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第1章

 ≪海音≫


 なに、と返事をしながらりんごの皮を剥く。テーブルの向かい側から手が伸びて皿の上のりんごを一切れつまむ。

 ≪一緒に暮らす?行き来するのも面倒だし≫

  面倒って?……ふふ、うん。してもいいけど?

 ≪ついでに結婚もする?≫

  ついでってどういう意味よ

 ≪だってずっと一緒に居るのに形式なんて関係ないだろ≫

  ……わ、何か恥ずかしいよそれ



 ピピピ。ピピピ。ピピピ。………



 軽いアラームの音で目を開けた。頭の上に手だけ伸ばしてそれを止める。手に触れた冷たい空気と目覚まし時計の角の形に、わかってはいても、目に映る部屋に誰もいなくて探した。そしてわかっていたから目を閉じた。

 あずまさん。どこ………

 ゆめのなか。

 東さんはりんごを食べている。行かなくちゃ。早く行かなくちゃ。東さんが消えちゃう。

 掛け布団を頭の上までひっぱり上げて背中を丸める。

 ───って二度寝している場合じゃなかった!

 重いまぶたを半分開けて、手に取った目覚ましを見る。……三十分も経ってる!がばっと飛び起きた。もう着る物なんて考えてる暇はない。お化粧なんてしてられない。ええいどうせ今日はロケだ!相手は伊野さんだ!めかす必要なし!

 ジーンズに足を突っ込み、ラムウールのセーターをひっかぶり、歯磨きして顔を洗って髪をとかして終わり。今朝食べようと思ってたのに、めかぶとろろ。革のコートを羽織り重い鞄を肩に提げて、後ろ髪引く冷蔵庫を見る。

 背中を丸めて冷蔵庫を覗き込んでいた東さん。

 ≪そんな格好で行くの?≫

 思い直して玄関から引き返し、ベッドの枕元のボトルを一つ取ってシュッと霧を噴いた。ふわふわと降りてくる微かな水の粒。控えめな清涼感と甘さが、私の中の私を呼び覚ます。

「…よし。いってきます」

 ボトルに挨拶をして戻した。





 伊野さんは私を見るなり「寝坊か」と軽く笑った。時間には間に合ったものの、駅から走って乱れた髪、すっぴん、そして息切れ。一目でわかるというものだ。

「珍しいな」

「………」

 息が上がって喋れません。がくんがくんと頷いた。

「まだモデルさんらが来てないから。今のうちどうにかしろ、そのツラ」

「サンキュ」

 鞄から化粧ポーチを取り出してロケ車の後部座席を借りた。モデルの着替え場所でもある車のウインドウには目隠しのフィルムが貼られている。時間がないので薄化粧。顔色を良く見せるだけでも印象は随分違うものだ。

 ───きれいでいること。

 何と、東さんの遺言である。

 元の造作の限界を超えろとまでは言っていない。私は東さんが撮っていた美女達とは違う。

 東さんは伊野さんと同様、『人』をテーマに写真を撮るのが好きだった。殊に女性を美しく撮影するのが得意で、彼らの仲間達が毎年開いているグループ展ではいつもきれいな女性の写真を発表していた。

 奇抜な造形の衣装をまとった女神。自然の中を駆ける純粋な少女。街に佇む無機的な美女。彼のミューズはその時々によって違ったが、その撮影技術と演出は、彼女達の内面の輝きを引き出すものだ───有名にこそならなかったが、そうした彼の評価は少しずつ高まっていた。

 東さんが病に倒れたのは、その矢先のことだったのだ。

 伊野さんとアシスタントの江上君が話す声を聞きながら道具をポーチにしまった。

「あれ見たらあの世で東が嘆くぞ」

「見慣れてたんじゃないですか」

「ひかる君まで何てこと言うのよ。伊野さんはともかく」

 思わず赤面。ロケ車から降りて二人を上目で睨む。伊野さんは目を細めて笑った。

「東祐朗の被写体の水準はクリアしたな」

「この程度のメイクで?」

「奴もおまえにはそんなに期待してなかった」

「もう!」

 スタッフが揃い、モデルも到着して、ロケ車と伊野さんの車に分乗した。私は伊野さんの車の助手席。持ち主と同じく、がっしりしたボディの四駆だ。撮影場所の公園まで先導するロケ車に続いてゆるりと走り出した。

「……ミオは初めてって言ってたよな」

「うん。アットホームな雰囲気って言うんですか?勝手がわかんない」

「屋外でアットホームとはこれ如何に。字余り」

 伊野さんはクスと笑って、「まあ任せとけ」と請け合った。方向指示機の点灯を伝えるカッチカッチという音を聞きながら顳かみをガラスにくっつけて、交差点の上に広がる空を見た。

 ───天気は上々。

 師走ともなれば春物の撮影である。昨夜見たネットの天気予報では気温も上がるらしい。雲のない青空からは眩しい陽射しが降り注ぎ、これなら成功間違いなしと頬が緩んだ。

 私が勤めるのは通信販売の会社で、カタログ制作が私の仕事だ。これまで主にキャリアスタイルのページを担当していた私に今回初めて、ファミリーファッションの仕事が回ってきた。というのも、横でハンドルを握るこのお方───私は横目でちらりと彼を見た。

 伊野信吾。短く刈った白髪混じりのくせっ毛と、四角い眼鏡にどんぐりみたいな目。そしてさっきのオヤジギャグ。実年齢より軽く十は老けて見える。そのくせ十は若く見える機敏さと少年っぽいロマンチシズムで撮影するカメラマンである。

 我が社のカタログの他に二、三の雑誌のグラビアの仕事も持っており、このほど彼の写真がとある雑誌の表紙を飾った。それが今回撮影の商品イメージに合っているということで伊野さんに依頼すると同時に───

 この数年来、伊野さんと一緒の仕事を手がけて来た不肖この私、石崎海音に新しくしかも大きな仕事が任されたのであった。

 我が社が来年の春に打ち出す新ブランド。当然、紳士婦人子供と展開する商品数も多い。つまり大きく扱われ、ページ数も多い。それを私が担当することになったのだ!

「……ミオ」

「はに?」

「笑顔が全開だぞ」

「………」

 いけないいけない、気を引き締めてかからねば。両手で頬をぺちぺちと叩いた。

 二台の車はT大学の前に差し掛かった。まもなく目的地だ。現場を決めたのは伊野さんである。打ち合わせの際に私は郊外の大きな公園を提案したが、「アホ」の一言で却下された。

「常緑樹があるのはいいよ。足元の芝生が枯れてたら何にもなんねーじゃねーか。落ち葉掃除の広さも考えろ。山の方だろ?街ん中の方が確実に気温が高い」

 あ、そうか……と頷いた。豊かな自然にこだわるより季節の空気を求めなければいけないのだ。

 大学近くの公園に決めたのは、極力「地元の利用者の邪魔にならないように」というこれまた伊野さんらしい配慮である。普通、公園ならば午前中に赤ちゃん連れのママ、午後に子供達が集まるが、そこなら地理的に見てもそうした利用者は少ないとのことだった。

 スタジオやオフィス街、デートスポット等での撮影が多かった私にしてみれば、『勝手がわからない』のはそういう点なのだ。編集者として最も気遣うべき点でもある。家庭誌の撮影経験の豊富な伊野さんから様々な話を聞いた。そうして、街並みの風景も併せて撮りたいということになり、「それならT大の近くにいい所がある」と移動の楽さもあって、ようやく場所が決まった。

 ───T大か。

 私は通り沿いの塀の向こうのキャンパスに思いを馳せた。この広い敷地内のどこかに、私の友人がいる筈である。

 あれ以来………

 考えてみれば二箇月以上、あの女の子みたいな童顔を見ていない。口を開けば声変わりしそびれたみたいな子供っぽいハスキーボイス。やせっぽちの腕や平たい手を動かしてリズミカルに喋る。人懐こい子犬みたいな彼を、ごく親しい者だけがこう呼ぶ───よく喋ってよく歌うから、ラジオ。

 私達の行き着けの喫茶店『六角屋』からも何となく遠ざかっていた。先週、久しぶりに訪れた折に「ラジどうしてる?」と訊ねると、マスターの遠山さんは「あれから来てないよ」と答えた。

 あれから……という言葉が声にならないまま口の中で転がった。

 つまりラジオがここで倒れて以来ということになる。しばらく実家に居ると言っていたけれど、もう二箇月になるのに………

「…大丈夫かな」

「うん」

 妙に確信を持って言う。そうして今日の撮影のことを話すと、「ふうん。ラジが来たら話しておくよ」とだけ。自分も来られなかったこともあって、追求は出来なかった。

 人の心の声を聞き取ってしまう能力の持ち主。それがラジオだ。

 そして彼はその声を「誰もが感じ取っている、ただ認識出来ないだけ」と言う。

 最後に会った日、ラジオの実家を訪れた帰り道、彼は「ごめんなさい」と謝った後、駅で別れる時に「おやすみなさい」と言った他には一言も喋らなかった。それで気まずくて六角屋にも行けなかったのだが───

 路肩の駐車スペースに車を停め、伊野さん達が撮影機材を運び出す。広い公園だが、そう奧までは進まない。ロケ車からあまり離れないようにするのは、小さなモデルが二人居るためだ。

 伊野さんはアシスタント君と私に落ち葉を片付ける場所を指示すると、満面に笑みを浮かべて女の子を抱き上げ、「名前は」と訊ねた。女の子は至極真面目な顔で、小さな指を三本立てて見せた。

「それは、三歳。いくつ、って言ったら三歳」

「………」

「ははは」

 後ろからお母さんが、「まそお、でしょう?」と女の子に繰り返す。伊野さんがニコニコして「恥ずかしくて言えないのかな」と腕から降ろすと、女の子はもう一度指を三本立てて伊野さんに見せるのだった。もう一人の男の子の方は随分としっかりしていて驚かされた。

「やーん、もう可愛いー」

「おいでー。お着替えしましょうねー」

「たまらんっす。もうめろめろっす」

「ミオ、おまえはオヤジか」

 スタイリストさんとメイクさんに手を引かれてロケ車に乗り込む子供達に手を振って伊野さんの声に振り返ると、奇妙なモノを見る目がこちらを見ていた。

「や、あんな可愛い子と仕事出来るんなら次もやりたいっす」

「まだ始めてねーだろッ」

 伊野さんは目も口も大きく開けて呆れて言った。アシスタント君と三人、それぞれに大荷物を抱えて公園の中に入る。チビッコモデルのママ達が遠くなったところで、伊野さんが口をへの字に曲げた。

「そーんな甘いもんじゃないぞ?何すっかわかんねー、わがまま言う、途中で眠くなる、泣かれたら中断すんだぞ」

「任せとけって言ったじゃない」

「フン、まあな…」とロケ車を振り返る彼の顔がふにゃりと崩れた。………ほんとに子供好きなんだから、と見ないふりで掃除を始めた。

 この前の雑誌の表紙を見ながら打ち合わせた後、雑談の中で彼はぽつりと呟いた。

「子供欲しかったな……」

 悔やんでいるのでもなく淋しいのでもなく、まして子供が居れば奥さんと上手くいっていたと思うわけではないと彼は言った。ただ、撮影で小さな子に会うと、可愛くてたまらないのだそうだ。

「おチビの撮影は時間との勝負だぞ。昼には全部終わらせるからな」

「了解」

 撮影が始まった。

 チビッコモデルが飽きないように大人のモデルが声をかけ続け、ボール遊びをする。伊野さんは数枚撮っては三脚の首を掴んでカメラを移動した。その動きのめまぐるしいこと。私の仕事は、通りすがりに足を止めて見ていたギャラリーに、時折「すみません、ちょっと下がってください」と頼んだり、チビッコの表情が曇るとニコーッと笑いかけたりすることだった。

 やがて、伊野さんが移動のたびに同じ方を振り向くことに気が付いた。カメラの位置を決めるのにそうしているのかと思ったが、彼がとうとう後ろを振り向いたので、何だろうと私もそちらを見た。

 ───ラジオ。

 彼は他の見物人よりずっと離れて、木の幹に凭れて立っていた。遠いのに、彼の大きな目に日の光が映って瞬くのがわかった。───いや、あそこはちょうど枝の影と陽射しがまだら模様を描いている。

 彼は笑顔で右手を軽く挙げた。伊野さんが私を振り向く。そして何もなかったように撮影を続けた。

「はい、おしまーい」

 対チビッコモードで伊野さんが言った。「一休みしたら、今度はお散歩だな」と、これは苦笑混じりの独り言。おしまい、の声に見物人が散ってゆく。ラジオは、とそちらを見ると伊野さんが「知り合いか」と訊いた。

 ラジオがこちらに歩み寄って来る。伊野さんはバッグから別のカメラを取り出していた。

 いつものようにラジと呼びそうになって言葉に詰まる。紺色のセーターのアラン模様に見覚えがあった。彼の実家で見た、お母さんの手編みのセーターだ。私の前に立ったラジオは「こんにちは」と微笑んだ。

「遠山さんから聞いたの?」

「ううん。ちょうどミオさん達が着いたのが見えたから」と彼は木立の向こうに見える建物を指差した。「あれが医学部」

 なるほど、車から通りに降りた時に見てたのか。

「ずっと見てたの?」

「ううん、さっき来て…そんなには」

「うん。十分経ってねーな」と伊野さん。よく見てるなと感心。彼の目は野生動物のようだとこんな時によく思う。以前テレビで見たイリオモテヤマネコに顔が似てると思ったことがあるせいかもしれないけれど。

 二人を紹介する。伊野さんの名を聞いたラジオは「ああ、やっぱり」とにっこりした。

「逢坂仁史です」

「おうさかひとし…」

 伊野さんは頷きながら一文字ずつ丁寧に発音した。

「今日はお仕事を拝見出来て良かったです。お邪魔してすみませんでした」

「いや…ロケじゃよくあるし」

「僕もう戻らないと。ミオさん、またね」

「あ、君!」

 戻りかけたラジオを伊野さんが呼び止めた。

「ちょっと撮らせてもらえる?」

「え?」

 ラジオは目を丸くした。私も驚いて伊野さんを見た。彼は手にしたカメラを軽く揺らして、今撮りたいのだと示した。珍しいことだった。

「…すみません。時間がないので」

「時間がある時撮らせてもらえる?」と名刺を差し出す。これにも驚いて、機材ケースを担いだアシスタント君と顔を見合わせ小声で囁き合った。

「なんか怪しいスカウトマンみたいよね」

「彼が可愛いだけに見てて怖いですね」

 ラジオは苦笑して名刺を受け取り「時間があったら」と頷いた。それが溜息混じりだったので、彼は気が進まないのだろうと思った。

「仁史君、嫌なら断っていいのよ?」

「おいミオ!」

「んー…。考えておきます」と彼は伏し目がちに言って、目を上げると微笑し「失礼します」と会釈した。学校の方に向かって駆け出す彼の背中に、伊野さんはカメラを向けてファインダーを覗き込んだ。───撮るのか、今。

 連写するシャッター音の中で、走っていたラジオがふいに身を屈める。

 止まることなく走りながら、落ちていたボールを拾い上げた。

 くるりと振り向きざまにボールをこちらに投げる。

 小さなゴム鞠。サッカーボール模様の赤と黒が回りながら弧を描く。

 その弧の向こうで軽く足を止めた彼は微笑んで、背を向ける。

 ボールが地面に落ちる前にはもう走り出していた。

 てん、てん、とボールが足元に転がってきた。伊野さんがカメラを下ろす。ラジオの背中が遠くなっていった。私はボールを拾った。

「…伊野さんったら…。仁史君はいいって言わなかったじゃない」

「時間があったらいいっつったじゃねーか。ここからそこまでの時間を有効に利用しただけだ」

「気が進まないみたいだったじゃない。悪いわよ」

「俺が撮ったのは風景で、たまたま奴が居ただけだもーん」

「よくもまあそんな屁理屈を次から次とぷっぷかぷっぷか!」

「ははは」

 伊野さんはカメラをしまうとバッグを肩に提げた。ロケ車に向かって三人並んで歩き出した。

「雰囲気あるんだよ。見た目は普通なんだけどな。おとなしそうだし。でも立ってるだけで何であんなに目ェ引くのかなと思って。なかなかお目にかかれねーよ。今撮らなきゃダメだっつー野性の勘がなあ?」

「……さすが保護指定動物」

「そうそう。そんな感じ。次に目撃出来るかどーか」

 あなたのことだっつの。


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