幻の島・ルセーユ
恋愛要素強めな章。色っぽい表現もあります。
ご了承ください
四章 幻の島・ルセーユ
ルセーユ島は、風の強い荒涼とした島だった。滅んでしまったウルフ族の村は、赤い砂と石ばかりの痩せた土地だ。その隣のエフラの民の郷は、楽園と呼ばれ、緑と水の豊富な地だった。こんな場所でも、長い間二つの種族は仲良く暮らしていたのだ。九年前、ビザマが反乱を起こすまでは。
楽園の住人であるエフラの民は、一対の角を持つ平均身長二メートルの体の大きな種族だった。対するウルフ族は小柄で、男女ともに平均身長は一五十センチくらいだ。リティルも一五十と平均値で小柄だ。故に、シェラの方が十センチほど背が高かった。
ルセーユに来て、何日が過ぎたのだろうか。始終穏やかな空気で、全土に未曾有の危機が迫っていることが嘘のようだった。
楽園の中心にある大賢者の館は、学びと修業の場でもあった。皆が滞在しているのは、その中でも賢者の称号を持つ者しか、入ることの許されない特別な場所だった。
楽園に着いたとき、金色の翼を持つインの姿を一目見ようと、エフラの民が殺到してしまい半ば隔離されるように奥深くへ通されたのだった。
エフラの民に合わされた設計の天井は高く、廊下も広い。尖頭アーチの続く廊下、アーチの柱には狼の彫刻が施され、厳かな雰囲気を醸し出している。六分割された曲面天井から、星形の魔法のランプが吊されていた。
中庭を囲む、列柱廊をステイルはニーナと重い足取りで歩いていた。この回廊の周りにはウルフ族サイズの客室が並び、皆はここに滞在していた。
「シェラは、あんな連日で大丈夫なのかい?」
ステイルの言葉に、ニーナは俯いた。柔らかな日の光が中庭から回廊に落ちていた。
アーチの頂部に施された短剣と月をモチーフにした装飾模様が、白い廊下に影で絵を描いている。
シェラは精神の奥深くにあるという呪いのような物を取り除くため、大賢者を筆頭に力ある賢者達に処置を受けていた。しかし、体や精神にかなりの負担があるらしく、閉ざされた部屋の中から彼女の悲鳴が聞こえてくるのだ。
シェードはそんな妹の声を聞くに耐えず、修練の間という部屋で今日も剣を振るっているのだろう。
「……わらわはもう、やめたい……しかし、シェラ姫は……」
ニーナは苦悩していた。もっと他の方法はないかと、文献をディコと共に当たっているが見つからない。インは何かを考え込んでいるようで、沈黙したままだった。
「シェラ!今日はもう終わったのかい?」
列柱廊にぐるりと囲まれた中庭に、ポツンと大きなランタンのような東屋がある。壁が蔓草の細工で網のようになっていて、中に誰かいるとわかるのだった。ステイルはその中にシェラを見つけて、駆け寄っていた。ニーナはそばに行く気にはなれず、回廊を図書室の方向へ歩き去った。
「ステイル?ええ。でも、今日もダメだったの」
シェラはやつれた顔に、微笑みを浮かべた。リティルが、彼女は弱くないと言っていたことが今更思い出された。いつも、大賢者が音を上げて儀式は中断される。シェラは一度も自分から音をあげたことはなく、その苦痛に耐え続けているのだ。
「シェラ、先にリティルの中から、闇の王の欠片を取り除く方法を見つけた方がいいんじゃないのかい?」
「それをするには、リティルを起こさなくてはならないわ。一度起こしてしまえば、もうインにも誰にも、リティルを封じられなくなってしまう。失敗すれば、死んでしまうの。花の姫の力があれば、確実に取り除けるのなら、わたしは──」
「しかし、このままで大丈夫なのかい?ほら、頬もこんなにこけて!」
ステイルは、シェラの頬を両手で包んだ。ステイルのフワフワした毛並みの手に、シェラは手を重ねた。彼女の手首には儀式のために拘束されているのだろう。赤くベルトの痕がくっきりとついてしまっていた。痛ましくて見ていられない。
「ありがとう、ステイル。でも、諦めるわけにはいかないの」
シェラの紅茶色の瞳に、強い光が灯る。しかし、ステイルはその光が日に日に弱くなっていっていることに気がついていた。
シェラにかけられた呪いのような物は、水の魔力でできているらしい。それをかけた人物は、彼女の父であるクエイサラー王だ。
シェードが見た、父がシェラを殺そうとしていると思った行動こそ、この呪いをかけていたところだったのだ。
東屋の入り口を望む柱のそばに、インが立っていた。インの視線はシェラを見ていた。
「リティル、何分保つ?」
『数分だな。数分で、腐敗が超回復能力を上回っちまう。耐えられて、そこから数分だ』
「そうか。やれるか?」
『シェラの方も、もう耐えられねーよな?でもな、成功するかわからないぜ?』
「姫に話す。承諾するのであれば、今夜」
『話すのか?はあ、自信ねーよ。失敗しても怒るなよ?』
インに応えていたリティルの意識は、闇の中に消えていった。インは数日前からリティルを起こしていた。一日に数分であれば言葉を交わせるが、それ以上は腐敗が始まってしまうためできない状況だった。
インは薬草の花壇を横切り、東屋の入り口に立った。
「花の姫、少し話をさせろ」
「じゃあ、シェラ、無理するんじゃないよ?」
ステイルはインを一瞥すると、中庭から出ていった。そんなステイルを見送り、周りに人がいないことを確認すると、インは切りだした。
「姫、今の方法ではおそらく呪いを取り除けない。そこで、もう一つの禁じ手を使いたい」
「他に方法があったの?なぜ今まで、隠していたの?」
「普段ならば行ってはならない方法だ。確実だが、リスクも高い」
「確実なら、そのほうが──」
「この方法は直接精神に触れる、抗いようのない快楽に襲われ気が狂うかもしれない。そして、施行者も精神が肉体へ帰ることができなくなる危険がある」
「精神に直接……?心が交わるということ?それは……」
シェラは顔を赤らめて俯いた。
「承諾するのならば、リティルを起こす。リティルは了承している」
え?と、シェラは顔を上げて目を見開いた。
「でも、起こせば腐敗が!」
「超回復能力が、腐敗の速度を上回っている間に呪いを砕く。後は、そなたにかかってしまうが」
「危険だわ!ダメよ!呪いが解けても、精霊になるのに時間がかかってしまったら?今のわたしには、闇の王の欠片を取り除く力はないのよ?ここまできて、あなた達を失ってしまうなら、意味はないわ。イン、あなたはできないの?」
「この方法は、絆のある者にしかできない。精神に直接触れる故、心を開いてくれなければ触れることすらできない。我とリティルは完全に精神が分離している。我には行えない」
リティルに逃げられてばかりの自分に、彼との絆などあるのだろうかと、シェラは俯いた。レイシルでも、リティルを止めることはできなかったというのに、心を重ね合わせる?彼が闇の王の欠片に侵される前に?とても、できるとは思えなかった。
「……考えさせて」
「今夜儀式の間で待っている」
インは去って行った。シェラは顔を覆って、膝に突っ伏した。改めて考えると、とんでもないことを提案されていることに気がついた。これは、インも今まで知っていても言えなかったはずだ。
何?なんなの?快楽ということは、気持ちがいいっていうこと?リティルと?今夜?そういうことの知識も経験もないのに、いきなり心で交われと?
そんな目に遭った後、闇の王の欠片を探して取り除くの?無理無理よ!
「無理よ……リティル……あなたは、こんなこと承諾したの?本当に?」
シェラは自身を抱きしめた。触れたぬくもりの中に、快楽は見つからない。あるのは、深い安心。リティルを追いかける事に必死で、捕まえた先にある諸々のことを考えたことがなかった。リティルは、きっと知っていた。知っていて、手を出さなかった。シェラは、いかにリティルに守られていたかを知った。
儀式の間は、空っぽの円形の部屋だ。嵌め殺しの大きな尖頭窓がグルリとあるが、今はカーテンが引かれて外を見ることはできなかった。
高い天井は円く、月と太陽が填まるように円い嵌め殺しの窓がいくつも並んでいる。この部屋は儀式の度に内装を変えることができる。今あるのは、手足を拘束するベルトのついたベッドだけだ。インは、ベッドにもたれて床に座り、空を見上げていた。控えめに付けられたランプの明かりで辛うじて手元が見える程度の明るさで、天窓の中には星がきらめいて見えた。キイッと、木の扉の開く音が響いた。見れば、シェラが入ってくるところだった。シェラは清楚な、白いワンピース姿だった。シェラは扉を閉め、鍵をかけるカチリという音が辺りに響いた。
彼女の姿を認め、インは立ち上がった。
「手足は拘束させてもらうが、魔力を込めれば外れる」
「……はい。イン、わたしの声はリティルに聞こえているの?」
「聞こえている」
シェラはベッドに横たわった。真上にある天窓から、星が降るようだった。インは黙々と、シェラの手足を縛っていく。
「リティル、わたしはずっとあなたに守られてきたのね。あなたがその気になれば、わたしをどうにかすることができたのに、それをしなかった。あなたが好きよ。これからも、ずっと」
こちらを向いた彼の瞳に、燃えるような金の光が立ち上って見えた。
「照れるぜ。ありがとな。じゃあ、始めるぜ?シェラ」
リティルだった。ずっと逢いたかったのに、シェラは名を呼びそこなってしまった。
呪いの位置は、体の中心。リティルはインに聞いていたことを思い出しながら、慎重にシェラの体に手をかざした。リティルは魔導的なことには不慣れだった。風の王の欠片を譲り受け、インスレイズに霊力の流れを正常に戻してもらい、扱えるようにはなったが、初心者であることには変わりはない。
「あ──っ」
シェラが息を飲んで、僅かに震えた。紅茶色の瞳は焦点を失い、ボンヤリと蕩けていく。
「こ──の……深い……」
精神の海を深く潜るリティルも、戻って来られないかもしれないリスクを負っている。
こんな深くに呪いを打ち込んだクエイサラー王は、よほどシェラを精霊にしたくなかったのだとリティルは思った。なぜ?風の王となる者に、無条件で連れ去られることに抵抗があったのだろうか。それにしては、シェラに花の姫になれるように教育していた。矛盾した心のせめぎ合いが、ビザマにつけ込ませる隙を与えたのだろう。
しかし、この禁じ手は思ったよりも苦行だ。
「んん──あああ……リティ──ル。わたし……」
息を詰めていたシェラが、悩ましげに喘ぐ。意識をずっと深くに集中しているリティルの顎を、汗が伝い落ちた。長引けば、シェラの精神にも傷がつく。声を出さないように息を詰めて喘ぐ彼女がいじらしい。こんな場面でなければ──そう思いそうになってリティルは小さく首を振って、邪な考えを振り払う。
「見つ──けた!」
彼女の名前のような、水色の美しい宝石のような呪いだった。それをリティルは掴んで引き抜く。
「はっんっ!」
ビクンッとシェラの体が仰け反った。パキンッと呪いの宝石はリティルの手の中で壊れ、水色の塵となって消えていった。緊張したシェラの体から力が抜けて、余韻から震えながら浅く息をつく。
「シェラ、終わ──がはっ!」
不意にリティルが咳き込み、その音に朦朧としていたシェラは弾かれたように覚醒して顔を上げた。シェラの目に映ったのは、大量に血を吐くリティルの姿だった。
思ったよりも早く限界がきたなと、リティルは思った。闘っていた時とは違い、即座に体の力が抜けて呼吸ができなくなっていく。体の中から壊される激痛で、リティルは抗うことができなかった。インと完全に精神を分離しておいて良かったと心底思った。起きていれば、同じ物を見聞きすることができるが、感じる事はできない。この苦しみは、インにまで及ばないのだ。リティルは嫌なのだ。自分以外の誰かが傷つく姿を見ることは。
「リティル!」
手足を拘束され身動きが取れない。シェラの視界から、リティルが消える。倒れたのだとわかり、シェラは焦った。リティルの途切れ途切れに苦しむ絶叫だけが、部屋にこだました。
「うあ!ぐあ、ああぁ!あぁああぁあ!」
「リティル!いやああああああ!」
叫びと共に、シェラの体から白い光の粒が迸った。手足の拘束は解け、自由になったシェラは光の海を泳ぎ、倒れたリティルの上に舞い降りる。仰向けに転がすと、リティルの口から血が溢れて流れ落ちた。光の粒はリティルに降り、最大限の癒やしを与えていく。しかし、癒すそばから傷つき、このままでは苦しみを長引かせるだけで、リティルを解放することはできなかった。声にならない悲鳴を上げて、激痛にのたうつリティルの瞳から、正気が失われていく。
「欠片はどこ?どこにあるの?」
シェラはオロオロと視線を彷徨わせた。焦る脳裏に、インの言葉が甦る。
「欠片を飲まされた。口から入れられて……お腹の中?」
シェラは暴れるリティルを押さえつけると、腹に触れた。掌に禍々しい力を感じた。どうやって取り出せば?焦る頭で、シェラは必死に考えた。闇の王は、花の姫の力がほしい。ならば、もしかすると。
シェラはリティルに口を開かせると、躊躇いなく口付けた。掌で場所を確認すると、思った通り花の姫の力に引かれて、欠片が移動している。口を塞がれて呼吸がままならなくなったのだろう。正気を失ったリティルはさらに暴れた。シェラは馬乗りになると、全体重をかけてリティルを押さえ込む。辺りには、金の羽根が血にまみれて散らばっていた。
「がっ──げほごほ!」
急にリティルがシェラを強い力で突き飛ばして、激しく咳き込んだ。カツンと、小さな音が聞こえた気がした。気がつけば欠片の気配が、リティルの中から消えている。上手くいったのだろうか。シェラはリティルの背に触れ、注意深く欠片の気配を探しながら癒やしを与える。
「はあ……はあ……」
リティルはぐったりと、うつぶせになったまま動かなかった。荒く息をしているが、もう正常に息が吸えるほど回復したようだ。恐るべき、回復能力だ。シェラはやっと安堵して、その場にへたり込んだ。口の中に血の味が広がっている。あんなにたくさんの血を吐いて。リティルの苦しみを思うと、シェラは胸が締め付けられて、泣きそうになった。
終わったんだと思った。やっと、リティルに会えたのだと思った。シェラはリティルに声をかけようと、倒れている彼に視線を向けた。
『……』
シェラは背筋がゾッとするのを感じた。気がつけば、辺りに腐臭が満ちている。生暖かい風がシェラの長い黒髪をふわりと浮かせた。
「闇の王……」
シェラは自分とは正反対にある力を前に、身が竦んでしまった。精霊となっても、シェラには癒やしの力があるだけだ。目の前で小さな闇色の欠片から、ボコボコとカビの菌糸のような、異様な固まりが立ち上ってきた。形の定まらない泡のような腕が、シェラに伸ばされる。逃げなければならないのに、動けなかった。
「……シェラに触るんじゃねーよ」
突如、金色の風が刃となって吹き荒れた。シェラの視界から、倒れていたリティルの姿が消えていた。彼の速さに、シェラの目が追いつかなかったのだ。
金色の刃で菌糸の腕が切り落とされ、間髪入れずに金色の軌跡を描きながら天井へ飛んだリティルは、容赦のない斬撃で背後から菌糸の固まりを切り裂いた。床に降り立ったリティルから立ち上った金色の風が、ランプの火を乗せ、斬り飛ばされてボタボタと落ちた腐敗の固まりを焼き尽くしていく。
その鮮やかで容赦のない戦いに、シェラは釘付けだった。やはりまだ本調子とはほど遠いようで、リティルの息はかなり上がり、顎から汗が滴っていた。
「シェラ、これ以上綺麗になってどうするつもりだよ?」
シェラの青い光を返す不思議な黒髪に、小さな光の粒が咲いていた。それは、神樹の咲かせる花そのものだった。座り込んだままのシェラに視線を合わせたリティルは、口元の血を拭いながら冗談めかして笑っていた。
「リティル……本当に、あなたなの?」
「うわっ!待て待てって、くっつくと汚れるぜ?痛って!」
抱きついてきたシェラを受け止められず、リティルは背中から床に倒れた。
「そんな理由で、わたしを拒まないで」
「そんなつもりねーよ。あのな、オレ今、格好悪いだろ?」
「そんなこと、どうでもいいことだわ!」
シェラは、ギュッと首に絡ませた腕に力を込めた。
「苦しいってシェラ。まったく、すげー女だな」
リティルは観念したように、シェラの背中に手を回し、天井を見上げた。星々の瞬きが降ってきそうだった。
「今夜くるなんて、思わなかったぜ。もっと、時間がかかると思ってた」
「昼間、勉強してきたの。でも、知らなければよかった。知れば知るほど怖くなって……」
「何読んだんだよ?まあ、この方法はねーよな。大分叫んでたけど、喉、大丈夫かよ?」
正直なところ、リティルももうやりたくない。拷問しているようで気分がよくない。やはり、こういうことは触れられなければ意味がないなと思った。
「蒸し返さないでください!もう、忘れて!」
シェラはリティルから離れると、顔を覆って首を振った。
「あ」
気怠そうに体を起こしたリティルは、小さく声を上げていた。シェラの背に、花の精霊の証である蝶の羽根が開いたのだ。コバルトブルーの輝きを放つ、モルフォ蝶の羽根だった。息を飲むほどに美しく、リティルは思わず見とれていた。
「花の精霊って、風の精霊と相性悪いんじゃなかったか?」
触れれば壊れてしまう儚い羽根を見つめて、リティルはつぶやいた。実際に、花の精霊と風の精霊は相性が悪い。花の精霊は儚く、風の精霊が近づくだけで散って消えてしまうのだ。それゆえ、風の精霊は花の精霊の住む、花園には絶対に近づかない。
「わたしは永遠の花です。どんな強風にも、わたしを散らすことはできません。あなたの為にあるような花ね。風の王?」
「ハハ、敵わねーな。君をこの世に遣わせたのは、神樹の精霊の温情だな。風の王は代々短命だ。もっと貪欲に生きろって言われてるのかもな」
リティルはごろりと再び寝転がった。その隣に、シェラはコロンと転がった。
「リティルはまだ後ろ向きなの?」
「そいえば、そんなこと言ったな。けどな、オレはいつだって生きたいって思ってるぜ?そうでなかったら、とっくにここにいねーよ。オレはちょっと、自虐的なだけだぜ」
「ちょっと?ずいぶんではないの?ステイルからいろいろ聞いたわ。ディコは……寛大すぎるわ!」
「ハハ、聞いたのか?オレのゾンビ伝説。自分の能力を生かしてるだけなんだけどな、ステイルには相棒辞められちまったな。ディコは、見なければいいらしいぜ?」
シェラは笑うリティルが、とても傷ついて見えた。
「シェラ、頑張るなよ?オレはこの通り、無茶苦茶だからな。自分の命を優先するんだぜ?」
「できません」
「約束してくれよ。闇の王は手強いぜ。欠片であれだからな。実際にレルディードとレシエラは越えられなかった。あの時と、条件は変わってねーんだ。今回はビザマもまだいるからな、どうしたって不利なんだ」
「そんなこと!」
シェラは体を起こし、リティルを覗き込んだ。
「オレは正式に風の王を継ぐ。そうすれば、もう後戻りはできない。戻るつもりもねーけどな。インからすべてを受け継ぐ前に、君に話しておきたかったんだ。イン、悪い。代わってくれ」
リティルの瞳が冷たく冷える。インが表の人格として交代したのだ。
「わたしは……守れないの?」
シェラの瞳が呆然と色を失っていた。ゆっくりと体を起こしたインは、いつもよりも少し感情的だった。
「そんなことはない。そなたの力は、レシエラよりも強い。この体も、丈夫に造った。実際に、リティルは強い。あれは、そなたの身を案じての言葉だ」
いつになく饒舌なインの様子に、リティルの憂いが真実ではないかと思えてくる。
「うう──ごめんなさい……今は──泣かせて……」
シェラは顔を覆い、声を殺して泣いた。
インは儀式の間のベッドに背を預けて、星を見上げていた。彼の膝には、泣き疲れて眠っているシェラがいた。眠っているというのに、未だその閉じた瞳から、涙が滲み出ていた。
「リティル、なぜ交代しなかった?」
『したじゃねーか』
「闇の王の欠片が超回復能力を上回ったら、我と交代する手はずになっていたはずだ」
『格好付けてーだろ?』
「ふざけるな」
『冗談だよ。そんなに怒るなよな。おまえの声を聞く、余裕がなかったんだよ』
リティルの精神に封じた闇の王の欠片は、リティルが表の人格として体を支配すると再び体を腐らせ始めてしまう。精神は二つだが、体は一つだ。その苦痛を、インは代わりに受けるつもりでいた。交代すれば、リティルはその苦痛を感じずにすむからだ。それを、リティルも承諾していたのだが、彼は頑なに交代しなかった。
「我は魂に残った残滓にすぎない。所詮は幻だ。この体に残るのは、そなたでなければならない。今後、危険を冒すことは許さない。それから、花の姫を悪戯に遠ざけるな」
『イン、おまえ、シェラに優しいよな』
「姫は、健気で愛らしい。知らないのか?」
『知ってるよ!怖いんだよ。あいつ、オレの事となると形振り構わねーからな』
インは、それをわかっているなら尚更と言いそうになり、溜息をつくと低く名を呼んだ。
「リティル」
『なんだよ?』
「皆まで言わせるか?」
説教してもいいが、リティルは言われなくてもわかっているだろう。インは咎める口調だけに留めた。
『……わかったよ、謝ればいいんだろ?けど、オレしばらく表に出られねーよ』
闇の王の欠片が、リティルに負わせたダメージは深刻だった。主人格として体を動かすには、しばらくの休養が必要だった。
「自業自得だ。そなたがそんな状態では、安心して逝けない。早く治せ」
『へいへい。あーあ、シェード来てるんだろ?遊びてーな』
「そなたは……王子に、一度斬られたほうがよさそうだ」
インは、シェラの手首に残った赤い痕に掌を被せた。呪いを取り除いた時付けた、拘束していたベルトの痕だ。掌をどけると、赤みはなくなっていた。
『治癒魔法、使えるのかよ?』
「姫の霊力を利用しただけだ、そなたにもできる。守りたいなら遠ざけず、手元に置いておけ。そなたには、その力がある」
『買いかぶってくれるなよ。傷付けてばっかりだってのに』
「数分代われ。涙を止めてやれ。痛々しくて見ていられない」
『はあ?待てって、こんな寝てるのにどうしろと?』
「それくらい、考えろ。得意だろう?」
「うわ、イン本気かよ?」
無理矢理交代させられ、インはもう応えてくれなくなった。リティルは頭を掻くと、眠っているシェラを揺すった。モゾッとシェラは気怠げに目を覚ました。開いた瞳から、ポロポロと溜まっていた涙がこぼれ落ちた。事実を伝えただけだったが、こんなに泣かせてしまうとは思わなかった。リティルは罪悪感に苛まれた。
「イン……ごめんなさい、わたし、眠ってしまったの?」
「リティルだよ」
目を覚まそうと目を擦ったシェラは、眠そうな視線をリティルに向けた。リティルの言った意味がわからなかったようだった。無理もない。リティルが眠ってから今夜まで、この体を支配していたのはインなのだ。無条件でインだと思ったとしても、不思議ではない。
「だから、リティルだ。インじゃねーよ」
少し苛ついた。シェラがインと間違えたことが、こんなに堪えるとは思わなかった。ルセーユに来てから、インはシェラの不安を拭う努力をしていた。それが、彼女との信頼関係を築かせた。精神ダイブも、リティルでなくてもよかったのではと思えて、いたたまれなくなる。シェラの心が揺るぎなく、リティルに向いていることをわかっていても、苛立ちが募る。
「泣かせるなって、言われたんだよ」
それを聞いて、シェラは未だ涙が止まっていないことに、やっと気がついたようだった。
「あ……インに、大丈夫だから気にしないでと伝えて。部屋に戻るわ。一緒にいてくれてありがとうございます」
シェラは微笑んで見せた。その無理をした笑顔にまた苛つく。シェラが悪いわけではない。むしろ彼女は精一杯正しい。その正しさが、リティルの罪悪感を刺激する。気丈に去ろうとするシェラの手首をリティルは掴んでいた。
「気にいらねーんだよ。オレを守る?ふざけるなよ!」
リティルに怒りの瞳を向けられて、シェラはビクッと身を震わせた。打ちのめされた彼女には、さらなる追い打ちだった。リティルは無意識に後ずさるシェラの両の手首を掴んでいた。
「オレが!君を守りたいんだよ!何者にも、傷付けられたくねーんだ!く──そ、もう時間が──」
リティルの視界が歪んで揺れた。霊力は精霊の存在を保つ為の力だ。今のリティルにはそれが不足している。故に、数分しか表に出ることができなかった。歯痒い体。体の不調が、リティルから余裕を奪っていた。謝りに来たはずなのに、またさらに傷付けてしまう。いったい、何をしにシェラの前に立ったのか本末転倒だ。
「シェラ……!う、あ──イン……待てよ!まだ──!」
まだ謝ってない!まだ伝えてない!急激に暗くなる視界と、交代しろと冷静に進言してくるインの声で、リティルの気持ちは言葉にならなかった。インの冷静さ、成熟した精神が怨めしい。
シェラの手首を掴んでいた手から一気に力が抜けて、放したくないのに放れてしまう。シェラはスッと一歩の距離を縮めた。崩れ落ちそうなリティルの脇に腕を通し、背中に手を回す。上から覆い被さるようにシェラに唇を奪われ、リティルは瞳を見開いた。その瞳に力が急激に戻ってくる。この体は、シェラから足りない霊力を貪り取っている!リティルはシェラを突き放した。その拍子に蹌踉めいて、ベッドの縁に捕まり何とか転倒を免れる。
「やめろ!やめてくれ……傷付けたくないんだ……オレから逃げろ!」
シェラはさも当然の様な顔で、その場に踏みとどまった。癒やしの行使は花の姫の本分だ。完全に精霊となった彼女が、それを放棄することはありえなかった。シェラはただ、目の前に傷ついた癒やしを求める者がいるので、力を使っているにすぎないのだ。
癒やしを与える方法は、ただ触れるだけでもいいのだが、シェラは怒っていた。
「何から逃げろというの?リティルになら、傷付けられても構わないのよ。もっとも、これくらいのことで、わたしを傷付ける事はできないわ」
シェラは、ベッドの縁に捕まってそれ以上動けないリティルに近づいた。そして、ゆっくりとリティルの頭を両手で掴むと再び口付ける。そのとたんに戻ってくる力に、リティルは動揺していた。霊力の涸渇したこの体は、シェラに委ねてしまったら彼女から霊力を貪欲に奪ってしまう。リティルは理性が暴走しないように、耐えるしかなかった。
「シェラ、もう……やめろ」
息も絶え絶えリティルは懇願させられていた。力の戻り方が急激すぎて、余計にくらくらしていた。たぶんシェラは怒っているのだとリティルもわかった。
「苦しい?わたしの力はそんなものではないわ。あなた一人くらい、どうということはないのよ。わたしを恐れているのね?おあいにく様、あなたが拒んでも、逃げても、わたしはあなたを、傷ついたままにはしておかないわ」
「違う!違うんだ。オレが恐れてるのは、君の力じゃねーんだ。君の心だよ!オレの為に、何をしでかすかわからない、そんな君の心が怖いんだ。もしも君を失ったら、オレは生きていられねーんだぞ!」
「それは、わたしも同じよ。リティル、あなたを失えばわたしは生きてはいられない。だから、守りたいの。わたしには、その力があるから。あると、信じたいのよ!」
シェラは自分の震える両手を見つめ、胸の前でグッと握りしめた。リティルはその手に重たい両手を重ね、シェラを僅かに見上げる。
「オレを守りたいなんて言った奴、君が初めてだよ。シェラ、どうしてオレなんだよ?こんな不完全なオレを、どうして好きになんかなるんだよ?」
「わからないわ、そんなこと。もし理由があるのなら、それはリティルだから。あなただから好きなのよ」
シェラは涙に潤んだ瞳で微笑んだ。揺るがない、穢せない、踏みにじれない心を感じて、その心を向けられているのが、他ならない自分なのだと思うと、リティルは観念するしかなかった。そして、悔しく思う。自分の気持ちがシェラのそれに敵わないことに。
「そういうことを、サラッとよく言えるな。これじゃ、言わされてるみてーじゃねーか」
溜息をついて俯いたリティルを、シェラはまたやってしまったと心配そうに見つめていた。顔をゆっくりと上げたリティルと、視線が交わる。さっきまでの、突き放すような怒っている瞳ではない。穏やかでまるで愛しい者を見るような──そんなはずないと、わたしがリティルにこんな瞳で見つめてもらえるわけがないと、シェラは心の中で否定しながら、彼の力強い瞳を見つめていた。
「好きだ。シェラ、君が大好きだ!もう、どうしようもねーよ」
シェラはギクリとして、瞳を瞬いた。不意に固まったシェラの様子に、リティルはどうしたのかと様子を窺った。
「わたしを、好き?そんな……追いかけるばかりで、リティルの気持ちを考えてなかったわ。……リティル、本当?本当なの?」
シェラはオロオロとリティルを見た。
「シェラ、あんまり可愛いこと言って煽るなよな!とっくに知ってただろ?オレが君を好きなこと。わかってなかったのかよ?」
シェラの顔が見る間に赤くなる。うん、これは本気で、とっくに両思いだったことに、気がついていなかったのだと、リティルは悟った。
「わ、わたし……嬉しい、ああ、どうしたらいいの?」
シェラは真っ赤な顔で口を両手で覆った。散々大胆なことをやってきたくせに、今更なんなんだこの反応は!とリティルは前髪を掻いた。
「どうもしねーよ。もう、やり尽くしてるだろ?」
改まると、こっちまで恥ずかしくなってくる。リティルはプイッと視線をそらした。
「さっきのキスは、医療行為よ?」
「心のままに素直だな。けどな、今日は悔しいから、なしだ!シェラ、しばらく逢わねーからな。精々オレのこと考えて悶えてくれよ。イン!もういいだろ?」
リティルは最後には意地悪に笑うと、さっさとインと交代してしまった。
「リティル!意地悪……」
シェラは胸に両手を置くと、嬉しそうに微笑んだ。
翌朝、インは眠そうに時折欠伸をしながら廊下を歩いていた。
「イン、珍しいね。夜更かししたの?」
途中であったディコは、いつもきっちりしているインにも、こんな日があるのだと意外そうに見上げていた。
「昨夜はいろいろと。姫も交えて話す」
インは本当に眠そうだった。そこへ、シェードが慌ただしくやってきた。
「イン殿!妹が部屋から出てこないのだ。連日の儀式がたたったのだろうか?」
シェードは心配のあまり、顔色が悪かった。そんなシェードの肩にポンと手を置き、インは心配いらないと首を横に振った。
「心当たりがある」
インはシェラの部屋の前に急いだ。シェラの部屋の前には、すでにニーナとステイルが来ていて、戸を叩き声をかけている。扉越しに話はしているようだが、なぜか籠城しているようだ。ニーナ達は心配の余り、大丈夫、心配いらないと繰り返すシェラに扉を開けるようにと押し問答をしていた。これは、埒があかない。
シェラ自身も、姿を見せる以外に説明のしようがなく、困っている様子だった。おそらく、インがくるのを待っているのだろう。
「リティル」
インは皆に気がつかれないように、リティルに話しかけた。
『ああ?シェラの奴あれだろ?ただ恥ずかしいだけだぜ?おまえ、ホントにシェラに甘いな。わかったよ、交代しろよ。けどな、シェラを部屋から出したらオレは寝るぜ?』
インは瞳を閉じた。そして開いたときにはリティルと交代していた。リティルが近づくと、それに気がついたニーナとステイルは道を空けた。インならばシェラに扉を開かせられると、そんな信頼を感じる。
「シェラ」
リティルは扉を叩くと、名を呼ぶ。
「……イン、あ、あの……」
シェラは扉の前には立っているようだった。中から、困惑したような縋るような声がした。そしてシェラは、また間違えた。しかし、リティルはイライラしなかった。それどころか、オレだと知ったら飛びだしてくるのかな?と笑いを噛み殺した。
「残念、外れだ。リティルだよ。早く出てこねーと、インと交代するぜ?」
え?と耳を疑ったのは、リティルを囲む者達も同じだった。皆、リティルの状況を知っている。インがこんな冗談を言うはずがない。皆はリティルに注目したが、とうの彼は涼しい顔をしていた。
「リティル?ま、待って!」
シェラは慌てて扉を開いた。ふんわりとしたクリーム色のワンピース姿だった。彼女の姿を目にした皆は、背中の蝶の羽根に釘付けになっていた。
「おはよう、お姫様」
リティルは意地悪く笑っていた。昨夜の今で、シェラはどうしても心臓が高鳴ってしまう。
「あ……おはようございます……」
シェラは怖ず怖ずと小さな声で挨拶を返した。リティルは苦笑すると、シェラの手を引っ張り部屋から連れ出した。
「何やってるんだよ?恥ずかしがることねーだろ?早くみんなに説明してやれよ、シェラ。イン、あとよろしくな」
「リティル!間違えたこと、怒っているの?」
シェラは縋ったが、リティルの瞳が冷えたのを見て落胆した。
「昨夜は拗ねていたが、今は笑っていた。まだ、表に出られるのは数分が限度だ。許せ」
インは俯くシェラの頭にポンと手を置いた。
「どういうこと?お姉ちゃんは精霊になってるし、リティルって……今はイン?」
「そうだ。今はリティルではない。話そう。皆、食堂へ」
インとシェラは、皆を促して歩き始めた。
ルセーユ島から海峡を越えた先、砂漠の国・カルティアでは、ゾナをクレアが訪問していた。それは、イン達がルセーユに向かって数日後のことだった。
「ご機嫌麗しゅう。クレア嬢」
図書室のような自室の椅子から立ち上がり、クレアを迎えたゾナは、クレアに籐の長椅子を勧め、自分も向かいに腰を下ろした。
「援軍、恐れ入りますわゾナデアン。あなたに黙って皆をルセーユに行かせてしまって、申し訳ありませんわ」
クエイサラーの魔法人形の襲撃を受けたレイシルに、ゾナは再建のための援軍を送っていた。軍を動かす間もなく、インがすべてを片づけたことの報告もディコから受けていた。その折、事細かにユグドラシルの損傷具合も伝えられたのだ。
「ディコから報告を受けている。そちらはインに任せておきたまえ。彼の始めた戦いだ。して、クレア嬢、オレの力を借りたいとはどういったことなのかね?」
「私は、幼い頃より伝説に触れてまいりましたわ。そして、レルディードが闇の王に負けていたことを突き止めましたのよ。ゾナ、知っていまして?」
ゾナの紫色の瞳から感情が消えた。
「知っていましたのね?黙っていたことを責めにきたのではありません。私は、リティルとアクア姫に未来を開きたくて参りましたのよ」
クレアは持って来た鞄から、分厚い紙の束を取り出しゾナに手渡した。
「闇の王はここグロウタースと、精霊界・イシュラースの間にいますわ。花の姫は、次元の大樹・神樹の力を使い、そこへの扉も開かなくてはなりません。それを肩代わりできれば、アクア姫は癒やしの力を最大限、リティルに与えることができますわ。闇の王の欠片を体内に入れられ、それでも生き残ったリティルならば、レルディードを越えられるかもしれませんわ」
ゾナはクレアの持って来たモノに目を通した。
「これを造るには、神樹の力が必要不可欠なようだが、どうするつもりなのかね?」
「神樹から削り出したいのです。ゾナ、神樹の精霊とコンタクトを取れまして?」
神樹の精霊・ナーガニア。レシエラを気に入って自分の娘とすることで、花の姫の力を与えた。けれども──
「それは、難しい。ナーガニアは風の王が嫌いなのだよ。風の王を助けるために、助力してくれるとは思えない」
「では、なぜ花の姫の力をレシエラに?」
「闇の王がこの双子の風鳥にいることは、彼女にも都合が悪かったのだよ。レシエラが人間としての生を全うした後、自分の下へくることを条件に、ナーガニアは花の姫にしたのだよ。会えば、アクア姫をも手中に収めんとするかもしれないよ」
「では、アクア姫の力を底上げする方法か、リティルにシールドをかける方法を探しますわ。諦めませんわよ」
息巻くクレアをよそに、ゾナは彼女の書いてきた設計図に視線を落とした。
「次元の力……インはこれを見て、なんと言うか知りたいものだね。クレア嬢、ルセーユに赴こう。リティルが覚悟を決める前に、話をしておいたほうが賢明だ」
「これからですの?自走箱は行ったきりですの。ルセーユに行くには、風穴を通るしかありませんわ。私、戦闘は不向きですのよ?」
「治癒が操れるのならば不足はないよ。安心したまえ。オレは、初代・ディコの書いた魔導書だ。番犬どもに遅れを取りはしないよ」
「冷酷賢者……とてもディコちゃんの先祖とは思えませんわ」
クレアは英雄・ディコのもう一つの呼び名をつぶやいた。
「そうかい?ディコはリティルの片腕が飛んでも、顔色一つ変えることはない子供なのだがね。ステイルがこなせなかった相棒を、難なくこなしているよ。もっとも、ディコはいい子だがね」
ディコは、ウルフ族はそういうものと割り切っている。けれども、リティルが怪我をすることをよしとしているわけではない。ドルガーの一件で、リティルは自身が傷つくことが平気になってしまった。それを、表面上だけでも正常に戻したのはディコだ。ディコは自分が幼い子供であることを使って、子供にスプラッターを見せてはいけないよね?と、思わせることでリティルを守ったのだ。
「初代・ディコもいうほど冷徹ではないと、オレは思うがね。オレがカルティアを離れるとなると、少々準備が必要になるのでね。出発は明日の朝でどうだろうか?」
「ええ。あなたに合わせますわよ。ルセーユはどうなっているのでしょう?アクア姫の呪いは解けていますかしらね」
ゾナは難色を示した。
「おそらく、楽園の賢者達にも無理だろう。リティルがいない今、万事休すだが、インはどんな決断をくだすやら」
「楽園の賢者達にも、手が出せないんですの?いったい、どんな呪いなのですか?」
「呪いではないよ。いうなれば、父の愛情だ」
ゾナは瞳を伏せた。クレアは、こんなに憂いを帯びたゾナを初めて見た。
シェラの父というと、クエイサラー王・リアだ。クレアはリア王をもちろん知っていた。聡明で優しい魔導士だった。その彼が、闇の王に墜ちたと知って、信じられなかった。彼に何があったのか知りたかったが、今クエイサラーは氷に閉ざされ、国民の安否すら不明だ。リア王は生きているのだろうか。それすらも不明だった。
カルティアから遠くルセーユでは、シェードが困惑していた。
なぜ自分は、風の王と闘う羽目になっているのだろうか。事の始まりは一時間前に遡る。
シェラとリティルの顛末をインから説明され、二つの目的が達成されたことを報告された。良かったと安堵したのも束の間、食堂を出る際インに呼び止められた。
「王子、我と手合わせしろ」
「イン殿と?いや、しかし……」
「一つ、確認したいことがある。協力を要請する」
インの冷たい感情の無い瞳で見つめられると、逆らえない。そして、半ば強制的に、修練の間へ来たのだった。
この部屋は他と違い、石畳と煉瓦でできた殺風景なただの円形の部屋だった。窓のみが他の部屋と統一された尖頭窓だったが、他の部屋と違い、縦に細長くガラスが填まっていなかった。そして天井には狼達の絵が描かれていた。窓も小さく天窓もないため、天井の中央から、大きな星形の魔法のランプが鎖で吊され灯っていた。
「イン殿も、剣を扱うのか?」
「我は、長剣だ。だが、この体ではな」
インはそう言うと、リティルが扱う剣を握った。どうやら、背が低いと言いたいらしい。そして、剣を交えてわかったのだが、どうやらインとリティルは背がかなり違うようだ。舞うように美しい剣捌きだが、インの剣はシェードに届かないのだ。
「やはりな」
インはつぶやいた。そう言って、インは動きを止めた。
「三十センチ」
シェードは形のいい顎に指を当て、つぶやいた。
「そうだ。三十センチ足りない。慣れないものだな」
『なんだ、だったらこうするしかねーだろ?』
インの耳に不意に、眠っているはずのリティルの声がした。
「シェード、構えろ!」
「!」
シェードは辛うじて剣を受けた。切り結ぶと、金色の生き生きとした瞳と視線がぶつかった。リティルか?とシェードは瞬時に悟る。剣を押し返し、シェードの口元に思わず笑みが浮かぶ。押し返されたリティルは、十分に距離を取ると、両手に剣を構えた。
「ニーナ!魔法担当でシェードの側についてくれ。二対二だ、行くぜ!」
壁際で皆と観戦していたニーナは、突然の申し出にも驚くことなく、跨がっていたミストルティンを促して前へ出た。
リティルは両手に剣を構えると、シェードを狙って駆ける。風の翼で、以前よりも格段に素早い。それにしても、二対一ではないのか?と、シェードは疑問に思った。シェードの斬撃を避けて、リティルがシェードの頭を飛び越える。空中で一回転し、背後に回ろうというところに、ニーナの炎が飛んできた。それに空中で反応したリティルは切っ先を向けて風の玉を当てて相殺する。その狙いがあまりに的確で、ニーナは違和感を覚えた。そして、地に降り立ったリティルは、振り向いたシェードと激しく切り結んだ。ニーナは狙いを定め、もう一度炎を撃ってみる。シェードを突き放し、二人の間すれすれを炎の玉が通り過ぎた。そうしてシェードから距離を取らせておいて、連続で炎を放つ。炎の軌跡が読めないように修正を加え、それらは曲がりくねりながらリティルに襲いかかる。リティルはそれを避けずに、翼を大きく開いた。翼から羽根が飛び炎の玉をすべて打ち落とした。
「なるほどのう、それで二対二か。もういいじゃろう!終わりじゃ」
その声を聞き、魔法を放ったリティルは剣を収めた。その所作はどう見てもインだった。
「ニーナ殿、いったい」
「戦闘の最中、剣はリティル、魔法はインと交代を繰り返しておったのじゃ。しかし、もうリティルは限界じゃろう?」
「そこまでわかっているのか?そうだ。リティルの合図で交代を繰り返した」
「リティルが指示まで出していただと?なんと器用な」
気がつかなかったシェードは、大いに驚いていた。
「ウルフは戦闘民族じゃからな。リティルならそれくらい、朝飯前じゃ。して、何事じゃ?」
観戦しようと思っていたのに、急に巻き込まれたニーナは少し不満そうだ。
「フィーユファルセンに、挑もうと思う」
インの言葉を聞き、ニーナの狼の耳がピクリと動いた。
「フィーユファルセン?なんなのだ、それは」
「ミストルティンのことじゃ。ミストルティンは、剣の狼といって、精霊獣なのじゃよ。剣狼を得たウルフは基本的な力が底上げされるのじゃ」
ニーナは跨がる狼を撫でた。
「しかし、剣狼を得ようとな、ちと性急ではないかのう?」
「病み上がりといえばそうだが、あまり猶予もない。今闇の王の手の者に攻め込まれたら、太刀打ちできない」
「うーむ、しかし、リティルは日に数分しか出てこられないのじゃろう?そなたは剣をまともに使えぬ状態じゃ。剣狼の塔はウルフにしか入ることはできぬ。わらわと二人では、女王に挑むのは難しいぞよ」
ニーナは腕を組むと、難色を示した。
「リティルが動くことができればいいの?わたしの力がお役に立てると思います。イン、リティルは?」
控えめにシェラが近づいてくる。
「起きてはいるが、表に出すことはできない。許せ」
「ううん、いいの。リティル、聞こえているでしょう?あなたの中に門を開けば、離れていてもわたしの霊力を送れるわ」
「塔を登る間だけなら、門を開いてもいいと言っている」
「リティル、霊力の量ならわたしのほうが数倍上なのよ?今ここで、試してみましょうか?」
シェラが怒っている。その場にいたインを除く皆の体に、ゾワッと悪寒が走った。
「姫、霊力を常に送り続けることは、思った以上に疲労が溜まる。有事以外では使わない方が身のためだ。怒りを静めろ」
「過保護にしてほしくないだけよ。図書室に行っているわ」
シェラはフイッと、儀式の間を出て行ってしまった。
それを見たディコは、シェラを追っていった。一人にしておけないと思ったのだろう。
「気になることがあるんだけれど、いいかい?おまえ達、何か重大なことを隠していやしないかい?」
ステイルは、不満そうだった。
「いいや」
インは即答で否定した。しかし、ステイルは腑に落ちない顔で、彼の表情の読めない顔を見つめた。
「ふう、そうかい。ゾナとクレアがここに向かっているよ。ゾナがカルティアを離れるなんて、よほどのことなんだけれどねぇ?それも、イン、あんたに話があるそうだよ」
ゾナがインと話をするために、遙々?シェードも何か不穏なモノを感じた。妹がリティルの為に必死なのはいつものことだが、どこか思い詰めているようにも見えた。この精霊達は、ステイルの言うように何かを隠しているのかもしれない。
「ゾナが来るのか?到着はいつじゃ?」
ニーナの顔がパアッと明るくなった。
「もうそろそろだよ。リティルとシェラのことは、ディコが報告したみたいだねぇ」
「おお、では支度をせねば!ステイル、シェード、すまぬが大賢者に伝えてはくれぬか?」
ニーナに言われては断れない。ステイルはシェードと共に、修練の間を後にするよりほかなかった。
ニーナは、シェラも薄々気がついているのではないかと、心を痛めていた。クレアは歴史の保管者で、ゾナは当事者といっても過言ではない。
レルディードは確かに闇の王を討ったが、それをそのままなぞったのではリティルは勝つことはできても、勝ち残ることはできないのだった。
「イン、リティルは知っておるのか?」
「おまえが言ってるのは、レルディードのことか?それとも、花の姫のことかよ?」
儀式の間の扉を見つめたまま声をかけたニーナは、隣に立つのがリティルだとは気がつかなかった。ニーナは憂うようにリティルを見上げた。そんなニーナを、リティルは苦笑交じりに見下ろしていた。
「インからいろいろな。レルディードは、剣狼の女王とは契約しなかったんだろ?」
「そのようじゃ。レルディードの相棒は、ティルフィング。現在はビザマの相棒じゃ。強力な剣狼じゃぞ。女王・フツノミタマはなかなか選り好みが激しくての。気に入られるのは、至難の業じゃ」
「レルディードは、気に入られなかったってことなのか?」
「わからぬが、そうなのじゃろう。契約は、剣狼主導じゃからのう。じゃが、契約は必須じゃ。レルの辿った道くらいは辿らねばならぬ」
ニーナは俯いて両手を握りしめた。リティルは天井を見上げた。
「あとは風の王との契約か。けど、オレ自身が風の王じゃそれはできねーんだよな。丈夫さには自信があるんだけどな。まあ、なんとかするさ」
風の精霊は生と死を司る。風の精霊と契約すると、契約の間は不死となるという。しかし、不死の間に一度でも致命傷を負っていると、契約の完了と共にその者に死が訪れる。レルディードは、風の王・インと契約していた。そして、闇の王との決戦で致命傷を負い、討ち果たすと同時に彼は死んだのだ。レシエラは、レルディードを守り切ることはできなかったのだ。その後、レルディードの遺言に従い、大賢者・ディコがリティルを造ったのだ。
「他人事のように!リティル、失敗すれば死ぬのじゃぞ!」
「ああ。そう言われ続けて今、ここにいるぜ。大丈夫だ、心配するなよ!ニーナ、そんな顔するなって。まだ他に手がないわけでもねーんだ。イン、もうホントに限界だ。あと、頼むぜ」
リティルは瞳を閉じた。そして、開いたときにはインと交代していた。
「イン、他に手があると申すか?」
「ニーナ、死者を滅するに有効な力は、炎と光、そしてもう一つ、何か答える事ができるか?」
「なんと、ここにきて授業とな?死者……?…………治癒の力か」
「そうだ。闇の王は我が片翼・死の翼インスレイズを取り込んだことで生まれた、死の固まりだ。闇の王にとって花の姫は天敵中の天敵だ。自分の存在を守るため、故に、滅したいのだ。姫がこのことに気がつけば、何をしでかすか、想像に難くない」
「愛されるというのも、危険なことなのじゃな」
ニーナの十才らしからぬ言葉を、インはサラリと受け流した。
「レルディードがレシエラを遠ざけていたのも、このことに気がついていたからだ。シェラ姫はおそらく、我よりも強い。しかし、矢面に立たせるわけにはいかない」
「戦士ではないからのう。力はあってもシェラ姫だけでは退けるのは、難しいじゃろうのう。しかし、気がつくのは時間の問題じゃ。姫は勉強熱心じゃからのう」
フフフとニーナは思いだしたように笑った。ニーナは昨夜、儀式の間で精霊達が何をしたのか知っていた。禁じ手のことは知っていたが、それを行うことをシェラ自身の口から聞いていたからだ。正直、それがなぜ禁じ手と呼ばれていて、行ってはならない手法とされているのか、よくわかってはいなかった。が、図書室でニーナとディコが絶対に読んではいけないと、大賢者から言われている本棚の本を読みあさって、赤くなったり青くなったりしているシェラを見ていた。あの本棚の本は、十八を超えなければ触ってはいけないと言われていた。その理由を、ディコもニーナも知らなかった。
楽園の図書室は、天井まで書架に埋まり、あったはずの窓さえも埋められてしまっていた。中は真っ暗で、中へ入るときは入り口の扉を全開にし、光魔法で灯されたランプをもって入らなければならない。
「お姉ちゃん、怒ってる?」
「いいえ。自分が不甲斐なくて、リティルに当たってしまっただけなの。わたしが最上級精霊で風の王が上級精霊だとしても、闘う力をわたしは持っていないから」
シェラは治癒に関する魔導書を手に取った。
「ディコ、あなたは伝説の詳細を知っているの?」
「うん。でも、ニーナやクレアお姉ちゃんほどじゃないよ」
「闇の王とどういう風に闘ったの?」
「ええと、闇の王は異空間にいるから、そこへの扉を花の姫が開いて、レルディードが一人で闘ったんだよ。異空間には腐敗の力が満ちてるから、レルディードの超回復能力と、花の姫の癒やしの力で、レルディードの体が死なないようにしてたんだ」
「インはそのとき、どこにいたの?」
ディコは視線を床に落とした。
「レルディードと闘って、魂だけの存在になっちゃってたんだ。もうそのときには、リティルを造る計画があったみたい。インは魂だけの存在になって、レルディードのそばにいたんだ」
「今と同じね。レルディードは戻ってこられたの?」
「うん。リティルの体のベースはレルディードの体だから、間違いないよ」
「ねえ、ディコ、レルディードは、インと契約していたの?」
シェラの瞳がとても真剣だった。
「え?うーん、どうなのかな?ボク、そこまではわからない。精霊と契約すると、どうなるの?」
ディコは首を傾げた。
「契約する精霊の特性が、契約者に表れるの。もしわたしと契約すると、リティルやニーナのような超回復能力が体に宿るのよ」
「へえ、そうなんだ。風の王と契約すると、どうなるの?」
「風の王と契約すると……その人は、仮初めの不死を得るわ……」
シェラが闇の奥を見つめたまま、つぶやくように答えた。魔導書を抱いた彼女の手が震えていることに、ディコは気がついた。
レシエラから力を引き継ぐとき、彼女は言っていた。
『今度こそ、彼を守ってあげて』と。
そして、昨夜リティルは言っていた。
『実際にレルディードとレシエラは越えられなかった』と。
シェラは、自分の落とした本の重たい音で我に返った。ディコが本を拾ってくれながら、シェラを心配そうに見上げていた。
「ディコ……わたしは、花の姫に、なってはいけなかったのかもしれないわ」
「え?」
「わたしが花の姫になってしまったら、風の王は闇の王を討つために動き出してしまう。風の王は、すべての世界を行き来する権限を得ている唯一の精霊なの。それは、そこに住む者では、太刀打ちできないモノと代わりに闘うため。闇の王のような存在を、消し去るためにいるの。もしも、帰ってこられない戦いでも、風の王は闘わなければならないの」
シェラはその場に崩れ落ちた。
「リティルは、知っているのね?このままでは、闇の王と心中するしかないことを」
「そんな……本当に?もしかして、今日ゾナとクレアお姉ちゃんが来ることと、関係あるのかな?」
ゾナとクレアの名を聞いて、シェラは心配そうに肩に手を置いてくれているディコを見た。あの二人は歴史を正しく知っている。おそらく、最後の戦いの詳細も。
何をしに来るの?とシェラは思わずにはいられない。リティルとわたしにそのことを伝える為?そして、それでも赴くことを同意させられる?リティルが覚悟を決めていたら、シェラにはもうどうすることもできない。彼は笑って、大丈夫としか言わないから。
「わたしは……城にいたころと変わらないの?誰かの決めたことを忠実にこなす、人形から抜け出せないんだわ!」
シェラは顔を覆った。自分で考えて選んできたつもりだった。それなのに、結局誰かの思惑に乗せられていただけだった。リティルがいない間、インがずっと気遣ってくれたのはその後に来る、大きな哀しみへの罪悪感からだったのかと、思えてしまう。あのとき、慰めてくれたのは、そんなことはないよね?という心のままに戦場へ行かせるためだったのだと、インの優しさを疑ってしまう。インは誠実で、嘘のない精霊だと知っているのに、疑ってしまう。
泣き出してしまったシェラを見つめながら、ディコは考えていた。あのリティルが、生きることを諦めているとは、とても思えなかった。ゾナやクレア、ステイルでさえリティルを、時に過剰に心配していた。けれども、彼の過去を直接知らないディコには、理解できなかった。その心に闇を抱えていることはわかっても、彼はいつでも前向きに見えたからだ。あの笑顔に、嘘はないと思っている。
それに、昨夜再会したばかりの二人の様子が変わったことに、ディコは気がついていた。今朝のシェラの籠城事件。リティルは楽しそうに、たった一言でシェラに扉を開かせた。あの言葉は、オレに逢いたかったら出てこいと、ディコには聞こえた。あの時、ずっと逃げ回っていたリティルが、シェラを受け入れたことを知った。ならばなおさら、リティルが死を覚悟しているとは思えない。
「お姉ちゃん、リティルと上手くいったんだよね?」
「リティルは嫌がっていたわ!けれども、わたしがあまり追いすがるから……」
リティルが焦らしすぎたせいで、シェラはすっかい疑心暗鬼だ。リティルって、結構不器用だなとディコは思った。
「それは違うよ?もし、リティルが心中しようとしてるなら、絶対にお姉ちゃんを受け入れたりしないよ。リティルは絶対に帰ってくるつもりがあるから、お姉ちゃんにお返事したんだよ?探そう?お姉ちゃんにできること。ボクも手伝うから。それを見つけて、リティルをあっと言わせちゃおうよ」
シェラは涙に濡れた顔を上げた。ディコは、十才の子供らしい笑みを浮かべていた。
「ディコ……ありがとう……。そうね。そうよね。諦めたら、そこで終わってしまうもの」
「それじゃあ、闇の王の事ちゃんと調べることから始めよう?文章はあんまり残ってないんだ。みんなに話を聞いた方がいいかな?」
「実際に知っているのは、インとゾナ?教えてくれるかしら?」
「ゾナはどうかわからないけど、インは教えてくれるよ。だって、リティルのお父さんだから」
お父さん?ディコはインをとても近い言い方をした。けれども、しっくりくるような気がするから不思議だ。
お父さん……お父様。不意にシェラは自分の父のことを思い出した。父はどうして、呪いをかけたのだろうか。精神の深く深く、リティルが眠った後、インに部屋まで送ってもらったシェラは、彼から本当に心の繋がった者にしか、取り除けないものだったと聞かされた。その呪いはとても美しく、アクアマリンのような色をしていたとも。
呪いとは、もっと禍々しいものだと思っていた。インはそれ以上言わず、彼の表情のない瞳からは何も読み取れなかった。
父は本当に、わたしを殺そうとしていたのだろうか?シェラは父の真意を知りたかった。ゾナは、クエイサラーについて何か知っているだろうか。
シェラは、さきほどまでゾナとクレアに会いたくないと思っていたが、今は会って話をしなければと思っていた。
修練の間に、ゾナとクレアは到着した。部屋の入り口に、ステイルとシェードは待機した。
ここへきたのは、インがそこにいるからだった。インの表情は普段通りだが、雰囲気がいつもよりも怖い。ニーナは、ゾナとインが、あまり相性の良くない相手だということを知った。
「風の王・イン。リティルが世話になっている」
挨拶も無しに、ゾナはそう切りだした。
「我がここにいるのは、やむを得ない事情故だ」
二人の間で、ニーナはこのまま争いになるかもしれないと戦々恐々とした。それほど、二人の間に流れる空気は緊張していた。
「我に何か用か?初代ディコの魔導書」
「これを見てもらいたくてね」
ゾナはクレアの書いた計画書を手渡した。分厚い紙の束だったが、数枚めくったところでインの手が止まった。
「クレアといったか?これをそなたが?」
「どうでしょう?実現可能でしょうか?」
「物理的には可能だが、精霊的事情で不可能だ」
「あの、聞いてもよろしくて?神樹の精霊と何かありましたの?」
「何かあったのは我ではないが……初代とナーガニアとの間の確執により、風の王は皆彼女に嫌われている」
「初代?精霊は永遠の命を持つと聞いていましたが、あなたは代替わりしたのですか?」
「我は十四代目だ」
「十四代……いくらなんでも多すぎませんこと?風の王には寿命があるのですか?」
「宿命だ。クレア、ナーガニアを説得することは、我には不可能だが、リティルならばあるいは。しかし、今、楽園を出るわけにはいかない」
「それはどうしてですの?」
「剣狼に挑むのじゃ。かつて、レルディードがそうしたようにのう」
「リティルは今、どうしているのかね?」
「眠っている。今日はもう、呼びかけに応えることはない」
「すまぬのう。つい先刻、我らと遊んでしもうてのう。……ディコ、シェラ姫?」
儀式の間の入り口に、シェラとディコが姿を現した。
「ゾナ、クレアお姉ちゃん!」
「アクア姫?まあ、なんて美しい!それに、伝説にはない展開ですわよ!ゾナ!」
背中に羽根を生やしたシェラの姿を目にして、クレアがはしゃいだ。伝説では、ここまで完全にレシエラは精霊となっていないのだ。故に、彼女は人間として一生を終えている。歴代の花の姫達も同じだ。花の姫の力を得ていても、完全なる精霊になった者はいない。
「イン、姫の呪いを解いたのは?」
「リティルだ。それ以外に、誰が解く?信じられない顔だ。リティルの精神力は、レルディードよりも上だ。不可能ではない」
「それは、私も信じられませんわ。数年前のリティルを見れば、あなたも不安になりますわよ」
「数年前?」
シェラはディコを見下ろした。
「ボクと出会う前のことだから、知らないんだけど、酷かったみたいだよ?ボクは強くて優しいリティルしか知らないよ」
出会った頃、強がりと善行で、リティルが何かを隠していることをディコは知っていた。しかしそれもすぐに、強がりではなくなり、優しさは彼が本来持っているものだったのだろう。時折見せた鋭く怖い瞳も、今は思い出せないほどだ。リティルが無理をして変わってくれたことを、ディコは知っていた。それが誰のためであるのかも、理解していた。感謝しても感謝しきれない。すべてを失ったディコの哀しみを和らげ、闇に落ちないようにずっと支えてくれた。だから、リティルはディコの英雄なのだ。
「当時は、最悪に素行も悪くてね」
「あ、でも、変なお姉ちゃんの誘いに乗ってたのは、ボクみたことないよ?ちゃんと、断ってたよ?」
「ディコちゃん、アクア姫の前ですわよ!」
シェラは会話について行けずに、首を傾げていた。
「もう、人相から違いますから。それほど、ドルガーの事が辛かったのですわ」
「ドルガー?あのフォルクの戦士か」
「知っていますの?」
「リティルの夢に、豪快に笑うフォルクの男がいた。精神の形が、リティルに似ていると感じたが、すでに故人か」
「それだけかね?」
ゾナは探るように問うた。
「それだけだ」
今度はインが首を傾げた。
「それにしても、アクア姫、よく禁じ手を受け入れましたわね。まさか、騙されて無理矢理ではないですわよね?」
「いいえ。インにちゃんと、説明してもらいました……」
シェラはいたたまれなくなって俯いた。あの呪いを解くには、禁じ手を使う以外にないことを、ある程度の知識のある魔導士ならば知っている事実に、顔を覆いたくなる。
「ゾナ、もうリティルは大丈夫ですわね。こんなにそばにいるインが、太鼓判を押すのですから」
「我から見て、なんの問題もないが?姫に関わると、不安定になるくらいだ」
「わたし、リティルの邪魔になっているの?」
「そういう意味じゃないよ、お姉ちゃん。疑っちゃダメだよ」
イン!言葉の選び方!とディコは頭を抱えた。
「もお、リティル!お姉ちゃんを避けるから、変なことになっちゃうんだよ。そんなに格好付けたいものなの?」
ディコは首を傾げた。
「そういうお年頃ですわ。仕方ありません」
ディコとシェラを除く全員が、クレアの言葉に頷いた。
そんなことよりと、ディコは本題を切り出すことにした。
「ところで、お話終わったの?ボク達、インに聞きたいことがあるんだ」
「我に?」
見上げるディコの様子に、インはチラリとニーナを見た。ニーナも感じたようで、その表情は緊張している。
「闇の王の事、教えてほしいんだ。できるだけ詳しく」
「構わないが、その理由は?」
「リティルを、守りたいのです。知っているのですよね?このまま闇の王と闘えば、リティルが帰ってこないことを。その道を開いてしまったのは、わたし……。イン!黙って行くつもりだったのですか?リティルは……わたしを欺いていたの?」
シェラは、インに詰め寄っていた。
「そんなことはない。断じて」
止まらない。一度堰を切った想いは暴走していた。
「レルディードが帰ってこなかったことを、リティルは知っていました。リティルは潔い人、一人で数え切れないスグリーヴァに立ち向かえる強い人です。たとえ帰ってこられないとしても、笑って行ってしまう!信じられないの……イン、リティル……わたしは、あなた達をこのままでは信じることはできないの」
シェラは俯いた。その肩は小刻みに震えていた。
「私達、リティルを守る手段をご相談にきたのですわ」
シェラはそっと肩に触れてくれたクレアを見た。
「お可哀相に……そんなに思い詰めてしまわれたのですわね。そうです。あなたの憂う通り、このままではリティルが生き残る可能性は低いですわ。だからこそ、来たのです」
「姫、我はリティルを死なせる気は毛頭ない。風の王の宿命をも終わらせられる、新たな王だ。こんなところで、殺しはしない。信じろ」
「故に手始めに剣狼に挑むのじゃ。皆の思いは一緒じゃよ。話すことができず、すまぬな。勘がいいのも考えものじゃのう。リティル、これより苦労するぞよ」
「全くだ。我々がどう伝えるべきか、悩んでいる時にきてしまうのだからな」
インは溜息をついた。そんな彼の様子に、ニーナはインに目配せした。インは観念した様子で、ニーナに頷いてみせる。下手に隠していると危険だと、インも思ったのだ。
「姫、死者を滅するのに有効な力は、光と炎、そしてもう一つは何かわかるかのう?」
ニーナの問いに、ディコも本気で頭を悩ませた。死者には痛覚がないため、肉体を完膚なきまでに消滅させなければならない。幽霊のように体のない者も同じだ。霊体を形作る要素を消し去らなければならない。
「それってもしかして、反属性?死の反対は生?うーん……」
「私わかりましてよ?」
「ええ?嘘!悔しいなぁ」
「ディコには、馴染みの薄い力なのでね。これを導き出せたら、賢者の称号を与えてもいいくらいだよ。さあ、答えてみたまえ」
皆がわかっている様子に、ディコはまだまだ勉強が足りないことを痛感した。
「わたしの力……」
シェラがぽつりとつぶやいた。
「お姉ちゃんの?え?治癒の力って事?」
ディコは原理が理解できない様子で、腑に落ちない声を上げた。
「死した魂は世界に帰り、再び産まれる。死者は生かす力である治癒を受けると、死んでいるという存在を保てなくなり崩壊する。闇の王は、すべてを死へ追いやる力の固まりだ。治癒の力は天敵だ」
「それって、どういう?闇の王を治癒の力で攻撃できるっていうこと?」
「法則的にはのう。しかし、闇の王のいる異空間への扉を開き、リティルを癒しながら、攻撃するというのは不可能じゃ。現実的ではないからのう」
「私達は、次元の扉を開き維持する装置を作れないかと、インに相談に来たのですわ。そうすれば、アクア姫はリティルの為に最大限力を使えますでしょう?」
「次元の扉?それって、神樹の力のこと?そんなこと、できるの?」
「神樹の精霊・ナーガニアが助力してくれれば。しかし望みは薄い」
「わたしが、お母様と話します!わたしの言葉なら、届くかもしれません」
「姫、それをしてくれるのはありがたいが、くれぐれも、リティルと離れる選択だけはするな。そなたを取り戻すために、リティルがナーガニアと争うことはあってはならない」
やりそうだと、皆は思い思いの方向を見て思った。
「そんなこと、いくらリティルでも──」
「アクア姫、リティルという男は存外無礼にできているのだよ。君も、覚悟しておいたほうがいい」
「さあ、方針は決まりましたわね。私、もう少し計画を練りたいので失礼いたしますわ!」
クレアは俄然やる気になって、部屋を大股で出て行った。
「オレもクレア嬢に助力せねばならないのでね、失礼するとしよう」
ゾナも後を追い、入れ替わりでステイルとシェードが合流した。
「シェラ、一人で抱え込んではいけないよ?頼りないかもしれないけれど、あたし達がそばにいるからねぇ」
「頼りないなんて、そんなこと!ありがとう、ステイル……わたし、怖くて……」
最近は本当に泣き虫になってしまった。暖かな人達に囲まれ、シェラは幸せだった。
シェラは窓際に置かれた机に向かって、治癒の本や伝説の記された本を読んでいた。もう、皆寝静まっている時間だったが、どうにも寝付けなかったのだ。そういえばカーテンを引くことを忘れていたと、シェラはカーテンに手を伸ばした。そして、ふと、外に誰かがいることに気がついた。
「……イン?」
彼は一人のようだ。こんな時間にどこへ行くのだろうか。シェラは窓を開けるとそこからそっと外へ出た。虫達の鳴き声と、夜露に濡れた草の匂いがとたんにシェラを包んだ。
見上げると、大きな満月が明るく照らしていた。彼は?と捜すと飛び立つところだった。彼の翼はオオタカの翼だ。蝶の羽根で追いつけるだろうか。そうは思ったが、気がついてしまった以上放ってはおけなかった。
彼は楽園を出てしばらく、ウルフの郷の方へ飛んだ。そして、すぐに舞い降りた。今は赤黒く沈む大地に、尖った岩山が一つ聳えている。あれが、剣狼の塔なのだとシェラは思った。彼は、剣狼の塔が一望できる、高台の平たい岩の上に立っていた。
彼の背後に舞い降りたシェラは、控えめに声をかけた。彼は片手を腰に置き、塔を眺めているようだった。
「リティル?」
立ち姿から、そんな気がした。
「ん?シェラ?オレ、もしかして監視されてるのか?」
振り向いたのは、本当にリティルだった。リティルは意外そうな顔で、驚いていた。
「あなたが出て行くのが見えたから……お邪魔しました。帰ります」
「待てって!拗ねるなよ」
「拗ねてなんて!」
「違うのかよ?だったら、ほら、ここ!」
リティルは岩の上に座り込むと、その隣をポンポンと叩いた。ここに座れと言うのだ。シェラは、少し離れて腰を下ろした。その様子に、リティルは苦笑するしかない。
「シェラ、あれが剣狼の塔なんだ。昔はほぼ全員のウルフが剣狼と一緒にいたんだぜ?けど、滅びる前のウルフは、ビザマだけが剣狼に認められてたんだ」
リティルは聳える塔を指さした。荒涼とした大地に、スウッと聳えた石の塔に満月がかかり、塔は真っ黒な墓石のように見えた。ブルークレーの各所や楽園とは違い、とても寂しい景色だった。
「悪い人でも、剣狼は力を貸すの?」
「ビザマが謀反を起こす、ずっと前に契約してたらしいからな、そのころからビザマの心が黒かったのかはわからねーよ。ただな、ウルフ族は戦闘民族だろ?そのウルフは、この平和なルセーユで滅びかけてたんだ」
「平和は、悪いこと?」
「いや。平和が一番だぜ?ただビザマは、牙を失っていくウルフを見て、何を思っていたんだろうって」
「リティル?」
「ティルフィング。ビザマの相棒の剣狼だ。元レルディードの相棒なんだ」
「え?」
「剣狼は、ウルフ族と心を共鳴させて契約するんだ。だからなんだって話なんだけどな」
リティルが立ち上がった。
「さて、帰るか?」
「……」
「オレ、一時間くらいしか表に出られねーんだ。インは眠っちまってるし、そろそろ行かねーと帰りつけねーよ」
もっともだった。しかし、シェラは動きたくなかった。
「わたしは、もう少しここにいるわ」
「……なあ、何か怒ってるのか?」
「怒ってないわ。おやすみなさい」
「怒ってるだろ?しょうがねーな。ほら、来いよ」
リティルは前髪をクシャリと掻き上げると、翼をはためかせ二十センチほど浮かんだところで、腕を広げた。
「いつもぶつかってくるじゃねーか。それとも、もういいのか?」
これ以上意地を張っては、リティルは帰ってしまう。シェラは仕方なく、立ち上がるとリティルの腕の中に飛び込んだ。その背に、そっと彼の力強い腕が回ってくる。
「怒るなよ」
「怒っていないわ」
「顔上げてくれよ。怒ってねーなら」
いいようにあしらわれている気がする。けれども、リティルの顔が見たい気持ちに、意地が砕ける。
「オレが寝てる間に、何があったんだよ?」
「何も、ないわ」
「なら、どうしてそんな顔してるんだよ?辛そうだぜ?」
いつもは僅かに見下ろす彼の顔が今日は上にあった。いつもと逆転した位置から、リティルに気遣わしげな瞳を向けられて、シェラは思わず瞳を伏せてしまった。
「狡い……」
「それは、君だろ?オレが手を出せねーこと知ってて、やってるんだろ?」
「なぜ?」
「そりゃ……」
シェラのなぜ?が、手を出せない理由を指しているのか、ワザとやっていると思った理由を問うているのかわからなかったが、リティルは視線を彷徨わせると言った。
「インがいたら、何もできねーだろ?今は寝てるけど」
インがいたら?シェラはどういう意味なのか一瞬わからなかった。しかし、インにリティルの中から見られていることに思い当たり、シェラの顔に朱が差した。
ああ、どうしてこういう反応するんだよ?と、リティルは悶絶したいのを堪えて溜息をつくしかない。いちいち反応が新鮮で、リティルの心を掻き乱す。
「もう、無理だー!帰って寝るぜ!」
「リティル!」
手を放しそうになったリティルを拒んで、二人は縺れた。そして、倒れそうになったシェラに引っ張られて、リティルは二十センチ墜落した。
「ごめんなさい!……もう少し、もう少しだけそばにいて」
リティルの上に倒れたシェラは慌てて体を起こすと、彼の胸に手を当てた。リティルは、シェラの霊力が優しく流れ込んでくるのを感じた。しかし、大半は定着せずにそのうち抜けてしまう。リティルが自力で自分自身の霊力を回復させるしかないのだ。
「ごめんな。ちゃんと、帰ってくるつもりだったのに、こんなことになっちまって」
リティルは体を起こすと、胸に触れていたシェラの手を取った。シェラは首を横に振った。
「あなたは、ちゃんと帰ってきてくれたわ。もう、どこも痛まないの?」
「ああ。君のおかげだな」
リティルは屈託なく笑った。ずっと瞼の奥にしかなかったその笑顔が、目の前にあることに胸がいっぱいになって、シェラは自身の両手を胸に押し抱くと俯いた。その様子に、リティルはどうしたのかと顔を覗き込んでくる。
「きゃあ!」
シェラは近さに驚いて、悲鳴を上げて座ったまま数歩逃げていた。
「な、なんだよ?追ってきたり、逃げたり、忙しいお姫様だな」
リティルは困ったように頭を掻いた。
「違うの……どんな風に、あなたに触れていいのか、みつめていいのか、わからなくなってしまって……」
心臓が躍っている。せっかくリティルがいるのに、まともに話すらできなかった。
リティルは、今まで大胆だったシェラが、意識したとたんに、今までのように動けなくなったことを知って、思わず顔が熱くなった。それを振り払うように、大げさに笑った。
「あ、オレのこと、やっと意識してくれた?ハハハ、やっと、男に昇格できたな!」
リティルはぎこちないわたしの様子にも、気分を害した素振りなく笑っている。そう思ったシェラは、リティルの余裕を羨ましく思えた。大いにリティルの心を、掻き乱しているとも知らずに。
「大丈夫だぜ?今度はオレが触るからな!」
リティルはシェラの手を引っ張り引き寄せると、口付ける。すぐに放して彼女を確かめると、目を丸くして固まっていた。思った通りの反応で、リティルはすっと目を細めた。
「目、閉じろよ、シェラ。教えてやるからさ」
ワザと低くゆっくりと、リティルは囁いた。シェラはドキッとして、思わず瞳を閉じていた。リティルからのキスはいつも不意打ちで、シェラは事故に遭ったような気分だった。それなのに今は──顎に触れるリティルの指先を感じて、シェラの心臓はうるさく鳴っていた。
満月の白い光が、シェラの顔をボンヤリと輝かせているようだった。閉じた瞳を飾る長いまつげ。緊張からかほんのり赤い頬。リティルはシェラの唇にそっと指を這わせた。小さく息を吐き、シェラの唇が僅かに開く。もっと焦らしてやるつもりだったのに、その唇に誘われて、リティルはキスしていた。
リティルのくれた口づけはシェラの知らない口づけで、受け入れようとすればするほど、翻弄され、溺れさせられる。シェラの手に背中を掴まれるのを感じ、リティルは深く口づけたまま強く抱きしめた。
「なあ、シェラ、オレはもういなくなったりしねーよ?」
リティルは、赤い顔で息の上がったシェラの髪を撫でた。シェラは首を横に振った。
「なんだ、聞いたのかよ?それでもオレは、必ず戻るよ。信じろよ」
シェラは言葉にならずに、激しく首を横に振る。
「大丈夫だ。心配いらねーよ」
リティルの顔が近づいて、今度は額にキスが落ちる。そして、な?と言って瞳を覗き込み、リティルは笑った。曇りなく、真っ直ぐに。リティルの笑顔を見たら、そこに確信がなくても信じてしまう。大丈夫なのだと思わされてしまう。
「リティル、信じているわ」
シェラはやっと偽りでも、リティルの笑顔に応えて笑うことができた。手を放せば、また逢えなくなる。今だけは、明日が来なくていいと思った。リティルがいる、この時にまだ留まっていたかった。
翌朝、剣狼の塔攻略が始まった。しかし、成果は芳しくなかった。
「ごめんなさい。どれくらいのペースで、霊力を送ったらいいのかわからなくて……」
塔の入り口の前で、リティルは仰向けに寝かされて、額に水で濡らしたタオルを置かれていた。
「いや、君のせいじゃねーよ。塔の中は、神樹の森と真逆なんだ。入っただけで、力を奪われちまうんだ」
「そうじゃ。超回復能力をフル稼働して、なおかつ古代ウルフ族の霊と闘わねばならぬ」
ニーナは、ミストルティンの上で涼しい顔をしていた。剣狼を得ているウルフは、塔の試練を受けなくなるのだ。
「シェラ、もう一度いけるか?」
「はい。リティル、大丈夫ですか?」
「ああ。ピンピンしてるぜ?頼むよ」
頷いてシェラは、両手を胸の前で握り意識を集中した。リティルの中に霊力が満ちる。満ちたところで一旦ゲートを閉じる。リティルは立ち上がると、再び石の扉を押し開けた。
中へ入ると、上から押さえつけられるような圧迫感に襲われた。貰った霊力がすぐさま抜け始めた。
「ぐ──この……痛くねーぶんだけ、闇の王の欠片より数十倍マシだぜ……」
完全に強がりだった。塔の中は、中央が吹き抜けになった、広い螺旋階段が壁に添って登っているだけの殺風景な空間だ。階段の所々に、狼の像が置かれている。
「リティル!構えるのじゃ」
ニーナの声で顔を上げると、剣を携えた白くボンヤリしたウルフ族が、階段を降りてくる所だった。
「イン──!手出すなよ……!」
『我が手を出しては、試練にならない。我は救助要員だ』
リティルは重い両手に剣を抜き、階段を駆け上がりながら切り結ぶ。相手はウルフだ。リティルの剣は簡単にいなされてしまう。しかも、ここにいる古代の幽霊は、剣狼を得たウルフの霊なのだ。本物ではなくコピーらしいが、それでも強さは折り紙付きだ。
「ファラミュール!リティル、退くぞよ!」
ニーナが魔法と放ちウルフ霊を消し飛ばすと、リティルの腕を取る。
「待てよ──まだ、行ける──ぜ!」
そう言いながらも、リティルは膝をついていた。急に力が抜けてしまったのだ。
「わからぬか?シェラ姫が倒れたのじゃ」
「霊力の巡りが不安定だ。今日はここまでだ」
額の汗で張り付いた前髪を掻き上げ、強制交代したインは階段を下り始めた。そんな彼にウルフ霊が襲いかかる。インは冷たい瞳でリティルの剣を持ち上げる。そして、切っ先をウルフ霊に向けた。切っ先から風の玉が生まれて弾丸の様に飛び打ち抜いていく。
『すげーな。真似してー』
「真似すればいい。器用なそなたには、これくらいのことできるだろう!」
インなら、三十センチの身長差を克服するくらい、簡単なことだとリティルは思っている。彼が魔法を使うのは、使い方をリティルに見せてくれているのだ。
インはあっという間に塔を下りきり、扉の外に出た。彼からは霊力が抜けないのかと疑うほど、涼しい顔をしている。
「姫、今日はもう終わりだ」
シェラは意識を取り戻していたが、ステイルに支えられ脈を診てもらっていた。頭もふらついているようで、額を押さえている。
「イン、大丈夫です。まだやれます」
「焦るな。焦りは隙を生む。次は、リティルが傷を負うかもしれない」
「……わかりました」
自分自身を保ったまま、相手に力を送ることは思いの外難しい。加減を間違えれば、急激に霊力を奪われて意識を失い、与える力が少なければ、相手が倒れてしまう。けれども違和感がある。送っただけの成果が出ていないように思えるのだ。
「シェラ、大丈夫か?ごめん。君が倒れたこと、気がつかなかったんだ」
インと交代したリティルが、心配そうに顔を覗き込んできた。シェラが意識を失ったのは、自分のせいだと思っているらしい。それにしても、リティルが霊力の供給が止まったことに気がつかなかったとは、おかしい。あんなに送っていたのだ。それが急に途絶えれば、魔法に不慣れなリティルでも流石に気がつくはずだ。おかしい。何かが霊力の流れを妨げているのだろうか。シェラにかけられた呪いのように。呪い?
「大丈夫です。楽園に戻りましょう」
シェラは精一杯元気に微笑んで見せた。リティルは苦しそうな顔で、つぶやいた。
「イン、シェラを頼むぜ」
『そなたが連れて戻ればいい。まだ時間は残っている』
「それは、そうなんだけどな……」
「リティル、あなたにも呪いがかかっているの?」
ステイルに支えられながら立ち上がったシェラは、立ち尽くすリティルの前に立った。
「へ?」
リティルは狐につままれたような顔をした。シェラがなぜそんなことを思ったのか、心当たりがまるでない。インに名を呼ばれ、リティルは素直に交代した。
「話の途中で交代してすまない。そう感じるのはおそらく、リティルの心の問題だ。潜在的に魔法を使うことを拒んでいる。反論するな、話は最後まで聞け!失礼した。リティルは魔法を使えないのではなく、使わないのだ」
「え?ちょっと待って。今はインだよね?そのままいてね」
ディコがトコトコとやってくると、インの手を取った。そして意識を集中する。
体を巡る綺麗な霊力の流れを感じる。強く輝く金色で規則正しくて、インの人となりを表しているようだった。
「リティル、出てきて。ごねないの!これ、結構大事なことだよ?」
ディコの真摯な瞳に見つめられ、リティルは観念するしかなかった。ディコはインの精神にしたように、意識を集中する。体を巡る霊力は、全身に行き渡っているものの、体の中心で滞っている箇所があった。シェラが呪いと言ったのは、この乱れのことだろう。
「何これ……?穴?もう少しで見えそうな……」
深く覗こうとしたディコの手を、彼は強引に引き離した。ハッとして顔を上げると、冷たい瞳と視線がぶつかる。インは僅かに首を横に振った。
「許せ。今日はもう疲れてしまった。ディコ、戻った後これについて話したい」
「う、うん。わかった」
ディコの心臓はドキドキしていた。リティルの中にあった穴は底知れず、まるで深淵を覗き込んだような気がした。
「リティル、風の王を継ぐ気はあるか?」
『なんだよ?急に。あるに決まってるだろ?』
「質問を変えよう。我を憎んでいるか?」
『はあ?あるわけねーだろ!さっきからなんなんだよ?』
「偽るな」
『嘘じゃねーよ。なんの根拠があって、そんなこというんだよ?』
「我が知るかぎり、そなたが風を使ったのは、闇の王の欠片を消し去ったときのみ。そなた、ビザマと対峙するよりも以前から、彼の者を知っていたな?そして、サレナのことも」
『知らねーよ!おまえを取り戻したあのとき、初めて会ったんだ』
「我を信用できないか?」
『待てよ、イン!ホントに、わからねーんだよ。オレはいったい、どうなってるっていうんだよ?』
「自覚がないというのならば、そなたは無意識に、我を拒絶している」
『オレはホントに、そんなこと思ってねーよ』
「そなたは隠すことが上手い。我を憎め、リティル。偽らなくともいい。心の底まで綺麗な者などいない。それでいいのだ。憎む者が我であるのならば、それは幸いだ」
『イン……ずっとそうやって生きてきたのか?』
「我には、そうすることでしか救えなかった。しかし、そなたは違う」
『わからねーよ。言いたくねーことも、知られたくねーことも生きてりゃあるだろ?それを暴かれなきゃならねーのかよ?』
「そうではない。我のことをそなたが知れば、心が離れていくだろうと断言できる。そんな過去を、今そなたに晒そうとは思わない。我が罪の黒さに比べれば、そなたに消し去りたいほど憎まれたとしても軽いモノだ」
『おまえ、メンタル強すぎだろ!尊敬通り越して怖えーよ』
「イシュラースへ戻れば、嫌でも十四代目風の王の噂は耳に入るだろう。我の悪行の数々。それを知って離れていく心を、我は知らずにすむ」
『寂しいこと言うなよな。悪かったよ、強いなんて言って。オレはおまえを知ってるんだぜ?どんな非道いことを聞いても、おまえのことを想像して、いい話に作り替えちまうだろうな。シェラも、ディコも、みんなきっとそうだぜ?おまえは優しいよ。優しすぎたんじゃねーか?』
「優しさならば、そなたに劣る。リティル、そなたの心をそなた自身が受け入れなければ、その心は死んだままだ。それが、ディコの見た穴の正体だ」
『今サラッとオレ褒められた?……トラウマって奴なのか?わからねーな……もの凄げー気が進まねーけど、ゾナの奴に聞いてみるか?あいつは、オレの過去を全部知ってるからな』
その時、トントンと扉をノックする者がいた。
「イン、ディコだよ?入っていい?」
インは椅子から立ち上がると、ディコを招き入れた。ディコは一人だった。
「ボク一人の方がいいと思って。お姉ちゃん、呼ぶ?心配してたよ?」
インは首を横に振った。
「ディコ、そなたは時の魔法を扱えるか?」
「え?……イン、どこからそれ聞いたの?ボクが時の魔法を扱えることは、一族の秘密なんだよ?」
ディコは慌てた様子でインに小声で答える。
「失われず継承されていたか。初代・ディコには苦しめられた」
ディコはインの様子から、ゾナと相性が悪い理由がわかった気がした。
「ディコ、リティルの意識を後退させろ。ビザマに風の力を奪われる頃に」
「………………いいよ。でも、イン、リティルのそばにずっといてね?でも、どうしてそんな昔?ドルガーお父さんのその、事件のころじゃなくて?」
「ディコが穴を覗いたとき、ビザマとサレナを感じた。リティルは、二人を知っている。知っているが今は知らない」
忘れてるということだろうか。承諾してディコは頷いた。
ディコは一旦部屋に戻ると行って出て行き、すぐ戻ってきた。その手には、ディコの掌の大きさの懐中時計があった。ディコは懐中時計を首にかけると、リティルにベッドに仰向けに寝るように指示した。
「イン、リティルがおかしくなったらすぐに起こしてね?時の魔法は全部禁呪なんだ。ボクも、何度もかけてあげられないからね?」
行くよ?とディコは緊張した面持ちでリティルの顔に右手をかざした。左手は懐中時計を持ち自分の耳に当てる。カチカチという規則正しい音に乗せ、ディコの呪文の詠唱が始まる。
「グロウ ソラ ミリオネ 時の番人 三つの時間
現在 過去 未来 繋がる線を辿り この者の意識を 過去に戻さん
グロウ ソラ ミリオネ 現在 過去 未来 ──……」
静かに繰り返される、時の精霊達の名前。それを聞いていたリティルは、意識が眠りではないどこかへ誘われるのを感じた。
──ル……リティル!「ねえ、聞いてる?」
ハッと我に返ると、ガラスのような物を隔てた向こうにニーナがいた。いや、ニーナにしては年齢がかなり上だ。
「聞いてるよ。おめでとう!サレナ!……おめでとうでいいんだよね?オレ、ケッコンってよくわかんない」
「ありがとう。おめでとうで、合ってるよ。お父さんもそう言ってるでしょう?」
「うん。合ってた!……サレナ?」
幼いリティルの背には、金色の翼があった。リティルは、薄水色の魔水晶の球体の中に囚われていた。リティルは、水晶の壁に手を付き不意に俯いたサレナをどうしたのかと観察した。
「ねえ、リティル、わたし、ビザマが大好きよ?でも、叶わないけどあなたのことも好きだった」
「ありがとう!オレも、サレナのこと好きだよ!」
幼いリティルは、サレナの言った好きの意味を取り違えていた。サレナは憂いを帯びた笑みを浮かべて言った。
「ねえリティル、もっと壁にくっついて、目を閉じてくれる?」
「こう?」
リティルは素直に壁に顔を押しつける。サレナはその素直な様子にクスクス笑うと、そっと壁に隔たれたリティルの唇に自分の唇を重ねた。
「サレナ、来ていたのか?」
声をかけられて、サレナはパッとリティルから離れる。
「ビザマ……!うん。しばらくリティルに会えなくなっちゃうから」
「で、リティルは何してるんだ?」
「んー?変顔?サレナが見たいって」
べったり水晶の壁に顔を押しつけていたリティルに、ビザマは呆れた顔をした。そんなビザマの足下には、ティルフィングが付き従っていた。
「あ、ティル!オレが契約しようと思ってたのにさ」
「ハハハ、そうだったのか?おまえなら、フツノミタマと契約できるさ」
「え?ホント?早く出たいな。今出られたら、ビザマとサレナといられるのに」
リティルは球体の中に座り込んで、頬を膨らませた。それを聞いて、サレナとビザマは嬉しそうに笑っていた。
カチカチ──
「ねえ、ビザマ、赤ちゃんって何?」
「リティル……そういうことは父親に聞け!」
「えー?ビザマに聞きたいのに。だって、ビザマとサレナの赤ちゃんなんでしょ?ねえ、ビザマ、長っていうのになるって聞いた」
「うん?ああ。オレしか、剣狼と契約できていないからな」
「ビザマはスゴイね!」
「……おまえはもっと、スゴイ者になるんだよ。リティル」
ビザマの照れたような灰色の瞳に、リティルの信頼しきった顔が映っていた。
カチカチ──
「リティル!うう──」
「サレナ、泣いてるの?」
「ビザマが長老達とぶつかっているの……リティル……あなたはいつ出てこられるの?助けて。リティル……」
サレナはリティルに抱きつくように、魔水晶の球体に縋った。
「オレ、もうすぐ出られるよ。父さんがそう言ってるから」
「本当に?ホントのホント?」
「うん。ホントにホント」
「リティル……ビザマを助けて……」
リティルは心配そうに、額を球体に当てて泣いているサレナの頬の辺りを撫でた。しかしその手は透明な壁に阻まれ、触れることはできなかった。
カチカチ──
「ビザマ?うあああああ!どう──して!」
「リティル!すまない、オレの我が儘のために、その力奪わせてもらうぞ!」
魔水晶が割られ、ビザマの手が、リティルの胸の中に潜り込んでいた。リティルの胸から金色の風が空気の抜ける風船のように吹きだしていた。
「父──さん!やめて!ビザマあああああああ!」
ビザマの手が、リティルの中から引き抜かれる。彼の手の中には、金色の立ち上る光の揺れる丸い宝石が掴まれていた。
「ビザマ!リティルになんてことを!」
駆けつけたサレナが、リティルを助け起こす。そして、その胸に開いた精神的な穴を見て愕然とした。
「サレナ、なぜここに……」
サレナはビザマの手の中に、風の王の力を封じ込めた、ガラス玉のようなモノがあるのを見てしまった。球体の中で、荒々しくも美しい金色の風が渦巻いていた。サレナの出現で、ビザマはあきらかに動揺していた。
「今からでも遅くない!ビザマ、リティルに返して!お父さんは──風の王の力は、リティルの物よ!」
サレナはビザマに掴み掛かった。そんなサレナを、ビザマはまるで、正しい彼女を恐れるように乱暴に振り払った。突き飛ばされたサレナは、背中から倒れた。魔水晶の割れて鋭くなった球体の上へ。顔を上げたリティルの目に、サレナの背中が貫かれるのが映った。
「わあああああああ!サレナ!サレナああああああ!」
顔に飛んできた生暖かい雫と、彼女の体から流れる赤い液体に、リティルは叫びを上げていた。
「しん──ぱ……しないで。大──丈夫、リティル……大丈夫だから──」
サレナは痛みに耐えながら、リティルを振り返る。超回復能力を持つウルフとはいえ、痛みは同じように襲ってくる。それでもサレナはリティルを心配させまいと、優しく微笑んでくれた。
「っ!」
リティルはサレナに飛びつくと。渾身の力を使って風を放った。天井を突き抜け、風は空への道を造る。リティルは外へ傷ついたサレナにしがみついて飛ぶ。
地上に出たところで、ドサッと二人は赤い大地に転がった。
「リティル……カルティアに行くのよ」
「カルティア?どこ?」
リティルは涙を拭いながら、サレナを見上げた。そうだった。リティルは、風の王の力を盗られてしまったのだったと、サレナは途方に暮れた。リティルが父と呼ぶ、先代の風の王はもう彼の中にはいないのだ。導き手を失って、この小さな子供はどうすればいいのか。サレナは狼狽えた。けれども、なんとか一人でカルティアまで行ってもらわねばならない。あの国に行けば、ゾナデアンがきっとリティルを見つけてくれる。会ったことはないけれども、きっと。
「ほら、この方向にずっと飛ぶの。そうすると、黒い卵が見えてくるから、それがカルティア城下よ。行けるわね?わたしは大丈夫。ビザマを説得して、必ずあなたにお父さんを返すから。心配しないで」
「サレナ……ビザマは、どうして?どうして、こんなこと……」
怯えるリティルの頭を、サレナは優しく撫でる。
「あなたのせいじゃないの。わたしが……強くなれなかったから。ビザマはすべてに押しつぶされてしまったの。行って、リティル。あなたは飛ばなくちゃ。誰よりも強く、誰よりも優しくなってね。そして、見つけて。ほら、前に話してくれた綺麗な声の女の子を。大好きよ、リティル」
ギュッとサレナはリティルを抱きしめた。そして、蹌踉めきながら立ち上がるとリティルに行けと背中を押した。
「リティル、わたしの娘に会ったら愛していると伝えて。名前はニーナよ」
リティルは拙い翼で、サレナの指し示した方向へ飛び立った。
カチカチ──カチリ
リティルは目を開けた。目尻から涙が流れていた。その目の前に、心配そうに覗き込むディコの顔があった。
「大丈夫?」
「ディコ、ニーナを呼んでくれ。伝えなくちゃ、ならねーことがあるんだ」
ディコは頷くと、部屋を飛びだしていった。
「イン、あのとき魂が壊れたおまえは、記憶を無くしたんだな?」
『そのようだ。傀儡の風を倒し、そなたの中に戻ったときリセットされてしまった』
リティルの脳裏に、インスレイズに貫かれてくずおれるサレナの姿が甦る。無表情なサレナの顔と優しい微笑みが重なって、意識が一瞬過去に戻る。リティルは震える手を掴んだ。
「父さん……オレは……この手で、サレナを──」
『リティル、サレナは死んでいた。そなたは、サレナを解放しただけだ』
冷静なインの声が、幼い子どもに戻りかけたリティルの精神を、引き戻してくれた。
「ビザマ……我が儘ってなんなんだ?あいつ、辛そうだったな……」
リティルは、ビザマに貫かれた胸の穴に手を重ねた。彼等を忘れた理由はまだわからなかったが、もうそれは知らなくてもいい気がした。幼い自分が消さずにおいたこの傷。リティルはこのまま持っていこうと思った。しかし、精神に付けられた傷は都合が悪い。
リティルは上半身だけ服を脱ぐ。そして、胸に手を置いて意識を集中する。胸を貫かれた痛み、形状を思い出す。そして、この体に刻みつける。
「シェラに見られたら、吃驚させちまうな」
リティルは自嘲気味に小さく笑った。
『理由を尋ねられるだけだ。姫は気にしない。服を着ろ。ニーナが来る』
「ああ。父さん、いや、もうインでいいよな?」
『もう、導きが必要な歳でもない。我のことはインと呼べ。今まで通り』
「イン、剣狼の塔、越えるぜ。フツノミタマに認めさせてやる」
『期待している』
リティルがベッドから降りる頃、ディコがニーナと戻ってきた。サレナの娘なのだと思うと、リティルは緊張した。しかし、伝えなければならない。リティルの知っている二人のことを。二人が愛し合っていたことを。
シェラは中庭の東屋で、ボンヤリとしていた。リティルの部屋に、ディコがバタバタ行ったり出たり、ニーナが行ったり出てきたりしているのを見ていた。彼の部屋はこの中庭に面しているから、ここにいると見えてしまうのだ。
美しい水の都・クエイサラー。石畳と水路の城下町。ゾナの話では、高台に位置するクエイサラー城と城下町は氷に閉ざされているらしい。氷。それをしたのは、父であるクエイサラー王・リアだ。ビザマはたぶん、そんなまどろっこしいことはしないから。
ビザマは若い宮廷魔導士だ。ウルフ族は長命種であるため、若い容姿の時期が長い。本当の年はわからないが、彼の容姿は二十二才のシェードより三つ四つ上に見えていた。優しい人だと思っていた。その人が、数々の血にまみれた手をしていたなんて、思いもよらなかった。そういえば、いつも優しいビザマが、一度だけ恐ろしく怖くて、深く悲しい瞳をしていたときがあったことを思い出す。あれはたしか……
「シェラ」
ボンヤリしていたシェラは、彼がすぐ近くまできていることに気がついていなかった。
「リティル。もう、終わったの?」
見下ろすリティルの瞳が泣きそうで、シェラは努めて優しく微笑むことにした。リティルは急にシェラの前に跪くと、シェラの太股に顔を埋めて抱きついてきた。縋るようで、シェラは切なくなった。また彼は傷ついたのかな?と思うと胸が痛んだ。
「優しくしてくれねーか?」
リティルはシェラの膝に突っ伏したまま、つぶやいた。シェラは、リティルの頭を優しく撫でる。何があったかは、聞かないことにした。幼い魔導士二人が部屋を出たり入ったりしていた。きっと、何かあったのだろう。しかし話すことが辛いなら、話してくれなくていいと思ったのだ。頭から突き出す狼の耳が、ピクッと動いた。
シェラの歌う、風の奏でる歌に反応したようだった。
ビザマは、シェラが風の奏でる歌を歌ったとき、暗く悲しい瞳をしていた。それを見てしまってから、シェラは彼の前では歌わなくなった。
今思えば、ビザマは風の奏でる歌を知っていたのだ。そして、それを奏でていた者を知っていた。リティルと敵対しているビザマは、なぜあんなに複雑な瞳をしていたのだろうか。
あれは、リティルを恨んでいるようには見えなかった。
「インサーが教えたのか?」
リティルは顔を半分動かして、片目でシェラを見上げた。力強い虹彩は健在だが、彼の瞳は疲れて見えた。
風の王の右の片翼・インサーリーズ。リティルが風の王の力を無くしたあと、インサーリーズはシェラに取り憑いた。そして城から出られないシェラの、友達になってくれた。
「ええ。題名を尋ねても教えてくれなかったけれど。あまり上手くなくて、ごめんなさい」
「君の歌を下手なんて言ったら、歌手の大半がド下手くそになっちまうぜ?シェラ、ビザマってどんな男なんだ?」
「ビザマ……わたしには優しい人でした。とても、ニーナが言ったようなことをした人には思えなかったわ」
二人の上に影が落ちた。顔を上げると、シェードがいつの間にか隣に立っていた。
「そうだな。わたしも同感だ。そして、ビザマはわたしの剣の師匠だ。リティル、あまり人前でイチャイチャするな!公認とはいえ、婚礼前だ」
「兄様!まるで、リティルと婚約しているような言い方をしないでください」
シェラはカアッと顔を赤らめた。
「展開早えーな」
「リティルも他人事のように言わないで、兄様に否定して!」
「いいんじゃねーのか?」
「え?」
「否定、しなくていいんじゃねーのか?って、言ったんだ」
「~~~~!」
シェラはリティルがまだ抱きついたままなのに立ち上がると、中庭を飛びだしていった。その顔は、逆上せたように真っ赤だった。
「リティル!あまり妹をからかうな」
リティルはシェラに突き飛ばされて、石の床に座り込んだまま、楽しそうに笑った。
「悪い。反応がいちいち可愛くて、楽しいんだよ。でもな、貰っていく気は、あるんだぜ?くれるよな?お兄様」
リティルは冗談めかして笑った。
「妹は、レシエラの再来と持て囃されて、幼い頃より精霊になる姫だと言われて育った。そのために、この世界の幸せを、全部諦めさせられたと言っても過言ではないのだ。風の王がシェラの時代に現れる保証もないのにな」
シェードは、シェラの走っていた方を見つめながら言った。あんなに感情豊かになって、寂しいような嬉しいような微妙な心地だった。いや、嬉しいことなのだとシェードは思った。いつも取り繕って笑顔でいる妹より、リティルに振り回されて、泣いたり怒ったり照れたりしているほうが断然いい。一応リティルは節度を守ってくれているようだし、不安は拭えないが信頼はしていた。
「リティル、貴殿と出会えて、妹は変わった。城にいた頃は、美しく笑うことだけが上手くなって、無理をしているように見えるようになっていた。リティル、目覚めてくれたこと礼を言う。兄としては、断腸の思いだがシェラを頼んだぞ!」
「ハハハ、相変わらずカチカチだな。任せろよ。天国に連れていってやるぜ」
「……貴様が言うと、怪しい意味に聞こえる。はあ……不安だ……」
盛大に溜息をついたシェードを見て、リティルはまた楽しそうに笑った。
「シェード、手合わせしねーか?」
「なんだ急に?もちろんいいが、手加減はしないぞ?」
「そりゃ、ありがたいな。ステイルも誘ってくれ。あと、ディコとニーナもな」
「団体戦か?」
「いや、オレ対全員」
「は?正気か?」
「大いに本気だぜ」
リティルはニヤリと笑った。剣狼の試練を越える。リティルの周りには、幸いにも多彩な仲間が揃っていた。練習にはもってこいだ。
中庭を飛びだしたシェラは、大賢者の館の前でステイルに遭遇していた。
「シェラ、どうしたんだい?あー、リティルだねぇ?」
ステイルは誰かに貰ったのか、リンゴの入った籠を抱えていた。こんな赤い顔を見られれば、ステイルならばだいたいの予想はつくのだろう。そのことが余計に恥ずかしい。
「なんだい?からかわれたのかい?」
「あ、あ、あの……兄様が、わたしとリティルが婚約しているような言い方をして、リティルがそれを肯定するような言い方をするから……」
「ふーん。フフフ。それは、マジだったんじゃないのかい?リティルは素行の悪い時期はあったけれどねぇ、性根は曲がらず良い奴なんだよ。そんな誤解を招きそうなことは、言わない奴だとあたしは思うけれどねぇ。シェラは?そんなつもりじゃなかったのかい?」
シェラは困った顔をして俯いた。ステイルはシェラを中へ促しながら、言葉を待つ。
「わたしは、この世界で幸せを掴んではいけないと言われて育ちました。それは、花の姫として精霊にならなければいけないからです。けれども、心のままに生きていいと言ってくれた人がいて……。リティルが……振り向いてくれるなんて、思いもよらなかった。嬉しくて、けれども、どうすればいいのかわからなくなって……リティルを捕まえたその先のことを、何も考えていなかったの」
「何もしなくていいんじゃないかい?放っておけば、リティルの方から何かしてくるだろうからねぇ。そのとき、流されすぎなければいいのさ」
「流されず……自信ないわ!だって、リティルなのよ?」
シェラは何を思いだしたのか、赤くなった頬を掌で覆って首を横に振った。
ステイルは、初々しいねと言って笑った。
「リティルは、今まで特定の恋人がいたことはないんだけれどねぇ。あの黒い時期も、こんなお姫様を手に入れるなら無駄じゃなかったのかもねぇ。子どもと初心じゃ、進むモノも進まないからねぇ」
ステイルは意味ありげに言うと、可笑しそうに笑った。
「おお、ステイル、シェラ姫、修練の間にきてくれぬか?」
廊下の角から、ミストルティンに乗ったニーナがひょっこり現れた。その頭を見た二人は、目を丸くした。
「ニーナ、その髪どうしたの?」
「ああ、ディコに頼んで切ってもらったのじゃ。どうじゃ?似合うかのう?」
ニーナは、背中の中程まであった綺麗な灰色の髪を、肩の長さまで切ってしまっていた。ステイルは、髪を切れと頼まれたディコの胸中を思った。ディコも思いの外苦労人だ。
「可愛いけれども、どうして?」
「もともと、背伸びをするために伸ばしておったのじゃ。亡くなった母親が長かったと聞いてのう。だが、もういいのじゃ。リティルのおかげですっきりしたのじゃ」
リティルよこんな子どもに何をした?と、ステイルはとっさに思ってしまった。
「シェラ、リティルは昔からどういうわけかモテるんだよ。あんなだが落ちないで有名でねぇ、簡単になびく奴じゃないけれど、そんな相手が現れても気を確かにねぇ」
「なんじゃ?わらわのこれは、失恋とは違うぞよ?」
ニーナは、シェラに微笑んで見せた。ニーナは何もないと伝えたかったようだが、これでは誤解されたのでは?とステイルは思わずにいられなかった。
「ニーナ、修練の間がどうしたんだい?」
「おお、そうじゃった!リティルが呼んでおるぞよ。なんでも、我ら全員を相手に立ち回りたいと」
「ほお~、あたし達を相手に一人でねぇ。手加減しなくていいんだろう?ニーナ、行くよ!犬は犬らしくキャインと鳴かせてやろうじゃないか!」
「狼じゃぞ?」
「そうだったねぇ。どうも、リティルを見ていると犬としか、ねえ」
「フフ、ステイルにとってリティルは、弟のようなものなのね」
「それはあるような気がするねぇ。あたしが出会ったのはあいつがまだ十才のときだったからねぇ」
「ほお、わらわと同じ歳とな?して、どんな子どもじゃった?」
「素直で可愛かったよ。けれどねえ、戦闘能力がずば抜けていて可愛くなかったよ。わかるかい?十歳の子どもに負ける屈辱!……わからないよねぇ。ニーナは、あのリティルに勝ったしねぇ」
「風の王の力じゃよ。それに、もう少し闘っておったら負けておったわ」
「思えば、リティルの奴は忙しないねぇ。十歳で放りだされて、十三で道踏み外して、十五で子持ちだからねぇ。それで今は……十九?風の王って、どうなってるんだろうねぇ、あいつは」
「「………………子持ち?」」
ニーナとシェラの声がハモった。
「ディコだよ。どこぞで拾ってきて、それからずっと一緒にいるんだよ、あの二人は。ディコの手前、誰もリティルに寄れなくなってねぇ。まあ、いい虫払いだねぇ」
ステイルにいろいろと暴露されているとも知らずに、リティルはシェードとディコと共に修練の間にいた。
「リティル、本当に大丈夫?また無駄に傷つきたい病じゃないよね?」
過去に触発されたためとはいえ、リティルの涙を初めて見たディコは、相当に心配しているようだった。小さなディコに合わせるため、三人は石の床に座り込んでいた。このメンツで話をするのは、初めてかもしれない。
「勝手に変な病気にするなよ。大丈夫かって言うなら、ニーナのほうだろ?」
「ニーナ?髪の話か?可愛いではないか。わたしはあの方がいいと思うが?」
「おまえ、鈍いって言われた事あるだろ?」
「大丈夫だよ、ニーナは」
「言い切るじゃねーか、ディコ。それで、その心は?」
「だって、やっと同い年に見えたんだ。ずっと、誰かが重なって見えて、ボク不安だったから。髪を切ってあげたら、それが見えなくなったんだ。だから、大丈夫」
「シェード、おまえディコを見習えよ!」
「だから、なんの話をしている?ニーナが可愛いという話ではないのか?」
「おまえ、その顔でそういう言葉を振りまくなよ?そのうち刺されるぜ?じゃあシェード、シェラがいきなり髪切ったら、おまえどう思うんだよ?」
「貴様を斬る。何がどうではない、原因は貴様だ。ならば斬る!」
「待てよ!剣抜くな!たとえ話だろ?シェラのことになると脊髄反射だな」
「でも、ニーナは失恋したわけじゃないでしょう?区切りをつけるって、悪いこと?」
「おまえ、将来有望だよな。いや、悪い事じゃねーよ。ただ、ビザマに会ったらどうなるのかと思ったんだよ」
「それは……わからない……」
「ウルフは戦闘民族なのだろう?剣を合わせればいいのではないか?ニーナは、立派な戦士だ。分かり合うには、最善だと思うが?」
「父親とやり合わせろっていうのかよ?思い切るなあ」
「臆するのなら、守ってやればいい。なんのために我々がいるのだ」
「おまえ、格好いいな。なあ、シェード、おまえはどうなんだよ?」
「わたしが、なんだ?」
「クエイサラー王のことだよ。親父だろ?もしかすると、もう……」
「慰めはいらないぞ?生きていようが死んでいようが、立ちはだかるのならば斬るだけだ」
「それでいいのかよ?」
「良いも悪いもない。これは戦争だ。お互い譲るわけにはいかないのなら、戦いは避けられない。その時はリティル、シェラを慰めてやってくれ」
「そりゃ、まあな。あんまり優しくできねーかもしれねーけどな」
「なんの話をしている?それで、我々はどう動けばいいのだ?」
「そうだな。シェードはまあいつも通りでいいぜ。ディコはニーナと魔法担当な。おまえ、仲間を巻き込まねーようにな。ステイルは……あいつはいつも殺る気だからな、なんにもいわねーよ」
「リティル!来てやったよ!さあて、どう料理してやろうかねぇ?フハハハハ!覚悟するんだねぇ」
「……シェード、ステイルはああいう女なんだよ。怖えーだろ?」
「豪快な女性だな。フッ、嫌いではない」
「物好きだなー。それじゃあ、やるか?戻ってきてくれたんだな?シェラ!霊力頼むな!」
「はい」
リティルが円形の部屋の中心に立つと、仲間達は彼を囲んで同心円に立つ。シェラは部屋の隅に下がり、両手を胸の前で握った。リティルと繋がった霊力の糸が、縺れずに流れるのを感じた。ディコが言っていた穴は塞がったらしい。
ステイルとシェードは同時に仕掛けていた。
「初っぱなから、容赦ねーな」
リティルは頭の上でシェードの剣を受け、後ろからきたステイルの槍を剣で叩き落として押さえる。魔導士二人の魔法の気配を察し、シェードを突き飛ばし、間髪入れずにステイルにケリを放つ。低くなったリティルの頭上を炎の玉が通っていった。
シェラはジッとリティルの様子を見つめていた。なぜ、こんな試合を皆に仕掛けたのだろうか。塔の攻略のため?しかし、塔に現れるウルフ霊はこちらの人数に連動しているらしく、二人以上は仕掛けてこないとニーナが言っていた。
それにしても、みんな楽しそうだ。あの中に混ざれないシェラは、少し寂しかった。
「リティル!風は使わぬのか?ファラミュール散弾」
「そんな余裕、うわ!あると、おっとっと、思うのかよ!」
ニーナの放った炎の散弾をかいくぐりながら、ステイルの槍を躱す。
「そんなんじゃ、練習にならないよ?ファラミュール超特大!」
シェードとステイルはギョッとすると、慌てて壁際まで後退する。もともとディコは、援護で魔法を使うことが苦手だ。巨大な敵を相手にする方が向いているのだ。
巨大な炎が、ジリジリとリティルに迫る。
『リティル、魔法は発想力だ。精霊は自身の力を使う故、呪文の詠唱がいらない。思い描け』
やってみろと?失敗すれば、この炎だ、超回復能力のあるリティルでもただではすまない。リティルには、この炎を避けるのは簡単だ。スパルタだなと悪態をつきながら、それでもリティルは立ち向かう方を選んでいた。
「こんな土壇場で、そんなの出せるかよ!」
リティルは咄嗟に、両手に持った剣の切っ先を巨大な炎に向けた。脳裏には、インが剣先から魔法を放つイメージが浮かんでいた。
ドンッと、力と力がぶつかる音と響きが部屋を振るわせた。
「うわあ!なんか出た!」
金色の風が炎の真ん中を射抜いていた。ドーナツ型に中心をくり抜かれた炎は、そのままリティルの背後の壁に当たり、一瞬燃え広がって霧散する。
「耳が!」「尻尾が!」
「はあ?何言って──な?バランスが──」
仲間達が血相を変えて駆け寄ってくる。何が起こったのかわからないリティルは、なぜか蹌踉めいて片膝を付いてしまった。
リティルは頭に違和感を感じて、手を伸ばした。狼の耳に触れない。え?とリティルは顔の横に触れた。そこには人のそれよりも先端の少し尖った、人のような耳があった。その耳から孔雀の羽根をあしらったピアスが垂れ下がっている。
「はは、どうしてこのタイミングで?」
「リティル、完全に風の王の力を受け入れたのね?」
シェラが膝をついたままのリティルの前に両膝を折った。
「え?それじゃあ、今の姿がリティルの本当の姿なの?でも……あんまり変わらないね。ボク、耳と尻尾を焼き落としちゃったのかと思ったよ」
ホッとしたディコの言葉に、シェードとステイルはゾクッと背筋に冷たい物が走った。
「なんかこう、なくなると変な感じだな。尻尾がねーと、こんなにバランスが狂うとは思わなかったぜ」
リティルは苦笑しながら、左手で頬を掻いた。左の手首には梟の羽根をあしらった革紐が巻かれていた。
無くなった尾の代わりだとでもいうのだろうか。腰に、金の毛並みの尾をミニチュア化した飾りがついていた。そして、頭には狼の牙をあしらった飾りが巻かれていた。
「まいったな。まともに歩けねーよ。イン、ちょっと代わってくれよ」
ふわりと金色の光がリティルの体を包んだ。その光が去り、目を開けた皆は驚きで目を丸くした。
目の前に、長い金色の髪を緩くまとめた、切れ長の瞳の精霊がいたからだ。
「リティル……完全に負けてない?」
立ち上がったインはスラリと背が高く、女性とは間違うことはないが、彫像のように美しく整っていた。その姿は、彼の冷たい眼差しと完全に合致していた。左耳の孔雀の羽根のピアスと、右手首の梟のブレスレットはおそろいのようだ。
「イン?」
「いや、リティルが少し──困っている?」
「困ってないで、出ておいでよ。魔法の修行しようよ!」
「ディコ、さすがに今は無理じゃろう。わらわはお腹がすいたぞよ」
「おや、もう日が暮れるねぇ。楽しくて時間を忘れてしまったねぇ」
ステイルは、鋭いアーチを描く窓に視線を向けた。見れば、外は赤く色づき夕闇が迫っていた。
シェラはお風呂上がりで濡れた髪の先を拭きながら、廊下を歩いていた。ふと顔を上げると、シェラの部屋の前にリティルが立っていた。
「リティル、歩けるようになったの?」
シェラが悪気なくそう聞くと、リティルは苦笑した。
「はは、恰好悪りーな」
「そんなことないわ。そんなリティルも新鮮よ」
シェラはフフフと笑った。
「どうぞ?お茶を淹れるわ」
そしてシェラは無防備に、さも当然のように扉を開いてリティルを招く。
「へ?……いや、ここでいいよ」
シェラの髪は濡れて、風呂上がりで仄かに色づいた肌が艶めいて見える。風呂上がりを意識してしまったら、リティルは目のやり場に困ってしまった。
「なぜ、遠慮しているの?」
首を傾げるシェラは、自分の魅力をまるで理解していないらしい。
「ほら……もう遅いだろ?」
リティルはシェラから目をそらして、背にしていた中庭を見た。回廊にも東屋にも、魔法の光が灯り、とっぷりと暮れた夜を照らしていた。
「インは、起きているでしょう?」
「わかったよ。ちぇ、インがいるからいいのかよ……」
それはそうだよなとリティルは拗ねながらも、シェラの部屋に入った。それを、ニーナとステイルが目撃していたとも知らずに。
シェラは部屋に入ると、すぐに紅茶の準備を始めた。リティルはそんな彼女の背後に立つと、濡れた髪に触れる。シェラは背後の気配に振り向くことができなかった。ふわりと風が吹き、シェラの髪はその瞬間に乾いていた。リティルはただ、シェラの髪を乾かすためだけに背後に立ったのだった。気配が、すぐに離れていった。インがいるのだから、リティルが何かするはずがないと思っていても、ドキドキしてしまった。
「リティル、もう寝ていると思っていたわ」
「これでも大分戻ってきてるんだぜ?」
シェラには悪気はないが、リティルの心に容赦なく突き刺さってくる。気を取り直して、シェラの淹れてくれた紅茶を啜った。
「シェラ、紅茶淹れるの上手いよな?」
紅茶なんて、上品な飲み物、飲み慣れているわけではなかったが、リティルは素直にそう感じた。
「ありがとう。兄様に淹れてあげていたの。……インはいつまでいてくれるの?」
「それなんだけどな。この戦いを、見届けてもらうことにしたんだ。オレがイシュラースに帰る時、別れることにした」
「そう……」
リティルは、シェラがインとの別れを、寂しく思っていてくれることを知った。シェラも、オレと同じ気持ちなんだと思ったら、嬉しくなった。
風の王に完全になったリティルは、王が持つべき知識を、初めからあったかのようにすでに持っていた。それがちゃんと継承されているか、インとは一通り話した。知識の照らしあわせがすんで「やっと、役目を終えられそうだな」と言ったインに「もう逝くのか?」とリティルが聞くと、彼は「剣狼の塔を攻略するまでは、付き合う」と言った。
インとの別れが、目前なんだと、リティルは急に自覚してしまった。
そんな心を感じてしまったのだろう。インは言った。「と、思っていたが、我の起こした戦いだ。闇の王を討ち、そなたがイシュラースに帰るとき、逝くことにする」見届けると、彼は別れを先延ばししてくれた。
リティルとシェラの間に、沈黙が訪れていた。けれども、気まずくはなかった。
さて、こんな不健全な時間に、シェラを訪ねた目的をはたさないとなと、リティルは沈黙を破った。
「シェラ、これ、もらってくれねーか?」
リティルが、狼の牙の頭飾りを外すとシェラに差し出した。
「これ……でも、大事な体の一部でしょう?」
この狼の牙のアクセサリーは、元リティルの狼の耳だったものだった。
「だからだよ。だから、君に持っていてほしいんだ」
シェラは俯いた。
「なぜ、今わたしに?」
シェラが何を思ったのか、リティルはわかった気がした。闇の王との戦いを見据えた今、こんなモノを渡されては、もしものときの形見だと思われたのだろう。もちろん、そんなつもりはなかった。むしろ、リティルに悲観はまるでないのだ。しかし、癒やしの力を持つシェラにはどんなに無謀なことをしようとしているのか、わかりすぎるくらいわかってしまうのだろう。
「シェラ違うんだ。後ろ向きな気持ちじゃねーんだよ。あ、あのな、指輪のな、その、代わりなんだ」
指輪?シェラは何のことかわからない様子で、首を傾げていた。しかし、やっとわかったようで両手で口を覆うと瞳を見開いた。
「指輪の方がよかったか?」
リティルは自信なさげに、テーブルの向こうのシェラを伺った。シェラはフルフルと首を横に振った。
婚約指輪の代わり。そうならば、指輪などより、断然彼の一部をもらうほうが、いいに決まっている。どうしよう。すごく、嬉しい!
「そっか、よかった」
リティルはホッとしたように笑った。これを渡すのに、緊張してくれたのだなと思うと、余計に嬉しかった。
「つけてくれる?」
「ああ」
リティルはシェラの首にそっとかけた。しかし、リティルの頭に二重に巻かれていたそれは、長すぎた。
「うん、ちょっと調節が必要だな……これで、よしと」
シェラの胸に、三本の狼の牙が揺れた。微かに風の力を感じる。
「ありがとう。あ、ねえ、リティル、わたしからもお返ししていいかしら?」
「え?」
えっと、これは、もらっていいのか?と、リティルは内心かなり動揺していた。だが、断るのはマズイ。困っていると、感情を表に出さないインには珍しく、彼は苦笑して「姫は、気がついていないようだな。ここはグロウタースだ。問題ない」と言った。
「…………ああ」
シェラの言葉を聞いたリティルの様子が、少しおかしかったような気がするが、シェラは気がつかなかった。
シェラはリティルを座らせると、無造作に縛られた髪を解いた。切りそろえられていない髪は、思いの外長かった。前髪も横の髪もかなりラフだ。
「切らないの?」
綺麗な髪……絹糸みたいに、柔らかくて光沢があって。ずっと触っていたくなる。
「うーん、考えてねーな。切った方がいいか?」
リティルが振り向いた。髪が首筋に流れて、いつもと雰囲気が違うせいか、なぜかドキドキしてしまう。柔らかい雰囲気はそのままだが、少しリティルの顔は、大人びたかもしれない。
「いいえ。似合っているわ」
風の精霊は、髪がある程度長くなければいけないのだろうかと、何気なく思いつつ、シェラは自身の髪に咲いた光の粒を摘むと、その光で細いリボンを作った。シェラの髪の色と同じ、青い光を返す黒いリボンだった。ちょっと、あからさまかな?と思い躊躇ったが、もうどうにでもなれと、リティルの金糸のように繊細な髪を縛った。
「ん?おいおい、大丈夫かよ?」
どうにでもなれと思ったものの、やはり、リティルの金色の髪に黒のリボンは映えた。
め、目立つ……取り返すわけにもいかず、シェラは、恥ずかしくなってその場にうずくまった。そんなシェラを椅子の背越しに覗き込んで、リティルはからかうように笑った。そして、手を伸ばしてくれる。シェラはリティルの手を取ると、やっと立ち上がった。
そんなシェラの手をグイッと引っ張り、リティルは彼女の耳に唇を寄せた。これには、シェラの心臓はどうにかなりそうなほど高鳴った。
「シェラ、外に誰かいるぜ?ちょっと、からかってやらねーか?」
内緒話をするために唇を寄せたのかとわかり、シェラはなんとか平静を取り戻す。からかうとは、何をするのだろうか。リティルはテーブルに向かうと何かをツラツラと書き始めた。彼の後ろ姿を見つめ、金色の髪にどうしても映えてしまう黒いリボンにシェラは、やはり軽率だったかなと胸の高鳴りが止まらなかった。自分で蒔いた種なのに、もう、心臓が保たない。
「シェラ」
リティルは何事か書いた紙を渡してくる。サッと目を通して、何をすれば?と様子を窺う。
「読んでくれ。できるだけ演技してな」
小声でリティルは言うと、口元に楽しそうな笑みを浮かべて、音も無く扉に近づいた。
「リ、リティル……わたし、こんなこと……」
「大丈夫、上手いぜ?」
扉に辿りついたリティルが振り向いた。それにしても、なんだろうこの文章。
「で、でも……そんなに……」
リティルは扉の外がざわつくのを感じた。そして、ドアノブを回すと一気に開く。
「み、みんな、何しているの?兄様まで」
皆ドアに耳でもくっつけていたのだろう。リティルが急にドアを開けたために、ドッと部屋の中に雪崩れ込んできた。
「おおかた、オレがシェラの部屋に入ったんで、変なこと考えたんだろ?残念だったな、サービスしてやらねーよ」
したり顔で、リティルは笑った。
「リティル!では、さっきのシェラ姫はなんじゃ!」
ステイルの上に転がったニーナが、顔を上げて訝しがる。
「さっきのは、リティルの書いたセリフよ?」
シェラがネタバラシをすると、皆が一気に脱力した。からかわれたことが伝わったのだ。
「ねえ?リティルがボク達がいることに、気がつかないわけないでしょ?」
一人冷静なディコが、呆れた声で部屋を覗いた。
「しょうがねー奴らだな。罰として、なんか食べ物持ってこい。それで、みんなで食べようぜ?シェラの部屋で」
「ディコ、お湯をお願いできる?みんなの分の紅茶が淹れられないの」
皆を部屋から追い出し、リティルは扉を閉めた。そして、長く溜息をついた。緊張した。こんなに緊張したのは、人生で初めてかもしれなかった。疲れたなと思ったが、これからみんなで騒ぐ約束をしてしまったなと、思いながら振り返る。
「っ!」
目の前にいたシェラに驚いて、声も出なかった。挙動不審なリティルに、シェラは首を傾げた。なんだか甘い雰囲気のような気がする。こんなときなのに、インは寝てしまっていた。皆が戻ってくるというのに、出て行くわけにもいかず八方塞がりな気分だ。
彼女が名を呼ぶ。その声が、とても耳にくすぐったい。オレはシェラが好きなんだな。と、すでに自覚して、わかりすぎるくらいわかっていることを思ってしまう。
察したのか、シェラがクスリと笑った。
「インは寝てしまったの?何もしないわ、そんなに困らないで。楽しくて、嬉しくて、戦いのただ中にいることを忘れてしまいそう」
シェラはリティルの手を取り、テーブルまで戻った。
「終わらせるさ。こんな日常をあたりまえにしてやるよ」
シェラは少し困ったように微笑んだ。シェラの飲み込んだ言葉を思うと、リティルは切なくなったがどうすることもできなかった。
「リティル!大賢者がお酒差し入れてくれたよ。飲むだろう?」
ドヤドヤと仲間達が戻ってきた。ノックもなしに開けたのは、さっきからかわれたことへの腹いせだろう。二人が微妙な雰囲気にならなかったのを見て、ステイルは心なしか不満げだった。そこにニーナが、シェラの胸に揺れる狼の牙を見て素直な反応をして、彼女を困らせた。それを静観するリティルに、シェードが絡む。定着しつつある日常だった。
夜が更ける。こんな平和がずっと続けばいいのに。ディコはそう思わずにはいられなかった。ブルークレーは今、どんな状況になっているのだろうか。ルセーユは守られすぎて、穏やかで、自分達が何をしにここへきたのか忘れそうになる。
「うあー……」
剣狼の塔の前で、リティルはこめかみを押さえていた。
「リティル、そんなで大丈夫?二日酔いって珍しいけど」
ディコとニーナは、あれから一時間もしないうちに眠たくなって退散していた。残された四人は、シェラの部屋で朝を迎えるほど、昨夜は盛り上がっていた。
「どうして、みんな何ともねーんだよ?」
「それはねぇ、シェラのお酌が上手かったのさ。かなり飲まされていたよ?」
リティルが酒に飲まれた姿を、ステイルでさえ初めて見た。しかし昨夜は、いつもの倍以上のペースだったと、ステイルは記憶していた。
「強いなとは思って見ていたんだが、止めるべきだったか。最後まで素面だと思っていた」
「オレ、飲んでも変わらねーらしいんだよ……あー、途中から記憶ねーよ」
シェラが普段通りに接してくるということは、変なことはしていないらしいことはわかったが、何の話をしていたのかまったく記憶がなかった。
「そうなの?兄様を介抱していたわよ?リティル、ちょっとごめんなさい」
シェラはそういうと、リティルの額に自分の額を合わせた。不意打ちで反応することができなかった。瞳を閉じたシェラの顔がすぐそばにあるというのに、ドキリとすることさえできなかった。
「どうですか?」
「……うわ、すげー!これも癒やしなのか?」
リティルの頭は、頭痛から解放されてすっきりとしていた。シェラは、よかったと言って微笑んだ。
「準備が整ったようじゃな?では、参るぞよ」
「ああ!越えてやるぜ!」
リティルとニーナが石の扉の奥へ行ってしまうと、シェラは意識を集中してリティルの気配をそばに感じる。リティルの霊力は、何もなければ一日保つようになっていた。霊力のコントロールも上手くなっていて、シェラががっちりサポートしなくても、よくなっていた。
祈りの形に手を組んで意識を集中している妹の様子を、シェードは窺っていた。
シェラが、ホッと息を吐き、瞳を開くのを見て、シェードは意を決して声をかけた。
「シェラ、クエイサラーのことだが……」
「氷に閉ざされている事以外、ゾナにもわからないと聞きました。カルティアもレイシルも、その後魔法人形の襲撃には遭っていないとも」
シェラは、気丈に言った。精霊になっても、祖国を思う気持ちは変わらない。
「カルティアには仕掛けられないだろう。ゾナが城下をスッポリ覆う障壁魔法をかけてきたと言っていた。ここ、ルセーユが襲われることはあるのだろうか?」
「どうかな?大群を率いたら、カルティアに引っかかっちゃうよ。大親父さんがいるカルティアを滅亡させるのは、ゾナが不在でも無理だと思うよ?」
ディコが門の前の大きな石に腰掛けて、足をプラプラさせながら言った。
「ビザマが個人的に出向いてくるなら、包囲は抜けられてしまうだろうねぇ。うちの大将のように単独行動をする男なのかい?」
大将とは、エスタのことではなくゾナのことだ。
「わからない。ビザマは謎の多い人物だった。わたしが知るかぎり、ビザマは二十年ほど前からクエイサラーの宮廷魔導士だ」
「それって、ウルフ族が滅びる前からってこと?」
「シェラが生まれる前からだ。九年前ウルフ族が滅ぼされ、ゾナはビザマのことを知ったらしいが、他国のことだ一応父には知らせたようだが、結果はこの通りだ」
「もしも、ディコ達がわたしを城から連れ出していたら、今頃どうなっていたのかしら?」
ゾナは、シェラを密かにカルティアへ保護する計画を立てていた。実行はリティルとディコで、シェードには協力を要請する算段だったらしい。
「わたしがフライングしてしまったが、どちらにせよ今とそう変わらない結果になっていただろうな。城の中で、ビザマや父と、リティルがやり合う羽目にはならなかったと思う。リティルなら、そつなくこなしただろうからな」
「シェードは、えらくリティルの事を買っているねぇ。あたしも、問題なかっただろうと思うけれどねぇ」
「悔しいが、リティルは能力が高い。あの、気まぐれにも思える柔軟性は風故なのか?」
「どうだろう?インはとっても真っ直ぐに見えるから、持って生まれた特性じゃないかな?それよりも、ボク気になることがあるんだ」
ディコの言葉に、皆は幼い魔導士に注目した。
「ビザマは、どうやってルセーユとクエイサラーを行き来してたんだろう?」
それもそうだ。クエイサラーはブルークレーの東に位置し、ルセーユは西だ。双子の風鳥の端と端に位置している。普通にこの距離を移動していたとしたら、どちらも一ヶ月単位で空けることになってしまう。
シェードの話では、そんなに長く城を空けたことはなかったらしい。
「次元の扉でもあれば話はべつだけど、そうするとルセーユも安全じゃないかも」
「次元の扉?兄様!千里の鏡を使えば、もしかすると」
「しかし、あれは景色を見るためのモノだぞ?」
「千里の鏡?」
「クエイサラーに建国より伝わる姿見です。鏡に向かって念じると、見たい景色が見えるのです。ただ、すべてではないの。自分が知っている景色でなければ見ることはできないわ。花の姫は覗いてはいけないと言われていて、近づいたことはないけれど、わたしもずっと、見るためのモノだと思っていたわ。でも、実はゲートだったのかもしれないわ」
クエイサラーは花の姫の国だ。花の姫は神樹の精霊の娘という位置づけで、神樹の持つ次元を渡る力を持っていた。ゲートを開けば、行きたい場所に瞬時に行ける。しかし、花の姫のゲートの力は限定的だ。故に、鏡にゲートの力を与えてレシエラは使っていたのかもしれない。インは、リティルに早く風の王の力を取り戻してほしそうだった。それは、ここルセーユがいつ攻め込まれるか、それを案じていたのかもしれない。
平和だと思っていたルセーユ。それが安全ではないのかもしれないと、皆が思い始めたその時だった。
「……何かがくるわ!」
恐れていたことが現実になったかもしれない。シェラは胸に揺れるリティルの牙に触れた。牙が僅かに震えて、まるで警告しているかのようだった。
「なんだあれは?あれが、ゲートか?」
シェードが空を見上げた。青空の一部が白い丸い光に切り取られ、その中に別の風景が映っていた。白い輪の中の景色には見覚えがあった。
それは、氷に閉ざされたクエイサラーの城下町だった。
シェラは胸の前で両手を握った。何が来ようと、今リティルに知られてはならない。彼は剣狼の試練を超えなくてはならないのだから。
空の穴から姿を現したのは、二羽のガルダだった。一羽のガルダに乗っているのは、紛れもなくビザマだった。もう、隠す必要はなくなったのだろう。ウルフ族特有の耳と尾が生えていた。相棒の狼は連れていないようだが、シェードは剣で一度もビザマに勝ったことはない。
「シェラ、逃げろ!リティルが戻るまで、隠れていろ!」
「うん。それがいいと思う。ステイルお姉ちゃん、一緒に行って。ボクたちが、ここで食い止めるよ」
ディコは杖を構えると、シェードの隣に並んだ。ウルフ族を一人で滅ぼした、魔導士でもあるビザマ。ディコは、リティルの為に時間を稼ぐことを決めた。たとえ、もうリティルの隣にいられなくなったとしても。
リティルは順調に塔を攻略していた。
昨日の辛さが嘘のように、体が動いた。精神に開いた穴を塞ぎ、シェラが霊力を送りやすくなったためだろう。
「ここが、最上階か?」
「そうじゃ。この扉の奥が、女王の間じゃ」
リティル達の目の前には、入り口と同じような石の扉が聳えていた。リティルが触れると、ガコンッと重い音を立てて扉が開く。
扉の中は円形の部屋で、壁際にずらりと剣狼の像が立ち並んでいた。扉の正面の壁に、一際大きな剣狼の像がある。
「リティル!」
リティルは、女王の間に足を踏み入れたところで一瞬意識を失った。何か、急激に霊力が流れ込みその負荷に耐えられなくなったのだ。
「姫に何かあったのか?」
交代したインは、すぐに意識を取り戻したリティルに問う。インもニーナも、昨日はリティルよりも、シェラの意識の有無が把握できていたというのに、何も異変らしきものは感じられないらしい。今日はリティルも、シェラの気配を間近に感じていた。しかし、一瞬の負荷の後、霊力は正常に供給されていた。
『わからね──イン!上だ!』
何が起こったのかわからないと、言おうとしたリティルは、上空から無数の殺気を感じた。インは咄嗟に、ニーナを風の障壁の中に閉じこめた。と同時に、ミストルティンがニーナを庇うように、上に覆い被さる。瞬間、天井が砕かれた。崩落した天井が二人の上に落ちる。遅れて、ゴッと金色の風が砕かれた天井を押し戻すように放たれた。
「──ってー……イン、大丈夫か?ニーナ?」
リティルの放った風は意図通りに瓦礫を吹き飛ばし、自分とニーナを守っていた。
『我のことより、自分の心配をしろ』
もっともだと思った。ニーナを優先したインを庇い、リティルは交代したが無傷とはいかなかった。いや、むしろ悪い。
リティルは、空から振ってきた無数の光の槍に貫かれていた。これでも致命傷は避けたが、左腕と左の脇腹、左の太股と貫かれ、両の翼も貫かれていた。
「標本にされた気分だぜ。くっ!この、ご丁寧に返しがついてるぜ!」
リティルは自由な右手で左腕を貫いた槍を抜こうとしたが、抜けなかった。風を使って切り刻もうかと思ったが、痛みで意識を集中することが難しい。
「リティル……あの人は──?」
いつも最善の対処をしてくれるニーナが、傷ついたリティルそっちのけで、空を見上げていた。その瞳は、恐ろしいモノを見たように見開かれて、震えていた。
「あれは……ビザマ?どうして、あいつがここに……?」
空中にガルダが静止していた。その上に、見知った顔が見下ろしていた。そして、その腕に囚われているのはシェラだった。
ビザマの片腕に抱かれながら、シェラは、光の槍に貫かれたリティルを見つけていた。目を覆いたくなる惨状だが、リティル本人はまだ余裕がありそうだった。シェラはビザマに無理矢理リティルに大量の霊力を送らされ、しばらく意識を失ってしまっていた。目を覚ましてみれば、この状況だ。兄たちは大丈夫だろうか。皆を傷付けられたくなくて、囚われる道を選んでしまったが、また間違えてしまったかもしれない。
このままビザマに囚われていては、リティルの弱みになってしまう。何とか逃れたいが、ビザマの魔力は強力で、自力では逃れられそうになかった。
「リティル!三日後、クエイサラー城へ来い。闇の王と再会させてやろう」
三日後?いけない。そんなに急では、リティルを生かす準備ができない!シェラは咄嗟にそう思った。
ビザマとシェラを乗せたガルダが、ゲートへ上昇を始めた。このまま浚われれば、リティルは間違いなく三日を待たずに追ってきてしまう。
「ビザマ、あなたの好きにはさせないわ」
シェラよりも少し高い背の、ウルフ族の反逆者をシェラは睨んだ。その体から、冷気が漂う。ビザマは驚いた様子もなく、すんなり彼女から手を放した。シェラではビザマに敵わない。彼はこの瞬間に、シェラのやろうとしていることを理解し、なおかつ取るに足らないと思っているのだ。すべてにおいて悔しいが、時間を稼ぐにはもうこの方法しか残されていなかった。
「リティル!わたしは大丈夫。だから追わないで!」
シェラは力の限り叫んだ。こんな姿を見せては、リティルはきっと気に病んでしまうだろう。けれどもどうか、踏みとどまってほしい。この先にある明日を見ていてほしい。
──リティル、わたしのすべてをあなたに……
耳元で、声が聞こえた気がした。リティルの見ている前で、空中にあるシェラの体が凍り付いていく。それと同時に、リティルを強烈な冷気が包んだ。冷気はリティルを傷付ける事なく、彼を貫いている槍だけを凍り付かせて粉々に砕け散らせていく。そして、守るような優しい力の流れを、体内に感じた。
「シェラ!止めろ!」
自由を取り戻したリティルは、氷の中に自ら閉じこめられるシェラに向けて飛んだ。貫かれた傷は深く、超回復能力を持ってしても完治には時間がかかりそうだった。
あと少しで手が届くというところで、ビザマの後ろから一羽のガルダが飛びだしてリティルを襲った。
「サレナ?」
無表情な瞳はそのままに、彼女の背には魔法人形の翼があった。風の王の力を補うように、ガルダのパーツを融合して風の精霊のような姿に改造されていた。
激しい斬撃に、右手しか使えないリティルは、彼女の剣を捌くことしかできなかった。
「この!邪魔するんじゃねーよ!」
超回復能力を左手に集中し、動かせるまでに回復させたリティルは、左手に剣を抜き放つ。両手の剣を振るい、彼女の片翼を砕く。グラリと空でバランスを崩したその背に、剣の柄を叩き込み、すぐさまシェラに向けて飛んだ。
「シェラ!」
シェラはもう氷の中で目を閉じてしまっていた。もし自分が連れ去られても、いいようにされないように自身を封印すると共に、リティルに殆どの力を渡したために、死にかけた体を守るための処置だった。わかっているからこそ、リティルはシェラに、こんな選択をさせたことが悔しかった。
「ぐっ!浅かったか……」
もう少しで手が届きそうなところで、リティルは後ろから長い指に顔を掴まれていた。そして、背中から刃で貫かれていた。それは片翼のサレナだった。両の翼を砕くか、完全に壊してしまわなければならなかったが、もう一度サレナを殺すことを、リティルは躊躇ってしまった。それが、裏目に出てしまったのだ。
「うっ!」
体を刃に貫かれても尚、シェラに手を伸ばすリティルに、サレナは刃を、鍔が邪魔をして入らないところまで押し込んできた。リティルは、痛みと体の中を刃が通る気持ち悪い感触に、思わず仰け反った。それでも輝きを失わない瞳に、ウルフの耳と尾をさらけ出したビザマが映る。
「ウルフの丈夫さは知っていたが、おまえはそれ以上だな」
ビザマの剣が、仰け反って露わになったリティルの、喉に突きつけられていた。
「そりゃ、どうも。これくらい大したことねーよ。ビザマ、こんな真似ができるなら、どうしてもっと早くこなかったんだよ?」
汗が首を伝い落ちる。抜け出す方法はあるが、もう一度サレナを破壊しなければならないことに踏ん切りがつかない。だが、覚悟を決めなければ、ビザマに引導を渡されてしまう。
「おまえの目の前で、姫を浚わなければ意味がないだろう?おまえこそ、力を出し惜しみしてなんになる!」
喉元に突きつけられた切っ先が喉に触れる。
「本気、出してほしいのかよ?」
どこにそんな余裕があるのか、リティルは輝きを失わない瞳で、挑発するように問う。その態度にビザマはなぜか苛立っているようだった。
『ほほう、この状況でも強がりをいうのかえ?』
背後に荒々しい狼の気配が下から跳んできた。ビザマがシェラを連れて、ガルダを下がらせて距離を取る。首が楽になったなと思った瞬間、リティルは背後から首を掴まれた。体を貫いた剣が、僅かに引き抜かれるのを感じて、リティルは焦り、刃を掴んだ手に思わず力が入る。今剣を抜かれては、血を大量に失い、意識を持っていかれてしまうかもしれない。そうなれば、しばらく戦えない!
「ば、ばか!よせ!ぐはっ!」
リティルの制止を聞かずに、彼の首を後ろから掴んだ人物は、サレナの腕を掴んで刺さっていた剣を一気に引き抜いた。多量の血が傷口から噴き出し、リティルは意識を失ってしまった。首を掴んでいた手は放され、落下する途中でインが交代したが、傷が深く、破壊された塔の上部へ落ちるように倒れるしかなかった。
「イン!無事かのう?」
「あまりいいとは言えない……あれは、フツノミタマ──か?」
倒れたインに、ニーナがすぐさま駆け寄ってきた。治癒魔法をかけられ、痛みと貧血がいくらかマシになる。
『聞け!ティルフィングの主よ!一週間の猶予と引き替えに、この女、首をへし折らずに返してやろうぞ!』
サレナは翼をもがれ、首を片手で締め上げられていた。剣狼の女王・フツノミタマは、狼の姿ではなくウルフ族と似た姿で空中にいた。胸と下半身だけを狼の毛皮で隠し、その両手は人のそれよりも鋭く大きな爪が生えている。裸足の足も同様で、獣の足のように鋭い爪が生えていた。妖艶な赤い瞳が、自信に満ちあふれてビザマを見据えていた。
「……あれは、交渉のつもりか?」
「の、ようじゃのう」
傷が深く、動けないインは傍観するしかない。しばらくすれば、リティルが目を覚ますだろう。おそらく、怒るだろうなとインは思った。
『気がついておろう?この女がバラバラにされなかったのは、風の王の温情じゃ。故に、わらわも情けをかけてやろうというのじゃ。花の姫に手を出さぬと、誓うがよいぞ?さすれば、七日ヌシにくれてやるわ』
「勝手なこといってんじゃねーよ!シェラを、渡すかよ!」
飛び立とうとしたリティルは、激しく咳き込み顔から床に倒れた。さすがにあれだけの血を失ってはまともに動けない。それを承知で、フツノミタマはリティルから剣を引き抜いたのだろう。シェラの行いを汲むために。
『さて、どうする?』
「七日に延びたところで何ができる?いいだろう。リティル!七日間猶予をやろう!七日目の朝日が昇る頃、ゲートを開いてやる。花の姫と会わせてやろう!フツノミタマに免じて、姫には一切手を触れないと誓ってやろう」
フツノミタマは、サレナをビザマに投げて寄越した。ビザマはサレナを横抱きに抱き上げると、氷付けのシェラを連れて二人は去った。
「フツ……!」
悠々と舞い降りてきたフツノミタマを、リティルは睨んだ。
『礼はよいぞ?』
フツノミタマは、得意げに、フフンッと笑った。その笑顔にカッとしたリティルは、彼女に食ってかかった。
「誰が!あいつが一週間もシェラに、手を出さねーわけがねーだろ!」
『ビザマはわらわに誓った。姫は大丈夫じゃ。それに、なかなかに肝の据わった娘じゃしのう。ヌシが心配することはないじゃろう』
「シェラが強いことは知ってるさ!だから怖いんだろ!」
飛び立とうとするリティルの手首を掴むと、フツノミタマは簡単に仰向けにひっくり返した。そして、呻くリティルをよそに、サレナに刺された傷に容赦なく手を突っ込んできた。
「痛ててててて!ば、ばかやろう!内臓掴む奴があるかよ!」
フツノミタマは、妖艶に微笑むと爪についたリティルの血を舐めた。リティルは辱めを受けたように、うずくまって動かなくなってしまった。
『落ち着かぬか。ウルフといえどもその傷では、ビザマには勝てぬぞえ?』
「誰がやったと思ってるんだよ!シェラの守りがなかったら、オレ、死んでるぜ?」
「わかっているのならば、今は堪えたまえ」
破壊された塔の上部に、蔓や枝でできた橋がせり上がってきた。そこには、気を失っているらしいディコを抱いたゾナと、ステイルに支えられて、辛うじて立っているシェードがいた。
「姫がくれた時間を、台無しにするつもりかね?ディコも気に病む。目が醒めたとき、君がいなければディコは立ち直れないと思うがね」
「ディコ?おい、大丈夫なのか?」
動かないディコを見て、リティルは血相を変えた。そうだ。なぜ思い至らなかったのだろう。シェラは残された仲間と共にいた。そのシェラがビザマと一緒にいたということは、彼と皆が闘って敗れたということだ。
「ビザマに殺意はなかったようだ。しかし妹が行かねばディコ殿は……」
「ばかやろう……無茶しやがって」
ディコの顔を覗き込んだリティルは、魔力切れで真っ青な小さな相棒を確かめて、唇を噛んだ。リティルを呼ばなかったのは、試練の邪魔をしないためだ。ディコ達はその間の時間稼ぎをしようとしてくれたのだろう。
「リティル、貴殿は大丈夫なのか?空中で、恐ろしいことになっていたような気がするが」
「シェード、無事でよかったぜ。ああ、あれくらい大したことねーよ。味方にやられたほうが重症だったくらいだぜ」
リティルは、自分の尻尾を毛繕いするフツノミタマをちらりと睨んだ。
リティルの視線を追って、ニーナはやっと剣狼の女王の姿を見た。
「フツノミタマ、何故この場に現れたのじゃ?」
ニーナがフツノミタマに会うのは、これが二回目だった。一度目はミストルティンを相棒にしたときで、彼女のインパクトの強さがニーナの口調に影響を及ぼしたのだった。
『面白い輩がきたのでのう、見物に来たのじゃ。十五代目はなかなかに無茶苦茶じゃのう。あの状況でも諦めないそのしぶとさ、あっぱれじゃ』
今までの風の王にはない図太さだと、フツノミタマは明らかに面白がっていた。
「褒めてるのか、貶してるのか、どっちだよ?」
『わらわはヌシのそういう所、好きじゃぞ?ヌシはもはや、ウルフ族とは言い難いが、問うてやろうぞ。汝は、我が力をなんのために欲す?』
「花の姫を心ごと守るためだよ。決まってるだろ?」
ディコが起きていたらつっこまれそうな理由を、リティルは即答した。
「見ただろ?オレを助ける為に、賭けなくてもいい命まで賭ける奴なんだ。あいつ、一週間氷の中にいるつもりなのかよ?何やらかすかわからねーから、気が気じゃねーんだよ」
リティルは肩をすくめた。
『ホホホホホ。良いのう良いのう、ヌシは良い!我ら剣狼は風の領域の住人じゃ。風の王とはご近所さんじゃが、すぐに代替わりしてしまうのでのう、風の王の相棒となった者はおらぬ。ヌシならば長く遊べそうじゃ。特別に、わらわが力を貸してやろうぞ!さあさ、わらわをヌシの物にするがよい』
妖艶な仕草で、フツノミタマの顔がリティルの顔に重なる。傍観していた仲間達は思わず視線を外した。
「待てよ、キスするなら他の場所にしろよ。売約済みだぜ?」
『姫に操を立てるかのう?一途じゃな。では、手の甲に』
フツノミタマの唇が触れるのを、リティルは手で躊躇なく阻止していた。そんな拒絶に気を悪くした様子もなく、むしろ喜びながらフツノミタマはリティルの手を取りその手の甲に口づけした。
契約を終えたリティルは、ゲートの開いていた空を見上げた。もう、ゲートは閉じてしまっていて、穏やかな晴れ渡った空が広がるばかりだった。
「みんなシェラに守られたわけか。強くなりすぎだろ?お姫様」
リティルは髪を縛っていたリボンを解いた。シェラの花から作られたリボンには、彼女の優しい力が満ちていた。すぐに追いたいのに追えない、置いて行かれる切なさを、リティルは初めて味わっていた。思い出の中のビザマなら、シェラを辱めるようなことは決してしないと信じられる。しかし、今は?闇の王に下ったのだと、ビザマは敵なのだと思いたい、その方が楽に刃を合わせられるからだ。しかし、切っ先を突きつけられたとき、よくわからなくなった。試されている?怒りや憎しみを抱けと挑発されているような気分になった。数々の血を流したビザマの心は、実は今も変わらないのだろうか。
「何が大丈夫だよ。全然、大丈夫じゃねーだろ?シェラ……」
リボンを強く握り、その拳に額を当ててリティルは俯いた。
乾いた風が、リティルの解いた髪を撫でていった。
シェラは、凍えるような寒さの中で目を覚ました。寒いと思ったのは目覚める瞬間だけで、すぐに体は火の暖かさに包まれた。遠かった音が次第に近づく。暖炉で火が燃える音がやっと聞こえてきた。
ここはどこだろう。ボンヤリ見上げた天井には、刺繍で絵が描かれている。これはクエイサラーにある、自室のベッドの天蓋だと気がつくのに、それほど時間はかからなかった。ここに描かれているのは、お伽噺に出てくる、花の姫と金色の鳥だ。
クエイサラー王家の間では、英雄・レルディードよりも風の王の方が身近だった。精霊となる姫の生まれる国故のことだろう、クエイサラー王家には実は、風の王は悪とは伝わっていない。しかし、鳥達が何の鳥だったのかまでは伝わっていなかった。
もしも伝わっていたのなら、インサーリーズが風の王の片翼だと、もっとずっと前に気がつけたというのに。
クリーム色のこの部屋の壁には、漆喰細工で浮き彫り状に作られた孔雀がいる。金メッキの施されたその姿は、夢に出てきたインサーリーズそのもので、シェラはずっとこの壁の鳥が夢に現れているのだと思い込んでいた。
子供心に、皆が知っているお伽噺と、自分が言われ続けていることと合致していないことはわかっていた。シェラは、皆が風の王を悪く言うと、哀しくなったことを思い出していた。
──あなたは風の王を助け、その命を守ってあげることができる唯一の姫よ
亡くなった母の声が甦る。
──はい、母様。けれども、母様、なぜ風の王様を皆悪く言うの?
──風の王は優しすぎて、すべてを自分のせいだと思ってしまったのよ。孤独な王様なのよ。だから、せめて私達だけでも、風の王を愛してあげなければね
シェラの脳裏に、二人の風の王の姿が浮かんで消えた。無鉄砲なリティルと、冷静なイン。二人が優しいことを、シェラは痛いほど知っていた。
「リ──ティル……」
今代の風の王は無事だろうか。ビザマはリティルに容赦がない。シェードにもディコにも最低限の攻撃しか加えず、向かわなかったステイルにはまったく手を出さなかった。彼の目的は、シェラをここへ、クエイサラーへ戻すことだけだったようだ。
シェラは懐かしい自室にいることに、違和感を覚えていた。氷を溶かしたのは、ビザマで間違いないだろう。しかし、この待遇は?まだ体の芯が冷えているが、暖炉が燃やされ、ベッドには弱いながら炎の魔力を感じる。敵ならリティルがくるまで、氷付けでも構わないのではないか?とシェラは思ってしまった。
不意にノックもなしに扉が開き、シェラは身構えた。
入ってきたのは、ビザマだった。その後ろに、サレナが付き従っている。
「目覚めたか。あなたは、ずっと氷の中にいるつもりだったのか?」
「必要ならば、そうしたわ」
「威勢のいいことだな。まだ、羽根を具現化できもしないのに。精霊にも死があるのだぞ、あなたの行いはきわどい選択だったこと、わかっているのか?」
「……なぜ、わたしの身を案じているの?リティルから引き離さなければ、こんなことはしなかったわ」
「その首飾り。リティルと魂を分け合ったか。浅ましいことを。あなたの存在が、風の王を殺す。闇の王がどういう存在か、あなたは考えたことがあるか?」
「すべてを腐敗させる力の固まり?風の王が滅すべき敵よ」
「あんなもの、放っておけばいい。所詮、異空間に封じられた存在だ。神樹に縁ある精霊が手を出さなければ、永遠に出てくることなどありえない。闇の王を呼び覚まし、風の王を闘わせるのは花の姫、あなただ」
「ビザマ……何をしようとしているの?なぜリティルを予定よりも早く目覚めさせたの?」
「リティルは従順で、疑うことを知らず無垢だった。あのまま予定通りに目覚めていたのなら、最強の兵器になっていたことだろう。なんの疑いもなく、闇の王を滅し、風の王史上最も短命な王になっていたはずだ」
「あなたは、リティルを守りたいの?ならばなぜ傷付けるの?」
「リティルがどう足掻くのか、見たいだけだ。精霊の運命に従い、あなたはリティルを誘惑してくれた。見物だったぞ?あなたを取り戻す為に、意識を失うほどの傷を負い、這いつくばる様は」
ビザマは、ハハハハとおかしそうに笑った。
「リティル……」
「思惑通り、あなたはリティルの最大の弱点になってくれた。花の姫を脅かす闇の王とも、喜んで闘うだろうな」
「わたしが、開かなければ復活しないのならば、ゲートを開かなければいいだけの話だわ!」
シェラがそう言い出すと、思っていたのだろうか。ビザマはフフフと不穏に笑った。
「あなたは開かざるを得ない。闇の王はここクエイサラーに封じられている。十年前、千里の鏡を覗いたこと覚えているか?目上の者の忠告は聞くべきだったな。あの頃よりずっと、見られているぞ?王と王子が行動しなければ、今頃食い殺されていた。そして、あなたが精霊となったことで、闇の王は徐々に浸食を始めた。王の氷を溶かせば、あなたは眠ることさえ許されなくなる。リティルが闘うことは必然だ」
「十年前……ビザマ、あなたはまさか……」
「この地の土を踏み、二十年。あなたが生まれた日のことを、不覚ながら覚えているよ。アクア、リティルの過去を知りたければ、そのリティルの牙に過去へのゲートを開け。あなたに、本気でリティルという男を愛する気があればな。もっとも、一点の染みもないあなたのように美しい者には、不可能だが。リティルを生かすか殺すか、選択するがいい」
ビザマはサレナを促して、水差しをテーブルに置くとさっさと出て行ってしまった。窓の外は、冬でもないのに吹雪いていて窓の外は完全に凍り付いていた。
十年前。
シェラはビザマに懐いていたことを思い出した。あの日はシェラの九歳の誕生日だった。廊下の先を行くビザマを見つけて、後をつけた。ビザマはシェラに気がつかずに、隠し扉を開き中へ入っていった。魔法で隠されていたその扉を、なぜかシェラは通れてしまったのだ。その中に、件の鏡、千里の鏡が安置されていた。ビザマが鏡に向かって何か話をしている。シェラはその様子を、柱の影から見ていた。
「誕生日おめでとう、リティル」
「ビザマ、ありがとう!あれ?どこにいるの?」
「おまえが目覚めたら、向かわなければならない場所だよ」
「へえ、そうなんだ?早く出たいなあ」
「今日は戻れないが、明日は戻るから、大人しくしているんだぞ?」
「はーい!じゃあね、ビザマ」
男の子の声と会話を終えたビザマは、シェラに気がつかないまま魔法の扉を出て行った。シェラはそっと、鏡に近づいてみた。確かに、千里の鏡というモノには近づいてはいけないと言われていたが、これがそうだとは九歳のシェラにはわからなかったのだ。
鏡の中は何も映していなかった。ただ、暗い穴のように真っ暗だった。その中から、笛の音が聞こえてきた。
「誰?誰かいるの?」
シェラは思わず声をかけていた。
「うわ!びっくりした!え?誰かいるの?ていうか、まだ繋がってたんだ」
「さっき、ビザマと話してた子?」
「ビザマを知ってるの?オレはリティルだよ。君は?君は誰?」
「シェラよ。ねえ、今の曲何?」
「これ?……シェラ、たぶんなんだけど、オレ達話しちゃいけないと思う。ビザマに怒られるよ?」
「黙ってたらわからないわよ?」
「ダメだよ!何か、嫌な予感がするんだ。早く離れて!近づいちゃいけないよ!」
「リティル!また話せる?」
「わからないよ。オレ、ここから出られないから。さあ行って!もう、ここに来ちゃダメだよ」
その次の日だったと思う。ビザマの雰囲気が少し怖くなったのは。
「わたし……リティルに会っていたのね?初めて会ったとき、何かがが気になったのは、そのせいだったんだわ」
目覚める前のリティルは直感的に鏡にシェラが近づいてはいけないこと感じ取り、守ろうとしてくれたのだろう。シェラは、鏡を通してリティルと話をしたことを、ビザマには言わなかった。ビザマが十年前のことを知っていたのは、リティルがきちんと報告したからなのだろう。
「わたしのせいで、リティルは……」
おそらくリティルは、シェラの時代には目覚めなかった。けれども、シェラが鏡を覗き、闇の王を刺激した為に、ビザマが強行してしまったとしたら、皆の哀しみを作ったのは──。
シェラはリティルの牙を握りしめた。彼の過去を知る者達が、黒い時期と呼んでいた、そのリティルを作ってしまった切っ掛けを与えたとしたら、シェラは知らなければならない。そう思った。シェラはビザマに焚き付けられた通り、リティルの牙に過去へのゲートを開いた。
リティルは一人、神樹の根本に来ていた。クエイサラーは目と鼻の先だが、皆にナーガニアと話すだけだと念を押されていた。もしもリティルの足がクエイサラーに向くようなら、インが強制連行するとまで言われていた。本当に、信用がないなとリティルは苦笑するしかない。こちらも好きで怪我しているわけではないのだが、インにシェラが絡むと不安定になると言われた事を、ちゃんと自覚しなければならないと反省した。
「神樹の精霊・ナーガニア。オレの名はリティル!第十五代風の王だ。姿を現してくれ」
神樹の森の正常な空気に、大きな波紋が広がった。
『やっと目覚めたのですね?風の王。さあ、イシュラースへお帰りなさい』
「そういうわけにはいかねーんだよ。まだ、闇の王を討伐できてねーんだ」
神樹から現れたのは、鹿の角を生やした妙齢の女性だった。インは風の王は軒並み嫌われていると言っていたが、そんな様子は見受けられない。
『闇の王?あれとまだ関わっているのですか?レシエラが異空間に封印し、もう無害となったではないですか。なぜ、まだ拘るのですか?』
「花の姫が、闇の王の配下に浚われたんだ。助け出したいんだ」
シェラの髪の色とは対照的な、真っ白な髪のナーガニアは眉をひそめた。
『花に関わるのはおよしなさい。また命を落としますよ?』
「あんたの娘だぜ?放っておけっていうのかよ?」
『風の王、花の色香に惑わされてはいけません。目をお覚ましなさい』
「魔法にかかってるだけだとしてもいいんだ。オレはあいつを、諦めたくねーんだよ。ナーガニア、オレの命を惜しいって思ってくれるなら、手を貸してくれよ」
『風の王……これも運命なのでしょうね。娘達は、風の王を悪戯に誘惑する。そして裏切るのです。信じてはいけないと、私は思いますよ?』
ナーガニアの、自分の娘よりも風の王を案じる物言いは気になったが、シェラを諦めたくないリティルは食い下がった。
「嫌われるのが怖くて、手に入れたモノを手放すなんてできねーよ。裏切りなんて思わないさ。それは、オレに甲斐性がなかっただけだ。もとより無謀な恋なんだ。シェラがオレを拒むなら、それでいいさ」
リティルは笑った。曇りなく。その笑顔を見て、ナーガニアはジッと何かを探るようにリティルを見つめてきた。ややあって、ナーガニアは厳しい視線を向けてきた。
『……娘と、魂を分け合ったのですか?その意味を、あなたは本当に理解していますか?』
「新米でも精霊だぜ?わかってるさ。だから、オレは死ぬわけにはいかねーんだよ。ナーガニア、花の姫、今度こそ幸せにしてやるよ。だからな、オレにくれよ」
『後悔しても知りませんよ?忠告はしましたからね。わかりました。そこまで言うのであれば、力をお貸ししましょう。私も、娘の哀しむ姿は見たくありませんから』
フウとため息をつくと、ナーガニアは硬い表情を崩さないまま、承諾してくれた。
「ありがとな!」
『リティル、神樹の無限の魔力を送ります。ですが、腐敗との相乗効果であなたの肉体はかなりのスピードで崩壊するでしょう。生きて帰れる保証はどこにもありませんよ?』
「わかった、諸刃の剣ってやつだな。ナーガニア、あともう一つ我が儘言ってもいいか?」
『なんなりと』
リティルはクレアから預かった設計図を、ナーガニアに手渡した。
『闇の王を討伐した後、破棄することを約束してくれるならば、この竜の三種遣わせましょう』
ナーガニアが両手を広げると、設計図にあった通りの魔導具が具現化した。
一つは、竜の巻き付いた白い宝玉。
一つは、竜が周りをグルリと囲んだ鏡。
一つは、竜の口より出でし赤い刃。
そして、闇の王に打ち込み、神樹の魔力を流し込むための、神樹の枝で作られた槍。
「恩に着るよ。これで、ますますあんたに逆らえなくなるな」
『人聞きの悪い。ですが、期待していますよ?十五代目風の王』
ナーガニアは出てきたときと同じように、大きな波紋を広げて去った。
ふうとリティルは息を吐いた。
『ご苦労だった。ナーガニアがここまでしてくれるとは、思わなかった』
ナーガニアが去ると、すぐさまインが声をかけてきた。彼は、神樹の森に入ってから、一言も喋っていなかった。ナーガニアを刺激しないようにと、そう配慮したのだろう。
リティルは笑うと、約束通り、ルセーユに向けて翼を広げた。
「なあ、風の王は嫌われてるんじゃなかったのか?もの凄く友好的に感じたぜ?」
『それはおそらく、そなたと姫がすでに魂を分け合っていたからだ。リティル、本当に意味をわかっているのか?』
インにまで疑われて、オレ、そんなに初心に見えるのかよ?と、リティルは苦笑した。
「ああ。グロウタース風に言えば、結婚したってことだろ?おまえ、立ち会ったじゃねーか」
リティルはあっけらかんとしていた。
『姫は理解していない。そなたも告げなかった』
「かもな。オレも正直、シェラがリボンをくれるとは思わなかったぜ。まだ、魂を預けるだけでいいって思ってたからな。シェラが気がついてねーなら、それでいいんじゃねーか?教えたら、しばらくオレ避けられるぜ?」
『フフフ、容易に想像がつく』
精霊は力が具現化した存在だ。故に、交わりによって増えてはいかない。新たな力が誕生したとき、形を得るのだ。故に、婚姻という制度は存在しない。一応男女の違いはあるが、男女間の愛は希薄な種族だ。
中には、グロウタースの民のように互いを好きになる精霊もいて、そうなると自分の一部で作ったアクセサリーを贈りあう。片方が片方にアクセサリーを贈ると、魂を預けるといい、グロウタース風にいうと婚約状態になる。
贈られたほうが贈り返すと、魂を分け合うといい、婚姻状態になるのだ。リティルが牙をシェラに贈ったとき、シェラは自身の一部でリボンを作り、返した。その時点で、精霊的には二人は夫婦となったのだが、シェラはただ何かを返したいと思って、作ってくれたのだろうと、リティルもインも思っていた。
さて、いつ気がつくのだろうか。リティルは気がつくまで放っておくつもりだった。知ったときのシェラの反応を想像すると、楽しいからだ。