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エッグハウスアンドガールフレンズ

作者: 菊池 釖

「じゃあ、相続はそういうことで。申し訳ないけどこっちも生活があるからこれくらいはもらうよ。」

「いえ、…私、私たちこんなに貰ってしまっていいんですか。」

「遺言だしね。あんな人世話してもらって感謝してるくらいよ。本当にありがとうね。」

「…はい。」

覚悟していった割には私の頬には傷や痣の一つもつかなかった。つい五日前に初めて会った、彼の奥さん、は私と同じくらいの年の頃に見えるのだけど、もしかしたらとても若く見える五十代なのかもしれない。デニムジャケットの背はしゃんと伸ばされて、彼と暮らしていた家の玄関に飾られていたあの黒百合の絵は彼女だったのかもしれないなあと私は今さら気付くのだった。

「後片付けとか受付までさせちゃってごめんね。ほら、あの人、もう身内みんな縁切られてるから、あなたくらいにしか頼めなくて。」

「いえ、これくらいなら、全然。」

月香さんは三五〇グラムステーキをほおばって少女のように目を見開く。美味しい!一一の行動がすべて、ト書きで決められたように完璧で、この人が一介の主婦だなんて信じられないと思った。例えば往年の大女優とか、世間を騒がせた悪女とか、そういう類のオーラを持ち合わせていて、彼女の周りの空気は常に揺らめきながら、オパールのような光沢を帯びているみたいに思う。私なんかにはとてもじゃないけれどできない立ち居振る舞いだ。細い首筋は瑞々しい彼女をつるりと包む表皮の中で唯一生きてきた年数を思わせるように、しわが刻まれている。

「申し訳ないとか思ってる?」

「え、…はい。まあ。」

「だよねえ。ごめんね。離婚してなかったから。」

「いえ、それは、」

私は豆腐サラダをフォークでつついた。私もステーキとかハンバーグとかにすればよかったかな。いいや、一応初七日だし。精進につとめる、なんて信心深いふりをしているわけじゃないけど、昔からの習慣の違和感を感じないほうに動く方が楽だということを私は知っている。

「これからどこ住むの?あそこ売るんでしょ。」

「まあ。広すぎ、ますし。」

食べ辛かったのか月香さんは髪を高い位置でくくった。栗色の髪は長い指に扱われてくるりと濡れたような輝きで丸まった。ほお、と見惚れた私に眉尻を下げて笑みながら、一切れいる?と尋ねる。かぶりを振った。

沈黙が肩にもたれかかるようなぐあいで、なんとなく分厚いアクリルガラス越しの外を見る。雨でも降りそうな彩度の低い空は、小学校のころの実験で使ったスチールウールのようだ。あの、ちぎるとしゃおっと音がしそうな感じ。帰社する昼休み終わりの会社員たちも同じような色で、せめても、というように添えられた街路樹の呆けた緑が差し色になっていなくもないけれど、画面として貧しい。あの人はこういう絵を描くのが好きだった。ただ単に地味だというには病的なくらい、淋しい風景を描くのだった。私は結局最後まであの人の絵が好きになれず、それを口にすることはしなかったけれど、誠一さんは母のように笑いながら、僕の絵好きじゃないよね、君は。と言うのだった。それを否定はしなかった。私はその、なにか皮肉っぽいような、それでいてただ天真爛漫なだけのようなところが好きで、柔らかなタオルのふんわり立ったパイルの中に一本だけ混ざった棘みたいだと思っていた。本当はもっと、正しい表現があるのだと思うけれど。

「うちくる?」

同じように頬杖をついて付け合わせのコーンを処理しながら、月香さんは言った。

「うち、…?月香さんの、お宅、ですか?」

「うん。私もこっちに身内居ないしさ、死ぬときに誰かいたほうがいいなって。どう?」

「えっと、」

「いや?いやかあ。そうだよねえ。見知らぬオバサンだもんねえ。いいよ、深く考えなくて。」

冗談だったのかもしれないけれど、その明確な分かれ目が分からなくて、ぼんやりとにじませた水彩の境界をトゥシューズで歩いているみたいだった。あまり上手でないバレリーナなら、とんと肩を押せばどちらかに傾く。

「あの、本当にいいんですか。」

「え?…いいの?来る?」

「もし、月香さんがいいなら。」

月香さんはふうわりと花が綻ぶように笑った。からからといったぐあいの表情が似合うかんばせの、そのパーツがひとつひとつじつにゆっくりと寂しそうに弓を描いて細められるもので、なんだかとてもひどいことをしているんじゃないか、という気分になって、私は空になりかけたグラスに水を注いでもらった。




月香さんは私のボストンバッグ二つ分の荷物を見て、軒先でけたけたと笑った。

「若者のくせに!」

「もうそれほど若くもないです。」

「そんなことないよお。入って。」

おじゃまします、と中途半端な礼をしながら敷居をくぐる。初めから思っていたことだけれど、彼女はなぜか、自分の夫と勝手に暮らしていて、挙句こどもまでこさえた私をまったく詰らない。こんな風に、友達でも家に招くように自分の家に上げてみせる。アトリエで倒れているあの人を見て、頬を打たれる想像をした自分を、その時私は気が早すぎる冷たい人間だと下唇を噛んだのだけど、それが実際に再現されることはなかった。

「あ、」

玄関先に飾られた半裸の背中の小さなカンヴァスに見覚えがあった。この癖の強い髪と猫背気味なのが私のモチーフとしての面白いところだと、あの人は私を筆でなぞりながら言った。ちょくちょく帰っていることは知っていたけれど、数枚しかない私の絵をなぜこちらに置いたのだろう。そして月香さんは、私への当てつけでこれを飾ったのだろうか。

「部屋はここ使って。一応隣に子供部屋とおもって一部屋用意したけど、まだ掃除してないからいずれね。私の部屋は奥。リビングはそっち、テレビとか勝手に見ていいよ。風呂はあっち。トイレはそこ。」

「あの、ありがとうございます。」

「気まずい?」

「まあ。」

「そりゃあそうか。」

今日はブルーグレーのワンピースで、軽くはおったパーカーも毛玉やほつれはない。この前は気づかなかったけれど、目尻にも細かく刻まれたしわがある。それともこの前は隠していて、今は何も施されていない顔を私の前に晒しているのだろうか。通された部屋はかすかに壁紙に絵具がついていたり、揮発系の匂いが残っていて、あの人の使っていた部屋なのだろうと思った。

「夕飯はなんかとろう。わたし料理しないんだよね。」

「わかりました。」

雲の上でも歩いているようなおぼつかなさで私は荷物を新しい部屋に運び入れた。月香さんは私に何か言おうとして、やめた。ぱくぱくする唇の形は相変わらず美しかった。




流石芸術家の自宅、ということなのか、リビングはずいぶん派手な赤と青の幾何学模様の壁紙で、それを訊ねると「わたしもあんまり気に食わないんだよね、これ。」と彼女は笑った。私と住んでいた別荘はごく普通のアイボリーの空間だったけれど、そういえばアトリエは緑や濃紺やらでべたべたに塗られていて、このひとがこんないろをつかうなんてと私は思ったのだった。出前のそばをずるずる音を立ててすすりながら、私たちはっぽつぽつととりとめもなく話した。月香さんは今五十二歳で、あの人と知り合ったのは大学時代なのだという。「わたしも声楽とかやってたの。あの人は美術で客員教授って言うのかな、来てて。かっこいいって話題でさ。それで話しかけたんだよ。」なるほど、その立ち姿と歌はしっくりくるなあと思う。

「わたしあの人の絵嫌いで。ダサいと思います、って言ったのよ。」

「そんなこと。」

「若かったからね。」

「ふふふ。」

「そしたらあの人すごい怒って。わたしのこと描いてやるって。」

「あの人が怒ったところ、私見たことないです。」

「そうかも。わたしもあれ以来見てないかもなー。」

「その絵はどうしたんですか。」

月香さんはかき揚げを箸で崩していた手を止めた。

「捨てちゃったんじゃないかな。あの人が持ってっちゃった。」

きっと捨ててないと思います、私その絵知ってます、と言おうとしてやめた。その代わりに私もかき揚げを口に運ぶ。玉葱の甘みがなんだか悲しかった。

「…そうなんですか。」

「紗智ちゃんの絵はあるよ。玄関に飾ってあったの、そうでしょ。」

「…たぶん。」

「あれはあの人が捨ててたの拾ってきて飾ったの。怒るかなって思ったけど、謝られた。」

「っ…。」

「別に紗智ちゃんは悪くないし、私だって帰ってこないあの人のことどうでもいいと思ってたんだけどね。」

「いえ、あの、ごめんなさい。」

「やだ、謝らないでよ。オバサンが余計に惨めじゃない。」

「…はい。」

啜る音だけが小さく部屋に残った。泣きそうな声だったように思えて覗き見た月香さんはもう平然と薬味を追加していて、麺の山はだいぶ低くなっていた。

食事を終えて洗面台に立つ。ひどい顔をしていた。置いて行かれた女の顔。今まで監督に求められても引き出せなかった表情の正解は、たぶんこれなんだろう。おなかがいっぱいになれば嫌なことも気になることも投げ出して眠れるのが私のいいところで、夢さえ見なかった。




翌朝、ほんの少しだけ早く起きた。時間を刻む針の音と、スズメの鳴き声くらいしか聴こえない。月香さんはまだ目を覚ましていないのだろう。腰の軽さに薄い布団がどれだけ今まで自分に負担をかけていたのか知った。冷蔵庫は飲み物とアイスクリームくらいしか入っていなかったので、近所のコンビニで一通りを買う。スーパーマーケットを探したほうがずっと安いし品揃えがいいのは知っていたけれど、まだ開く時間ではない。

一応調理器具や調味料はそろっていたのでお借りして、簡単ながら朝食を作る。トースターはないので魚焼きグリルで、先にバターを乗せておくのは邪道だしカロリーの取り過ぎになる原因だというのはわかっているけど、今日はいいことにした。サラダは袋入りのものを出すだけ、スープもインスタントのコンソメスープだけれど、なんとなくいつもの安い方じゃなくて少し高い方にした。油を引いたフライパンに卵を割り入れる。朝はやっぱりサニーサイドアップだと思う。スクランブルエッグもゆで卵も美味しいけれど、このぴんと盛り上がったオレンジ色が食卓には絶対に必要なのだ。

「おはようございます。」

扉を二回ノックする。

「ごはん出来ました。食べませんか。」

頼まれてもいない余計なことをしたかな、とは思った。朝食べない人なのかもしれない。それでもこれからここで暮らしていくなら、私は机を一人で囲みたくない。それに、人間は食べ物の匂いには弱いのだ。なかなか出てこない彼女をしょうがない、とあきらめて先に手を合わせようとした時、扉の開く音がした。

「おはよう。」

「おはようございます。」

「顔洗ってくるね。」

少しだけ眠そうにしている月香さんだけれど、それでもすっかり綺麗に髪をまとめて着替えも済んでいた。自分の部屋着がすこし恥ずかしいような気になる。

「目玉焼き。」

「苦手、ですか?」

「ううん、大好き。これくらいならわたしもつくれる。」

「はい。」

月香さんは黄身を箸でつついて割って、そこにちぎったトーストをつけた。

「美味しいよね、卵。朝はやっぱり、目玉焼きだなあ。」

「私もそう思います。」

「ほんと。…わたしら結構似てるのかもね。」

「そうですね。」

好きになった人も同じですもんね、とは言わなかった。私も彼女と同じように黄身の染みたパンに少しだけ塩胡椒をしてほおばる。今日はこの人とどこかに出かけようと思った。そして帰ってきたら夕飯を作るのだ。ほうれん草の味噌汁と五穀米をよそって、このやたらモダンな机に並べて、朝が来たらまた目玉焼きを焼く。月香さんはぼろぼろと涙をこぼしていた。





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