃん、どうしたの」
漕ぐのをやめたブランコはいつの間にか振り子の動きを止めていた。地に着いた足を少し揺らしていたら、小さな女の子が話しかけてきた。
赤いジャンパースカートに白いブラウスを着た、くりくりとした目の女の子は、小さな手にボールを抱えて、私を見上げている。
「どうもしないよ?」
私の腰に届くかくらいの小さな身長をごまかすように背伸びして、ませた眼差しを私に向ける。不思議そうに首をかしげ、頬を丸くして笑った。
「おなか、いたいの?」
両手は、腹を押さえていた。その仕草が、腹痛で苦しんでいるように見えたのだろう。
「痛くないよ」
「首は? あかくなってる」
はっとして首を隠した。
昨日は――『ここ』には何もされていないはずだ。
「いたい?」
「痛くない。こんなの、何でもないもの」
何でもない? 何でもない、ことなんて無い。
顔面から血の気が失せていく感覚がする。冷や汗がじっとりと脇の下を濡らす。
「痛そうだよ」
「何でもないって、言ってるでしょ!」
つい怒鳴りつけてしまったら、子供はあっという間に顔を歪ませて、大粒の涙をこぼした。
ボロボロと流れ落ちる涙を見ると、無性に腹が立って、子供を殴りつけたくなる。
振り上げそうになる右手を左手で押さえ、上がる息を一生懸命飲み込んだ。
殴ってはだめだ。こんなことで怒ってはならない。
それをしてしまったら、私はあの女と同じになってしまう――。
「怖いよう! なんで怒るのお!?」
金切り声を上げて泣きじゃくる子供を、あやす術を私は知らない。
私自身が子供だからなのか、経験が無いからなのか……。
呆然と眺めることしか出来ず、言葉にならない声を吐息と共に吐き出しながら、頭の中でデジャヴュのように広がる映像を反芻していた。
――私は。
虐待を受けている。
実の母と、母が最近結婚した男。
母は、深夜まで働いている。男は、リストラにあって無職だ。家に帰ると、だらだらと一日を過ごしたらしい男が私を待ち受けていて、体を触ってくる。
反抗できない気弱な私を弄び、母が帰ってくれば、素知らぬ顔で母といちゃつく。
まんざらでもなさそうに頬を緩める母の顔は、ただの女でしかなく、嫌悪の対象になってしまった。
毎日の労働にストレスを溜め込んだ母の吐け口は私で、毎日のように殴ってくる。女のか細い手は威力も弱く、耐えられないことはない。
気の弱い母が狙うのは、お腹や背中で、服で隠れる場所しか叩いてはこない。母の弱い性格は私に遺伝して、私は人に逆らうことが出来ない。
「私、何でもするから、おこらないで」
子供の手が、私の手を取った。
哀願するその顔は、どこかで見たことがある気がして、直視することが出来ない。
――そうだ。この顔は。
「怒らないでよう」
――鏡に映る、私の顔。
私はいつまでこんな日々を過ごすのだろう。終わらないものを終わると信じて過ごすのは、酷すぎる。
「許して」
あの子供と同じように涙に咽びながら、詫びの言葉を吐き続ける。
知っている。
私は知っているのだ。
いくら待っても、何も意味は無い。帰ることを拒むあの家に、いずれは帰らなければならない。
そうして待ち受ける地獄に、自ら足を踏み込むのは、一体何の戒めなのだろう。
「お姉ちゃん、もう、我慢しなくていいよ」
うなずいていた。
帰る必要などない。
消してしまえばいい。
何もかも、跡形も無く、消し去ることが出来る。
燃え上がる炎を眺めながら、私は痛むお腹に手を添えた。
少しずつ少しずつ、胃の中で狂い踊っていた痛みが引いていくのがわかった。
火柱は黒煙を撒き散らせ、上へ上へと昇っていく。まるで龍が、天に帰ろうとするように。
崩壊する建物を眺めれば、それだけで癒されていく気がした。
「お姉ちゃん」
私の手を掴む幼い手を握り返す。
――握り返したふりをした。
この子の手に触れることは叶わない。
私の妹は、母と義父の刃により、短い生を終えたのだから。
我が家に隣接するあの公園の片隅に、誰にも知られること無く、埋められているのだ。
「お母さんを、私にくれるの?」
「うん。あげる。私には、必要ないもの」
ついでにお義父さんもね、と笑いかける。たなびく炎は、私たちの頬を上気させ、興奮させた。
込みあがる喜びを噛みしめて、私は最後の答えを導き出す。
「お母さんが大好きなんだもんね」
手を揺らしながら問いかければ、子供は満面の笑みでうなずいた。
読んでくださり、ありがとうございました!
小さな子供は、どんな親でも大好きなんだと思います。
減らない虐待のニュースを聞くたび、切ない気持ちになります。
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