ヒトコマメ:プール
「はぁ〜〜」
久保田千夏は大きなため息を吐きながら机の上に突っ伏した。千夏は高校一年生、いつも、楽しい事を探すアンテナのようなツインテールは重力に逆らわず垂れ下がり、弾切れの無いマシンガンと恐れられる口は元気なく閉じられている。
「千夏、どうかしたの?」
そんな千夏の変化に察知したのは清水律子だった。律子は眼鏡越しに千夏を心配そうに見る。
「別に……」
そう言って千夏はほおづえをつき、窓の外を見た。
「ねえ、律子……」
「何?」
「どうしてこの世には照る照る坊主しかないの?」
千夏の突拍子もない質問に律子は目を点にしながらも、千夏の質問に答えようと思案をめぐらせる。
律子の反応などお構いなしに千夏は話を続ける。
「陰と陽、自民党と民主党、武蔵と小次郎、巨人と阪神……この国は相反するものが存在し、その二つが絶妙なバランスを保つことで成り立っているんじゃないの?」
千夏は振り返り律子を見据える。
律子は曖昧に頷く。
「う、うん。そうかも……」
律子の答えを聞いた千夏は勢いよく立ち上がる。千夏の勢いに椅子は倒れ、律子は反射的に後ずさった。しかしウサギを捕らえるヒョウのごとく、律子の肩を千夏は掴む。
「だったら照る照る坊主には降る降る坊主が必要だとは思わない? ね、そうよね? 律子!」
わめく千夏に力任せに揺さぶられる律子。そんないつもの二人の光景をクラスメイトは優しく目を細めている。
前後する世界に酔いそうになりながらも律子は声を出す。
「ど、どうしたの急に? 雨に降ってほしいの?」
「!!」
律子は急に止まった地震によろめき、眼鏡を直しながら千夏を見た。千夏は電池が切れたロボットのように律子を振り回した体制のまま止まっている。
「千夏?」
千夏は律子が語りかけても一向に動かない。
「プール開き」
「ぬうえっ!」
抑揚の無い言葉に千夏は全身で反応する。
「あ、麻美ちゃん」
工藤麻美は無表情で千夏に詰め寄ってくる。クレヨンで塗りつぶしたような目の奥にわずかな光があった。そんな麻美に千夏は目を合わせられないでいる。
いつもはじゃれてくる千夏を合気道有段者のように受け流している麻美が、自ら千夏に何らかのアクションを起こしている。
普段とは逆の構図にクラス中がざわつき始める。
「水着姿」
「うっ!」
周りの雰囲気などお構いなしに放った麻美の言葉に千夏は胸を押さえ椅子に座り込んだ。
「どういう事?」
二人だけの世界に取り残された律子が首をかしげる。
結果から言うと、千夏は今日から始まる体育のプールに出たくないのだ。
千夏は腕を額を押し当てた体勢で「うぐっ」「えぐっ」と嗚咽を漏らしている。
「でも、どうして? 千夏、プールを楽しみにしてたじゃない」
嗚咽の隙間から千夏の声が漏れる。
「……昨日お母さんの誕生日だったからケーキ食べた」
律子は頭の中で、ケーキと麻美が言った水着姿を足して考えてみた。そして一つの答えを導き出した。
「まさか、体重のことを気にしてるの?」
「うぅ〜〜」
千夏のうめき声を肯定と判断した律子は千夏をなだめる。
「でも、そんな一日ぐらいだったら体重なんて変わらないよ」
「一昨日はお父さんの誕生日でケーキを食べた」
「えっ……」
「その前の日は従兄妹の誕生日にお呼ばれしてケーキ食べた」
フォローしたつもりが千夏に刃を突き立てていたことを知った律子はおろおろしながら次の言葉を探す。
「……でも、どうして急にそんな事を――」
律子が自問すると、背後にいた麻美に背中を叩かれた。律子が振り返ると麻美は無言で指を指している。律子は指の先を目線でたどる。指されたのは窓側の一番後ろで、友人と話している男子生徒だった。
彼の名は辻明、テニス部に所属している。程よく日に焼けた肌と色素の薄い髪、誰とでもあけすけに話す明に律子は好感を抱いていた。
そして、明は千夏の片思いの相手でもあった。
「ああ、そういうことか……」
千夏たちが通う高校では体育は男女合同で行われていて当然それはプールでも一緒だった。おなかの出た水着姿を好きな人に見せたくない、当然の乙女心だ。
律子は千夏に向き直る。千夏は相変わらず肩を震わせている。
「体重、増えてたの?」
「わかんない。でも絶対に増えてるよ〜、だってケーキだよ。あのカロリーの蓄積物を食べたんだよ、しかも三日続けて」
千夏の体がどんどん小さくなっていく。
「だ、でも三日ぐらいで体重は増えないと思うよ」
「さっきは一日って言ってたじゃん」
「いや、一日以上三日以内のケーキは体重の許容範囲内だって聞いたことがある」
「嘘だよ」
「ほ、本当だって」
律子の言葉に千夏はがばっと顔を上げ、律子を睨みつける。
「律子はいいよね、脂肪が全部胸についてるんだから! そうやって今日のプールで男子どもに二房のパイナップル見せ付けて一夏のアバンチュールを妄想させるがいいさ!」
「ちょ、ちょっと! 千夏、やめてよ……!」
律子は顔を赤らめ、腕一杯を使って胸部の辺りを隠す。男子達はその姿におお……と感嘆の声を上げていた。
「私は絶対お腹周りについているんだ……」
涙交じりの千夏はそう言って肩を落として席につく。
「じゃあ、確かめてみる?」
麻美の言葉に二人の視線が集まる。
「保健室に体重計がある」
千夏は必死に抵抗した。二人から両腕を掴まれて立たせようとするのを暴れて腕から引き剥がす。
「やめろー! 私は絶対に行かないーー!」
なおも食い下がる律子と麻美。それでも千夏は獰猛なゴリラのように反抗する。
そんな千夏に麻美は耳元でささやく。
「暴れちゃダメ。お肉のウエーブが見えちゃう」
「かっ……!」
それが麻酔となり、ゴリラは大人しく二人に連れられ保健室へと向かい……
現実を知った。
昼休み。三人は机を合わせて昼食を取ろうとしていた。律子と麻美はお手製の弁当を机の上に置いているが、千夏の机の上には何も無かった。
「私はもう、逃げも隠れもしないよ。面と向き合ってこの地球外の付着物と戦ってみせる。そして五時間目のプールの時間までに倒してみせる」
千夏は断固たる決意と共にこぶしを握る。
「お昼……食べないの?」
律子が恐る恐る聞く。
「食べないね。実を言うと朝から何も食べてないんだ。それに購買部に売ってあるクリームアンパンやチョコチップメロンパンは今のあたしにとっては大敵だから。昨日の友はプールの敵なの!」
そう言って千夏は腕を組み、仁王座りする。
他の二人はいそいそとお弁当の包みを開く。真っ白なご飯、赤いウインナー、黄色い卵焼き。それら全てが千夏にとっては毒だった。千夏は拒むように目を瞑る。
「あ、麻美ちゃんの卵焼きおいしそう」
「律子ちゃんのウインナーと交換してあげる」
「本当? あっ、甘くておいしー」
「律子ちゃんのウインナーもジューシー」
千夏は耳を押さえる。しかし鼻からの攻撃は抑えられない。息を止めようとも一分と持たない。ここにいたらダメだ、そう悟った千夏は耳を押さえたまま立ち上がり教室から出る。教室を出るとき、誰かが呼んだようなような気がした。
教室を出た後、千夏は校庭の芝生で日の光を全身に受けていた。汗が噴出すのもお構いなく千夏は禍々しく笑っている。
「燃えろ、邪悪な悪玉コレステロールめ。燃えろ、燃えろ、地獄の業火に焼かれて消えてなくなればいいんだ。燃えろ、燃えろ……」
「何が燃えるんだ?」
千夏は声のするほうを向き、驚愕に目を開く。細身の肢体で千夏を優しく見下ろすのは千夏の恋する辻明、その人だった。
「あ、ああああああ、あき、ら、くん」
顔を真っ赤にしてうろたえまくる千夏。
明は千夏の隣に座る。
「どうかしたのか? さっき千夏のこと呼んだけどわからなかったみたいだったし」
「ふぇっ……な、何で?」
「今朝から千夏の様子がおかしかったからな。相談に乗ろうと思ってたんだ」
明君が私を心配してくれてる。
「何か悩み事か?」
千夏は覗き込む明の顔を見れなくてそっぽを向いて答えた。
「……何でもない、よ」
心配してもらってるのに、にやついてたら変な奴だって思われちゃうよ。でも……嬉しい!
「ん、そうか。なら一安心だ」
明は屈託なく笑って大きく伸びをする。
「そう言えば次はプールだったな。いやー楽しみだ」
プール……、千夏はその言葉を復唱して塞ぎこむ。
「そうだ千夏、二人で二十五メートル競走しようぜ。千夏は運動神経いいからな」
「わ、私と!?」
顔を赤くして明に顔を向ける。
「おう、言っておくが手加減はしないぞ」
明が笑った顔が千夏には眩しく、すぐに目を逸らす。
青い世界を二人だけで二十五メートル並んで泳ぐ。二人並んで……途中で手が触れたらどうしよう、やっぱり女の子は三メートル後ろを泳いだほうがいいよね……
千夏は暫くの間、白昼夢を見て、勢いよく立ち上がった。
――こうなったら急いでこのメタボ予備軍を燃やし尽くしてやる。消し去ってやる、この太陽の光と愛の炎で!
千夏はわき目も振らずグラウンドにダッシュした。走って燃やす! 原始的だが効果は抜群だ。千夏はひらひらとめくれるスカートや汗でへばりつくセーラー服も忘れて走った。
私、がんばるから……まっててね明君。
「どうしたんだ急に?」
「ぐええええっ!」
明は千夏の隣を追走していた。
だめっ、ついてこないで、そんな近くに居られたらばら肉のウエーブが見えちゃうから。
千夏はギアを上げて、明を突き放した。
それでも明は走るのをやめない。
「なるほど、これはプール前の前哨戦か、よーし、負けないぞ!」
違う、違うの! 明君、お願いだから今だけは私に構わないで。こんな太った女嫌いでしょ?
突然、千夏の足がもつれだし、視界が狭まる。
あれ、どうしたんだろ?
「千夏、大丈夫か?」
またもや明が追いついてくる
ダメだ、追いつかれたら見られちゃう。速く走らないと、嫌われちゃう。嫌われたくない、明君だけには、絶対に。
それでも足は千夏の意思とは反対にストップをかけ、視界は一点のものだけしか写さない。体がバランスを取れなくなる。
お願い明君、嫌いになら――
「おい、千夏!」
倒れそうになった千夏を後ろから抱きとめた明が青ざめた顔で千夏を呼ぶ。
千夏は虚ろに目を開ける。
――明君とプール、ふたりっきりで泳ぐの……ああ、まって明君、私を置いていかないで……
千夏が伸ばした手を明は掴む。
「いいから、もう体を動かすな」
明は千夏を持ち上げると、急いで校舎へと向かう。
お姫様抱っこ状態の中で千夏は幸せそうに気を失っていた。
「…………」
千夏が目を開けるとそこは室内だった。体を起こす。四つ折にされたタオルがぽとりとかけられた布団の上に落ちる。
きょろきょろと辺りを見回していると、仕切られた布の間から律子がやって来た。
「よかった……。気が付いたんだね」
律子はほっと胸をなでおろし、ベットの隣にある椅子に座った。
「ここは……?」
「保健室。辻君が連れてきてくれたって先生言ってた」
「明君が?」
確か、私がグラウンドを走ってて、明君がついてきたのを見て……
「あっ! プールは、授業はどうなったの?」
律子は千夏の鞄を見せて言った。
「もう放課後。さっきまで明君もいたんだけど、部活に行かなくちゃっていけないからってさっき帰ったよ」
「そんなぁ〜〜」
じゃあ私は何のためにあんなことをやったのか……。
千夏は力が抜けたように前のめりになり、長座体前屈のような格好になる。力が抜けた途端、千夏の体が空腹のサインを出す。
「お腹すいたぁ」
「はい、これ」
律子は自分の鞄から練乳パンを一つ取り出した。
「栄養不足で倒れたんだろうって、だからさっき購買で買ってきたの」
千夏は力なくパンを受け取る。顔には失望の色がありありと出ていた。
「千夏、元気だしなよ」
「そうよ、元気出して」
いつの間にか麻美も律子の隣で立っていた。何故か手にはたくさんの菓子パンを持っている。それはクリームアンパンとチョコチップメロンパンなどいつも千夏が昼休みに好んで食べているパンだった。
「……それ、私に?」
「そう」
「でも、そんなに食べれないよ」
千夏は、ははっと自虐的に笑う。
麻美は相変わらずの平坦な声で言った。
「このパン、辻君が千夏にって」
「……明君が、私に?」
「さっき私とすれ違うときに渡されたの。これ食べて早く元気になって、だって」
麻美はそう言って手に持った全てを千夏の膝の辺りにのせた。
「よかったね、千夏」
律子は千夏に嬉しそうに笑いかける。
千夏は手に持ったパンをぎゅっと握り締める。
そうだ、早く元気になって明君を安心させなくちゃ。そしていつか明君と一緒に泳ぐんだ!
よしっと一声あげて、千夏は口を大きく開ける。
「そうそう」
麻美が何かを話しだそうとする。千夏は気にせずパンに口を近づける。
「明日もプールがあるんだ」
千夏の口がそのまま固定される。
律子の微笑ましい笑顔が凍りつく。
「どうする? パン、食べる?」