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緑のレイシル

三章 緑のレイシル

 黒梟の森は昼間でも鬱蒼とし、日の光をとことん遮る森だ。であるのに、実りは豊かで島の食を支えている。

五玉の司祭と呼ばれる五人の司祭が国をまとめ、司祭長は歴史を管理している。

首都・ユグドラシルは、多重構造な上に上部の方が下部よりも張り出し、神樹に似た姿をしていた。空中であるのに樹木が育ち、遠目から見ると神樹に並ぶ大樹の様に見えるのだった。

「来たねぇ。シェード、あれはなんだい?」

ユグドラシルまであと数時間というところで、クエイサラーの方から黒雲のようなモノが近づいてきていた。個々の目視はできないが、十中八九クエイサラーの魔法人形だろう。

「おそらく鳥型魔法人形・ガルダだ。リティル、手はず通りにいけるか?」

「やるだけやるさ。任せとけ!」

ステイルは下を見た。眼下には、黒々とした森が広がっていて隙間すらない。

「この森にはエズが降りられる場所はないからね、ユグドラシルまで逃げ切るよ!」

「ああ」「了解した」

ユグドラシルには魔法を無効化するシールドが張られている。そこまで逃げ切れば、ひとまず勝ちだ。

「いいかい、リティル、逃げるが勝ちだよ?」

「わかってるさ」

「くれぐれも、しんがりを努めたりするな!もしもの時は、わたしが果たす」

「だから、わかってるって!どうしたんだよ?二人とも」

「「一人で無茶するからだ!」」

「うわあ……お二人とも息ぴったりで。了解、了解!空中じゃどうしようもねーって」

ステイルはリティルの元相棒だ。ディコが来たことで交代したのではなく、解消されてしまったのだ。ステイルは元々レイシルの緑の騎士団に所属していたが、ドルガーの死を切っ掛けに影に入った。しばらくリティルの相棒を務めていたが、彼の戦いかたは心臓に悪いといって一方的に相棒を降りられてしまった。すぐに治るというのに、リティルが怪我をすることに抵抗があったらしい。腕がもげても動じないディコと比べると、ステイルはいくらか繊細だったようだ。

 襲いかかってきたのは、仮面を被った黒い鳥達だった。飾り物の丸い瞳をぎょろぎょろと動かしながら、急旋回して攻撃を仕掛けてくる。一体一体の耐久性は高くはないが、空を黒く染めるほどの大群だ。まともに闘っては勝ち目はなかった。

ガルダはエズに狙いを定めていた。エズは大きく羽ばたき、巻き起こる風で背を守るが、頭や腹は手薄だ。

「ファラミュール!」

いつの間にか、エズの頭の上にニーナとディコがいた。二人は蔓でエズの角に体を縛り、エズの視界を邪魔するガルダを焼き落としていた。

「ディコ!ニーナ!」

「前方は任せるのじゃ!姫のもとには、ミストルティンがおる。案ずるでないぞ!」

風の王の欠片をなくしてもニーナは、ディコには及ばないものの強い魔導士だった。なかなか相性がいいようで、お互いの穴を埋めるように魔法を打ち合っていた。

「統率が取れていない、行けるぞ!」

シェードは剣を振るった。その軌跡に刃が生まれガルダを切り裂いていく。剣に魔力を溜め、それを飛ばして攻撃しているのだ。

ガルダはただ放たれただけで、指示を出している者がいないらしい。ステイルが攪乱してやると、味方同士でぶつかり壊れるモノも出るしまつだった。

ユグドラシルのシールドまであと少し、前方では魔法を無効化され墜落するガルダも出始めていた。エズの後方で闘っていた三人も、踵を返し逃げに専念しだしたときだった。

 「はっ!」

リティルは誰かに呼び止められたように、後ろを振り返っていた。背中に冷たい汗が流れ落ちる。何を捜しているのかわからないまま、視線を彷徨わせそれを見つけてしまう。

「おまえは──」

リティルの瞳に、紫色に浸食された金色の翼を持つ、女が映っていた。生気のない灰色の瞳で、こちらを虚ろに見つめている。気持ち悪いのに、引きつけられて瞳を逸らせない。

それどころか、体も吸い寄せられるようだ。リティルはフラリと、空竜を彼女に向かい飛ばそうとしていた。

「リティル?いったい、何をしている!」

リティルがついてきていないことに気がついたシェードが、踵を返した。リティルにガルダの大群が迫っていた。それが見えていないかのように、リティルは剣を構えもしていない。それどころか、ガルダに向かおうとしているように見えた。この距離で前へ飛ばれればシェードでさえ捕らえられない。その時、シェードの耳に妹の歌声が聞こえた。

「風の──奏でる歌……?」

リティルは女から目を逸らせないまま、しかし無意識に手綱を引きその場に留まった。

シェードは空竜の上に立つと、小柄なリティルの脇に腕を差し込み体当たりし掬い上げると、自分の空竜に乗せる。リティルが小柄で体重が軽くて良かった。そして、口笛でリティルの空竜についてくるように合図する。

「シェード?」

「早く座れ!」

我に返ったリティルは、鞍の上に立ったままのシェードの前になんとか座った。背後にはガルダが迫っている。逃げ切れるかどうかは勝機の少ない賭だ。

「「ファラミュール・ダブル!」」

シェード達の前方から放たれた巨大な炎の玉が、こちらを飲み込む前に二つに割れ、両脇を掠めて後ろに飛んでいった。見れば、エズがシールドの外に頭を出し、そこに乗る小さな二人の魔導士が手を繋ぎ、片手をこちらに向けていた。振り返らずとも、逃げ切ったことをシェードは実感した。

「シェード、あいつを見たか?」

「あいつ?何のことだ?」

「いや……いいんだ……。ありがとな、助かったぜ」

空中に制止していた女の姿が頭から離れない。紫色に犯された灰色の髪をなびかせ、女は確かにリティルだけを見ていた。その頭に生えた狼の耳……女はウルフ族だった。

そして、聞き間違いだろうか。誰かが風の奏でる歌を歌っていたような気がした。その歌声が、辛うじてリティルを、こちら側に引き戻してくれたことを感じていた。

リティルが唯一持っていた、風と接点を持つ歌。リティルしか知らない歌を、歌っていたのは、いったい誰なのだろうか。


 ユグドラシルの最上部に、竜の止まり木という場所がある。エズはその広場に舞い降りた。円形の広場は、年輪のように板を同心円に組み合わせて造られている。

『老体にはしんどいわい』

「エズ、ありがとう。ゆっくり休んでください」

エズは背からシェラを下ろし、体を横たえた。

「兄様!ご無事でよかった」

空竜を降ろしたシェードに、シェラが駆け寄り兄に抱きついた。妹を抱きしめ返しながら、シェードは生きていることを実感していた。

「小さな魔導士二人組に助けられた。ディコ殿、ニーナ殿かたじけない」

「咄嗟に上手くいってよかった。失敗してたら、お兄ちゃん達を丸焼きにしてたよ」

「わらわがそうはさせぬよ。無事で何よりじゃ。して、リティル、何を見たのじゃ?」

得意げに笑うディコとは対照的に、ニーナは険しい顔をしていた。リティルは何かを考え込んでいたのか上の空で、ニーナの問いに顔を上げたものの歯切れは悪かった。

「へ?あー……いや?」

あきらかに、様子がおかしい。問い詰めるべきなのだろうがその時間はなく、レイシルの司祭長が到着してしまった。

 五玉の司祭を引き連れ、司祭長・クレアは到着した一行の前に参じた。

「皆さん、お久しぶりですわ。援護ができずに申し訳ありません」

「シールド、広げてくれたんだろ?十分だぜ。久しぶりだな、クレアさん」

リティルの言葉に、クレアはニッコリと微笑んだ。クレアは、妖艶なステイルとは対照的で清楚な女性だった。

「ようこそレイシルへ。皆さんを歓迎しましてよ」

シェラは逸る気持ちと恐れる気持ちを抱いて、クレアの先導に従った。前を歩くリティルをチラリと盗み見たが、声をかけることなく、その紅茶色の瞳を伏せてしまった。

シェラは見たわけではなかった。しかし、何となく嫌な雰囲気を感じ、思わず歌っていたのだ。なぜ歌おうと思ったのか、自分でもわからない。インサーリーズに教えてもらい、幼いころよりよく歌っていた名も知らぬ歌。リティルがその名を教えてくれた歌。


 レシエラは、クエイサラー建国の女王だ。そして、お伽噺にある、花の姫その人だった。彼女の墓所は、クエイサラーにはない。場所すら伝わっていなかった。その場所をなぜ教国・レイシルが守っているのか、それすらシェラは知らなかった。時が来たらと言われ続けて、教えられる前に出奔してしまった。

「レシエラの墓所は、ずばり神樹にありましてよ。根元に泉がありまして、そこに。地上からはわからない場所にありますので、レイシルの地下から川を遡るのですわ」

クレアの執務室に集まった皆に、クレアは単刀直入に告げた。

「行ったことあるのか?」

「もちろんですわ。おそらく、歴代の司祭長が足を運んでいると思います。本当は、花の姫以外入ってはいけない場所なのですけれどね。アクア姫、さっそく行かれますか?」

「クレア、早速はいくら何でも……もう、日が暮れるよ?」

ステイルに窘められたクレアだったが、知的な眼鏡の奥の緑の瞳を、キラリと光らせて言った。

「夜の方が霊力が高まるので、泉に入るには最適でしてよ?おそらく、何日もかかると思いますので、早いほうがよろしいかと」

クレアの言葉に、シェラは一切の逡巡も見せずに即答していた。

「わかりました。クレア様、よろしくお願いします」

「そうこなくては。そうですわ、泉には男性は入れませんの。決して覗いてはいけませんわよ?」

「道中危険なのかよ?安全なら、オレ達はここで待機しとくぜ?」

クレアは考え込んだ末、口を開いた。

「共に行くメンバーは、私、アクア姫、リティル、ステイルでお願いしますわ。ニーナは休んでくださいまし。お辛そうですわ。ディコ、ついていておあげなさい。サフィー王子は、男性ですのでご遠慮願いますわ」

「オレは行くのかよ?」

「風の王が行かないでどうなさいますの?」

「どうなさいますの?って言われてもな、オレ、まったく風の王じゃないぜ?」

乗り気でないリティルとクレアは、行く行かないと口論を始めてしまった。

 リティルがごねるなんて珍しいなと、ディコは思ったが理由を察した。リティルは、風の王を疑っている。もし、風の王だという自分の目の前で、シェラが花の姫になり、それが引き金で乗っ取られたら?とでも考えているのだろう。けれどもディコは、風の王を信じていた。それは、ゾナが信じているからということと、リティルが、リティルでなくなるなんて、そんなこと考えられないからだった。

「ねえ、ボク、ニーナを部屋に送っていくね」

見ると、ニーナはミストルティンの上で船を漕いでいた。そして見る間に、狼の背に突っ伏してしまった。

「ディコ、オレが行く。おまえじゃ、ベッドに上げられねーだろ?」

そう言うとリティルはニーナをヒョイッと抱き上げて、さっさと部屋を出て行ってしまった。そんなリティルに、ディコはついていかずに見送った。ボクがニーナをと言えば、リティルが行くとそう言うと思ったからだ。

「クレアお姉ちゃん、リティルはたぶん一緒に行くよ?でも、少し時間をあげて。空で、何かに遭遇したみたいなんだ。リティルがあそこまで動揺するの、ボク初めて見たよ」

シェードはリティルが、あいつを見たか?と聞いてきたことを思い出していた。戦場のど真ん中で、リティルほどの戦士が、五感のすべてを奪われるなど、普通では考えられない。あの時、ガルダがおらずその”あいつ”と二人きりだったなら、リティルはどうしたのだろうか。相手に敵意があったなら、勝敗は見えている。あの様子ではリティルは負けていただろう。

 シェードは妹を盗み見た。あの歌はシェラが幼い頃より歌っていた、彼女だけの歌だ。その歌が、リティルをこちら側に、辛うじて繋ぎ止めたように思えた。妹は、シェードが感知すらできなかった、何者かを感じられたのだろうか。凛と表情のない横顔からは、何も読み取ることはできなかった。

 ニーナは、丸太をくり抜いたかのような湾曲した廊下に出た所で、欠伸をしながら目を醒ました。しかし、体を動かせないほど疲労しているようだった。

「すまぬな」

「全然いいぜ。……なあ、おまえどっか悪いのか?」

「いたって健康じゃよ。ただ、魔力の容量は年並みでのう。ディコのように才能があればよかったのじゃが」

ディコは無尽蔵なのかと疑うほど、魔力量が多い。身の丈に合わないような魔法を平気で操り、リティルの度肝を抜く。エフラの民の中でも、天才の部類だそうだ。

「魔法の使いすぎってやつか?そっか、ならいいんだ」

ニーナは心配してくれた風なリティルを見上げて、フフフと笑った。

「わらわは、そなたのことが好きじゃよ?」

「…………はあ?な、なんだよ、いきなり」

十歳児のいきなりの告白に、リティルは面食らった。

「友として、仲間としてじゃ。シェラ姫と争う気はないわ。リティル、わらわはそなたが風の王じゃから、ドルガーの息子じゃからここにいるのではない。そんなくだらぬ理由なら、とっくにルセーユに帰っておるよ。この世界の優しさで、満たされるのが怖いか?しかし、そなたに本物の優しさがある時点で、返ってきてしまうものじゃ」

「優しくなんか……」

「ないと申すか?では、わらわに琥珀糖を買ってきてくれたのはなぜじゃ?今こうして、抱っこしてくれているのは?ディコが慕うそなたを偽物じゃとは思わぬよ。知っておるか?シェラ姫は決して泣かぬ娘なのじゃそうじゃ。その姫が、そなたの前でならば素直になれるのは?弱い心を知る、強いそなたじゃからの優しさじゃろう?」

「ニーナ、買いかぶりすぎだぜ?オレはただ、やりたいように──」

「弱くてよいのじゃ。誰だって恐ろしいのじゃ。大事な誰かの血は……。リティル、サレナを見たのじゃな?金色の翼を持つ、ウルフ族の女じゃ」

リティルは一瞬の迷いは見せたものの、縋るような瞳でニーナを見下ろし頷いた。こんな幼い子供に助けてほしいと思うなど、どうかしていると自分でも思った。しかし、リティルは恐怖していた。ドルガーを失ってから、リティルは戦場で恐怖を感じたことはなかったというのに、あれと対峙したとき身が凍る思いがした。

「サレナは我が母じゃが、ビザマに殺されてしもうた。今あの骸には、奪われた風の王の力が入れられておる。そなたが、嫌悪と恐怖を感じても無理のないことじゃ。無事でよかったと、切に思うておるよ」

小さな手がリティルをギュッと抱きしめた。暖かい小さなぬくもりに、リティルは思わず抱きしめ返していた。

「恐怖は命を守る感情じゃ。恐れを見極めよ。そなたが恐れておるのはそなた自身じゃ。サレナはもはや骸でしかなく、その内にあるモノは風の王の力じゃからのう。ドルガーを忘れよとは言わぬ。じゃがもう、眠らせてやってはくれぬか?代わりに、その心の中に我らを住まわせてはくれぬか?シェラ姫だけでもよいから。のう、リティル?もう嫌なのじゃ。仲間を、失いとうない……」

「ニーナ?」

「すまぬ……そなたは闘わねばならぬ。痛みを受けねばならぬ。そなたを、守れなんだせいで」

「誰のせいでもねーよ。おまえが謝ることじゃねーって。ありがとな、ニーナ。おまえのおかげで、オレはオレを許せそうだぜ。しっかし、ホントに十才かよ?」

リティルを放して顔を上げたニーナは、ニカッと笑った。

「フフフ、花の十才児じゃ。皆の所に戻ったら、ディコを寄越しておくれ。一人は怖いのじゃ」

「ああ、伝えとくよ。オレはレシエラの墓所に行ってくる。あんまりごねると、シェラが不安がるしな」

リティルの心は軽くなっていた。あんなに憂鬱で暗く沈んでいたのに、嘘のようだ。

「うむ。シェラ姫にとっても困難な道じゃ。姫は自覚がない分、そなたより手強い。あまり無理をさせぬようにのう」

「オレは単純ってことか?ハハハ、わかったよ。しっかり休めよ?レイシルにも美味いお菓子があるからな、また貢いでやるよ」

「病人ではないのじゃがのう。じゃが、ありがとう。お菓子は大好きじゃ」

ベッドに降ろすとニーナはもぞもぞと布団に潜り込んだ。そして、小さな手を振った。リティルは灯りを消さずに、部屋を出た。

 扉を閉め、瞳を閉じると深く息を吐く。そして、再び瞳を開いたときには、強い光が戻ってきていた。恐れはまだある。後ろ向きな心は健在だ。けれども、心は晴れていた。


 リティルの突然の心変わりを、皆問い詰めることなく、レシエラの墓所へ向かう一行は、ユグドラシルの地下へと降りていた。一人取り残されることになったシェードは、大人しく寝ると言って皆を見送った。この国の司祭長は皆、カラクリが大好きで物理とか言う法則を使って、魔法に頼らず魔法じみたことを行っている。司祭長の執務室から、ユグドラシルの地下に降りる昇降機があり、降りる道中延々と仕組みについて説明されたが、誰一人理解できる者はいなかった。

 地下には川が流れていた。ここでは魔法が使えるようで、魔法の光がずっと奥まで続いている。この川は、神樹まで続いているらしい。その川の隣には線路があり、規則的に並ぶ窓と車輪のついた長方形の箱が置かれていた。

「さあ、乗ってくださいまし。すぐにつきますから」

「すぐって、神樹まで行くんだろ?エズでも半日かかる距離だぜ?」

「さあさあ、そうですわ、ちゃんとベルトは着けてくださいまし。発車オーライ!」

・・・・・・・・・・・・・

「──信じられねー。ホントにもうついたのかよ!」

「神樹と直接繋がっている、この場所だからできることですわ。さあ、どうぞ」

その場所には、確かに神樹の森と同じ空気が漂っていた。煉瓦を敷き詰めて作られた石室の奥に、重々しい石の扉がある。扉には、花の冠を被った女性と、翼のある男が彫られていた。二人の視線は交わり、互いを信頼しているようだった。

「ここから先は、アクア姫と私だけで。リティル、くれぐれも覗かないでくださいまし」

「わかってるよ」

いったいなぜ連れてきたのかと思いながら、リティルは付き人の待機所なのか、そこに置かれていた椅子に腰を下ろした。

「静かだねえ。まるで、時間の感覚がない」

ステイルは落ち着かない様子で、煉瓦造りの天井を見上げた。

「ああ。神樹の下に、こんなところがあるなんてな」

「おまえは昔から、神樹に免疫があったからねえ。あたしは苦手だよ。そういえば、シェラ姫に会ったのは、神樹の森と言っていたねえ」

「あれには驚いたぜ。二人とも、よく無事だったよな」

リティルは魔法人形に追いかけられていた二人の事を、思い出していた。

そんなお気楽なリティルに、ステイルは意を決して疑問をぶつけた。

「なぜ、シェラ姫なんだい?」

「はあ?」

「なぜ、シェラ姫を選んだのかと聞いているんだよ。おまえは、誰にも心を動かされなかったじゃないか」

「あのなあ、シェラとそういう仲になった覚えはねーぞ?」

「白々しい。おまえの相手は、あんな弱々しい人形の様な娘より、もっと──」

それを聞いて、リティルは笑い出した。

「シェラが弱々しいって?ハハハ、そりゃ、あいつのこと知らないから言えるんだよ。なかなか強いぜ?へこたれねーし、辛抱強いしな。闘う力があるかないかだけが、強さじゃねーだろ?」

何かを思い出したのか、リティルは楽しそうに笑っている。

「おまえが手に入れたがるほどの相手には、思えないけれどねぇ」

「オレが口説いてると思ってるのかよ?だったらシェラは人形なんかじゃねーよ。オレ、迫られてるんだぜ?人形に、そんなことできねーだろ?」

ステイルはシェードの様子から、リティルが迫っているものだと思っていたらしい。まあ、無理もないよな?と思った。オレとシェラじゃ、見た目からしてオレが口説く方だよなと、リティルは理解していた。

「好きなのかい?」

リティルは照れた様に笑った。その顔を見たステイルは、リティルがシェラを、手に入れようとしていることを知った。

「ああ、すげー可愛いよな。でもな、今はダメなんだ。シェラに、愛想尽かされる前に何とかしねーとな」

曇りなく笑った、リティルの様子が、以前より少し変わったような気がした。

ずっと溶けなかった彼の心を、あの姫は溶かしたのかと、ステイルは信じられないような気持ちだった。あんな、美しいだけの姫にリティルの何がわかるのかと、嫉妬に似た感情を抱いてしまう。それは、ステイルが男としてリティルが好きだからではない。ステイルは、リティルを弟だと思っている。身内だと思っている。

なのに、ステイルにも、ゾナにもできなかったことを、背負っていますと言うような顔をしているだけの姫に、されてしまったことが腹立たしいのだ。

 そうこうしていると、クレアが戻ってきた。

「恋バナですの?私も混ぜてくださいな」

「違げーよ!そういえば、クレアさんはクエイサラー兄妹のこと、知ってるんだよな?」

王族と、国のトップだ。知らないはずはない。

「ええ、もちろんですわ。アクア姫はいつ見ても美しいですわね。リティル、もう口説かれましたの?」

「クレアさんは、オレが口説いてるとは思わねーんだな?それも、複雑なような……。どっちにしろ、怖えー兄貴がついてるじゃねーか」

もし、カルティアで告白されたとき、手を出していたら、たぶん、斬られていたと思う。

「サフィー王子は確かに、手強そうですわね。それにしても、お二人ともこのレイシルにいるなんて、あああ!眼福ですわ!」

美男美女ですわよ?ずっと、愛でていたい!と、クレアは自分の身を抱いて、身悶えた。

「ハハハ、相変わらずだな。クレアさんから見て、シェラはどんな姫なんだ?」

「そうですわね。アクア姫は、儚げに見えて心のお強い女性でしてよ?彼女が花の姫となるならばリティル、決して死ねないと思った方がいいですわよ」

「ありがたいはずなのに、薄ら寒いのはどうしてなんだろうな?」

「アクア姫は、本気で精霊の力を手に入れようとしていますわ。人という今の自分を捨ててでも、花の姫という役割を全うしようとしていますの」

急にクレアの雰囲気が真面目になった。

「あいつ、本気なんだよな?初めからそうだったからな。……ん?今何か言ったか?──シェラ!」

何か聞こえた気がして、リティルは辺りを見回した。何もなかったが、胸騒ぎがしてリティルは立ち上がっていた。ニーナにあまり無理をさせるなと言われた事を思いだし、リティルは石の扉を勢いよく開いていた。

 石の扉の奥には、神樹の根が入り込み丸い池になっていた。そこから流れる水が部屋の外に続いている。この水が線路の隣を流れていた川だ。

泉の中にこちらに背を向けてシェラがいた。リティルは、神聖な場所だということは承知していたが、泉に躊躇なく入った。その瞬間、刺すような冷たさが足から頭まで貫いた。今気がついたが、部屋にはヒンヤリと冷たい霧が立ちこめていた。

こんな冷たい水に、シェラはどれくらい浸かっていた?リティルは、冷たさに体の感覚を失いながら、泉の中を進み、動かないシェラの肩を掴んだ。

氷のように冷たかった。

「シェラ!おい!大丈夫か?」

シェラの意識はもうろうとしているようだった。リティルは返事を待たずに、彼女の体を抱き上げる。その時初めて、シェラが一糸纏わぬ姿であることに気がついた。思わず落としそうになって慌てて手に力を込める。とたんに、張りがあり吸い付くような柔らかな感触が掌に広がった。戦いを知らない、華奢な体。ただただ穢れなく、邪な心など一切ないのに罪悪感が湧き上がる。オレ如きが触れて良い存在じゃないと、思い知った気分だった。

「それで、覗くなって言ったのかよ!手、貸してくれ!」

今は一刻も早く、温めなければならない。クレアが毛布にくるみ、ステイルがシェラを引き受けてくれた。

「なぜこんなに冷たいのですか?いったい、何が……」

クレアは動揺していた。クレアが泉に手を入れた時には、こんなに冷たくはなかったようだ。とにかく戻ろうと、慌ただしく箱に乗り込んだが、リティルは泉を気にして箱には乗らなかった。

「先に行ってくれ」

「リティル、自走箱を呼ぶには青いボタンを押してくださいまし!」

クレアはそう言い残し、箱に乗ってあっという間にみえなくなってしまった。

 残ったリティルは、ゆっくりと泉へと引き返す。そして、声をかけてみた。

「誰だ?」

『あなたこそ、誰なの?わたしの姿が見えるの?』

神樹の根っこの前、泉の中にボンヤリとした人型の光が見えた。声をかけてみたものの、まさか答えが返ってくるとは思わなかった。リティルはもう一度、泉に入ってみた。しかし、さっきのような刺すような冷たさはなくむしろ、少し暖かかった。

「あんたが、レシエラか?」

光の前に立つと、それが宙に浮かんだ人であることがわかった。長い髪を体に纏わり付かせ、自身の裸体を隠していた。その顔は、シェラよりも年上だったがよく似ていた。

『そうよ。あなたは誰?わたしの姿は、花の姫となる者にしか見えないはずなのに』

「オレはリティル」

『リティル?あなた、目覚めの器?ちゃんと融合できたのね?よかった。でも、あなたからは、風の力を殆ど感じないけど……』

しげしげとレシエラはリティルを見つめてきた。目のやり場に困るから、あまり近づかないでほしいなと思いながら、リティルは知っていることを話した。

『そう……なんてことなの……。その事が迷いなのかしら?シェラにはわたしが見えてないの。そればかりか、泉の水を凍り付かせてしまって、水から上がってと何度も言ったけれど通じなくて』

「あんたの姿を見るのに、何か条件があるのか?」

『ないわ。花の姫であるということだけよ。風の王であるあなたは例外ね。ただ、シェラの心がこちらに向いてなかったわ。あなたたち、何かあったの?まさか恋仲じゃないでしょうね?』

「うーん、両思いは両思いなんだけどな……保留中?」

彼女のことだ。完全にフラレたと思っているだろう。そうすることしかできなかった。

『何よそれ?』

レシエラは眉根をひそめた。あまり大きく動かないでほしい。長い髪が動いて、なんともきわどい。仕方なく、リティルは説明した。人に恋愛の一部始終を話すなど、どんな苦行だと泣きたくなった。

『なるほどね、あなたの気持ちもわかるわよ?レルもそうだったから。あの人は自分を犠牲にすることを決めていたから、あなたとはちょっと違うけどね』

「なあ、風の王の力を取り戻しても、オレはオレでいられるのか?」

『難しい質問ね。二人は、あなたをリティルと名付けて創ったのだから、あなたの人格は守られると思うけれど、もしも、あなたが本来のリティルでないとしたら、風の王の力を奪われたことで生まれた人格であるとしたらわからないわね。力を取り戻して完全になったら、本来のリティルの人格が目覚めて、あなたは消えるかもしれないわ』

「そうか……」

『それでも、取り戻しに行くんでしょう?気休めになるかわからないけど、竜の止まり木に夜中行ってみて。助けになってくれる鳥がいるわ。どうしてあんな所にいるのかと思っていたけど、風の王の力が奪われて、利用されないように逃げてたのね』

「鳥?たしか、インサーリーズとインスレイズ?」

ニーナに力の欠片を返してもらったおかげなのだろうか、リティルは今まで知らなかったはずの知識をところどころ持っていた。

『そうよ。そのどちらか。わたしはここから動けないから、いることしかわからないの。ねえ、リティル、シェラに伝えて。泉に入らずにレシエラを呼んでと。渾身の力で存在アピールしてみせるから。ちゃんと花の姫を継いでもらうわ。そして今度こそ、あなたを守るの』

レシエラは、そう言って意気込んだ。そんなレシエラの姿が、シェラに重なった。

「必ず癒す、あなたを守る、だから、わたしを選んで──か。戻ってきてーな」

『それシェラが?なかなか情熱的じゃない。さすが、わたしの子孫ね!レルとは上手くいかなかったけど、わたしはその後、王に出会えて幸せな生涯を送ったわ。だから、今度こそあなたも幸せになってね。風の王・インは間違いなく味方よ。きっと、何とかしてくれるわ。諦めないで、あなたはこうして生まれたの。そして、誰かを好きになる感情まであるの。そんな人格が、不完全だとはわたしは思わないわ』

レシエラはリティルの手を取った。幽霊のような存在であるのに、彼女の手は温かく癒されるようだった。

「ああ、ありがとな。オレの周りは、優しい奴が多くてまいるぜ」

『そうだとしたらそれは、あなたが優しいからね。いい男じゃないの。頑張りなさい』

レシエラは屈託なく笑うと、神樹の根に吸い込まれるようにして消えてしまった。


 リティルがユグドラシルに戻ると、シェラの介抱は一段落した後のようで、思いの外穏やかな空気が流れていた。さて、シェラにレシエラの伝言を伝えなければならないが、彼女の部屋はどこだろうか。そんなことを思いながら、リティルは、誰もいない廊下を歩いていた。

「リティル!ちょうどよかった、早く中へ」

すると、突然目の前の部屋の扉が開き、シェードが辺りを気にしながら顔を出した。彼はリティルに用があるらしい。なんだ?と思いながら、リティルはさっと部屋に滑り込んだ。

「シェラは?」

あそこだと、シェードに言われ、リティルはここが、シェラにあてがわれた部屋であることを知った。シェードはどうやら、妹の看病をしていたらしい。

「眠っている。体温も戻った、大丈夫だ」

シェラの眠るベッドの枕元のランプの光のみで、部屋の中はとても暗かった。

「悪かった。オレがついててこんなことになっちまって」

「責めたくて呼んだのではない。妹は無事だったのだから。実はまだ面会謝絶なのだが、貴殿とは話をした方がいいと思っている。あれから、まともに話をしていないのだろう?」

「即レイシルだったからな」

物理的な要因もあるが、リティルはシェラと何を話していいのかわからなかった。シェラもおそらくそんな感じだろう。気まずいというやつだ。

「シェラは、オレと話したいのか?」

「声をかけられないでいるようだった。無理もないが。ディコ殿から貴殿の事情は少し聞いている。突き放しておきたい理由も、わたしなりに理解しているつもりだ。腹は立つが」

そう言ってシェードは、震えるほど強く拳を握った。だが、振ったことを怒っているのか、シェラがリティルを選んだことを怒っているのか、リティルにはわからなかった。

「シェード、その握った拳が怖えーよ。伝えないといけねーこともあるし、話してみるさ。なあ、明日は一緒に行きたくねーんだ。また揉めたら、加勢してくれねーか?」

リティルは、レシエラの教えてくれた、風の鳥に会おうと思っていた。もとよりウジウジ悩むのは性に合わない。何か行動していた方がいいと、リティルは前向きだった。

「では、明日の昼間手合わせ願おう。それで貴殿の味方に下る」

「よし!約束だぜ?」

シェードとリティルは互いに拳を合わせた。シェードは自分が部屋を出た後は、鍵をかけろと言い添えて自分の部屋へ戻っていった。

 言われた通りに鍵をかけ、リティルは眠るシェラに近づいた。

レイシルの夜は静かだった。遅くまで煌々と灯りの灯るカルティアとは違う。

淡いランプに照らされたシェラの顔は、まだ白いものの頬には赤みが差し穏やかだった。綺麗だな……思わず触れたくなって、リティルは慌てて頭を振った。

リティルは椅子を引っ張ってくると、座り込んだ。そのとたん、疲労が襲ってきて思わずうたた寝してしまう。

ああ、今夜、シェラが目を覚ます保証、ないよな?と、今更思った。

 シェラはぼんやりと瞳を開いた。ここはどこなのだろうかと、しばらく暗い木の天井を見つめていた。この清浄で静かな空気はレイシルだ。そうだ、自分はレシエラの墓所の泉にいたはず──首だけ動かして部屋の中を見ると、シェラの瞳は大きく見開かれた。傍らに、椅子に座ったまま眠っているリティルがいたからだ。足と腕を組み、頭を垂れて器用に眠っている。首が痛くならないのだろうか。シェラは怠い腕を伸ばして、リティルの膝を突いてみた。

「ん?シェラ、大丈夫か?」

眠りは浅かったのか、リティルはすぐに目を覚まし、寝ぼけることなくしっかりした視線をこちらに向けてくる。職業柄だろうか。そういえば兄も昼寝しているときに悪戯しようとしても、すぐに目を覚まして不発に終わってばかりだったと思い出した。

引っ込めようとした手を、リティルに取られ、シェラはビクリと身を震わせてしまった。

「ごめん、そんなに驚くなよ。まだ冷てーな、あっためとけよ」

シェラは名残惜しかったが、リティルの手を放して腕を引っ込めた。

「兄様はいないの?」

ふとシェラは兄がいないことに気がついた。兄が傍らにいず、リティルがいる不思議。リティルとシェードの間で、どんな会話があったのだろうかと、シェラは思わずにはいられなかった。

「兄貴の方が落ち着くよな?呼ぶか?」

「行かないで!」

リティルが席を立とうとすると、シェラは反射的に叫んで体を起こしていた。しかし、鉛のような体は言うことを聞かずにベッドからなだれ落ちそうになった。

「おっと。急に動くなよな。まだ、自由がきかねーだろ?」

不意に包まれたぬくもりに、泣きそうになるのをシェラは堪えた。シェラを受け止めたリティルは、ベッドに寝かせると椅子をシェラの顔の方へ寄せて座り直す。

「今話せるか?辛いなら、寝るまで待っててやるから寝ろよ」

「今度目を覚ましたら、あなたはいないの?」

小さな子供のように不安そうな瞳で見つめられ、決心が鈍りそうでリティルは困った。

「この国のどっかにはいるさ。安全だからな、オレがべったりついてなくてもいいだろ?」

わざとだった。わざと、意地悪なことを言った。自分でも驚くほど、シェラへの想いが募る。そばに居て苦しいのは、リティルの方だった。昨夜はまだ大丈夫だと言い聞かせられたのに、あの冷たい肩に触れたとき、失うかも知れない恐怖を感じてしまった。そして、凍った心が砕け散った。形振り構っている場合ではない。そばにいて守れるだけ守らなければ、シェラは手の届かないところに行ってしまうかもしれないと悟ってしまった。

いきなりいなくなってしまった、ドルガーのように。

「何を、考えてたんだよ?君を連れ出したあと、レシエラに会ったんだ。言葉も届かねーし、気がついてくれねーって、困ってたぜ?」

シェラは気弱げに瞳を伏せるばかりで、何も答えなかった。

「シェラ、レシエラから伝言だ。泉に入らずに名前を呼んでほしいってよ」

「わかりました……」

こんなに口数の少ないシェラは初めてだった。無理もない。疲労とショックが本来のシェラを奪ってしまったのだろう。リティルは重い沈黙の中、会話の内容を探していた。無理に話をしなくてもいいのだが、もしかするともう、話ができなくなるかもしれない。そう思うと、余計に何も言えなくなった。

「リティル、あ、あの、その、見ました?」

沈黙を破ったのは、シェラだった。シェラは体を起こし、控えめにリティルを窺うように見ると言いにくそうに切りだした。

「あー……見た」

嘘を付くこともできたが、あんな透明度の高い水で、視界良好な場所でシェラの裸が見えていないと言い切るのも白々しい。リティルは素直に見たことを認めた。が、触ったことは言わなかった。

「!もう、立ち直れません……」

シェラは布団を引き上げて顔を隠してしまった。

「ごめん!治癒魔法の儀式は服着たままだからまさか裸だとは思わなかったんだよ!覗くなって釘刺されたのは服が透けるとかそいうことだと思ってたんだ」

布団を被ったシェラが震えている。これは怒っているか、泣いているかと思っていると、中からクスクスと笑う声が聞こえてきた。

「怒ってないわ。恥ずかしいけれど、リティルなら見られてもいいわ」

思いもよらない言葉に、リティルは彼女の裸体を思い出してドキリとした。

「オイオイ、オレはシェードみてーに理性のしっかりした男じゃねーぞ?そんなこと言って、襲われたらどうするんだよ!」

シェラの言葉に動悸が止まらない。そんなリティルを前にしても、シェラはどうぞと言わんばかりに無防備に笑っている。

「わかったの。あなたを前にすると、とても素直になれる理由が。明日がないかもしれないから、心のままにありたいの」

リティルはハッとした。リティルも、明日が一瞬で崩れ去ることを知っている。明日も一緒にいると思っていたドルガーは、なんの前触れもなく死んでしまった。シェラもそんな気持ちだったのだ。クエイサラーで、兄と父と国を担っていくはずだったのに、その明日はこなかった。そして、超回復能力持ちで、無茶な戦いをするリティルを見初めてしまったら、心配で気が気ではなかっただろう。

「そんなことねーよ。明日も、オレは!」

言いかけて、最後まで言えなかった。サレナを見つけ出して挑めば、明日があるのかわからない。自分自身を疑うリティルには、シェラと手を取り合う明日は夢見られなかった。

シェラの両脇に手を付いて思わず迫ってしまったリティルは、言い切れない自分自身に愕然として瞳を逸らしてしまった。その頬に未だ冷たい指が触れた。そして、その反対側の頬にシェラはキスをした。驚いてシェラを見ると、思わず唇が奪えそうな距離に顔があった。自分も傷ついているはずなのに、こんなに優しく微笑めるものだろうか。

「ありがとう、リティル。それから、傷付けてごめんなさい」

シェラは悲しい言葉を打ち消してくれようとしたリティルに、素直に感謝していた。そして、愛おしく思ってしまった。唇で触れた頬の温かさ。失いたくないと思ってしまう。

「シェラ……」

リティルはどうしようもなくなって、シェラの肩に顔を埋めて抱きしめた。その背を、シェラの華奢な腕が抱きしめ返してくれた。

 シェラは、控えめにあの歌を歌った。まるで子守歌のように優しく、風の奏でる歌をただリティルの為だけに。シェラにリティルとの明日が来ないかもしれないことを教えてくれたのは、インサーリーズだった。インサーは、心のままにと言って、シェラの背中を押したのだ。

 朝の眩しく優しい光にくすぐられて、シェラはゆっくりと目を覚ました。シェラの視線の先に、リティルの寝顔があった。ああ、そうだった。昨日はあのまま、抱き合ったまま眠ってしまったのだったとシェラは思いだした。シェラはとても冷静にリティルの寝顔を観察していた。金糸でできたような金色の髪、今は隠された瞼の奥の力強い瞳。その瞳にわたしを映してくれないかな?と、シェラは起きないリティルに手を伸ばしていた。さらさらの髪に触れると、リティルが小さく唸ってうっすら瞳を開いた。寝ぼけているのか、焦点の定まらない瞳でこちらを見ている。見たことのない無防備さが、可愛く見えてシェラは笑いを堪えた。

「おはようございます」

「……?…………うわわっ!」

シェラが、あっと思った時には遅かった。リティルは、驚きのあまりにベッドから落っこちていた。

「リティル、大丈夫ですか?」

「シェ、シェラ?オレ、何かしてねーよな?」

ヒョコッとベッドの上からリティルを見下ろすシェラは、微笑みながら何もないと言った。

「ぐっすり眠っていたわ」

クスクスと笑うシェラを朝日が輝かす。眩しくて、リティルは思わず瞳を細めていた。

「リティル、わたしは花の姫になります。そして、あなたの心も体も守ってみせます」

迷いのない紅茶色の瞳には、優しい笑みが浮かんでいた。


 その日の夜の儀式には、リティルはついてこなかった。昨夜と同様にクレアと口論になりかけたが、シェードとニーナがリティルに賛同し、リティルの代わりにニーナが同行することで決着がついた。儀式に向かうシェラは、見送るリティルに微笑んで小さく手を振った。そんなシェラに頷いて、リティルも手を振って送りだした。

 そしてリティルは今、真夜中の竜の止まり木に一人で立っていた。さっきまでエズもいたのだが、邪魔はしないと言ってどこかへ飛んで行ってしまった。言わなかったが、エズもここで、風の鳥に会ったのかもしれない。

 レシエラの言ったとおり、今、リティルの前に金色の風が集まり始めていた。

「インスレイズ……だよな?」

風の卵が割れ、中から金色の見上げるほどに大きな梟が舞い降りた。

『主様ぁ!ああ、やっと会えたー!』

かなり軽いノリの鳥だ。インスレイズは風の王の左の片翼で、死の風という意味の名を持つ死を司る鳥だ。風の精霊は、大気を循環させる務めの他に、輪廻の輪を監視するという役割がある。もう一方の鳥、インサーリーズは奏でる風という名を持ち生を司る。

「ずっとここにいたのかよ?」

『そうよぉ。リティル様は忘れちゃってて、うちの声も聞こえないしぃ。怖いものから身を隠すには、シールドのあるレイシルが都合よかったのぉ』

「オレ、まだなんの力も使えねーんだ」

『えー?おかしいなぁ。うちには、ちゃんと定着してる力が見えるんだけどなぁ。うち、サポートするよぉ。それも(しもべ)のお仕事だしぃ』

「なあ、インス、他の風の王の力がどこにあるか知らねーか?」

『傀儡の風のことぉ?神樹の森とクエイサラーの境に今いるみたいだよぉ』

「案内してくれねーか?」

『リティル様ぁ、やっちゃいますぅ?』

「ああ。風の王の力を取り戻すぜ」

『わーい!じゃあ、準備できたら呼んでぇ』

インスレイズはクルリと小躍りすると、金色の風となってリティルの中に流れ込んだ。体に宿った風の力をはっきりと感じた。それが手中にあることが、当たり前のように感じられた。不思議な気分だった。自分の知らない自分がいるようで、落ち着かない。だがこの鳥は、紛れもなく、風の王の、リティルの鳥なのだ。

 リティルは前を向くと、円形の広場のギリギリに立った。

眼下には黒々とした森が、夜の闇に溶けて真っ黒に横たわっていた。吹き上がってくる風に、足下がふらつく。この先に進めば、帰ってこられないかもしれない。ニーナは、リティルがサレナに挑むことを了承してくれた。一人で挑むことに後ろめたさはあった。ディコもシェードも話せばついてきてくれただろう。けれども、サレナには一人で挑みたい。勝算があるわけではなかったが、そうしなければならない。そんな気がした。

この対決は、ずっと前から決まっていた。そんな気がした。

「リティル!」

リティルは不意にかけられた声に、あり得ない思いからすぐには振り返ることができなかった。ここにいるはずのない彼女の声に、リティルは信じられずに反応が遅れる。声の主を確かめたくない。今、どうしても会いたくなかった。

「シェラ……どう──して……」

シェラは見慣れない両肩の出たワンピース姿だった。裸足でここまで駆けてきたようで、息も絶え絶えで、あと少しのところで足が縺れて膝をついてしまう。そんな彼女に、リティルは、数歩行きかけて、足を止めた。駆け寄ることができなかった。今シェラに触れたら、動けなくなってしまう。だから、シェラのいないこの時を狙ってインスレイズに会いに来たというのに。

「レシエラ様が教えてくれたの!リティル、なぜ?なぜ、一人で行ってしまうの?」

シェラは、足を引きずるようにして何とか立ち上がる。手を胸に抱きリティルの行いを責めた。真っ直ぐで正しくて、愛しくて離れがたい。今まで誰かに囚われたことなどなかったのに、なぜ彼女はこの荒んだ心に入り込んで、風を巻き起こすのだろうか。

「シェラ、来るな!このまま、行かせてくれ!」

息を切らし、足を痛めているらしいシェラに駆け寄って今すぐ抱きしめたかった。リティルはその心を何とか押し止めて、ギリギリの場所に立っていた。

「わたしを待っていて!守りたいのよ、失いたくないの!リティルあなたを!消えてしまうかもしれないと思うなら、なおさらよ!わたしがあなたを繋ぎ止めてみせるから、どうかお願い……!」

シェラはリティルを捕らえていた。縋るように首に回された腕が、彼女の上がった息に合わせて震えていた。シェラの体重を感じ、温もりに包まれながら、リティルは瞳を閉じて空を仰いだ。

ああ……どうしようもなく、心が満たされる。

放したくない。放してほしくない。この先があるのならシェラの隣にいたい。いや、何を犠牲にしても、必ず戻る。そう思える自分が不思議だった。凍った心が溶けるのが怖かったのに、溶かされた今、心のずっとずっと奥から、力が湧き上がるのを感じていた。

――親父……オレは守ってやれるかな?親父が、オレを守ってくれたみてーに。

リティルの脳裏に浮かぶドルガーの姿は、もう血にまみれてはいなかった。いつもの豪快な笑みを浮かべ、行けと言ってくれているようだった。

明日がないかもしれないから、心のままに。シェラは身勝手なこの想いを、貰ってくれるだろうか。

「シェラ……君が好きだ」

耳元でつぶやかれた言葉に、シェラの抱きしめる腕の震えが大きくなった。

何を犠牲にしても、必ず守りたいと思ってしまった。その為には、風の王の力を取り戻さなければならない。花の姫となる、シェラの傍らに居るために。

「シェラ、だから──」

耳を疑うシェラを引き離し、リティルは動揺するシェラの唇を奪っていた。

時が止まる。

息ができない。

シェラは瞳を見開いたが、近すぎるリティルの顔はよく見えなかった。足の力が抜けてしまう。

「だから、オレは行くんだ。インスレイズ!」

手を放されたシェラは疲労も手伝って足の力が抜け、リティルの足下に無意識に座り込んでいた。ハッと顔を上げると、リティルが巨大な金色の梟の背に飛び乗るところだった。

「リティルー!リティル……!諦めない……わたしは──」

シェラはキッと顔を上げると、来た道を走り始めた。

あなたを、守ってみせる!

この別れの後、シェラ・アクアマリンは、花の姫の力を受け継いだ。


 神樹の森とクエイサラーの境。その場所を、リティルは知っていた。

ディコの生まれ育った村の跡だ。何者かに破壊されたその場所に、サレナはいた。

「よお、ここを戦場に選ぶなんて、悪趣味だな」

サレナは無表情で何も答えなかった。彼女はすでに死んでいる。感じる心ももはやないのだ。サレナが金色に輝く剣を抜き、斬りかかってくる。リティルは両手に剣を抜き、左手で剣を受ける。

「返してもらうぜ!」

振り下ろした右手の剣を躱し、サレナは風の玉を撃ってきた。その玉を斬り消し、躱し、リティルはサレナに斬りかかる。切り裂かれたサレナの体から立ち上る腐敗の匂い。彼女の体は脆かった。しかし、痛みを感じない彼女は怯むことがない。互角に斬り合いながら、互いの体に傷が増えた。

森に朝日が昇り、二人を照らし始める。傷の癒えるリティルのほうが僅かに勝る。

「これで、終わりだ!」

リティルの剣はサレナの首を捉えていた。が、その剣は届かずに、強い力で弾かれていた。

「どこへ行ったかと思えば、勝手なことを」

体制を崩したリティルの両腕が何かに絡め取られ、体が押さえつけられて両膝が大地についた。見ると、蔓が絡み付いていた。これは、大地の魔法だ。森から姿を現したのは、ウルフ族の男だった。若い容姿の男……彼がビザマだ。

彼の姿を、リティルは遠目に見たことがあった。しかし、その時の彼には狼の耳と尾はなかった。それが今、リティルの前にいる彼には、ニーナと同じ灰色の耳と尾があった。

ビザマは長い三つ編みにした髪を、背中に払いのけながらリティルに近づいた。

「リティル、残念だったな。おまえはここで死ぬ。抗いようのない死をくれてやろう」

グイッと顎を掴まれ、口の中に何かを押し込まれた。そして、強引に飲み込まされた。

「ぐっ──あ……!」

喉が灼ける。体の中から壊される感触に、リティルは悶え、血を吐いた。超回復能力が追いつかない。体が死んでいくのがわかる。これは毒?にしては、回りが早い。早すぎる。

「苦しいか?ウルフを確実に殺すには、頭を落とすか、毒を使うのがいい。おまえに与えたのは、腐敗だ。闇の王の欠片だよ。感じるだろう?体の中から腐っていく感触。アハハハハ!苦しめ!絶望しろ!おまえ亡き後、花の姫を王に捧げてやろう。腐敗に躰を犯され、姫はどんな声で鳴くのか、オレが代わりに聞いてやろう!さあ、サレナ、引き上げるぞ」

ビザマはサレナを促して、リティルに背を向けた。

花の姫と聞いて、リティルの中に怒りが灯る。

闇の王なんかに、シェラをいいようにされてたまるか!リティルの心に、風が吹き荒れた。

「ま──だだ。まだだって、言ってるんだよ!」

こんな所で終われるか!リティルの瞳には、力強い光が失われずに宿り続けていた。

「ほう?」

リティルは蔓を引きちぎり、立っていた。口からは、息をする度にボタボタと血が滴り落ちていた。息が苦しい。この一刀が最後の一振りになる。リティルは地を蹴り、ビザマに斬りかかっていた。その間にサレナが割って入る。

「インスレイズ!」

ドンッとリティルの体から風の鳥が飛び出した。リティルに向かってきていたサレナは避けようもなく、インスレイズに貫かれ、体の真ん中に大穴を開けられて膝から崩れ落ちた。一か八かの賭だった。ビザマを狙えば、サレナが割って入ると期待しての一撃だった。

「……強くなったな。だが、本番はこれからだ」

くずおれたサレナを抱き上げたビザマが何かをつぶやいたが、リティルにはもう聞こえなかった。

 サレナから解き放たれた風の王の力が、体に戻ってくる。暖かく力強い意識がすぐそばに甦ってくる。リティルはその意識に、ホッとして力なく笑いかけた。彼がいるなら、もう大丈夫だ。リティルは彼の差し伸べてくれた手を取らずに、咄嗟に禍々しい力の固まりを抱き、闇に落ちる道を選んだ。彼を守るには、これしか方法がなかったのだ。彼にも、リティルの意志が伝わったようだ。リティルの意識を守るように風が包み込んでくる。安心しろと言われた気がして、リティルはやっと瞳を閉じる。

「シェラ……そんなに呼ぶなよ。ちゃんと、戻るか──ら──」

シェラが呼んでいる。その声に応えることができないまま、意識が途絶えた。


 レイシルは魔法人形の襲撃を受けていた。

リティルがレイシルから消えて数時間後、朝日の昇るころだった。

地上からの侵攻も受け、シールドの上部に綻びができていた。その割れ目からガルダが侵入を始めていた。

燃える竜の止まり木で、シェラはニーナと共にいた。ユグドラシルの中は煙で充満し、上へ逃れるしかなかったのだ。

「あ、あれは、リティル?」

空中に現れた彼の背には、雄々しい金色の翼があった。翼は風の精霊の証だ。風の王の力を取り戻したのだろうか。しかし、様子がおかしい。姿はリティルなのに、見下ろすその瞳は冷たく射抜くようだった。

「花の姫、共に来い」

シェラの前に舞い降りたリティルは、感情のこもらない声で言いシェラに手を差し出した。ニーナはシェラの前に立ちはだかり、警戒する。体はリティルだが、中身が違うことをニーナも感じていた。

「あなたは誰?リティルはどこなの!」

「話をしている時間が惜しい。インサーリーズ」

右の片翼の名が呼ばれると、シェラの背後から金色の孔雀が姿を現した。シェラの体がふわりと浚われる。金色の孔雀はシェラを軽々と風の王の下へ連れていってしまった。気がついた時には、シェラは風の王の片腕の中に囚われていた。金色に冷えた瞳はこちらを見ることはなく、拒絶するかのようだった。

「させぬ!」

薄く風となって解れ行くインサーリーズの背に飛び乗ったニーナだったが、風の王にすぐに捕らえられてしまった。

「ニーナ!やめて、乱暴しないで!」

シェラは風の王の腕の中で藻掻いたが、彼はニーナをまるで物のようにポンと投げ落とし、空へ舞い上がった。

 煙と火の粉が舞い、曇った空が赤を反射していた。どこへ行こうというのか、上昇を続ける風の王が不意に止まる。

『インか?リティルをどうした!なぜ、おまえさんがここに──』

赤い光を鈍く反射しながら暗い青色の竜が、バサリと翼をはためかせて現れた。エズは近づこうとしたようだったが、魔法人形に群がられ引き離そうと暴れるが、徐々に高度が落ちていく。あのままでは森へ墜落してしまう。

「エズ!」

「……インスレイズ」

風の王の感情の無い声に呼ばれ、姿を現したインスレイズは落下していくエズに向かって飛んだ。トドメを刺しに行くのだろうか。シェラは奥歯を噛むと、目を伏せた。何もできない。癒すことしかできないシェラは無力だった。

風の王は再び上昇を始め、雲を貫くと制止した。差し上げた手に風が集まり始める。その冷たい瞳が、燃えるユグドラシルを見据えていた。シェラは、彼が何をしようとしているのかを悟り、首にすがりつく。

「やめてーーーー!」

シェラの叫びも虚しく、風の王は強大な風の玉をユグドラシルへ向けて叩きつけた。目を伏せたシェラの体に、遅れて強風が吹き荒れて届いた。あれだけの力だ。ユグドラシルは跡形もないだろう。

「インサーリーズ、後始末をしろ」

あんなに親しかった夢の中の友達が、知らない誰かに思えた。呼び出された金色の孔雀は無言でスウッと飛び立っていった。

 レイシルを滅ぼした風の王に抱えられ、ついた場所は神樹の根本だった。

「時間がない。許せ」

シェラを降ろした風の王はそうつぶやくと、いきなり口付けた。強引な口づけにシェラは暴れたが、抱きしめる腕の力が強くふりほどけない。吸われ奪われる感触に、心が悲鳴を上げた。解放されたシェラは、為す術もなくその場に崩れ落ちるしかなかった。何だろう。力を奪われたような感覚があった。そんなシェラの上に影が落ちる。

「許せ。一刻の猶予もなく、強引なことをした。しかし、そなたのおかげで、リティルを助ける事ができた」

その名を聞いて、シェラは弾かれたように顔を上げた。ユグドラシルを壊滅させた、冷酷な敵のはずなのに、この人がリティルを殺したはずなのに。シェラは混乱していた。

「リティルは王の力を取り戻す為に、無茶をして死の淵へ落ちてしまった。すんでの所で我と交代し今は眠っている。しかし、傷が深く危険な状態だった。花の姫の力を借りようと飛んできてみれば、そこは戦場。あの地は魔法を阻害するシールドがある。より魔力の多いこの地に来る必要があった。我が名はイン。先代の風の王だ」

「生きているの?リティルは、本当に?」

風の王は頷いた。

「エンリアの愛した地も無事だ。我の鳥達は優秀だ」

「助けてくれたの?ごめんなさい!わたし、あなたを誤解して……」

リティルの生き生きと暖かい瞳とは正反対の冷たい眼差しが、シェラを誤解させた。

では、さっきの力を奪われたような感覚は、リティルを助ける為に、シェラの癒やしの力を、強引に奪い取ったということなのだろうか。

「よい。あの状況ではな。時に、そなたは花の姫となっているのか?」

風の王の冷たい眼差しに射抜かれて、シェラは身を竦ませた。

「花の姫を継いだのですが、うまく力を振るえないの」

やはりそうかとシェラは思った。花の姫を継ぎ、精霊になったはずなのに殆ど変化がなかった。理由はわからないが、今のシェラは精霊として不完全なのだ。

「何かが、阻害しているのか?姫、魔導に精通した、女性の知り合いはいるか?」

「は、はい。たぶん。ニーナなら……」

「エンリアの愛した地へ戻る」

「あ、あの、どういう?」

言葉少なく、自己完結してしまう風の王にシェラは振り回されながら、トンボのようにレイシルへ戻ったのだった。 

 リティルとは違い冷たく冷静な印象の風の王・インだが、嵐のように乱暴な一面もあった。時間がなかったとはいえ、傍若無人に力を振るったその姿は、少しリティルに似ていた。

インはシェラを竜の止まり木に降ろした。火はすでに消し止められ、あちこち焼け焦げているがユグドラシルの機能は回復しているようだった。

『おお、姫君戻ったか?インよ、よもやおまえさんに助けられるとはのう』

岩かと思っていた暗い青色の固まりが動いて、首を持ち上げた。

「インスレイズは役に立ったようだな。竜王、我がリティルを喰ったとは思わなかったのか?」

『おぬしがそんなことをするとは思えんわい。あいつのことじゃ、身の丈に合わぬ戦いをしたのじゃろう?して、生きておるのか?』

インは頷いた。

「しかし、今のままでは目覚めさせられない。体内に入った闇の王の欠片を取り除かねば」

『リティルの仲間達が来る。あやつらに話してやれ。わしは隠居の身じゃ』

エズは視線を崩れた建物の方へ向けた。金色の孔雀と梟に導かれるようにして、ディコ達がこちらにやって来た。

「お姉ちゃん!よかった。……あなたは、風の王・イン?」

「今世のディコか?すでに鳥達から話は聞いているようだな」

ディコはうなずいた。そして、マジマジとインを見つめてきた。リティルがいないことを、やはり信じたくないようだった。

「リティルは、傀儡の風との戦いの際、ビザマによって闇の王の欠片を飲まされた。闇の王の力は腐敗だ。体が内側から腐っていく中、傀儡の風を倒し我を解放してくれたが、我に後を託し、闇の王の力を押さえ込んで眠ってしまった。姫の力で腐敗を食い止めたが、完全に取り除かねば目覚めさせられない状況だ」

体の中から腐る?あまりに壮絶で、皆は言葉を失った。

「ビザマ……何と惨いことを。なぜそこまで、リティルを憎むのじゃ?」

「それは、本人にしかわからない。ニーナだな?先刻は乱暴を、許せ」

「乱暴?わらわを怪我のないようにミストルティンの上に降ろしておいて、乱暴とな?それにしても、あの特大の風を敵と見なした者のみに当てる技量、恐れ入った」

「うん。凄かった!あれでほぼ片付いちゃったからね。リティルは目を覚ますよね?」

「目覚めてもらわねば困る。ニーナ、花の姫を調べろ。何か、呪いのような物を受けている可能性がある。花の姫本来の力がなくては、リティルを癒しきれない」

「呪い?うむ、調べてみよう。シェラ姫、こちらへ。誰か、どこかに使える部屋はあるかのう?」

ニーナの声で、ステイルが駆けつけてくれた。そして連れだって広場を後にした。

そして、インは、クレアにゆっくりと視線を合わせた。

「エンリアの子孫、カラクリに頼りすぎるなと忠告したはずだ。我が戻らねば滅んでいたぞ!カルティア、クエイサラー共に半日はかかる距離。シールドだけでは一刻と保たない」

無感情に見えるインが声を荒げた。インは表向きは闇の王の配下であったはずなのに、英雄達と交流がきちんとあったようだ。

「確かに過信していましたわ。言葉もありません。今後、どうなさいますの?」

「この地では何かと不十分だ。ルセーユへ向かう」

「そうですわね……ルセーユは風の魔力の濃い島ですし、あそこにはエフラの民がいますものね。私はあなたを唸らせるカラクリを作って帰りを待っていますわ」

クレアは瞳を輝かせた。インはこれは病気だなと、思うことにした。

インはツンッと袖を引かれて見下ろした。そこにはディコがこちらを見上げていた。

「イン、ボクも一緒に行っていい?」

「そなたがいなければ、リティルが目覚めた時困る」

「そうかな?ボク、大事な時に一緒にいられなかった」

ディコは、リティルに置いていかれたことを気に病んでいる様子だった。しかも、ニーナはリティルから行くことを聞いていて、シェードは薄々感じていたという。あんなにそばにいたのに、知らなかった自分が情け無かった。インは膝を折り、ディコと視線を合わせた。インはそっと自分の胸に手を当てた。

「リティルの意地だ、許せ」

インの言葉は短い。それでも、きちんと伝わってくる。ディコはうんうんと頷いて、インに抱きついた。レイシルに危機が迫っていることに、一番最初に気がついたのはディコだった。胸騒ぎを感じて、竜の止まり木に出たとき、リティルの気配が消えてなくなるのと、立ち上る風の魔力に気がついた。その時、リティルに何かあったことを知った。そして、ユグドラシルの根元に、何か嫌な気配があることに気がついたのだ。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんも行くよね?」

ディコはインを解放すると、気後れしているシェードの手を取った。

「わたしが、ルセーユに?役に立つとは思えないが……」

「行こうよ。お姉ちゃんも行くんだから」

「迷うならば、来い」

シェードはインの冷たい眼差しの奥に、リティルを見た気がした。

リティルを感じて、シェードはますます心配になった。インが、偽っているとは思いたくないが、リティルがいかに前向きでも、さすがに鵜呑みにしていいのか、信じがたかった。

「イン殿、リティルと言葉は交わしたか?」

インは首を振った。

「いいや。何かあるのか?」

「……死が間近にあるようなそんな傷を受けて、さらに闇の王の力を押さえ込んでいるなど、尋常ではない精神力だ。本当に、リティルは無事なのか?」

「そうだ。尋常ではない。ゆえに、五感のすべてを奪った。今のリティルには、何も感じる事はできない。我が呼ばねば目覚めることはない深淵にいる。ただせめて、優しい夢の中にいるのみだ」

「優しい夢?」

「花の姫は、リティルをこの世に繋ぎ止めるに足る幻だ」

「兄としては、かなり複雑だ。だが、妹はリティルの枷くらいにはなれたのか。いや、一人で行くことを分かっていながら止めなかったことを、後悔しているのだ」

「文句があるのならば、直接言え」

「ふっ、そうだな。わたしも同行しよう」

インのさも当然と言ったような言葉に、シェードはリティルの面影をみた。

 そうしている間に、ニーナ達が戻ってきた。ニーナの様子では、結果は芳しくなかったようだ。

「呪いのようなものは見つけたのじゃが、精神のかなり奥深くにあるゆえ、わらわには取り除けぬ。ルセーユの大賢者を頼るより他ないじゃろう」

インの思った通りの結果だった。

「ルセーユまでどうやって行くのだ?カルティアから、風穴を抜けた先だと聞いたが」

「我の鳥達を使う。疲れを知らない翼だ。おそらく、何よりも早く行けるだろう」

「フッフッフ、そう思ってらっしゃいます?ルセーユまで線路を引いちゃってますのよ?」

会話を聞きつけて、クレアが眼鏡を押し上げて光らせた。

「あの早い箱がルセーユまでとな?一体いつの間に」

ニーナが目を丸くした。

「リティルがカルティアで保護されてすぐくらいから、着工しましたの。歴史書に名が記されていましたもの、目覚めの器であることはすぐにわかりましたわ。ゾナに口止めされていましたので、本人には何も言えませんでしたけれど。もしかすると、必要になるかもしれないと思いまして、線路、引いちゃいました」

「大賢者もグルか!わらわも知らされておらぬ!」

早い箱?とシェードとディコは顔を見合わせた。

「そなたのカラクリで行けと?」

インは過去に何かあったのか、難色を示した。

「あら、ルセーユまで半日ですわよ?」

クレアのその言葉で、インは折れた。


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