銀の壁
一章 銀の壁
困難な旅路だということはわかっていた。
妹をこっそり連れ出し、神樹の森まできたはいいがこんなに早く追いつかれるとは思ってもみなかった。浅はかだった。市井を知らない自分達には、越えることのできない道だったのかもしれない。
「きゃあ!」
手を引いていた妹のシェラは、慣れない森の道に足を取られて転倒してしまった。もうこれ以上、走らせることは体力の限界だ。
兄は妹を庇い立つと剣を構えた。
「もはやこれまで。シェラ、できるだけ遠くへ逃げろ」
「でも、兄様!」
「おまえを奴らの手に渡すわけにはいかない。時間を稼ぐから、だから早く!」
妹の紅茶色の瞳が絶望に揺れたが、絆されている場合ではない。兄は鋭く叫ぶと、鎧を鳴らして迫り来る追っ手に斬り込んだ。シェラは、唇を噛みしめると疲労に打ちのめされた体を奮い立たせ走り始めた。
魔性の森はどこまでも深く静かで、どこへ向かっているのか、もはやわからなかった。
兄様……切羽詰まった様子の兄に促され、あれよあれよとここまできてしまったが、今自分達が置かれている状況を、正しく理解していなかった。こんな自分が、兄なしでカルティアに行くことができるだろうか。無理に決まっている。
「きゃあ!」
「おっと!大丈夫か?」
シェラは脇から飛びだして来た人影に突き飛ばされていた。影は身軽な動きで、シェラが倒れるよりも先に体を抱き留めてくれた。
「あ……助けてください!兄が!兄が!」
言葉が上手く出てこない。それでも、抱き留めてくれた青年は理解してくれたようだ。彼はシェラより背が低いようだ。シェラが両膝を軽く折っても、あまり目線を上げずに彼と視線が交わった。力強く惹きつける瞳だ。燃えるような金色の踊る瞳──
「ここにいろ」
シェラを座らせると、彼は走り去ってしまった。シェラはなぜかドキドキしていた。彼とは初めて会ったはずなのに、なぜだろうか。あの力強い瞳と視線が交わったから?思いの外優しく座らせてくれたから?
「リティル!もお、一人で大丈夫なの?あ、お姉ちゃん、大丈夫?」
「は、はい。ご一緒してもいいですか?」
シェラは言うことを聞かなくなりつつある足で立ち、ディコに伺いを立てた。
「ご一緒してもいいよ!行こう」
ディコは躊躇いなくシェラの手を取ると、走り始めた。
戦闘の場に残った兄の旗色は悪かった。重い鎧のせいもあるが、もう腕が上がらなくなっていた。
「くっ!ここまでか」
目の大きな、猿の仮面を被った子供のような背丈の追撃者は、小さなナイフで騎士を切りつけた。小さな体躯からは想像できない斬撃で、兄は凌いだものの、蹌踉めいて片膝をついてしまった。そこを目掛けて、数人が身軽に飛び掛かってくる。
「なんだこいつら?魔法人形のたぐいかよ」
聞き慣れない若い男の声がしたかと思うと、追っ手は吹き飛ばされていた。ガシャンとがらんどうの音がして、仮面の追撃者はバラバラになって動かなくなった。
「かかってこいよ。バラバラにしてやるぜ?」
仲間が壊され、怯んだのか遠巻きにしていた追撃者が、一斉に飛び掛かってきた。兄の前に立ちはだかった小柄な男は、二本のショートソードを構えると、トンッと軽く踏み切った。
「──っ」
兄は息を飲んだ。三体の追撃者は空中で次々に切り裂かれ、男が地に降り立つ頃にはバラバラになって降ったのだった。
「貴様、何者だ?」
助けてくれた者に対して無礼だとは思ったが、この魔性の森で、人に出会うことなど皆無に等しいことくらい、彼にもわかっていた。それがたまたま、えらく腕の立つ者だった確率など、あり得るはずがない。
「……おまえ、クエイサラーの上級騎士か?それを聞きてーのは、オレの方だけどな。何も聞かねーから、さっさと森を出ろよ。知らねーのか?神樹の森は魔性の森なんだぜ?」
体型から子供かと思ったが、兄を見る眼差しは大人のそれだった。といっても若い。まだ二十を数えたくらいだろうか。いや、まだ十代?
「非礼を許してほしい。追われる身ゆえ、疑ってしまった。礼はする、無理を承知で森の案内を頼みたい」
訝しがる瞳はそのままに、彼は問うてきた。兄は、彼の瞳の中に、こちらを案ずる優しさを感じて、いくらかホッとしていた。緊張が解けたためだろうか、兄は、倒れるようにその場に座り込んでしまった。「おい、大丈夫か?」名も知らぬ彼は、当然の様にこちらを気遣ってくれた。「ああ、少し疲れただけだ」と兄は彼に返した。そうかと言った彼は、躊躇いがちに聞いてきた。
「……森を出て、どこへ行くつもりだったんだよ?」
それにしても、特異な姿をした青年だ。島の北にあるレイシルには、フォルク族と呼ばれる狐の獣人種が暮らしているが、彼はその血を引いているのだろうか。彼の姿は、半分獣、半分人間だ。しかし、狐の耳と尾ではないようだが……。
「カルティアです」
兄が答えていいものか、考えを巡らせていると、凛とした妹の声で我に返った。
「シェラ、無事だったか」
「シェード兄様、よかった……本当によかった」
シェラは座り込んで立てない様子の兄に駆け寄ると、その手を取った。
「リティル、シェラにシェードってもしかして?」
「かもな」
ディコが小声でリティルに尋ねた。リティルは明言は避けたが、ディコに同意した。
二人はおそらく、水の国・クエイサラーの王子と王女だ。
蒼い光を返す美しい黒髪の美姫・シェラ・アクアマリン。
勇敢な魔法戦士であるシェード・サファイア。
巷では、アクア姫、サフィー王子と呼ばれている。それゆえ、彼等のフルネームを知っている国民は少ない。まして、他国では殆ど知られていないだろう。
リティルとディコは、クエイサラーの民ではないが、職業柄知らなければならない立場にあった。だが、職業を明かすことはおいそれとはできない。どうしたものかと、リティルは悩んでいた。職業柄、クエイサラーの王族である二人と知り合ってしまった以上、カルティアまで離れることはできないが、王子は警戒するだろうなとリティルは思った。
「お礼が遅れて申し訳ありません。私はシェラと申します。こちらは兄のシェード。私からもお願いします。森を出るまで案内をしてくれませんか?」
「それくらい、構わねーよ。なんなら、礼を弾んでくれるなら、カルティアまで送るぜ?」
リティルは、当たり障りなく提案してみた。
「しかし……」
「兄様」
シェードは自分達の身分のせいか、リティルの申し出をすぐには受けられなかった。しかし、シェラは渡りに船だと思っている様子だった。
リティルの目から見れば、あまりに頼りなくて、放っておけるわけもないが、ここでカルティアまでの護衛を売り込むのも不自然だ。さて、どうするか……。
リティルは、日が傾き始め、森に夜が迫っていることに気がついた。
まあ、いいか。オレ達は休暇中だ。森を出るまでに、口説く方法を考えよう。リティルは思考を打ち切ると、シェードに立てるか?と声をかけた。
「日が落ちる前に、移動しようぜ?返事は、森を出るときまでにしてくれればいいからさ」
「あの、あなた方のお名前は?」
シェードが立ち上がるのを待って、歩き出そうとしたリティルは、そういえば名乗っていなかったと兄妹を振り返った。
「リティル」
「ボクは、ディコ!」
まいったなとリティルは思った。こんなはずじゃなかった。この森を通ろうと思ったのは、早くカルティアに帰る為だったというのに、とんでもないモノを拾ってしまった。何か自分には良くないモノが憑いているのかもしれない。けれども、退屈な日常のいい刺激にはなりそうだ。ディコは、前を向いた相棒の口元に、楽しそうな笑みが浮かぶのを見た。
ああ、また非日常が始まる。しょうがないなあと思いながら、ディコも楽しもうと思った。
リティルとディコは、不慣れな二人を気遣いながら神樹の根本までやってきた。その場所はちょっとした広場になっていて、キャンプを張るのにはもってこいなのだ。近くには小川も流れている。そしてここは、殆ど誰も入らないというのに、芝生のような低い草が絨毯のように広がるばかりの、不思議な場所だった。
鎧のおかげか、シェードは傷を負っていなかった。が、クエイサラーの上級騎士の鎧など、目だって仕方がない。鎧は、ディコが持ち歩くことにした。腰のベルトにつけた小さな革袋に、とても入るとは思えない鎧が吸い込まれるのを見て、ギョッとした二人の顔にディコとリティルはしてやったりと笑った。これは貪欲の袋といって、ある魔導士が空間をねじ曲げて、袋の中にあり得ないほど大きな空間を作っているのだ。生き物は入れられないが、大型のドラゴンくらいは入るらしい。
逃亡者の二人は、少しばかりの路銀は持っていたが、殆ど着の身着のままだった。
クエイサラーで何かが起きている?知りたいところだったが、この森を出ないことには情報収集もままならない。
焦っても仕方ないよな?と、リティルは皆が寝静まるのを待って、一人離れた。
神樹は大きな大樹だ。二十人いてもその幹を囲めるかどうかわからない。木の根も入り組み、その下に入れば雨を気にせず十分暮らせてしまえるだろう。
リティルは木の根のアーチの上に立ち、神樹を見上げていた。遥か頭上で森の天蓋のように広がった枝葉がチカチカ光っていた。神樹は魔力の源と言われ、あの蛍のような光は、枝葉から漏れた魔力が、燃えている光なのだそうだ。神樹の花とも言われている。リティルはあの花が好きだった。皆が入ることさえ嫌うこの森に、たまに無性にこの花を見に来たくなる。
リティルは木の根に腰を下ろすと、腰の小さな鞄から小さな笛を取りだした。透明な水色の魔水晶でできた横笛だった。この森に来ると、吹きたくなってしまう。
リティルには、十才以前の記憶がなかった。唯一覚えていたのがこの曲・風の奏でる歌だ。
「リティル?」
「ん?眠れねーのか?」
おぼつかない足取りで根っこの上を歩いてきたのは、シェラだった。危なっかしい様子に、リティルは手を取り支えてやる。なんて綺麗な手だろう。姫君とは皆こうなのだろうか。リティルの手を躊躇わずに取ったシェラは、彼よりもいくらか背が高かった。
「今の笛の音は、リティルが?」
「ああ、風の奏でる歌っていうんだぜ。うるさかったか?」
「いいえ。風の奏でる歌というのですか」
首を横に振ったシェラは、曲名を反芻した。その様子はまるで、知っている曲の題名をやっと知れたような感じに見えた。リティルが知っているのかと問うよりも早く、シェラが言葉を続けてしまった。
「改めて、兄を助けてくださって、ありがとうございます」
「ああ。間に合ってよかったぜ。……シェラ、あいつらなんなんだ?ちょっと普通じゃねーよな?」
あまり聞くべきではないのだが、儚い花のような姫君を前にして、いろいろ鈍っているのかもしれない。シェラはそっと瞳を伏せた。その仕草までもが見惚れるほど美しい。
高嶺の花って、こんな感じかのか?とリティルは、他意なくシェラを見つめていた。
どんなに美しかろうが、リティルの心はそういう方向には動かない。まして、彼女は大国の姫だ。それをわかっていて、ウッカリ惚れるほど初心ではないし、職業柄許されない。
「あれは……クエイサラーの魔法兵器・スグリーヴァです。ごめんなさい。くわしいことはお教えすることはできないのです。リティル、それでも私達をカルティアへ連れていってくれますか?」
急に顔を上げたシェラに驚いて、リティルは僅かに仰け反っていた。彼女には警戒心というモノはないのだろうか。あきらかに育ちの悪そうな人物を前にして、この近さはなんだろう。
「ま、カルティアに帰る途中だったしな、構わねーよ」
ありがとうとシェラは、ホッとした様子で礼を言った。シェードの説得はすんだのだろうか。シェラの中では、リティル達は、カルティアまで一緒だと決まっているようだった。そして訪れた沈黙に、リティルは居心地の悪さを感じて上を指さした。
「シェラ、上見てみろよ」
神樹の枝葉を見上げたシェラは、目を細め綺麗とつぶやいた。
出会ったばかりのリティルを、シェラは気にしていた。年の近い異性は兄しか知らず、だからだろうか。力強い瞳だったなと、シェラは初めて会ったとき交わった視線を、思い出した。立ち上る金色の光。あんなに美しい虹彩は初めて見た。というか、人の瞳があんなに気になったことなどなかった。
それに、リティルが奏でていたあの歌──
「そろそろ兄貴の所に戻れよ。眠らねーと、明日辛いぜ?」
「は、はい」
ボンヤリしていたシェラは、リティルの声で我に返った。慌てて根っこを下へ降りようとして、滑り落ちそうになる。
「危ねーな!どうやって登って来たんだよ?しかたねーな。暴れるなよ?」
腕を掴まれ、シェラは落下を免れた。リティルはどこか困ったような、楽しそうな反する声色でつぶやくと、いきなりシェラを横抱きに抱き上げた。そして、有無を言わさず根っこを飛び降りた。シェラは悲鳴すら上げられずに、リティルの首にしがみついていた。トンッと軽い衝撃に、恐る恐る顔を上げると地面に着いていた。
リティルは何事もなかったかのように、シェラを地面に降ろした。シェラは胸のドキドキが冷めやらない顔のまま、礼を言いながらリティルから離れた。そんなシェラの素直な反応に、リティルは楽しそうな笑みを浮かべた。
人懐っこく、暖かい笑みに、昼間の緊張が一気に解けるのを、シェラは感じていた。
「おやすみ」
「あの、あなたは?」
「オレは夜目が利くからな。見張りだよ」
皆のいるところとは反対の方向へ歩き出したリティルを、シェラは呼び止めていた。自分でもなぜリティルを引き留めたいと思っているのか、よくわからなかった。じゃあなと、再び歩き出したリティルの肘の辺りの服の袖を、シェラは掴んでいた。
「あ──わ、わたし──」
振り向いたリティルが、驚いた顔でこちらを見ている。そしてやっと、シェラは自分が泣いていることに気がついた。
「ええと……肩貸してやるから、思う存分泣けよ」
リティルは迷いに迷い、シェラを抱きしめてやることにした。泣いている女の子を放っておくわけにもいかないが、おいそれと触れていい身分の娘ではなく、内心冷や冷やものだった。が、シェラは拒絶するどころか、リティルの背中をギュッと掴んできた。
「リティル……わたしはまだ、何も分かっていないの……兄と父の間に何があったのか、今クエイサラーがどうなっているのか、知るのが怖い……そのすべてが、わたしのせいかもしれないことが、とても怖いの……うう──」
シェラはリティルの肩に顔を埋め、声を殺して泣いていた。声を殺さなくてもいいのになと、背を少し反らさねばならなかったリティルは手を伸ばし、シェラの背中をポンポンと軽く叩いた。
「……大丈夫だ。心配いらねーよ」
怖かったよな?リティルはシェラを、放ってはおけないなと思った。
物理的にも、シェード一人では守り切るのは難しい。精神的にも、シェラはもう折れている。こんな状態では、とてもカルティアにはたどり着けない。オレとディコなら、何とかしてやれる。リティルはそんなことを考えていた。
水の魔法大国・クエイサラー。
石畳と水路の入り組んだ、賑やかなカルティアと違って、落ち着いた雰囲気のある国だ。
争いの匂いはしなかった。リティルとディコは、彼女らと出会う半日前まで、あの国に休暇で遊びに行っていたのだ。不穏な空気はなかった。と、思う。
それが、王子と王女が揃って出奔し、それを軍属の魔法人形が追いかけている。そして、王子達は隣国のカルティアを目指している。何もないわけがない。
しかしなぜ、カルティアなのだろうか。同じ規模の軍事力を持つカルティアを頼れば、両国は戦争になりかねない。逃げる先としては、教国・レイシルが妥当だというのに。
何かが起ころうとしている?リティルは何か、胸騒ぎのような風を感じていた。
リティルが邪な考えを微塵も起こさず、シェラを慰めている姿をシェードは目撃し、咄嗟に木の根の影に身を隠した。ふと目を覚ますと、隣にシェラがおらず、シェードは妹を捜していたのだった。
あいつ、妹に何してる?シェードの手は、自然と剣に伸びていた。その手を、ツンッと引っ張る者があった。
「おしっこ」
振り向くと、目を擦りながらあきらかに寝ぼけているディコがいる。シェードはワタワタと焦りながらも、ディコを促して茂みに入った。
「お兄ちゃんごめんね。リティルだと思って」
「それはよい。……ディコ殿、あのリティルという男は、軽薄な行いをする者か?」
小さな子供に何を聞いているのだろうか。自分でも呆れた。
「お兄ちゃん達みたいな、あきらかに高貴な出の人には手を出さないよ。だって、絶対面倒なことになるでしょう?遊ぶなら、同等がいいって言ってたよ」
それは、白なのか黒なのかはっきりしない。
「リティルが気に入らないなら、斬りかかれば?」
「いや、それはあまりにも物騒な」
思わず剣に手を伸ばした自分が、危険な精神状態だったとシェードは恥じた。シェラにとって厳しい状況の連続だった。シェラの方から抱きついたのかもしれない……そんなことは断じてあり得ないが。だが、しかし……。
「たぶん、勝てないから大丈夫だよ。わかりやすく、怒ってみればいいと思うよ」
勝てないとそんなにキッパリ言われると、凹むが、それはシェードもわかっていた。あれだけの数のスグリーヴァを、リティルはほぼ一瞬で片付けている。あの身のこなしは、ただ者ではないことを、これでも騎士であるシェードは正しく理解していた。
「わかりやすく、か」
シェードは、モヤモヤが晴れたような気がした。命の恩人だが、妹のことで遠慮する必要などないのだ。むしろ、悪い虫は潰しておかなければならないと、素直に思えた。
「ディコ殿、礼を言う」
「どういたしまして」
ディコはシェードと並んで、キャンプに帰った。丁度リティルも、シェラを連れて戻ってくるところだった。あきらかに泣いていたとわかる妹と、馴れ馴れしく手を繋ぐ様に、シェードの気配が殺気だった。
「貴様……妹に何をした……」
剣に手を掛けたシェードの様子を見て、リティルは言い逃れできないことを知った。
ああ、手を繋ぐのはマズかったかと、後悔したが、シェラの様子があまりに痛々しくて、心細そうで、放っておけなかったのだ。
「だよな、やっぱりこうなるよな。だああ、面倒くせーな。シェード、誤解だ。何にもしてねーよ」
「問答、無用」
しかたない。リティルは、驚きに立ち竦むシェラの手を放すと、左手でショートソードを抜いた。相手が殺るというのだから、しかたない。リティルの口元には、僅かに笑みが浮かんでいた。クエイサラーの魔法戦士と切り結べる機会など、そうそうない。これは、楽しまなければ損だ。
「兄様!お止めください!」
二人が切り結ぶのを見て、シェラは青ざめ止めに入ろうとした。それは当然の行動だったが、楽しそうな二人にはもう少し遊んでいてもらいたいディコは、シェラを止めた。
「大丈夫だよ。二人とも、本気じゃないから」
本気じゃない?あんなに剣を大きく振りきる兄を、稽古では見たことがない。刃が合わさるたび白い火花が僅かに散った。
シェードは細身だが、その刃は剛の剣だった。左手で斬撃を受ける度、手が痺れるのを感じた。振りは大きいが、切り返しは早い。リティルは横に薙がれた剣を身を低くして躱すと、懐に詰める。が、シェードは軽やかに後ろに飛びのき距離をとった。
「なぜ、右手を使わない!貴様の利き手は右だろう!」
「なんだ、ばれてたのかよ。だったら、右手使わせてみろよ!」
ガキンッと鋭い音を響かせ、リティルの剣が踏み込みと同時に薙がれ、シェードの剣をはじき返した。
「ぬかせ!」
押し返されて重心が後ろに傾いたがバランスは崩れていない。シェードは、反動を利用して突きを放つ。顔を掠めるギリギリでそれを躱し、間髪入れずにリティルは懐へ攻め込む。リティルは両手でそれぞれ剣を扱うが、やはり左では決定打に欠けた。
決着は唐突についた。切り結んでいた二人は、同時に尻餅をついていた。お互い激しく息が上がり、立てないというのにギラギラとした瞳で睨み合う。突然二人は笑い出した。そして、二人は右手の拳を合わせた。
「リティル、我々をカルティアまで護衛してくれ」
「ああ、任せとけ」
派手に夜遊びしたせいで、次の日の出発は大幅に遅れることとなった。
一行は昼過ぎに森を抜けた。
「もお、夕暮れ前に街につけなかったらどうするの?」
ディコは出発が遅れたことを怒っているようだ。対するリティルは、頭からつきだした耳を折り畳んで押さえ、明後日の方を向いていた。
「あの、ここは?」
シェラは上を見上げた。初めて訪れた者は皆、彼女と同じ反応をするのだろうなと、リティルとディコは満足そうな表情を浮かべた。
「銀の壁って言うんだぜ?ここから先はカルティア領だ」
壁としか言いようのない、銀色の鈍い光を放つ垂直な山肌が聳えていた。頂上は遥か彼方で見えない。その巨大な壁に道が真っ直ぐに通っている。銀の壁の丁度中間に、宿屋街がある。その街に、今日中に辿りつきたいのだ。
本来ならここは、商人の行き来する比較的安全な道のはずだった。しかしその姿は、昨日までで変わってしまったのだろう。
銀の道は両側を垂直な岩肌が続く。故に、身を隠せる場所がないのだ。今は、巨大な壁に彫られた狼や大樹の彫刻を見ている余裕はなかった。
「ちょっと、しつこいね。ここもう、カルティアなのに」
「敵方にも、退けねー理由があるんだろ?だったら、逃げ切ればいいんだよ!」
しんがりを努めるリティルが、スグリーヴァ達に向き直った。三十はいるだろうか。かなりの大群だ。
「リティル?」
「先に行け!ディコいつも通りな!」
立ち止まりそうになるシェラを、ディコは力一杯押して足を進めさせた。
「大丈夫!リティルだから」
何が大丈夫なのかわからないが、ディコは相棒を躊躇いなく一人置いて行くらしい。
「わたしが共に!」
「いらねーよ!おまえは、妹守ってろ!壁を越えたら、貝殻の砂漠だ。そこまで行けば、カルティア城下は目と鼻の先だ。必ず追いつくから、先に行けよ!」
リティルと共に残ろうとしたシェードに怒鳴り、リティルは迫り来るスグリーヴァ達に斬り込んだ。
「信じて。リティルは絶対に大丈夫だから」
相棒のディコが言うのだ。もしもがあったとしても、今は信じるしかない。
「ご無事で!」
シェラの叫びは、すでに戦いに突入したリティルには届かなかった。
しばらく走ると、車輪が外れ立ち往生している竜車があった。二本足で走る小型の竜・走竜はよく訓練が行き届いているらしく逃げずに留まっていた。
「ええ?こんなときに、こんなところで何してるの?」
ディコは呆れて叫んだ。
「おお!誰かと思えば、ディコ様?助かった~ありゃ?リティル様は?一緒じゃねぇんですかい?」
ディコの声を聞いてひょいっと顔を覗かせたのは、痩せたフォルク族の男だった。
「リティルなら、あっちで交戦中。おじちゃん乗せて!お兄ちゃん、手を貸して!」
ディコはテキパキと指示を出し、あっという間に馬車を修復した。バタバタして聞き流してしまったが、今、この商人らしき男は”様”と言わなかっただろうか。
「あの、本当にリティルは大丈夫なのですか?」
野菜や果実の乗る幌突きの荷台に乗り込んだシェラは、不安そうにディコに尋ねた。その問いに答えたのは、竜の手綱を握る商人のダグだった。
「大丈夫、大丈夫、あのリティル様なら、何が来たって楽勝ですぜ!」
「リティル様?」
「ははあ、リティル様とディコ様は、我らがカルティアが誇る影の──」
「おじちゃん!しー!この人達は、任務とは関係ないの!」
「おおっと、すいやせん」
口の軽い商人の口をディコは慌てて塞いだが、すでに遅かった。
「詳しく聞く必要がありそうだ」
シェードの鋭い視線を受けて、ディコは素直に白状した方がいいなと思った。下手に隠せば、信用を失って彼等は離れてしまう。そうなれば、二人はカルティアに、たどり着けなくなってしまうだろう。それはマズイ。非常によろしくない。
「やっぱり、話さないとダメだよね?お兄ちゃん、お姉ちゃん、最初に念を押しておくけど、神樹の森にいたのは本当に、本当に偶然だからね?」
ディコは観念して、話し始めた。
炎のカルティアは、賢王で知られるエスタの治める砂漠の国だ。
エスタの下には、世界中のありとあらゆる情報が集まると言われている。その蜘蛛の巣のような情報網を維持しているのは、王直属の組織である影だ。
リティルとディコは、その組織に属していた。階級としては見習いになるのだが、二人は容姿が特異であるためとても目立つ。二人は王の命令であえて職業を明かし、カルティアの名物的な存在だった。
「王直属の組織だと?では、エスタ王はすでに我々のことを?」
ディコは曖昧に、けれども首を横に振った。
「ボク達は休暇中だったの。大親父さんに伝える方法はあるけど、リティルはあえてしてないよ。二人が、自分達のことを話してくれるまで待つつもりだったんだよ。でも、もう別の誰かから情報は行ってるだろうけどね」
クエイサラーの至高の宝石が流出なんて、影の情報網に即引っかかるよと、ディコは言った。
クエイサラーの至高宝石――ディコはダグの手前、隠語を使った。シェラはわからなかったようだが、シェードには伝わったらしい。
シェードの名のサファイアと、シェラの名のアクアマリンは、共に宝石の名だ。それ故の隠語だった。
「ぎゃああああ!また出たー!」
ダグは子供のように叫ぶと、走竜にブレーキをかけた。その拍子に、荷台が大きく揺れた。
「アイラーヴァタ?父上……あんなものまで使って、ご自分の娘を……」
前方の砂煙の中に巨大な影があった。シェードは荷台から降りると、大きな影を見上げた。パオーンッと影が長い鼻をあげて咆えると、その風圧で砂煙が消し飛ぶ。そこにいたのは、象の姿をした魔法人形だった。
馬車はアイラーヴァタから放出されたスグリーヴァに、あっという間に取り囲まれてしまった。
「もお……クエイサラーはどうなってるの?悪いけど、ボク達は先に行きたいんだ!」
ディコが馬車の前に走り出た。危険だと、シェードが止めるよりも早く、ディコは魔法を完成させていた。
「ファラミュール!十割増し!」
赤い宝石のはまった杖を象に向かって鋭く突き出すと、ゴオ!っという音が響き、空気がチリチリと灼けた。シェラは、ディコの背丈の倍はありそうな、炎の玉が何発も象を襲うのを見た。炎の威力は凄まじく、周りにいたスグリーヴァ達をも巻き添えにしている。
「沈んでよ。ログヤーン!」
ディコは杖を槍投げのように投げる素振りをした。杖から離れた雷の槍が象の眉間を貫き、遅れてドンッという音と衝撃波が放たれた。ディコは一人で、巨大な魔法人形を易々と葬り去った。
「ディコ!」
名を呼ぶ声に、シェードは振り向いた。走ってきたのはリティルだった。無事だったかと安堵した刹那、シェードはギョッとしてその青色の瞳を見開いた。
「リティル、遅かったね」
合流した相棒を見上げたディコは、平然としていた。対するリティルも、平気その者だった。
「うるせーよ。さて、雑魚どもを片づけるぜ!」
「待て!貴様、それは全部返り血か?」
シェードが、あまりにボロボロなリティルの腕を掴んだ。リティルは満身創痍に見えるほど、血にまみれていたのだ。
「当たり前だろ?傷がねーことくらい、見てわかるだろ?」
リティルはシェードから腕を取り戻すと、元気に交戦を始めた。
「いや……そんなはずは……」
シェードはあきらかに人の血である、その赤黒い雫に汚れた手の平を見つめた。しかし、今は考えている時間はない。シェードもまたスグリーヴァ達と切り結んだ。
「はあ……はあ……これで終わりか?このヤロウ」
リティルは最後の一体を斬り伏せると、膝に手を付いて汗を拭った。そんなリティルは、後ろから首に回された腕を避けられなかった。
「リ~ティ~ル、合点のいくように説明してもらおうか~」
長身のシェードに首を捉えられ、リティルの足が僅かに浮いてしまう。
「うわあ……ラスボスがいやがった」
下手な言い訳では、騎士であるシェードを、煙に巻くことはできないことは内心分かっていた。さて、どう言い訳したものか。リティルはもういっそ全部放棄して、寝てしまいたいと心底思った。
銀の壁の真ん中にある宿場町・シュゲルガ。
この道を抜けると砂漠だというのに、豊富な温泉の湧く人気の観光スポットだった。旅人はこの宿場町で英気を養い、砂漠越えに挑む。
すべての建物が、銀の壁をくり抜いて造られていた。とてもくり抜いたとは思えない微細な彫刻で、建物を形作る柱や窓などが彫られていた。また、お伽噺に出てくる花の姫や狼を使役していたと言われる英雄等々も彫られ、訪れる者の目を楽しませてくれる。
「はー、生き返るぜ……」
昼間の汚れを洗い流し、リティルは湯船に身を横たえた。その向かいには、怖い顔のシェードがジッとこちらを伺っている。まだ、怪我をしていないかと疑っているようだ。
「シェード、なんだよ?」
「昼間の血は貴殿のものだろう?言い逃れはできないぞ?わたしは騎士だ。そして、知っているだろう?妹は治癒の力を持っている」
そういえば、そんな情報だった。クエイサラーの美姫・シェラ・アクアマリンは、レイシル教国の生徒だった記録はないのに、治癒の力を生まれながらに扱えると。
魔法の中でも、治癒という力は特殊で、狐の獣人種・フォルク族の国であるレイシルで、祝福を受けないと使うことのできない力なのだった。その理由は門外不出であるため、レイシルの独占となっている。しかし、フォルクでなくとも、才能さえあればその力を与える開かれた国だった。
「わかったよ。後で教えてやるよ、オレの秘密」
リティルは顎に手を当てて、ニヤリと微笑んだ。
「気持ちの悪い言い方をするな!……すまなかった。わたしの名は、シェード・サファイア。知っての通り、クエイサラーの第一王子だ。そして、妹の名は、シェラ・アクアマリン。同じくクエイサラーの第一王女。貴殿は、闇の王の伝説を知っているか?」
闇の王?双子の風鳥島に伝わる、お伽噺に出てくる大ボスの名だ。その話は、英雄・レルディードが仲間達を率いて、闇の王を討伐するというお話だ。
「お伽噺で知ってるくらいだな。英雄・レルディード、花の姫、賢者、風の王、闇の王?くらいしか知らねーな」
「クエイサラーはその伝説に出てくる、花の姫を祖に持つ家系だ。あれはお伽噺などではない。事実なのだ。シェラは花の姫となることを運命付けられた姫だ。その妹を、父は殺そうとしている」
「父親……リア王がか?それで、逃げたのか。シェラはそのことを知らねーのか……」
神樹の森で、不安に駆られたシェラが吐露した思い。シェードは事実を、伝えられないままいるようだ。
「カルティアを目指してるのは、どうしてなんだよ?」
「彼の国は、闇の王を倒す力を隠し守っている。その力がなんなのかは、他国には知るよしもないが、エスタ王ならば妹を守る知恵を貸してくれると思ったのだ。父の乱心が闇の王復活の兆しならば、花の姫を奪われるわけにはいかないのだ」
「実感がまるで湧かねーけど、シェラを守るためなら力を貸すぜ?オレ達は下っ端だからな。組織の方針にそぐわねーなら、暇貰ってやるよ」
おそらく影を一時的に離脱することになりそうだ。大親父──エスタ王はそう命令を下すだろう。リティルは、階級こそ下っ端だが、エスタに育てられたのだ。それは、王の親友が養父だったということで、養父の死後、エスタが引き取ってくれたのだ。そのことは、城でも限られた者しか知らない。とはいっても、城には住んでいない。面倒を見てくれたのはもっぱら、影を仕切っている、カルティアの宮廷魔導士・ゾナデアンだった。
「恩にきる。だが、リティル、妹にちょっかいを出さないでもらおう!」
「はあ?出してねーよ。どうして、そうなるんだよ?」
リティルは唐突なことで、瞳を瞬いた。
「妹の態度を見て、何も思わないと思ったか!シェラはあきらかに、貴様に恋をしているではないか!」
ズルッとリティルは湯船に沈んでいた。
「………………頭大丈夫かよ?んなわけあるかー!」
ザバッと立ち上がったリティルは、真っ向から否定する。昨夜抱き合っていたところを見られたのは明らかだったが、そんなことくらいで惚れられるほど容姿的に優れていない。現に、シェラの方が背が高いのだ。リティルの方が抱きしめられている風になってしまうというのに。
リティルは、王に育てられはしたが、王宮事情には通じていない。エスタはお忍びが好きな王様で、リティルは街の外れに住んでいた。貴族の令嬢や、姫君などと顔を合わせる機会に恵まれたのは、影に所属してからだ。それでも、下っ端が対応したりはしないため、遠巻きに見るくらいにしか接点はなかった。王子と姫に接するのは、シェード達が初めてだった。しかも、身分を隠していたため、畏まる必要がなかった。それにしても、どうして二人ともこんなに気さくなのだろうか。
「そんなわけあるのだー!どうしてくれる?」
「知らねーよ!昨日の今日であるわけねーだろ?変なこと、言うんじゃねーよ!」
わーわーぎゃーぎゃーいいながら、二人は温泉を後にした。
宿に戻ると、シェラとディコはもう帰ってきていた。部屋は隣同士二部屋取ったが、今はリティルとディコの部屋に皆いた。
「では、話してもらおう。貴殿の秘密とやらを」
シェードはどうあっても忘れないらしい。シェラとディコを置き去りに、リティルに詰め寄った。
「まあ、隠してるわけじゃねーんだけどな。百聞は一見にしかずっていうよな」
そう言うとティルは剣を抜き、皆の見ている前で左腕を切った。シェラが息を飲み、駆け寄ってくる。
「?傷が……」
シェラは目の前で傷がみるみる消えていく様を見た。
「超回復能力。聞いたことはあるが、実在するとは。しかし、不死ではないと聞く。リティル、妹の為にも無茶はしてくれるな」
「ああ?シェラの為って、なんだよ?」
何やら言い合いを始めた兄とリティルの姿に、シェラは楽しそうに微笑んだ。
「お姉ちゃん?」
「ウフフ。リティルは凄いわ。兄様とあんなに仲良くなってしまうなんて」
「リティルは生きたいようにしか生きないから。お兄ちゃん、お城で窮屈だったの?」
「城での暮らししか、わたし達は知らないの。だからかもしれないわ。リティルは、とても眩しい……」
シェラには自分の運命が薄々わかっていた。誰かの思惑で、生き死にさえ決められてしまう。抗う方法を知らないシェラには、危なっかしくも自由なリティルに、どうしようもなく惹かれてしまう。
――大丈夫だ。心配いらねーよ
リティルがくれた言葉が、どうしようもなく、くじけそうになるシェラの心を、守ってくれていた。
リティルに惹かれている。まだ、名前をつけることのできない想いだとしても、シェラは自覚していた。
……ラ……シェラ──
シェラは白い靄の中で瞳を開いた。これは夢だ。幼い頃からよく見ている夢。
「インサーリーズ」
シェラの前に、金色に光り輝く巨大な孔雀が鎮座していた。
『嵐が迫っています。抗いようのない嵐です。ですが、希望もあります。輝く金色の瞳の青年。彼はあなたを守る刃です』
「リティルが?インサーあなたは知っているのですか?彼は何者なのですか?なぜ、あなたの歌う歌を、リティルは知っているのですか?そして、わたしはなぜ……リティルに心惹かれるのですか?」
自覚したくない。まだ否定したい。彼とは住む世界が違いすぎる。いいや、それともリティルに感じている気持ちは、何か違う意味があるのだろうか。
『シェラ……花の姫。風はあなたと共にありますよ。心のままにお行きなさい』
「待って!心のままに、わたしは生きていいのですか?教えてください!インサー!」
シェラはインサーリーズが遠ざかるのを感じて、彼の鳥に追いすがった。けれども、いつもそうであるように追いつくことはできない。シェラは、暗い部屋の中で目を醒ました。
隣のベッドではシェードがぐっすりと眠っていた。シェラは兄を起こさないようにベッドから起き出すと、窓辺に佇んでみる。
十字の木枠にガラスのはまった窓。切り取られた風景の中を、何かが動いた。あの遠目でも目立つ金色の髪は──リティルだった。追いかけたい衝動に駆られたが、シェラはグッと押し留まった。これ以上、追ってはいけない。心のままに振る舞えば、取り返しがつかなくなる。
「この気持ちは何?」
ただ、初めて出会う人種だったから珍しいだけなのだろうか。違う世界を知っている人への憧れを、勝手に勘違いしているだけだろうか。
──大丈夫だ。心配いらねーよ
昨夜、耳元で囁かれた声がまた、耳を擽る。自分が招いたのに、翻弄されている自分がいる。滑稽だ。なのに、とても心が、静かに踊っている。不快ではない。淡く切なくて、暖かい。クエイサラーでは、感じたことのない、知らない心――
「心のままに……」
顔を上げたシェラは、風の奏でる歌を口ずさんだ。
シェラの起きる気配で目を醒ましたシェードは、妹が部屋を出て行くのではないかと、内心ハラハラしていた。父の乱心でクエイサラーの行く末もわからない今、王族だからとか、そうでないからとかそういう理由で、妹を縛りたくない。だが、だからといってあまりにも安直ではないだろうか。リティルがどうこうではなく、シェラがあまりに狭い世界しか知らないことに、シェードは今更ながら不安を感じていた。
つい数時間前ディコとリティルは、カルティアへ報告を行っていた。
「──これでよし!ねえ、リティル、カルティアへ戻ったら、どうするの?」
ディコは、紺色のローブの下から太陽と月を組み合わせたような紋章の首飾りを取り出し、その紋章の上に指を滑らせた。指の軌跡が僅かに光りを発する。報告を終えたディコは首飾りをもとのようにローブの下へ隠した。
「一応、任務完了だろ?その後は、大親父次第じゃねーか」
王族じゃ、オレには判断できねーよと、リティルはもっともなことを言った。
「前から思ってたんだけど、リティルが、風の王じゃないの?」
「はあ?お伽噺に出てくる風の王がなんだって?しかも風の王って、悪役じゃなかったか?」
リティルの記憶では、ラスボスの闇の王に仕えていた妖精?精霊?だ。英龍達は、風の王にかなり手を焼いたが、なんとか退けて闇の王を討っている。
「表向きはね。でも、本当は違うんだよ?風の王は闇の王を倒す、次代の英雄だよ。カルティアはね、闇の王を倒す刃を鍛える場所なんだ。刃っていうのはそのまんまの意味じゃなくて、闇の王を討伐する英雄のことだよ。クエイサラーはね、闇の王を倒す為に絶対に必要な力を守る場所なの。花の姫の力だよ。クエイサラーは家系だけど、カルティアの鍛える英雄は家系じゃないんだよ」
スラスラと大真面目に、お伽噺は現実で、大国には、存在する意味があるんだと豪語するディコに、リティルは戸惑っていた。
シェードもそんなことを言っていたが、それにオレが関わりがあるなんて、そんなこと手放しで信じられるほど、リティルは子供ではなかった。けれども、ディコは、絵空事でリティルを惑わしたことなどない。幼くても、学問に精通する魔導士だ。リティルなどとは、頭の作りからして違う。そんな彼が、世迷い言を言うはずがないとわかっていても、これはにわかには受け入れがたかった。
「おまえ、突拍子もねーことばっかり言ってるぜ?オレが特異な姿だからって──」
「ウルフ族だよ」
「はあ?」
「だから、ウルフ族!リティルは、幻の島・ルセーユの民、ウルフ族なの!闇の王を討ったレルディードの同族だよ」
リティルはずっと、同じ姿をした者を捜していた。しかし、どんなに探してもみつからなかった。この世界に、自分はただ一人なのだと思っていた。なぜ今更、ディコはそんなことを言うのだろうか。確信があるのならなぜ今まで、黙っていたのだろうか。疑問が次から次へと湧いてきて、頭がいっぱいになる。
「ディコ、一体何の話をしてるんだよ?」
ヘラッと笑って、リティルは見開いた瞳のまま片手を額に当てた。ディコは、確信のないことをまことしやかに言うことはない。ディコが言っていることは、おそらく妄言ではないのだ。
「ボクは、エフラの民。会ったことないけど、ルセーユに同胞がたくさんいるんだよ。ボクの村は、もうなくなっちゃったけど、カルティアに英雄が現れるのを待ってたの。リティルは、カルティアにいる唯一のウルフ族でしょう?絶対にそうだよ。それでないと、ダメなんだ」
「ダメってなんだよ?ああもう、やめろ!カルティアに戻ったら、ゾナの奴に聞いてみろよ!そんなわけねーって、言われるぜ?」
リティルは声を荒げて立ち上がった。
「リティル!」
「頭冷やしてくる」
ディコは、リティルに拒絶され部屋を出て行く彼を見送るしかなかった。
「リティル、ボク、英雄はリティルがいいんだ。だって、リティルはすでにボクの英雄だから」
ディコは窓の外に広がる暗い空を見上げた。それに、リティルという名。目覚めという意味の精霊の言葉だ。ディコの村に伝わっていた、カルティアへ現れる今世の英雄の名と同じなのだ。
ディコの暮らしていた村は、神樹の森とクエイサラーの森の境界にあった。限られた者しか知らない隠れ里で、その場所は今はもうない。謎の集団の襲撃に遭い、ディコを残して皆殺されてしまったのだ。村の皆は、ディコを隠し守りそして死んでしまった。リティルに出会ったのは、その廃墟となってしまった村だった。影の任務だったそうだが、リティルはディコを見つけ出してくれた。リティルに出会ったディコは、これまで自分の名だった名前を捨て、継ぐ者の名であるディコを名乗ることを決めた。エスタ王の側近である魔導士が、秘密裏に隠れ里と繋がっていた宮廷魔導士・ゾナが、この村へリティルを単身で寄越したことで、彼が英雄であると思ったからだ。
今、花の姫までもが、カルティアへ集まろうとしている。シェードの言うとおり、闇の王が復活しようとしているのだろう。
ディコは、リティルの出て行った扉を、険しい瞳で見つめていた。
なぜ、誰も何も言わなかったのだろうか。リティルは、裏切られたような気分だった。
誰も何も言わなかったのは、英雄などではないと、そういうことではないのだろうか。
リティルは、真剣な眼差しのディコを思い、いたたまれなかった。英雄の条件が、心強き正しき者だとしたら、自分には当てはまらない、とリティルは首を横に振った。
「ダグ?こんな時間まで、働いてるのかよ?」
宿をアテもなく出たところだった。リティルは、向かいの宿の前の馬屋に、見知った顔がいるのに気がついた。
ダグとは違う宿屋に泊まっていたが、彼は荷台の商品の被害を見ているようだった。
「ははあ、リティル様、朝一には出やすからね。どうしたんで?」
ダグは笑顔を浮かべると、手を止めて一度顔を上げた。そしてすぐに、仕事を再開した。そんなダグの後ろ姿を見ながら、リティルは何の気なしに声をかけていた。
「なあ、オレが英雄になるって言ったら、笑うだろ?」
「英雄ですかい?リティル様がですかい?何を言ってるんですかい?リティル様はとっくに英雄様じゃあないですかい」
振り向いたダグは、意外な顔をしていた。その言葉に、リティルは驚いていた。そんなリティルに、何を言っているんだ?この人はと言いたげに、ダグはため息を付くと、体ごと向き直った。
「いいですかい?英雄なんてもんは、助けられた人達が、勝手に言いふらすもんなんですよ。だから、リティル様はとっくに英雄様ですよ。そこで──英雄様!カルティア城下まで一つ同行してくだせえ!荷台に、客人を乗っけてさしあげますからぁ」
ダグはパンッと手を額の前で打ち鳴らし、リティルを拝んだ。それを見て、リティルは苦笑した。
「護衛くらいつけろよな。そのうち死ぬぜ?まあ、今回はオレも助かるしな。けどなあ、ほどほどにしねーと、またゾナに叱られるぜ?」
へへへと、ダグは頭を掻いた。どうやら、懲りていないらしい。
ゾナ──カルティア王・エスタの側近の一人だ。影のとりまとめも彼が行っていて、リティルからすれば上司に当たる。嫌みな魔導士で、下っ端であるリティルの事は買っているのか、よく無茶振りされる。幼い頃から組織にいるリティルは、彼に面倒を見てもらっていたこともあり、よく知っている。と、思っていた。
何代も前から王に仕えているとか、妙な噂の付きまとう人物でもあった。
ゾナは、ディコの言ったことを知っているのだろうか。知らないわけがない。ディコを救出に行けと命令を下したのは、彼自身なのだから。
帰ったら問いたださなければ気が済まない。黙っていた理由、それからディコに英雄ではないと言ってもらわなければならない。
――違うって言ってくれよ?先生
戦う以外のことも、ゾナはリティルに教えてくれた。まるで、自分の持っているモノすべてを、与えようとしているかのように。リティルは、悪態をつきながら影にいるために、必死に学んだ。根無し草のように島を放浪しながら、けれども、影という帰る場所が、リティルには必要だったのだ。
ゾナは、そんなリティルを影にいられるようにしてくれた、恩師だった。
彼を頼らないと心に決めながら、ゾナに手を放されるのではないかと、リティルは、心細さを感じていた。




