愛を囁くは死人
相沢慎一が住んでいるアパートは、築二十年を少し越えた、ごく普通の二階建てだった。
普通、という言葉ほど頼りないものはないと、慎一はそこに住み始めてから知った。
昼間はなんでもない。
白い外壁は少し煤け、階段の手すりにはところどころ錆が浮いている。
集合ポストの投函口は何度閉めてもぴたりとは合わず、風の強い日にはかたかた鳴った。
駐輪場には誰のものかわからない空気の抜けた自転車が一台、何年も同じ角度で置かれている。
ただ、それだけの場所だった。
夜になると、アパートは急に音の器になる。
隣の部屋で水道を止める音。
上階で何かを落とす音。
外階段を誰かが上がるたびに、鉄板が薄く鳴る音。
換気扇の低い唸り。
壁の中を通る配管のこすれる音。
生活の音は、昼間なら人がいる証拠として聞き流せるのに、夜には人がいることそのものを不安に変える。
慎一は、そういう音に神経質なほうではなかった。
三十五歳。独身。
都内から少し離れた私鉄沿線の駅で降り、そこから歩いて十二分のアパートで一人暮らしをしている。
仕事は小さな広告代理店の営業事務に近い職種で、派手さはないが生活に困るほどでもない。
帰宅はだいたい二十一時前後。
コンビニで弁当を買う日もあれば、冷凍うどんを鍋に入れて済ませる日もあった。
洗濯は週に二回。
掃除は日曜の午前。
友人と飲みに行くことは月に一、二度。実家には盆と正月、それから母親から電話が来た時だけ帰った。
何かを強く欲しがることも、誰かに深く踏み込むことも、いつのまにか少なくなっていた。
隣の二〇三号室に若い夫婦が越してきたのは、春の終わりだった。
引っ越し当日、慎一がゴミを出しに外へ出ると、廊下に段ボール箱がいくつも積まれていた。
ちょうどその時、箱を抱えた男が隣の部屋から出てきて、慎一を見るなり爽やかに頭を下げた。
「あ、すみません。今日から隣に入りました。橘たちばなです」
男は三十前後に見えた。
髪は短く整えられていて、白いTシャツにジーンズという格好でも妙に清潔感があった。
笑う時、相手の目をまっすぐ見る人間だった。
「相沢です。よろしくお願いします」
慎一が答えると、男はもう一度頭を下げた。
「こちらこそ。妻と二人なんで、うるさかったら言ってください」
そのすぐ後ろから、小柄な女性が顔を出した。
「すみません、ご迷惑おかけします」
声の小さな人だった。
肩につくくらいの髪を耳にかけ、慎一に向かって浅く頭を下げる。
顔立ちは派手ではないが、目元の柔らかい女性だった。
手には食器を包んだ新聞紙を持っている。
慎一は慌てて「いえ」と言い、会釈だけ返した。
男は橘亮平、妻は美咲と名乗った。
それから、廊下や階段で会えば挨拶をするようになった。
橘亮平はいつも感じがよかった。
「お疲れ様です」「暑いですね」「雨、降ってきましたね」と、余計な踏み込みをせず、それでいて無視もしない距離感を自然に作れる男だった。
慎一にはそういう人間が少し眩しかった。
美咲は、控えめだった。
朝、ゴミ捨て場で会うと「おはようございます」と小さく言う。
買い物袋を両手に下げて階段を上がっている時、慎一が道を譲ると「すみません」と笑う。
笑う時、少しだけ目を伏せる癖があった。
夏の終わり頃、慎一は美咲が妊娠していることに気づいた。
気づいた、というより、見てしまったと言ったほうが近い。
廊下ですれ違った時、美咲はお腹のあたりを片手でそっと支えていた。
まだ服の上からはほとんどわからなかったが、その仕草に何かを守るような慎重さがあった。
数日後、亮平がゴミ捨て場で慎一に言った。
「来年、子どもが生まれるんです」
慎一は少し驚いた顔をしてしまったと思う。
亮平は照れたように笑って、鼻の横を指でかいた。
「まだ安定期前なんで、あまり大きな声では言えないんですけど。妻がちょっと神経質になってて、夜中に物音とかしたらすみません」
「いえ、おめでとうございます」
慎一はそう言った。
本心だった。
それ以上のことは言わなかった。
気の利いた祝いの言葉などすぐには出てこなかったし、あまり踏み込むのも違う気がした。
亮平は「ありがとうございます」と笑った。
その笑顔は、やはり感じがよかった。
その日の夜、慎一は自分の部屋で缶ビールを開けながら、隣から聞こえる小さな生活音に耳を澄ませた。
食器が重なる音。戸棚を閉める音。亮平の低い声。
美咲の笑い声らしい、かすかな息の揺れ。
壁の向こうに、これから生まれてくる命を待っている人たちがいる。
そう思うと、アパートの夜の音が少しだけ明るく聞こえた。
慎一が橘亮平の浮気を見たのは、それから一か月ほど後のことだった。
その日は雨上がりで、駅前の歩道が街灯をぼんやり反射していた。
慎一はいつものように終電より少し前の電車で帰り、駅前のコンビニに寄った。
弁当の棚にはほとんど何も残っておらず、仕方なくおにぎりとカップ味噌汁を買った。
店を出た時、横手の搬入口のほうから女の笑い声が聞こえた。
高く、少し甘えたような声だった。
慎一は傘を持ち直して、何気なくそちらを見た。
搬入口の脇、コンビニの裏手に通じる細い通路のあたりに、男女が立っていた。
男が女の手を握っている。女は黒いワンピースに薄いカーディガンを羽織っていた。
髪が濡れているのか、街灯の下で黒く光っていた。
男が顔を傾けた。
女が笑いながら少し背伸びをした。
二人の影が、ひとつに重なった。
その男が亮平だとわかった瞬間、慎一は足を止めた。
亮平は、隣の部屋にいる時と同じような清潔なシャツを着ていた。
手にはビニール傘を持っている。女の腰に手を回し、何かを囁いていた。
女が亮平の胸を軽く叩き、それからまた顔を寄せた。
慎一は、自分が見てはいけないものを見てしまったとすぐに理解した。
身体が動かなかった。
コンビニの自動ドアが背後で開き、誰かが出てきた。電子音が鳴る。
その普通の音に押されるように、慎一はようやく視線を外した。
駅へ戻る人の流れに紛れ、遠回りをしてアパートに帰った。
傘は差していなかった。雨はもう止んでいたのに、髪の先から水が落ちた。
コンビニ袋の中でおにぎりの包装がかさかさ鳴った。
その音だけが、やけに近く聞こえた。
部屋に戻ってからも、慎一はしばらく電気をつけなかった。
暗い部屋の中で、冷蔵庫のモーター音だけが低く続いていた。
隣室からは何も聞こえなかった。
亮平はまだ帰っていないのかもしれない。美咲はもう寝ているのかもしれない。
もしかすると、隣の部屋では、亮平の帰りを待つ妻が静かに横になっているのかもしれない。
言うべきなのか。
一瞬だけ、そう思った。
だが、すぐに別の考えが重なった。
自分が言ったところでどうなる。
見間違いかもしれない。いや、見間違いではなかった。
けれど、それを隣の妊娠している妻に伝えていいのか。
そもそも、自分はただの隣人だ。
挨拶をする程度の男だ。人の家庭に口を出す資格なんてない。
慎一は電気をつけ、買ってきたおにぎりをテーブルに置いた。
鮭のおにぎりだった。包装を剥く時、手が少し滑った。
海苔が湿気で指に張りついた。食べても味がしなかった。
翌朝、廊下で美咲に会った。
「おはようございます」
美咲はいつものように頭を下げた。慎一も「おはようございます」と返した。
美咲の手は、お腹の前にあった。
それだけで、慎一は喉の奥が詰まったようになった。
昨夜見た亮平の横顔と、今目の前で目を伏せる美咲の顔が、頭の中で重なった。
言えなかった。
結局、言えなかった。
慎一は、自分が何もしていないことを選んだのではなく、何もしないことに逃げ込んだのだとわかっていた。
それでも、何かを壊す役目を自分が引き受ける勇気はなかった。
それからしばらく、慎一は橘夫妻と顔を合わせるのが嫌になった。
帰宅時間を少しずらした。
ゴミ出しも朝早くにした。廊下で物音がすると、しばらく玄関の内側で待った。
馬鹿げていると思ったが、どうしてもそうしてしまった。
それでも、隣の部屋の音は聞こえた。
夜遅く、亮平が帰ってくる足音。
鍵が回る音。ドアが閉まる音。低い声。
美咲の声は、以前より聞こえなくなった。
食器の音も減った。
代わりに、何かを床に落とすような小さな音が増えた。
ある夜、隣から女の声が聞こえた。
最初、美咲が泣いているのかと思った。けれど違った。壁越しに届いたのは、電話越しのように薄く歪んだ、知らない女の声だった。
「……き」
慎一はテレビの音を下げた。
隣室は静かだった。しばらく何も聞こえない。
やがて、また声がした。
「好き」
はっきりと聞こえたわけではない。
壁に吸われて、音の輪郭は曖昧だった。
それでも、その二文字だけは耳に残った。
亮平が電話をしているのか。
あるいは、美咲のスマホから漏れているのか。
慎一にはわからなかった。
その後に、何かが床に落ちる音がした。
ごとん、と鈍く。
それきりだった。
翌朝、美咲はゴミ捨て場にいた。
大きな燃えるゴミの袋を持っていたが、口を結びきれていなかった。
慎一が近づくと、美咲は驚いたように顔を上げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
声が、前よりも小さかった。
美咲の顔色は悪かった。
唇に色がなく、目の下に薄い影がある。
手元を見ると、ゴミ袋を持つ指が細かく震えていた。
慎一は思わず「大丈夫ですか」と言いかけた。
けれど、口に出せなかった。
美咲は慎一の視線に気づいたのか、ゴミ袋を抱え直して笑った。
「すみません、ちょっと寝不足で」
「そうですか。無理しないでください」
慎一がそう言うと、美咲は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
その声は、礼を言っているというより、これ以上聞かないでほしいと頼んでいるように聞こえた。
慎一はそれ以上何も言えなかった。
秋が深まるにつれて、美咲はさらに痩せていった。
以前は階段で会うと一言二言交わせたのに、今は目が合う前に会釈だけして部屋に入ってしまう。
買い物袋も軽くなった。亮平の姿は、少しずつ見かけなくなった。
最初は帰りが遅いだけだと思っていた。慎一自身も仕事で遅くなることがあったから、生活時間がずれているのだろうと考えた。だが、朝も夜も、休日も、亮平を見ない日が続いた。
代わりに、美咲だけを見かけるようになった。
廊下の端で立ち止まっている美咲。
郵便受けの前で封筒を握ったまま動かない美咲。
ゴミ捨て場で袋の口を結べずにいる美咲。
一度だけ、慎一は階段の途中で彼女と鉢合わせた。
美咲は両手で小さな紙袋を抱えていた。
中身は見えなかったが、袋の上から白い布のようなものが少しだけ覗いていた。
「こんばんは」
慎一が言うと、美咲は少し遅れて顔を上げた。
「こんばんは」
その瞬間、慎一は彼女の目がどこを見ているのかわからないと思った。
慎一を見ているようで、その奥を見ている。
あるいは、何かを見ないようにしている。
「寒くなりましたね」
慎一は、どうでもいい言葉を選んだ。
美咲はうなずいた。
「そうですね」
それだけだった。
すれ違う時、美咲の服から線香のような匂いがした気がした。
気のせいかもしれない。
アパートの近くには小さな寺もあったし、どこかから流れてきただけかもしれない。
慎一はそう思おうとした。
その夜、初めて赤ん坊の泣き声を聞いた。
時刻は午前二時を少し過ぎていた。
慎一は眠れず、スマホで動画を流しながら布団に横になっていた。
音量はほとんど消していた。
画面の中では誰かが笑っていたが、その笑い声は薄い膜の向こうにあるようで、内容は頭に入ってこなかった。
その時、壁の向こうから音がした。
ふ、と息を吸うような小さな音。
慎一は画面から目を離した。
また、聞こえた。
今度は、細く震える声だった。
赤ん坊の泣き声。
慎一は身体を起こした。
最初は、隣室から聞こえていると思った。
二〇三号室。美咲の部屋。
美咲は妊娠していた。けれど、まだ生まれるには早すぎるのではないか。
慎一は正確な予定日など知らない。
それでも、亮平から聞いた時期を考えれば、まだ先のはずだった。
泣き声は、壁の向こうでか細く続いていた。
大きな声ではない。夜泣きというには弱すぎる。
喉を震わせる力が足りず、空気だけで泣いているような音だった。
慎一は布団の上で耳を澄ませた。
隣からは、美咲の声も足音も聞こえない。
赤ん坊の泣き声だけがある。誰かが抱き上げる気配も、あやす声もない。
妙だ。
泣いているのに、誰も動かない。
慎一はスマホの画面を消した。部屋が暗くなる。
冷蔵庫の低い音が戻ってくる。外を走る車の音が遠くで水のように流れた。
泣き声は、止まった。
止まった途端、部屋の中がかえって重くなった。
慎一はしばらく壁を見つめていた。
薄いベージュの壁紙。その向こうに隣の部屋がある。
美咲がいる。赤ん坊がいるのかもしれない。
いや、いないはずだ。自分は何も知らない。
何も知らない。
その言葉は、慎一を少しだけ安心させた。
翌朝、慎一は出勤前に二〇三号室のドアの前を通った。
ドアの下から光は漏れていなかった。
表札には「橘」と書かれた白いプレートがそのまま貼られている。
ベビーカーも、赤ん坊用の荷物も、廊下にはない。
当たり前だ。
慎一は自分にそう言い聞かせた。
だが、その夜も泣き声は聞こえた。
今度は壁ではなかった。
風呂場だった。
慎一はシャワーを浴びていた。
髪を洗い、目を閉じたまま泡を流していると、排水口のあたりから細い声が上がった。
ぅ、あ。
慎一は目を開けた。
水音の中に、確かに混ざっていた。
赤ん坊がしゃくりあげるような、息の切れた泣き声。
水がタイルを叩く音に紛れて、下から聞こえてくる。
慎一は反射的にシャワーを止めた。
浴室が静まり返った。
換気扇だけが回っている。
ぅ、ああ。
排水口ではなかった。
今度は、浴槽の中から聞こえた。
慎一は息を止めた。浴槽には湯を張っていない。
白い底に、前日の水滴がいくつか残っているだけだった。
また泣き声がした。
声は、浴槽の中で反響するように丸くなっていた。
慎一は濡れたまま浴室のドアを開け、脱衣所へ出た。
足元のバスマットが冷たかった。
心臓が速く打っている。体についた泡をろくに流さないまま、バスタオルで乱暴に拭いた。
部屋に戻ると、泣き声はもうしなかった。
慎一は風邪をひきかけた。
翌日、会社で何度もくしゃみをした。
同僚に「体調悪いんですか」と聞かれ、「ちょっと寝不足で」と答えた。
その言葉を口にした時、美咲の顔が浮かんだ。
ちょっと寝不足で。
あの時の彼女の声は、どこか空っぽだった。
赤ん坊の泣き声は、それから毎晩ではなかったが、確実に続いた。
ある時は玄関の外から聞こえた。
深夜、インターホンが鳴った気がして慎一が目を覚ますと、ドアの向こうで赤ん坊が泣いていた。
慎一は布団の中でしばらく動けなかった。
誰かが赤ん坊を抱いて立っているのかと思った。
けれど、ドアスコープを覗いても廊下には誰もいなかった。
泣き声だけが、ドアのすぐ下から滲み込むように聞こえた。
ある時は押し入れの中だった。
古い毛布を出そうとして襖を開けた瞬間、暗がりの奥で短く泣いた。
慎一は思わず襖を閉めた。手を離しても、襖の内側で小さく爪を立てるような音がした。
かり、かり、という乾いた音。赤ん坊にそんな音が出せるはずがないとわかっているのに、慎一はその夜、押し入れに背を向けて眠れなかった。
ある時は、スマホのスピーカーのあたりからだった。
動画を止めた後、画面が黒くなったスマホから、ほとんど息のような泣き声が漏れた。
慎一は慌てて電源を切った。それでも、スマホを置いたテーブルの上で、かすかに音が続いた。
怖かった。
けれど、ただ怖いだけではなかった。
泣き声は怒っていなかった。恨みがましくもなかった。
むしろ、何かを探しているようだった。
暗い部屋の中で、目の見えない小さなものが、手探りで誰かを求めているような音だった。
だから余計に怖かった。
その音が、何を、誰を探しているのか、慎一にはわからなかったからだ。
留守電が残り始めたのは、泣き声を聞くようになってから五日ほど経った夜だった。
仕事から帰った慎一は、部屋に入ってすぐスマホをテーブルに置いた。
画面には不在着信が一件、留守番電話が一件残っていた。番号は非通知だった。
慎一は少し眉を寄せた。
普段、非通知から電話が来ることなどほとんどない。
営業電話なら番号を出すことが多いし、詐欺まがいの電話でも最近は適当な番号が表示される。
非通知というだけで気味が悪かった。
留守電の通知を消そうとして、指が止まった。
録音時間は、三十七秒。
誰だ。
慎一は再生ボタンを押した。
最初に入っていたのは、沈黙だった。
ただの無音ではない。電話の向こうに誰かがいる気配のする無音。
遠くで空調のような音が鳴っている。あるいは、息をひそめている音かもしれない。
慎一はスマホを耳に近づけた。
その時、女の声がした。
「好き」
甘い声だった。
若い女の声。耳元で囁くように、少し笑っているようにも聞こえた。
慎一は眉間にしわを寄せた。
誰かの間違い電話か。そう思った次の瞬間、また声がした。
「好き」
さっきより近かった。
「好き、好き」
声の後ろで、薄く笑う息が混ざった。
「好き好き好き」
慎一はスマホを耳から離した。
再生はまだ続いている。
画面には残り二十一秒と表示されていた。
スピーカーから、女の声が部屋に漏れた。
「愛してる」
その言葉に、慎一の首の後ろが冷えた。
「愛してる。愛してる愛してる愛してる」
女の声は、最初の甘さを保ったまま、少しずつ速くなっていった。
言葉と言葉の間に息が挟まる。
笑い声のようなものが混ざる。
舌が唇を濡らす音がする。
近すぎる。
電話の音質のはずなのに、口の中の湿りまで伝わってくる。
「好き。好き。ねえ、好き。愛してる。愛してるから。ねえ」
最後に、短いノイズが入った。
ぷつ、と切れた。
その瞬間、慎一の耳の奥で甲高い音が鳴った。
きぃん。
金属を細く削るような耳鳴りだった。
慎一は反射的に耳を押さえた。だが音は外からではなく、頭の内側から鳴っていた。
きぃん、きぃん。
視界が少し暗くなる。
テーブルの角が遠のいた。
自分の手が、やけに白く見えた。
慎一はスマホを放り出すように置いた。
耳鳴りは一分ほど続いた。
やがて少しずつ弱まり、冷蔵庫のモーター音と外の車の音が戻ってきた。
慎一は深く息を吐いた。汗をかいていた。
すぐに留守電を削除した。
削除済みの一覧にも残らないように消した。
スマホの電源を切り、しばらくそのままテーブルの上に置いた。
誰かのいたずらだ。
そう思おうとした。
だが、あの声には慎一の名前も、用件も、相手を間違えたような戸惑いもなかった。
ただ「好き」と「愛してる」だけが詰め込まれていた。
愛の言葉なのに、そこには少しの温かさもなかった。
言葉が、人を抱きしめるためではなく、縛るために使われている。
そんな感じがした。
その夜、慎一は夢を見た。
暗い場所に立っていた。
どこかの部屋だった。照明はついていない。
窓の外に赤い光が揺れている。
救急車か、パトカーか。床が冷たい。
裸足なのだと気づいた瞬間、背後で息がした。
慎一は振り返ろうとした。
その前に、腹のあたりで音がした。
ずぶ。
聞いたことのない音だった。
布に水を含ませて押し込むような、柔らかいものの奥へ硬いものが入っていく音。
痛みは遅れてきた。
鋭いというより、熱い。
身体の中心に熱した針金を入れられたような感覚だった。
慎一は声を出そうとした。
出なかった。
背後の女が、耳元で笑った。
「好き」
また音がした。
ずぶ。
今度は脇腹だった。
「好き好き好き」
息が近い。女の髪が頬に触れる。
シャンプーの匂いと、鉄のような匂いが混ざっている。
慎一は逃げようとした。足が動かなかった。
床に何かが広がっている。ぬるい。そこに足裏が滑った。
女は笑いながら囁いた。
「愛してる」
ずぶ。
「愛してる愛してる」
ずぶ。
「愛してるから」
ずぶ。
音だけが増えていく。
慎一は叫んだ。
目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。
自分の叫び声がまだ喉に残っていた。
布団が汗で濡れている。
息がうまく吸えない。
慎一は腹を押さえた。そこには何もなかった。血も傷もない。
それなのに、痛かった。
夢で刺された場所が、じんじんと熱を持っていた。
慎一はしばらく布団の上で丸くなり、痛みが消えるのを待った。
隣の部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
弱く、細く。
慎一は耳を塞いだ。
泣き声は、耳の外ではなく、胸の奥から聞こえてくるようだった。
次の日、留守電はまた残っていた。
番号は表示されていなかった。録音時間は、三十七秒。
慎一は再生しなかった。
画面を見ただけで吐き気がした。
すぐに削除した。
だが、削除した後も耳の奥で、女の声が薄く残っている気がした。
好き。
好き好き好き。
愛してる。
仕事中も、その声はふとした瞬間に戻ってきた。
コピー機が紙を吐き出す音の合間に。
給湯室で水が流れる音の下に。
電車のドアが閉まる電子音の後に。
実際に聞こえたわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、スマホが震えるたび、慎一の身体はびくりと跳ねた。
食欲が落ちた。
昼休みに弁当を開けても、半分も食べられなかった。
夜は眠るのが怖かった。眠ればまた夢を見る。
刺される。音がする。女が耳元で愛を囁く。
三日目の夜、慎一はスマホを洗面所に置いて寝た。
それでも、午前二時過ぎに目が覚めた。
スマホが鳴っていた。
呼び出し音ではなかった。留守電の通知音でもない。
洗面所から、女の声が聞こえていた。
「好き」
慎一は布団の中で固まった。
「好き好き好き」
洗面所のドアは閉まっている。
スマホの電源も切ったはずだった。
なのに、声は水場の白い壁に反響して、廊下を通り、部屋に入ってくる。
「愛してる」
声に、別の音が混ざった。
赤ん坊の泣き声だった。
女の声の下で、か細く泣いている。二つの音は重ならず、混ざり合わず、互いに邪魔をしているように聞こえた。
女の声が大きくなると、泣き声が細くなる。
泣き声が少し強くなると、女の声がひずむ。
「愛してる愛してる愛してる」
ああ、ああ。
「好き」
う、あ。
「ねえ、なんで」
泣き声が、急に近くなった。
慎一の枕元で聞こえた。
彼は飛び起きた。布団の横には何もいなかった。
暗い床、脱ぎっぱなしの靴下、昨日読んだ雑誌。
いつもの部屋だった。
洗面所の女の声も消えていた。
代わりに、壁の向こうで何かが倒れる音がした。
慎一は息を止めた。
二〇三号室からだった。
続いて、誰かが短く呻くような声が聞こえた。
美咲だと思った。慎一は立ち上がりかけた。
ドアを開けて、隣に声をかけるべきだと思った。
けれど、足が動かなかった。
あの時もそうだった。
駅前のコンビニ脇で、亮平と知らない女がキスをしていた時。
自分は動かなかった。見なかったことにした。
今回もまた、慎一は暗い部屋の中で立ち尽くしていた。
隣からは、それ以上何も聞こえなかった。
翌朝、慎一は二〇三号室の前で美咲と会った。
彼女は玄関の鍵を閉めようとしていた。
肩に小さなバッグをかけ、片手で壁に触れている。
顔はさらに青白かった。慎一を見て、無理に笑った。
「おはようございます」
声がかすれていた。
慎一は、ようやく言った。
「あの、大丈夫ですか」
美咲の指が鍵から離れた。
一瞬だけ、彼女の顔から表情が消えた。何かを言おうとして、唇が動いた。
けれど、出てきたのは笑いに似た息だけだった。
「大丈夫です」
それは返事ではなかった。
大丈夫ではない人間が、これ以上何も聞かれないために置く言葉だった。
慎一はわかっていた。わかっていたのに、それ以上踏み込めなかった。
「何かあれば」と言いかけて、やめた。
何かあれば、どうするつもりなのか。自分に何ができるのか。
夫の浮気を見たことすら言えなかった男が、今さら何を言えるのか。
美咲は浅く頭を下げて階段を降りていった。
慎一はその背中を見送った。
彼女の肩のあたりに、白いものがちらついた気がした。
煙のような、埃のような、光の粒のようなもの。
だが、朝の光が廊下に差し込んでいたせいかもしれない。
慎一は瞬きをした。もう何も見えなかった。
留守電は、その日も残った。
再生していないのに、内容がわかった。
好き。
愛してる。
なんで。
どうして。
私だけ。
その言葉が、画面を見るだけで頭の中に流れ込んでくる。慎一はスマホを机の引き出しに入れた。
引き出しを閉め、上から本を何冊も置いた。馬鹿げていると自分でも思った。
だが、そうしないと画面の光が隙間から漏れてくる気がした。
夜、慎一は眠らないようにした。
テレビをつけたままにし、コーヒーを飲み、部屋の電気も消さなかった。
眠らなければ夢を見ない。夢を見なければ刺されない。そう考えた。
午前三時を過ぎた頃、テレビの音が急に遠くなった。
ニュース番組のアナウンサーが何かを話している。
口は動いているのに、言葉が水の中から聞こえるようにぼやけていく。
代わりに、耳鳴りが始まった。
きぃん。
慎一は立ち上がった。
引き出しの中で、スマホが震えていた。
電源は切っていない。だが、マナーモードにしていたはずだ。
震動音が木の内側でくぐもっている。
ぶう、ぶう、と低く鳴る。
そのたびに、机の上のボールペンが少しずつ転がった。
ぶう。
ぶう。
ぶう。
慎一は引き出しを開けなかった。
耳鳴りが強くなる。視界の端が黒く欠ける。
テレビの画面に映っているはずのアナウンサーの顔が、知らない女の顔に見えた。
長い髪。笑っている口元。口だけが妙に赤い。
「好き」
テレビから聞こえた。
慎一はリモコンを投げつけるようにして電源を切った。
画面が暗くなる。
暗くなった画面に、慎一の顔が映った。
自分の背後に、女が立っていた。
慎一は振り返った。
誰もいない。
だが、耳元で息がした。
「愛してる」
慎一は叫びそうになった。
声は出なかった。
首筋に、誰かの唇が触れたような湿った感覚が走る。冷たいのに、息だけは熱かった。
その瞬間、壁の向こうから赤ん坊が泣いた。
これまでで一番強い泣き声だった。
強いと言っても、大きいわけではない。
声の芯が、わずかに太くなっただけだった。
それでも、その泣き声が聞こえた途端、耳元の息が遠のいた。
女の声が、低く歪んだ。
「うるさい」
慎一は、はっきり聞いた。
その声は、留守電の甘い声とは違っていた。喉の奥で潰れた、怒りの声だった。
赤ん坊は泣き続けた。
壁の向こうで。いや、壁ではない。部屋の中心で。
慎一の胸の奥で。どこからともなく、小さな声が上がる。
ああ、ああ。
その声を聞いていると、慎一はなぜか涙が出そうになった。
怖いのに、胸が痛かった。
やめてくれと思った。
けれど、何をやめてほしいのかわからなかった。
女の声なのか、赤ん坊の泣き声なのか、自分が何もしなかったことを思い出すことなのか。
朝になると、慎一はソファの上で倒れるように眠っていた。
夢を見たかどうか、覚えていなかった。
ただ、腹と背中がひどく痛んだ。
起き上がるとめまいがした。
洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、慎一はしばらく動けなかった。
目の下が黒い。頬がこけている。
髭が伸び、肌が乾いている。
三日で人はここまで変わるのかと思った。
いや、もっと前から眠れていなかったのかもしれない。
会社には体調不良で休むと連絡した。
電話を切った後、スマホの画面に留守電の通知があることに気づいた。
録音時間、三十七秒。
慎一は笑ってしまった。
乾いた、短い笑いだった。
削除しようとして、指が止まった。
聞かなければ終わらない気がした。
聞いても終わらないことはわかっていた。
それでも、何かを確かめなければならない気がした。
慎一は再生した。
沈黙。
息。
それから、女の声。
「好き」
耳鳴りが始まる。
「好き好き好き」
慎一は目を閉じた。
「愛してる」
声は甘かった。甘いまま腐っていた。
熟れすぎた果物が指の中で崩れるように、言葉の形だけを保ちながら、中身がどろどろに傷んでいる。
「愛してる愛してる愛してる」
その奥で、別の音がした。
水の音。
雨かと思った。違う。これは、どこかの床に何かが滴る音だ。
ぽた。
ぽた。
それから、女の息。
「なんで」
初めて、留守電の中の言葉が変わった。
「なんで私だけじゃないの」
慎一は目を開けた。
スマホの画面は暗い。再生中の表示だけが白く光っている。
「ねえ、好きって言ったよね」
女は泣いているようだった。笑っているようでもあった。
「愛してるって、言ったよね」
耳鳴りが強くなる。慎一は立っていられず、床に膝をついた。
「だったら、ぜんぶ私のものじゃないと、だめでしょう」
ぷつ、と録音が切れた。
慎一は床に手をついたまま、しばらく動けなかった。
今の言葉は、自分に向けられたものではない。
それだけはわかった。
あの女は、誰かに言っている。
誰かを責めている。誰かを縛ろうとしている。
その声が、なぜ自分のスマホに入るのか。
なぜ自分が夢の中で刺されるのか。
亮平。
その名前が浮かんだ。
駅前のコンビニ裏。女の黒いワンピース。
手を繋ぎ、キスをしていた二人。
あの女なのか。
慎一は吐き気をこらえた。
もしそうなら、自分は関係ない。見ただけだ。
ただ、見ただけだ。
何もしていない。言わなかっただけだ。
言わなかっただけ。
その言葉は、自分の中でひどく軽く、同時に重かった。
昼過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。
慎一はびくりとした。スマホではない。
玄関のインターホン。画面のない古いタイプで、音だけが鳴る。
出る気はなかった。
チャイムは一度きりで止まった。
しばらくして、ドアの下に白い紙が差し込まれた。
慎一は恐る恐る近づいた。
郵便受けから入らなかったチラシかと思った。
違った。
二〇三号室の美咲からだった。
紙には、震えた字で短く書かれていた。
昨日の夜、うるさくしていたらすみません。
それだけだった。
慎一は紙を持ったまま立ち尽くした。
うるさくしていたのは誰だ。
美咲なのか。あの女なのか。赤ん坊なのか。
それとも、自分の部屋で叫びかけた慎一なのか。
慎一はドアを開けた。
廊下には誰もいなかった。二〇三号室のドアは閉まっている。表札の「橘」の文字が、夕方の光で薄く見えた。
その夜、慎一は隣に声をかけようと何度も思った。
二〇三号室の前まで行き、呼び鈴を押す寸前で手を止めた。
自分の部屋に戻り、また出て、また戻った。何を話すつもりなのか決められなかった。
赤ちゃんの声が聞こえます。
変な留守電が来ます。
あなたの旦那さんが浮気しているところを見ました。
どの言葉も、言えるはずがなかった。
結局、慎一は自分の部屋に戻った。
部屋の電気をつけたまま、ベッドに座った。
スマホは電源を切って、冷凍庫の中に入れた。
意味がないことはわかっていた。
だが、手の届く場所に置いておきたくなかった。
午前一時。
隣から、赤ん坊の泣き声がした。
今夜の声は、ひどく弱かった。
ああ、とも、うう、ともつかない。泣こうとして、泣く力が足りないような声。
慎一は壁のほうを見た。胸の奥がざわついた。
「どこにいるんだよ」
思わず、声に出ていた。
返事はない。
ただ、泣き声が少しだけ近づいた気がした。
壁の向こうから、こちら側へ。
慎一は息を呑んだ。
部屋の空気が、ふっと冷えた。耳鳴りではない。女の声もない。
赤ん坊の泣き声だけが、細く、途切れ途切れに続いている。
それは、慎一を呼んでいるというより、誰かを呼び続けて、届かなくて、たまたま近くにいる慎一の耳にも引っかかってしまった音のようだった。
慎一は立ち上がった。
壁に近づき、そっと手を当てた。
古いアパートの壁は冷たかった。
向こう側の気配はわからない。ただ、泣き声だけがある。
その奥に、意味のようなものがあった。
言葉ではない。赤ん坊が喋っているのではない。
けれど、泣き声を聞いていると、慎一の胸の内側に、かすかな形が浮かんだ。
こっち。
そう聞こえた気がした。
こっち、見て。
慎一は手を引いた。
心臓が嫌な打ち方をしていた。
怖い。怖いのに、壁から離れられなかった。
その時、冷凍庫の中でスマホが鳴った。
ありえないほど、はっきりと。
留守電の通知音だった。
慎一は振り返った。
キッチンの冷蔵庫。その上段の冷凍庫。
閉めたはずの扉の隙間から、青白い光が漏れていた。
赤ん坊の泣き声が止まった。
部屋が静まり返る。
次に聞こえたのは、冷凍庫の中から漏れる女の囁きだった。
「好き」
慎一は、その場で膝から崩れ落ちた。
もう無理だと思った。
ここにいたら、自分はだめになる。眠れないとか、痩せるとか、仕事に行けないとか、そういう段階ではなかった。
何かが自分の中へ入り込んで、声の届く場所を増やしている。
部屋の中の音が、ひとつずつ女の声に置き換わっていく。
冷蔵庫の唸り。
換気扇。
水道管。
テレビ。
スマホ。
自分の息。
いずれ、心臓の音まで、あの女の「愛してる」になるのではないか。
慎一は床に座り込んだまま、震える手で冷凍庫を開けた。
冷気が白く漏れた。
スマホの画面には、やはり留守電の通知があった。
非通知。録音時間、三十七秒。
削除した。
また表示された。
削除した。
また表示された。
三度目に削除しようとした時、画面が勝手に再生画面へ変わった。
慎一はスマホを投げ捨てた。
床に落ちたスマホから、女の笑い声がした。
「愛してる」
その声に重なるように、遠くで赤ん坊が泣いた。
慎一は耳を塞いだ。
朝まで、眠れなかった。
翌日、慎一は会社に行けなかった。
上司からの電話にも出られず、メッセージで体調不良とだけ送った。
返事を見る気力もなかった。
水を飲もうとして、コップを落とした。
割れた音が部屋に響いた。
慎一はその音に過剰に怯え、自分でも情けなくなった。
破片を拾おうとして指先を切った。血が少し出た。
その赤さを見た瞬間、夢の中の床を思い出し、吐いた。
昼過ぎ、実家の母から電話が来た。
画面に「母」と表示されているのを見た時、慎一は出ようか迷った。
声を聞けば何かが崩れそうだった。
だが、出なければ留守電になる。留守電というだけで、もう嫌だった。
慎一は通話ボタンを押した。
「もしもし」
自分の声は、別人のようにかすれていた。
「慎一? あんた、声どうしたの」
母の声はいつも通りだった。
その普通さに、慎一は急に泣きそうになった。
「ちょっと風邪」
「風邪って、病院行ったの?」
「行ってない」
「ちゃんと食べてる?」
慎一は答えられなかった。
母は少し黙った後、声を低くした。
「帰ってきたら?」
その一言で、慎一の中の何かが緩んだ。
帰る。
その選択肢を、なぜ今まで考えなかったのだろうと思った。
ここを離れればいい。
アパートを出て、実家に帰る。
母のいる家。仏壇のある居間。古い柱時計の音。煮物の匂い。
子どもの頃から知っている音の中へ戻れば、この声も届かないかもしれない。
「……明日、帰る」
慎一は言った。
「うん。そうしなさい。何時の電車?」
「まだ決めてない。決めたら連絡する」
「無理しないでね」
通話を切った後、慎一はしばらくスマホを見つめていた。
母からの電話には、耳鳴りは起きなかった。
そのことに、ほんの少しだけ安心した。
夕方、慎一は最低限の荷物を鞄に詰めた。
下着、充電器、薬、財布、会社用のノートパソコン。数日分でいいと思った。
数日離れれば何とかなる。部屋の空気を入れ替え、寝不足を取り戻し、ちゃんと食べる。
それから考えればいい。
窓の外は曇っていた。
隣室は静かだった。
慎一は二〇三号室のほうを見た。
壁の向こうに美咲がいるのかどうかもわからない。
声をかけるべきだという思いは、まだ胸の中にあった。
だが、自分はもう限界だった。
誰かを助ける前に、自分が倒れそうだった。
その夜、赤ん坊は泣かなかった。
女の留守電も来なかった。
それが逆に怖かった。
部屋の中が、何かの前触れのように静かだった。
冷蔵庫も、換気扇も、外の車の音も、すべてが遠くにある。
慎一はベッドに入らず、ソファに座ったまま朝を待った。
夜明け前、一度だけ、壁の向こうで小さな音がした。
とん、と。
誰かが壁に手を当てたような音だった。
慎一はそちらを見た。
続いて、赤ん坊の息のようなものが聞こえた。
泣き声ではなかった。
ただ、そこにいる、と知らせるだけの薄い音。
慎一は何も言えなかった。
朝になり、慎一は鞄を持って部屋を出た。
鍵を閉める時、二〇三号室のドアが開いた。
美咲が出てきた。
彼女も小さなキャリーバッグを持っていた。
顔色は悪く、髪は後ろで簡単に結ばれている。
黒いコートの襟元から、細い首が見えた。
慎一を見て、美咲は驚いたように目を開いた。
「相沢さん」
「おはようございます」
「お出かけですか」
「少し、実家に」
慎一が答えると、美咲はほんの少しだけ目を伏せた。
「私もです」
その声に、慎一は何かを感じた。
偶然ですね、と言えば済む場面だった。
けれど、その言葉は出てこなかった。
美咲のキャリーバッグの取っ手を握る手が、白くなるほど力を入れていたからだ。
二人は無言で階段を降りた。
朝の空気は冷たかった。
駅へ向かう道では、通勤の人たちがそれぞれの足音を立てていた。
靴底がアスファルトを叩く音。自転車のブレーキ。遠くで鳴る踏切。
世界はいつも通り動いている。
慎一は、その普通の音に少しだけ救われた。
だが、駅の改札を抜ける時、ポケットの中でスマホが震えた。
慎一は足を止めた。
美咲が振り返る。
「大丈夫ですか」
慎一は答えられなかった。
スマホを取り出すと、画面には一件の留守電通知が表示されていた。
非通知。
録音時間、三十七秒。
ホームに電車が入ってくる音が、遠くから近づいていた。
レールが鳴り、風が押し寄せる。人々が黄色い線の内側に下がる。
慎一は画面を見つめた。
削除しようとした指が、震えてうまく動かなかった。
隣で、美咲が何かを言った気がした。
けれど、その声は電車の走行音に飲まれた。
そして慎一の耳の奥で、あの細い耳鳴りが、静かに始まった。
車輪がレールを噛む甲高い摩擦音。ブレーキの空気が抜ける音。
ホームに立つ人々の靴音、咳払い、鞄の金具が揺れる音。
朝の駅は音で溢れていた。
けれど、そのすべての奥で、慎一の耳には細い耳鳴りだけが伸び続けていた。
きぃん。
スマホの画面には、留守番電話の通知が残っている。
非通知。
録音時間、三十七秒。
慎一は画面を消そうとした。
だが指が震えて、何度も違う場所を触ってしまう。
背中に汗が滲んだ。ホームには人がいる。駅員もいる。電車も来ている。
こんな場所で、あの声が聞こえるはずがない。そう思いたかった。
「相沢さん」
美咲の声がした。
慎一は顔を上げた。
彼女は少し離れたところからこちらを見ていた。
キャリーバッグの持ち手を握ったまま、慎一の顔色をうかがっている。
「顔、真っ白です」
「大丈夫です」
口から出た言葉は、美咲がいつか言ったものと同じだった。
大丈夫ではない人間が、これ以上聞かれないために置く言葉。
自分で言って、その空っぽさがわかった。
電車のドアが開いた。
人が吐き出され、また飲み込まれていく。
慎一は画面を伏せるようにスマホを握り、流れに押されて車内に入った。
美咲も後から続いた。
車内はそれほど混んでいなかった。
通勤のピークを少し過ぎた時間だったから、座席はところどころ空いている。
慎一はドアに近いロングシートの端に座った。
美咲は少し迷ってから、慎一の斜め前ではなく、隣をひとつ空けて腰を下ろした。
電車が動き出す。
がたん、と車体が揺れた。
窓の外でホームの柱が流れていく。
駅名標が白く伸び、すぐに景色は住宅街へ変わった。
線路沿いのフェンス、古いアパート、干された洗濯物、低い屋根。
どれも日常の景色だった。
慎一はスマホを握ったまま、膝の上を見ていた。
耳鳴りはまだ続いている。
電車の走行音に紛れそうで、紛れない。
車輪の規則的な音の間に、細い金属音が縫い込まれている。
がたん、ごとん、きぃん。がたん、ごとん、きぃん。
まるで、線路の先にあるどこか暗い場所へ、少しずつ運ばれているようだった。
「同じ方面なんですね」
美咲が言った。
慎一は少し遅れてうなずいた。
「はい。実家が、終点の二つ前で」
「私も、その隣の駅です」
「そうなんですか」
会話はそこで一度途切れた。
二人とも、言わないことを抱えすぎていた。
電車の窓には、薄く二人の顔が映っている。
慎一の顔はやつれ、美咲の頬もこけていた。
二人とも同じアパートから逃げるように出てきて、同じ電車に乗っている。
それを偶然と呼んでいいのか、慎一にはわからなかった。
「相沢さんも、体調が悪いんですか」
美咲が小さく尋ねた。
慎一は「少し」と答えようとして、やめた。
少しではない。
眠れない。食べられない。毎晩刺される夢を見る。
スマホに女の留守電が残る。
部屋のあちこちから赤ん坊の泣き声がする。耳鳴りが止まらない。
そんなことを言えるはずがなかった。
「最近、あまり眠れていなくて」
結局、そう言った。
美咲は膝の上で両手を重ねた。
「私もです」
その声は、電車の音に消えそうなほど小さかった。
慎一は彼女を見た。
美咲は窓の外を向いていた。
横顔は薄く、目の下には濃い影がある。けれど、その顔はただ怯えているだけではなかった。
疲れ切って、何かを諦めかけ、それでもまだ立っている人間の顔だった。
「橘さん」
慎一は言いかけた。
美咲がこちらを向く。
その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
慎一の身体が跳ねた。
美咲も息を呑んだ。
振動音は一度だけでは終わらなかった。
ぶう、ぶう、と短く続く。
慎一はスマホを取り出した。
画面に表示されているのは、母からの着信だった。
胸の奥が少しだけ緩んだ。
母だ。
あの女ではない。
けれど、電車内で出るわけにはいかなかった。
慎一は画面を見つめたまま、通話を切ることもできずにいた。
やがて着信が止まった。
すぐに、留守番電話の通知が出た。
慎一の口の中が乾いた。
母からの留守電。
そう思いたかった。
けれど通知の表示は、先ほどまでのものと同じだった。
非通知。
録音時間、三十七秒。
慎一は喉の奥で短く息を吸った。
「どうしました」
美咲が囁いた。
慎一は答えなかった。答えられなかった。
通知は画面の中央に残っている。
再生しなければいい。そう思った。消せばいい。
だが、指が勝手に動いた。
まるで誰かに爪先を引かれるように、再生ボタンへ触れていた。
沈黙。
電車の走行音が遠のいた。
がたん、ごとん、という音が急に遠くなる。
車内の人々の話し声も、アナウンスも、隣に座る美咲の息遣いも、厚いガラスの向こうへ押し込められていく。
代わりに、耳元で女が息をした。
「好き」
慎一はスマホを離そうとした。
指が動かなかった。
「好き、好き」
女の声は、前よりも近かった。
スマホのスピーカーからではない。
耳のすぐ内側に、湿った唇が触れているような近さだった。
「愛してる」
耳鳴りが一気に強くなった。
きぃん、という音が頭の中心を貫く。
視界が白く滲んだ。窓の外の景色が溶ける。
車内の蛍光灯が長く伸びる。
足元が傾いているように感じた。
「愛してる愛してる愛してる」
女の声が笑う。
「ねえ、聞いてる?」
慎一は息ができなかった。
「聞いてるよね。見てたよね」
その言葉に、慎一の背筋が凍った。
見てた。
駅前のコンビニ裏。亮平と女の影。
手を繋ぎ、キスをしていた二人。
自分は見た。見てしまった。そして、何も言わなかった。
「見てたのに」
女の声が、甘く歪む。
「なんで黙ってたの」
慎一は目を閉じた。
違う。俺は関係ない。俺はただ見ただけだ。
そう言おうとした。だが、声にならなかった。
腹のあたりに熱い痛みが走った。
夢の中の痛みと同じだった。
刃物が入る音が、車内に響いた気がした。
ずぶ。
慎一は身体を折った。
「相沢さん」
美咲の声がした。
遠い。
「相沢さん、大丈夫ですか」
慎一は顔を上げようとした。
だが、視界の端に黒い髪が見えた。
座席の向かい、窓の反射の中に、女が立っている。
黒いワンピース。濡れた髪。笑っている口。
「愛してる」
女が言った。
その時、美咲の膝元で何かが光った。
最初は、窓から入った朝の光が反射したのだと思った。けれど違った。
美咲の膝のあたりに、白い煙のようなものが漂っていた。
煙というには粒が細かく、埃というには自分で動いている。
小さな白い光がいくつも集まり、ほどけ、また集まる。
それは美咲の膝元から胸元へ、ゆっくりと上がっていった。
美咲は気づいていない。
白いものは、彼女の肩に触れようとして、触れられずに揺れた。
胸のあたりへ寄り、また離れる。
まるで、そこに顔を埋めたいのに、どうしていいかわからない小さなもののように。
慎一は、耳鳴りの中でそれを見ていた。
白い煙が、ふいに慎一のほうを向いた気がした。
向く、というほどはっきりした形はない。目も顔もない。
ただ、その揺れ方が変わった。美咲の胸元から離れ、慎一と美咲の間へ漂ってくる。
近づいた瞬間、耳鳴りが弱まった。
女の声が遠のいた。
「……なんで」
留守電の中の声が、初めて怯えたように揺れた。
白い煙は慎一の膝元まで来て、そこでふわりと止まった。
冷たくはなかった。あたたかくもない。
ただ、ひどく弱い気配だった。
触れたら消えてしまいそうなのに、確かにそこにある。
慎一の胸の奥で、赤ん坊が短く泣いた。
あ。
声ではない。
意味でもない。
けれど慎一は、その音を聞いた瞬間、息ができるようになった。
電車の走行音が戻ってくる。
がたん、ごとん。
隣に座る美咲の声が、今度ははっきり聞こえた。
「相沢さん」
慎一はスマホを握りしめたまま、顔を上げた。画面には留守電の再生終了の表示が出ている。
録音は終わっていた。
耳鳴りは、完全ではないがかなり小さくなっている。
「すみません」
慎一はかすれた声で言った。
「ちょっと、めまいが」
美咲は鞄からペットボトルの水を出した。
「飲めますか」
慎一は受け取ろうとして、手が震えていることに気づいた。
美咲は何も言わず、キャップを開けてから渡してくれた。
水を飲むと、喉が痛んだ。
「ありがとうございます」
美咲は首を振った。
その肩の近くで、白い煙がまた揺れていた。
慎一は目を凝らした。見ようとすると薄くなる。
視線を少し外すと、そこにあるとわかる。
美咲の胸元に寄り添い、触れられないまま、何度も近づこうとしている。
慎一は胸が詰まった。
なぜか、怖くなかった。
得体の知れないものを見ているはずなのに、そこからは女の留守電のような冷たい執着を感じなかった。
むしろ、あまりにも小さく、あまりにも頼りなく、ただ誰かに気づいてもらうのを待っているようだった。
電車はしばらく揺れ続けた。
二人はほとんど話さなかった。
けれど、沈黙はさっきまでとは少し違っていた。
美咲は時々慎一を気にしてくれた。
慎一は水を少しずつ飲みながら、白いものの動きを見ないようにして、見ていた。
終点の二つ前の駅が近づくと、慎一は立ち上がった。
足元がふらついた。
美咲もキャリーバッグを持って立った。
「私、次の駅なんです」
「そうでしたね」
電車のドアが開いた。
慎一がホームへ降りると、朝の冷たい空気が頬に触れた。
美咲も一緒に降りた。慎一は驚いて振り返った。
「次の駅じゃないんですか」
「少し、歩きます。ここからでも帰れるので」
美咲はそう言って、曖昧に笑った。
その笑い方が、誰かに一人にされたくない人のものだと、慎一にはわかった。
駅前には小さなロータリーがあり、バス停に数人が並んでいた。
高校生らしい二人組が自転車を押して笑っている。
古い喫茶店のシャッターはまだ半分閉まっていた。
慎一にとっては、見慣れた地元の朝だった。
けれど、美咲が隣にいるだけで、その景色は少し違って見えた。
二人はロータリーの端で立ち止まった。
「大丈夫ですか。お家まで」
美咲が聞いた。
「はい。歩いて十五分くらいなので」
「そうですか」
そこで会話が切れた。
このまま別れれば、またそれぞれの家に帰るだけだ。
たぶん、眠る。たぶん、また何かを聞く。
慎一はそう思った。
何かを言わなければならない気がした。
だが、何を言えばいいのかわからない。
先に口を開いたのは、美咲だった。
「相沢さん」
「はい」
「明日、少しだけ、お時間ありますか」
慎一は彼女を見た。
美咲は視線を落としていた。
手の中のキャリーバッグの持ち手を、指で何度もなぞっている。
「変なことを聞くかもしれません。でも、今日、電車の中で……相沢さん、何か、聞こえていたんじゃないかって」
慎一の喉が鳴った。
「聞こえていた、というか」
「私も」
美咲が言った。
慎一は息を止めた。
美咲はゆっくり顔を上げた。
「私も、最近、聞こえるんです」
その声は震えていた。
「赤ちゃんの泣き声が」
ロータリーをバスが出ていく。
エンジン音が二人の間を通り過ぎる。
朝の街は何も知らない顔で動いている。
慎一は、すぐには返事ができなかった。
美咲の肩のあたりで、白い煙が小さく揺れた。
「明日、どこかで」
慎一はやっと言った。
「話しましょう」
美咲は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
それから二人は別れた。
慎一は実家までの道を歩いた。
昔通った小学校の前を過ぎ、酒屋の角を曲がり、用水路沿いの細い道を進む。
子どもの頃から何度も歩いた道だった。
足元のアスファルトのひび割れ、古い家の塀、柿の木。
何も変わっていないようで、少しずつ変わっている。
母は玄関先で慎一を見るなり、顔色を変えた。
「あんた、何その顔」
慎一は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「寝てないだけ」
「だけじゃないでしょ」
母はそれ以上問い詰めず、慎一を家に上げた。
居間には朝の匂いが残っていた。味噌汁。炊いた米。仏壇の線香。
柱時計が、こち、こち、と音を立てている。
その音を聞いた瞬間、慎一は泣きそうになった。
普通の家の音だった。
誰かを縛るための声ではない。
どこからか呼ぶ泣き声でもない。
ただ、時間がそこにあることを知らせる音。
母が粥を作ってくれた。
慎一は半分ほど食べた。
食べ物が喉を通るのは久しぶりだった。
食べ終わると、急に眠気が来た。
仏壇のある和室に布団を敷いてもらい、慎一は横になった。
眠るのは怖かった。
けれど、身体は限界だった。
障子越しに午後の光が入っている。
柱時計の音が遠くなる。
母が台所で皿を洗う音がする。水道の音。茶碗が触れる音。
そういう音に包まれて、慎一は落ちるように眠った。
夢は見なかった。
少なくとも、刺される夢ではなかった。
夜中、一度だけ目が覚めた。
耳鳴りはしなかった。スマホは枕元に置いていなかった。
母が心配して、居間で充電しておくと言って持っていったのだ。
慎一は天井を見上げた。
実家の天井には、子どもの頃に見ていた木目がそのまま残っていた。
夜の闇の中で、それは顔のようにも見えたが、怖くはなかった。
ふと、遠くで赤ん坊が泣いた気がした。
慎一は身体を固くした。
だが、次にはもう聞こえなかった。
代わりに、仏壇の線香がかすかに匂った。
母が寝る前にあげたものだろう。
煙はもう見えない。
けれど、部屋の空気に薄く残っている。
慎一は布団の中で目を閉じた。
あれは、追ってきたのだろうか。
それとも、ついてきたのだろうか。
どちらなのか、まだわからなかった。
翌日、美咲とは駅前の喫茶店で会うことになった。
喫茶店は慎一が高校生の頃からある店で、駅前の通りから少し入ったところにあった。
茶色いレンガ風の外壁に、色褪せた緑の看板。
店内にはジャズが小さく流れ、壁には古い映画のポスターが飾られている。
客は年配の夫婦と、新聞を読んでいる男だけだった。
慎一が先に着いて窓際の席に座っていると、美咲が五分ほど遅れてやって来た。
昨日より少しだけ顔色が戻っているように見えた。
けれど、それは化粧で隠しているだけかもしれなかった。
美咲は慎一を見つけると、浅く頭を下げた。
「すみません、お待たせしました」
「いえ」
二人は向かい合って座った。
店員が水を置きに来た。
美咲はホットティーを、慎一はブレンドコーヒーを頼んだ。
注文を終えた後、しばらく沈黙が落ちた。
店内のジャズは控えめだった。
カップがソーサーに触れる音。新聞をめくる音。外を通る車の音。
どれも穏やかで、普通だった。
それなのに、慎一はテーブルの下で手を握りしめていた。
「昨日のことなんですけど」
慎一が言うと、美咲はうなずいた。
「はい」
「橘さんは、いつから聞こえているんですか」
美咲は水の入ったグラスを見つめた。
「最初は、アパートで」
「赤ちゃんの声が?」
「はい」
彼女はそこで一度息を止めた。
「夜中に、壁の向こうから聞こえるんです。でも、壁の向こうって、相沢さんのお部屋ですよね」
慎一の背中が冷えた。
自分には、隣室から聞こえていた。
美咲には、自分の部屋のほうから聞こえていた。
二人の間の壁、そのどちら側にも属さない場所で、赤ん坊は泣いていたのだ。
「私は、最初……」
美咲の声がかすれた。
「私がおかしくなったんだと思いました」
慎一は何も言えなかった。
美咲は続けた。
「聞こえるはずがないんです。聞こえたら、いけないんです。だって、あの子は」
言葉がそこで止まった。
美咲の指が、テーブルの上で震えていた。
慎一は、彼女がその先を言えないのだとわかった。
言うだけで、何度も失い直すことになるのだろう。
その時だった。
美咲の右肩の近くで、白いものが揺れた。
慎一は息を呑んだ。
昨日、電車で見たものと同じだった。
白い煙。きらきらした細かな粒。
喫茶店の照明の中で、それはほとんど見えないほど薄かった。
それでも、確かにそこにいた。
それは美咲の肩から胸元へ降りていく。
美咲は気づかない。
白いものは、彼女の胸のあたりで少し留まり、そこへ寄り添うように揺れた。
慎一は見ないようにしようとしたが、目を離せなかった。
耳鳴りはしなかった。
女の声も聞こえない。
ただ、遠くで赤ん坊が泣くような、息の揺れだけがあった。
あ。
それは店内の音ではなかった。慎一の耳に聞こえるというより、胸の奥で鳴った。昨日より少しだけ輪郭があった。
白いものが、美咲の胸元に近づく。
あ、あ。
その声の奥から、意味が流れてきた。
言葉ではない。赤ん坊が文として話しているわけではない。
ただ、泣き声に触れた慎一の胸の中に、柔らかく、痛いほど幼い願いが浮かび上がった。
抱いてほしい。
そういう意味だった。
正確には、「抱いて」と言っているのではない。
もっと小さく、もっと頼りなく、身体ごと母親のほうへ伸びようとしている気配だった。
腕も首もまだしっかりしていない小さなものが、ただあたたかい場所を探している。
その向かう先が、美咲の胸だった。
慎一は唇を噛んだ。
白いものは、美咲の服に触れようとして、すり抜けるように揺れた。
もう一度、近づく。
また、触れられない。
その繰り返しが、あまりにも静かで、あまりにも残酷だった。
「あの」
慎一は声を出した。
美咲が顔を上げる。
「変なことを言います」
美咲は黙っていた。
「信じなくてもいいです。俺も、自分が何を言っているのか、ちゃんとはわかっていません」
美咲の目が揺れた。
慎一は深く息を吸った。
「橘さんのそばに、白いものが見えます」
美咲の顔から血の気が引いた。
「白いもの」
「煙みたいな、光みたいなものです。昨日、電車の中でも見ました。その時、俺の耳鳴りが止まりました」
美咲は両手を胸の前で握った。
慎一は言葉を選びながら続けた。
「怖いものには、見えません」
それだけは、はっきり言いたかった。
「俺のところに来ている留守電の声とは、全然違います。あれは……あの女の声は、近づかれると身体の中が冷たくなる。でも、この白いものは違う」
「何なんですか」
美咲の声は震えていた。
慎一は答えるのが怖かった。
だが、胸の奥の泣き声が、また小さく震えた。
こっち。
見て。
慎一は目を閉じた。
「たぶん」
言葉が喉につかえた。
「橘さんの、赤ちゃんだと思います」
美咲は動かなかった。
店内のジャズだけが静かに流れていた。
カウンターの奥で、店員がカップを置く音がした。
かちゃり、と小さく鳴ったその音が、やけに遠かった。
「そんなこと」
美咲が言った。
「そんなこと、あるわけ」
最後まで言えなかった。
白いものが、美咲の胸元から少し上がった。まるで彼女の顔を見ようとしているようだった。けれど、美咲の目は慎一だけを見ている。白いものには届かない。
慎一の胸の奥へ、また意味が流れ込んできた。
まま。
はっきりした言葉ではない。けれど、その音の向かう先だけはわかった。
まま、こっち。
こっち、見て。
慎一は耐えきれず、視線を落とした。
「泣いてます」
美咲の唇が震えた。
「何て」
「言葉じゃないんです。俺にも、ちゃんと聞こえているわけじゃなくて。ただ、泣き声の奥に、そういう意味がある気がするんです」
慎一は胸を押さえた。
「抱いてほしいみたいです。見てほしい。ここにいるって、気づいてほしい。たぶん、それだけです」
美咲の目に涙が溜まった。
「責めてるんですか」
その問いは、あまりにも小さかった。
慎一はすぐに首を振った。
「違います」
強く言った。
「違うと思います。少なくとも、俺にはそうは聞こえません。怒ってない。恨んでない。ただ……」
慎一は白いものを見た。
それは、美咲の胸元に寄り添いながら、何度も触れようとしていた。
「ただ、近くにいたいんだと思います」
美咲の頬を涙が落ちた。
彼女は声を出さずに泣いた。
口を手で押さえ、肩だけが小さく震えた。
慎一は何もできなかった。
紙ナプキンを差し出すことしかできなかった。
美咲はそれを受け取り、目元に当てた。
「私」
かすれた声で、彼女は言った。
「ずっと、謝ってました」
慎一は黙って聞いた。
「ごめんねって。守れなくてごめんねって。私のせいでごめんねって。毎日、言ってました」
彼女は胸元を押さえた。
「でも、返事なんてあるはずなくて。泣き声が聞こえるようになってからも、私、自分が責められてるんだと思って」
「違います」
慎一はもう一度言った。
自分に何がわかるのかとは思った。それでも、その点だけは譲ってはいけない気がした。
「違うと思います」
美咲は紙ナプキンを握りしめた。
「本当に、いるんですか」
慎一は白いものを見た。
今は、美咲の胸のすぐ前に漂っていた。
そこに顔があるわけではない。
手があるわけでもない。
ただ、慎一には、その小さなものが美咲を見上げているように感じられた。
「います」
慎一は言った。
「ここに」
そう言った瞬間、白いものがわずかに震えた。
赤ん坊の泣き声が、胸の奥で短く鳴った。
あ。
その音には、さっきより少しだけ安堵が混じっていた。
美咲は崩れるように背中を丸めた。
声を殺そうとして、殺しきれない嗚咽が漏れた。
慎一は周囲を見た。
年配の夫婦が一瞬こちらを見たが、すぐに視線を外した。店員も何も言わなかった。
美咲はしばらく泣いた。
泣いて、泣いて、それから少しずつ息を整えた。
「話さないといけないですよね」
やがて彼女は言った。
慎一は静かに首を振った。
「無理には」
「いいえ」
美咲は涙を拭いた。
「相沢さんにも、もう関係ないことじゃないと思うので」
その言葉に、慎一の胸が痛んだ。
関係ない。
自分は何度もそう思おうとしてきた。
けれど、もう関係ない場所にはいなかった。
見た。聞いた。見なかったことにした。そのすべてが、今ここに繋がっている。
美咲はホットティーのカップを両手で包んだ。もう湯気はほとんど立っていなかった。
「夫は」
そう言って、少しだけ間を置いた。
「亮平は、亡くなりました」
慎一はわかっていたはずなのに、言葉として聞くと息が止まった。
「……いつ」
「一か月くらい前です」
慎一は記憶を辿った。
その頃から、亮平を見かけなくなった。
美咲だけを見るようになった。
「事件になりました。でも、ニュースでは名前は出ませんでした。地方紙には少し載ったみたいです。東京のほうでは、ほとんど」
美咲は目を伏せた。
「女の人に刺されました」
慎一の腹の奥が冷えた。
夢の中の音が戻ってくる。
ずぶ。
「その人も、亮平の相手でした」
美咲は言った。
「片桐沙也さんという人です」
慎一はその名前を初めて聞いた。
片桐沙也。
留守電の声に、名前が与えられた瞬間だった。
「最初は、私も知らなかったんです。夫の浮気のこと。なんとなく、帰りが遅いとか、スマホを見られたくなさそうにするとか、そういうのはありました。でも、決定的なことはなくて」
慎一は指先が冷えていくのを感じた。
自分は決定的なものを見ていた。
「ある日、家のポストに封筒が入っていました」
美咲はゆっくり話した。
「中には、写真が入っていて。亮平と、女の人が一緒に写っていました。手を繋いでいたり、抱き合っていたり。あと、私宛ての手紙も」
慎一は何も言えなかった。
「『あなたがいるから、あの人が苦しんでいる』って。『早く別れてあげて』って。最初は、その人が私に嫌がらせをしているんだと思いました。実際、そうだったんですけど」
美咲の声が少し震えた。
「その後、非通知の電話が来るようになりました。出ると、何も言わないんです。ただ、息だけが聞こえる。切ろうとすると、小さな声で言うんです」
慎一は続きを知っていた。
「好きって」
美咲は顔を上げた。
慎一の反応を見て、彼女は何かを悟ったようだった。
「相沢さんにも、聞こえているんですね」
慎一はうなずいた。
「留守電に、残ります。非通知で。削除しても戻ってくる。好き、愛してるって、何度も」
美咲は両手で口元を覆った。
「ごめんなさい」
「橘さんが謝ることじゃないです」
慎一は言った。
「本当に、違います」
美咲は目を伏せたまま、何度か小さく呼吸した。
「沙也さんは、私に電話をしてきました。最初は無言。次は、亮平の声を録音したものを流してきたこともありました。『好きだよ』とか、『愛してる』とか。たぶん、二人でいる時の会話を録っていたんだと思います」
慎一は吐き気を覚えた。
愛の言葉が、凶器のように使われている。
「それから、私の職場にも電話が来ました。家の前に立っていたこともあります。夜中にインターホンが鳴って、出ると誰もいない。でも、ドアの向こうで笑い声だけが聞こえる」
美咲はカップを見つめていた。
「亮平に言いました。でも、彼は最初、認めませんでした。仕事の関係の人だとか、勘違いだとか。私が不安定になっているだけだって」
その言葉を聞いて、慎一の中に鈍い怒りが湧いた。
美咲は妊娠していた。
その時に、自分のしたことを隠すために、彼女の不安のせいにしたのだ。
「でも、ある日、沙也さんが家まで来ました」
美咲の指が震えた。
「亮平がいる時でした。玄関の前で、ずっと泣いてました。『会いたい』『開けて』『私のほうが愛してる』って。亮平は、警察を呼ぶって言ったんですけど、呼びませんでした。呼んだら困るのは自分だったからだと思います」
慎一は目を閉じた。
壁の向こうで聞いた、知らない女の声。
好き。
床に何かが落ちる音。
あれは、その頃だったのかもしれない。
「私は、その頃からあまり眠れなくなりました。お腹の子のことを考えないといけないのに、電話の音が怖くて、スマホが鳴るだけで吐きそうになって」
美咲は胸元に手を当てた。
白いものが、その手の近くに漂っていた。
「ある朝、出血して」
慎一は息を詰めた。
美咲は淡々と言おうとしていた。けれど、声はどうしても揺れた。
「病院に行って、そのまま」
それ以上は言わなかった。
言わなくても、十分だった。
慎一はテーブルの木目を見つめた。
胸の中に、赤ん坊の泣き声が蘇った。
壁の向こうから。風呂場から。押し入れから。スマホの近くから。
あの泣き声は、怖がらせるためではなかった。
母親の近くに戻りたかっただけなのだ。
美咲は続けた。
「亮平は謝りました。泣いて謝って、もう二度としないって言いました。でも、私はその時、何を聞いても、遠くから聞こえるみたいで」
彼女は少し笑った。
笑いにはならなかった。
「それでも、一人になるのが怖くて。離れる気力もなくて。何も決められなかった」
慎一はその言葉を責める気にはなれなかった。
人は、壊れかけている時ほど、大きな決断ができない。
外から見れば逃げればいい、別れればいい、助けを求めればいいと思うことでも、その場にいる人間の足元はすでに崩れている。
「その後です」
美咲の声が、さらに低くなった。
「亮平に、また別の人がいることがわかりました」
慎一は顔を上げた。
「別の」
「はい。沙也さんとは別の女性です。佐伯莉奈さんという人でした」
慎一は言葉を失った。
「沙也さんが、それを知ったんです。どうやって知ったのかはわかりません。でも、知ってしまった」
美咲の目は、もう涙で濡れていなかった。
乾ききった悲しみがそこにあった。
「亮平は、沙也さんにも『愛してる』と言っていたんだと思います。莉奈さんにも、たぶん。私にも、謝る時に同じことを言いました。愛してるって」
慎一は、あの留守電の声を思い出した。
愛してる。
愛してる愛してる愛してる。
一つの言葉が、いくつもの場所で軽く使われ、いくつもの人間の中で違う形に腐っていった。
「事件の日、亮平は莉奈さんと会っていました」
美咲は言った。
「そこに沙也さんが行って、二人を刺したそうです。その後、自分も」
店内の音が消えたように感じた。
慎一の耳には、自分の心臓の音だけが聞こえていた。
「私は、警察から連絡を受けました。夫が亡くなったと聞いても、すぐには何も感じませんでした。ただ、電話の向こうの声が遠くて。何度も聞き返して」
美咲は指先でカップの縁をなぞった。
「その夜からです。赤ちゃんの泣き声が、はっきり聞こえるようになったのは」
白いものが、美咲の胸元で小さく震えた。
慎一の胸にも、かすかな痛みが走った。
「沙也さんの声も?」
慎一が聞くと、美咲はうなずいた。
「最初は、私のスマホに。非通知で留守電が残るようになりました。削除しても、また残るんです。『好き』『愛してる』って。亮平に言っているのか、私に言っているのか、もうわからない声で」
「今も」
「実家に戻ってからは、少し減りました。でも、完全には」
美咲は慎一を見た。
「相沢さんは、どうして聞こえるようになったんでしょう」
その問いは、慎一自身がずっと避けていたものだった。
彼はしばらく黙った。
そして、言った。
「俺、見たんです」
美咲の表情が変わった。
「何を」
「亮平さんが、女の人と一緒にいるところを」
慎一は拳を握った。
「駅前のコンビニの裏で。手を繋いで、キスしていました。たぶん、沙也さんだったと思います」
美咲は何も言わなかった。
慎一は続けた。
「あの時、橘さんが妊娠しているのを知っていました。でも、言えなかった。俺はただの隣人だし、余計なことだし、間違いだったらとか、いろいろ考えて」
言い訳だった。
自分で話しながら、それが全部言い訳だとわかった。
「結局、見なかったことにしました」
美咲は慎一を見ていた。
責めるでもなく、驚くでもなく、ただ静かに。
その静けさが、慎一にはつらかった。
「すみません」
慎一は頭を下げた。
「俺が言っていたら何か変わったなんて、そんな都合のいいことは思いません。でも、何も言わなかったのは事実です。すみません」
しばらく、沈黙があった。
やがて美咲は、ゆっくり首を振った。
「相沢さんのせいじゃないです」
慎一は顔を上げられなかった。
「本当に、違います」
美咲の声は弱かったが、はっきりしていた。
「私も、たぶん見ようとしなかったことがたくさんありました。でも、それは私のせいじゃないって、今はまだ思えなくても、そう思わないといけないんだと思います。だから、相沢さんも、自分のせいにしないでください」
その言葉は、慎一の胸に深く刺さった。
美咲自身がまだ自分を許せていないのに、慎一にはそう言ってくれた。
白いものが、美咲の手元へ寄った。彼女の指に触れようとして、やはり触れられずに揺れる。そのたびに、慎一の胸の奥で小さな泣き声が滲んだ。
さわって。
意味が流れてきた。
美咲の手に。
触ってほしい。
慎一は迷った。これ以上伝えることが、美咲を傷つけるのではないかと思った。けれど、伝えなければ、この小さな願いはまた届かない。
「橘さん」
慎一は静かに言った。
「今、手の近くにいます」
美咲は息を止めた。
「触ろうとしてます。たぶん、橘さんに、触ってほしいんだと思います」
美咲は自分の右手を見た。
そこには何も見えないのだろう。彼女の目は、空っぽの空間を探していた。
「どのあたりですか」
「右手の、指の近くです」
美咲は震える左手で、そっと右手の甲を包んだ。
本当に何か小さなものを壊さないように、慎重に。
その瞬間、白いものがふわりと広がった。
慎一の胸の奥で、泣き声が止まりかけた。
完全に止まったわけではない。けれど、さっきまでの必死さが少し薄れた。細い息が、安心したように震えた。
美咲は目を閉じた。
涙がまた頬を伝った。
「ここにいるの」
彼女は囁いた。
白いものは答えなかった。
声も出さなかった。
ただ、美咲の手の周りで、光の粒のように揺れていた。
慎一には、その沈黙こそが返事のように思えた。
しばらく二人は何も言わなかった。
喫茶店の音が少しずつ戻ってきた。
カップの音。ドアベル。店員の低い返事。ジャズのベースライン。外を走る車。
現実の音が戻ってくることが、こんなにありがたいとは思わなかった。
やがて美咲は、涙を拭いて慎一を見た。
「相沢さん」
「はい」
「私、神社に行こうと思っていました」
「神社?」
「実家の近くに、昔からある神社があるんです。子どもの頃、七五三もそこでしました。こういうことを相談していいのかわからないけど、もう、他にどうしたらいいか」
慎一はうなずいた。
神社で何かが解決する保証はない。
神主が霊を祓えるとも思えない。
けれど、少なくとも、スマホの留守電を削除し続けるよりは、人のいる場所へ行ったほうがいい気がした。
誰かに話すこと。祈ってもらうこと。正しい形で、怖いものと向き合うこと。
それが必要なのだと思った。
「俺も行きます」
慎一が言うと、美咲は驚いたように目を開いた。
「でも」
「俺にも、来ていますから」
慎一はスマホを見た。
今のところ通知はない。画面は静かだった。
「それに、たぶん一人では行かないほうがいい」
美咲は少しだけ迷い、それから小さく頭を下げた。
「お願いします」
その時、店内のドアベルが鳴った。
からん、と明るい音がした。
慎一は反射的にそちらを見た。
入ってきたのは買い物帰りらしい年配の女性だった。
何でもない客だ。何でもない音だ。
それでも、慎一の身体はまだ音に怯えていた。
美咲も同じように肩を揺らしていた。
二人は顔を見合わせた。
少しだけ、苦笑に近いものがこぼれた。
笑えるような状況ではなかった。
けれど、そのほんの小さな笑いが、今の二人には必要だった。
店を出る頃には、昼近くになっていた。
外は薄く晴れていた。
駅前の通りを、子どもを乗せた自転車が通り過ぎる。
前の座席に座った子が、母親のコートの袖を握っていた。
その何気ない光景を、美咲はじっと見ていた。
慎一は何も言わなかった。
美咲の胸元に、白いものが寄り添っていた。
それは、さっきより少しだけ近く見えた。
まるで、やっと自分のいる場所を誰かに知ってもらえた小さなものが、まだ触れられないまま、それでも母親のそばを離れまいとしているようだった。
その日の午後、二人は翌日、神社へ行く約束をした。
別れ際、美咲は慎一に言った。
「相沢さん」
「はい」
「昨日、電車で相沢さんが苦しそうにしていた時、私も聞こえたんです」
慎一は足を止めた。
「何が」
「女の人の声です」
美咲の顔が強張った。
「好きって。愛してるって。私のスマホじゃなくて、相沢さんのほうから聞こえているのに、耳元で言われているみたいで」
慎一の手が冷えた。
美咲は続けた。
「でも、その後、赤ちゃんの声も聞こえました」
慎一は彼女を見た。
「泣いていました。でも、怖くなかった」
美咲は胸元に手を当てた。
「私には、まだ何を言っているのかわかりません。でも、あの子がそこにいるなら」
声が震える。
「今度は、聞き間違えたくないです」
白いものが、その手の近くでふわりと揺れた。
慎一の胸の奥に、かすかな意味が落ちてきた。
ここだよ。
それは本当に小さかった。
声というより、息の端に引っかかった願いだった。
慎一はそれをそのまま美咲に伝えようとして、やめた。
今はまだ、すべてを言葉にしなくていい気がした。
美咲はすでに、聞こうとしている。
そのことが、きっと最初の救いだった。
慎一が実家に戻ると、母が玄関で待っていた。
「遅かったね」
「ちょっと、人と会ってた」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。ただ、昼食を温め直してくれた。慎一は少し食べた。昨日よりも食べられた。
食後、居間でスマホを確認した。
新しい留守電はなかった。
だが、安心はできなかった。
あの女が消えたわけではない。遠ざかっただけだ。
白いものが近くにいた時、耳鳴りは弱まった。
逆に言えば、あの小さなものがいなければ、慎一はまた飲み込まれる。
夕方、慎一は仏壇の前に座った。
父の位牌がある。
慎一が大学生の頃に亡くなった父のものだ。
母は毎朝線香をあげる。
慎一は実家にいた頃、その匂いが少し苦手だった。
死を毎日思い出させる匂いだと思っていた。
今は違った。
線香の煙は、死者をここへ呼ぶものではなく、生きている者が忘れていないと知らせるための音のない声なのかもしれないと思った。
母が横に来て、線香に火をつけた。
じ、と小さな音がした。
本当に小さな音だった。
火が線香の先を噛む音。燃え始める音。
普段なら絶対に気づかないような音。
慎一はその音に耳を澄ませた。
怖くなかった。
死者に関わるものなのに、怖くない。
線香の煙は細く上がり、少し揺れて、仏壇の前で薄くほどけた。
慎一は手を合わせた。
その時、スマホが鳴った。
居間のテーブルの上で、短く震えた。
母が振り返る。
慎一は動けなかった。
画面に表示されたのは、非通知ではなかった。美咲からのメッセージだった。
明日、午前十時に神社へ行ってみます。
もし大丈夫でしたら、駅前で待ち合わせできますか。
慎一は息を吐いた。
大丈夫です。
行きます。
そう返信した。
送信済みの文字を見つめていると、耳の奥でかすかな音がした。
きぃん、ではなかった。
赤ん坊の息だった。
あ。
遠く、か細く。
けれど、昨日までのような迷子の泣き声ではなかった。
それはまるで、ようやく誰かが自分のほうを向いてくれたことを確かめるような、小さな音だった。
慎一はスマホを伏せた。
夜が来るのが怖いことに変わりはなかった。
眠ればまた刺されるかもしれない。
留守電が来るかもしれない。女が耳元で愛を囁くかもしれない。
それでも、慎一は昨日までと違って、一人ではないと思った。
美咲も聞いている。
あの子も、そこにいる。
そして、あの女の声がどれほど甘く、どれほど壊れていても、それとは別の音がある。
抱いてほしいと泣く音。
こっちを見てほしいと願う音。
誰も責めず、ただ届くことだけを求める音。
慎一はその夜、布団に入った。
眠る前、遠くで一度だけ女の声がした気がした。
「愛してる」
その声は、まだ消えていなかった。
けれど、すぐに別の音が重なった。
あ。
小さな、弱い泣き声。
女の声はそれ以上近づいてこなかった。
慎一は目を閉じた。
明日、神社へ行く。
それで何かが終わるのか、何も終わらないのかはわからない。
けれど少なくとも、もう聞こえないふりはしない。
その夜、慎一は浅い眠りの中で、白い煙のようなものが美咲の胸元に寄り添っている夢を見た。
夢の中で、その子は泣いていなかった。
ただ、小さな手の形にもならない光を、母親の服へ向かって何度も伸ばしていた。
届かないまま。
それでも、諦めずに。
翌朝、慎一はいつもより早く目を覚ました。
眠った、という感覚は薄かった。
目を閉じていた時間がいくらかあっただけで、意識の底にはずっと細い緊張が残っていた。
けれど、腹を刺される夢は見なかった。
耳元で女が笑うこともなかった。
布団の中で目を開けると、障子の向こうが薄く明るくなっていた。
実家の朝は、アパートの朝と音が違った。
台所で母が湯を沸かす音。
鍋の蓋がかすかに鳴る音。新聞が郵便受けに差し込まれる音。
遠くで犬が吠え、それに重なるように、近所の誰かが雨戸を開ける音がした。
どれも特別ではない。ただ、慎一はその特別ではない音にひどく飢えていたのだと気づいた。
枕元に置いていないスマホを思い出し、身体を起こした。
居間のテーブルに置かれたスマホには、新しい留守電はなかった。
美咲からのメッセージもない。画面は静かだった。
その静けさを信じきれないまま、慎一はしばらく通知欄を見つめた。
母が味噌汁をよそいながら、慎一を見た。
「今日もどこか行くの」
「うん。ちょっと神社に」
「神社?」
「知り合いと」
母はそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ心配そうに眉を寄せた。
「変なもの、背負い込まないようにね」
何気ない言葉だったのだと思う。
けれど慎一は箸を持つ手を止めた。
母は台所へ戻っていく。
味噌汁の湯気が立ち、茶碗の米が朝の光を受けて白く見えた。
慎一はその白さを見ながら、何かを背負い込むというより、もうすでに背中に張りついているものを剥がしに行くのだと思った。
駅前で美咲と待ち合わせたのは、午前九時半だった。
昨日より少し寒かった。
雲は低く、空の色は薄い灰色をしていた。
ロータリーの植え込みに落ちた枯葉が、風でかさかさ鳴っている。
慎一が駅の改札前に着くと、美咲はすでに来ていた。
黒いコートに、薄いベージュのマフラーを巻いている。
手には小さな紙袋を持っていた。
昨日の喫茶店で見た時より表情は落ち着いていたが、目の奥の疲れは消えていなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わした後、二人は少しだけ黙った。
美咲の胸元のあたりに、白いものがいた。
朝の光の中ではほとんど見えない。
けれど、慎一にはわかった。
煙のような、光の粒のようなものが、美咲のマフラーの端に寄り添うように漂っている。
昨日より少し近い。
美咲の身体に触れているわけではない。
けれど、離れまいとしている。
慎一はそのことをすぐには伝えなかった。
美咲も、何かを感じているのか、胸元にそっと手を当てた。
「行きましょうか」
慎一が言うと、美咲はうなずいた。
神社は、駅から歩いて二十分ほどの場所にあった。
古い住宅街の奥、低い山の斜面に寄り添うように鳥居が立っていた。
大きな神社ではない。石段は少し欠け、両脇の石灯籠には苔が生えている。
鳥居の朱色もところどころ褪せていた。
それでも境内に入ると、外の道路の音が一段遠くなった。
代わりに、木の音がした。
枝が風に触れて擦れる音。乾いた葉が地面を転がる音。遠くで鳩が羽ばたく音。
手水舎の水が、竹筒から落ち続ける音。
美咲は鳥居の前で深く頭を下げた。
慎一も真似をした。
神社での作法など、正確に覚えているわけではない。
けれど、ここでいい加減な態度を取りたくはなかった。
手水舎で手を清める時、美咲の指が震えていた。
柄杓から落ちる水が、彼女の手の甲を滑る。
水音に混ざって、慎一の耳の奥でごく小さな泣き声がした。
あ。
それは、美咲の手元を見ているようだった。
昨日の喫茶店で、彼女が自分の手を包んだ時、白いものは少しだけ安堵した。
今も、美咲の指先に触れようとしているように見えた。
けれど、美咲には見えていない。
慎一は胸の奥が痛んだ。
社務所には、五十代くらいの神主がいた。
名札には、宮司ではなく禰宜ねぎと書かれていた。
名は榊原とあった。髪に白いものが混じり、顔には深い皺がある。
いかにも霊能者という雰囲気ではなく、どちらかといえば町内会の相談役のような、穏やかで現実的な印象の人だった。
美咲が事情を話したいと言うと、榊原はすぐに二人を社務所の奥の小さな部屋へ通してくれた。
畳の部屋だった。
壁には古い祭礼の写真が飾られ、隅に電気ストーブが置かれている。
窓の外には境内の木々が見えた。風が吹くたび、枝がガラスに影を落とした。
「ゆっくりで構いません」
榊原はそう言って、二人の前に座った。
「ただ、私は何でも見えるとか、何でも祓えるという者ではありません。神職として、できることをいたします。お話を聞いて、必要なら警察や病院へつなぐこともあります。それでもよろしければ」
その言葉に、慎一は少し安心した。
万能だと言われるより、ずっと信用できた。
美咲はうなずいた。
そして、少しずつ話し始めた。
夫の浮気。
片桐沙也という女性からの嫌がらせ。
非通知の電話。妊娠していた子を失ったこと。
夫が別の女性とも関係を持っていたこと。沙也が夫とその女性を刺し殺し、自らも命を絶ったこと。
慎一は隣で聞いていた。
昨日、喫茶店で聞いた話と同じはずなのに、神社という場所で改めて聞くと、そのひとつひとつが重く沈んでいくようだった。
畳の匂い、ストーブの熱、窓の外の木の音。その静かな場所に、美咲の言葉が置かれていく。
彼女は泣かなかった。
泣かないようにしているのではなく、泣くところを一度越えてしまった人のようだった。
榊原は途中で口を挟まなかった。
ただ、時々うなずき、必要なところだけ短く確認した。
「警察には」
「すべて話しています。事件としては、もう」
「ご実家には」
「詳しいことは、一部だけ」
「病院には通われていますか」
美咲は少し視線を落とした。
「一度だけ。続けたほうがいいとは言われています」
榊原は静かにうなずいた。
「続けてください。こういう時、人の心と身体は、思っているよりずっと傷を受けます。神社でお祓いをしたから、それで全部大丈夫という話ではありません」
その言い方に、慎一はまた少し安心した。
この人は、何もかもを神や霊の話にしようとしていない。
榊原は慎一にも目を向けた。
「あなたは」
慎一は、自分の身に起きていることを話した。
隣室から聞こえる赤ん坊の泣き声。
風呂場、玄関、押し入れ、スマホの近くからも聞こえたこと。
非通知の留守電。女の声。耳鳴り。刺される夢。電車の中で見た白いもの。
昨日、美咲のそばにいるそれが、生まれてこなかった子どもの霊のように感じられたこと。
話しながら、慎一は何度も自分の言葉が現実離れしていると思った。
だが、榊原は笑わなかった。
疑うでも、信じきるでもなく、目の前の人間が苦しんでいることだけは受け止めようとしている顔だった。
「白いものは、今も見えますか」
榊原が尋ねた。
慎一は美咲の胸元を見た。
白いものはそこにいた。
部屋の中では、外より少しはっきり見えた。
煙のようにゆるく揺れ、美咲の膝元と胸元の間を漂っている。
「はい」
「どちらに」
「橘さんの、胸のあたりです」
美咲の手が、反射的に胸元へ動いた。
白いものが、その手に寄る。
慎一の胸の奥で、あの小さな声がした。
ここ。
さわって。
慎一は唇を結んだ。
榊原は、その方向へ視線を向けた。
彼には見えていないのだと、慎一にはわかった。
目の焦点が合っていない。
けれど、何かを感じようとしているのか、榊原はしばらく黙っていた。
「私には見えません」
やがて、彼は正直に言った。
「声も、今は聞こえません。ただ」
榊原は少しだけ眉を寄せた。
「空気が、重いですね」
その言葉の直後だった。
慎一のスマホが震えた。
畳の上に置いていたスマホが、ぶう、と低く鳴った。
美咲が肩を跳ねさせた。
慎一は反射的にスマホを見た。
画面には、非通知の着信が表示されていた。
音はマナーモードにしているはずなのに、振動だけでなく、薄い呼び出し音のようなものが漏れている。
りりり、りりり。
古い電話のベルのような音だった。
スマホから出る音ではない。
社務所の小さな部屋に、その音だけが不釣り合いに響いた。
榊原の表情が変わった。
「出ないでください」
慎一はうなずいた。
着信は十秒ほど続いた後、切れた。
すぐに、留守番電話の通知が表示された。
非通知。
録音時間、三十七秒。
美咲が口元を押さえた。
「同じです」
慎一はスマホに触れなかった。
だが、画面が勝手に明るくなった。
再生ボタンが、押されてもいないのに反応した。
沈黙。
部屋の空気が冷えた。
ストーブはついている。窓も閉まっている。
それなのに、畳の上を冷たいものが這うように広がった。
慎一の耳の奥で、細い音が立ち上がる。
きぃん。
美咲の顔が強張った。
「聞こえます」
彼女が囁いた。
スマホのスピーカーから、女の声がした。
「好き」
榊原は動かなかった。
ただ、じっとスマホを見ていた。
「好き、好き」
声は甘かった。
それは、男にだけ向けられるような甘さではなかった。
聞く者すべてを巻き込もうとする、湿った声だった。
指先に絡む糸のように、耳の穴から入り、頭の中へ巻きついてくる。
「愛してる」
美咲が目を閉じた。
慎一の腹に痛みが走る。夢の中の音が蘇った。
ずぶ。
「愛してる愛してる愛してる」
榊原が低く息を吐いた。
「これは」
彼の声が、初めてわずかに乱れた。
女の声は続いた。
「なんで」
甘さが剥がれ始める。
「なんで私だけ見てくれないの」
畳の上のスマホ画面に、ノイズが走った。
再生バーは動いていない。三十七秒のはずの録音が、終わらない。
「好きって言った。愛してるって言った。ずっと一緒って言った」
声の奥に、笑い声が混ざった。
いや、泣き声かもしれなかった。
「なのに、なんで」
きぃん。
耳鳴りが強くなる。
慎一は床に手をついた。
視界が揺れる。美咲も胸を押さえて苦しそうにしている。
白いものが、彼女の周りで小さく震えていた。
いつもより弱い。光の粒がほどけ、消えそうになる。
「わたしだけ」
女の声が低くなった。
「わたしだけでいいでしょう」
スマホの画面に、知らない女の顔が一瞬映った。
黒い髪。濡れたような目。笑っている口。
慎一は息を呑んだ。
駅前のコンビニ裏で見た女だった。
間違いない。
あの時、亮平に寄り添っていた黒いワンピースの女。
顔まではよく見えなかったはずなのに、今はなぜか、彼女の口元だけがはっきりわかった。
笑っていた。
愛してると言いながら、人を刺す時の顔で笑っていた。
いや、本当にそうだったのかはわからない。
これは慎一の夢と恐怖が作った映像かもしれない。
死んだ女のすべてを、怪物にしてしまっているだけかもしれない。
それでも、その声が人を傷つけたことだけは確かだった。
美咲を追い詰めた。
腹の子を守ろうとしていた母親を壊した。
亮平と莉奈を殺した。
そして死んだ後も、愛という言葉で生きている者を縛っている。
「お祓いをしましょう」
榊原が言った。
声は静かだったが、決意があった。
「今すぐに」
榊原は立ち上がった。
二人を本殿の横にある祈祷所へ案内した。
社務所から廊下を通って外へ出ると、境内の空気がさらに冷たく感じられた。
空は曇っている。木々がざわざわ鳴っていた。
スマホは榊原が預かった。
「持っていてください」
慎一が言うと、彼は首を振った。
「今は、あなたが持たないほうがいい」
スマホは榊原の手の中で震えていた。
画面は消えているのに、そこから女の息が漏れている。
「好き」
小さく。
「愛してる」
近く。
境内にその声が響くたび、美咲の身体が震えた。
慎一は彼女のそばを歩いた。
手を貸そうか迷ったが、美咲は自分の足で歩いていた。
ひどく細く、今にも倒れそうなのに、それでも歩いていた。
祈祷所は畳敷きで、正面に幣束と鏡が置かれていた。
榊原は白い装束に着替える時間も惜しいのか、社務所で羽織っていた白衣のまま準備を始めた。
祝詞の紙を広げ、玉串を用意し、慎一と美咲に座る位置を示した。
「怖いと思いますが、声に返事をしないでください」
榊原は言った。
「呼ばれても、責められても、答えない。あなた方は、あの声に応じる必要はありません」
慎一はうなずいた。
美咲も、唇を噛みながらうなずいた。
「それから」
榊原は美咲を見た。
「亡くなったお子さんのことについて、ここで無理に何かを言う必要はありません。謝らなくてもいい。責められることもありません」
美咲の目が揺れた。
榊原は続けた。
「祈ることと、自分を罰することは違います」
その言葉に、美咲の指が膝の上で強く握られた。
白いものが、美咲のそばに浮かんでいる。
慎一はそれを見ながら、あの子にも今の言葉が届いていればいいと思った。
榊原は本殿に向かって深く一礼し、祓詞を唱え始めた。
その声は、特別に大きいわけではなかった。
けれど、境内の木の音や風の音とは違う、まっすぐな響きがあった。
人が声を整え、言葉を形にして、見えないものへ差し出している音だった。
慎一は目を閉じた。
祝詞の意味はわからない。
聞き慣れない言葉が続いていく。それでも、その音には規則があり、祈りがあり、誰かを傷つけるためではない力があった。
女の声とは違う。
好き。
愛してる。
その二つの言葉も、本来は誰かに差し出すものだったはずだ。
だが、沙也の声の中でそれらは形を変えていた。
相手を包むのではなく、相手の喉に指をかける音になっていた。
祝詞は続く。
榊原の声が畳の上を渡り、天井に触れ、ゆっくり降りてくる。
その時、スマホが鳴った。
榊原の前に置かれたスマホが、畳の上で震えた。
ぶう。
ぶう。
画面が明るくなる。
非通知。
榊原は唱える声を止めなかった。
着信音が鳴る。
りりり、りりり。
古い電話のベルの音。
祝詞の声と、ベルの音が重なる。
慎一の耳鳴りが強くなった。美咲が胸を押さえる。
白いものが、彼女の周りで小さく縮んだ。
着信が切れた。
すぐに留守電が再生された。
「好き」
女の声が、祝詞に割り込んだ。
榊原の声が一瞬だけ揺れた。
それでも唱え続ける。
「好き好き好き」
女の声が笑う。
「愛してる」
祝詞の言葉が、遠くなる。
慎一は耳を塞ぎたくなった。
だが、塞いではいけない気がした。
聞こえないふりをすることを、もうしたくなかった。
「愛してる愛してる愛してる」
耳鳴りが頭の中を満たす。
きぃん。
視界が暗くなる。
慎一の膝の上に、ぽたりと何かが落ちた気がした。
見ると、血ではなかった。汗だった。
だが、夢の中の赤い床を思い出すには十分だった。
女の声が低くなる。
「どうして」
ぷつ、とノイズ。
「どうして、あの女ばっかり」
美咲が息を呑んだ。
「わたしのほうが好きだった」
声が泣き始める。
「わたしのほうが、ずっと」
そして、急に笑う。
「だから、いらないでしょう」
慎一の背筋に冷たいものが走った。
「妻も」
美咲の顔が歪んだ。
「子どもも」
その瞬間、白いものが震えた。
慎一の胸の奥で、初めてはっきりと赤ん坊が泣いた。
ああ。
それは恐怖の音ではなかった。
痛みの音だった。
美咲も顔を上げた。
「聞こえた」
彼女が囁いた。
榊原には聞こえていない。
彼は祝詞を唱え続けている。
だが、目の端に一瞬だけ困惑が浮かんだ。
何かが変わったことは感じたのだろう。
祈祷所の空気が、ほんのわずかに揺れた。
女の声が鋭くなった。
「泣かないでよ」
その声は、美咲でも慎一でもなく、白いものへ向けられていた。
「うるさい」
赤ん坊が泣く。
小さく、弱く。
けれど、今までで一番近かった。
ああ、ああ。
美咲の肩が震えた。
「聞こえます」
彼女は両手を胸に当てた。
「聞こえる」
慎一の目には、白いものが見えていた。
それは美咲の胸元から少し離れ、榊原の前に置かれたスマホと美咲の間に漂っていた。
まるで、母親と女の声の間に立とうとしているようだった。
小さすぎる。弱すぎる。何かを押し返せるような存在には見えない。
それでも、その子はそこにいた。
泣きながら。
母親の前に。
女の声がひずむ。
「邪魔しないで」
祝詞が続く。
榊原の声が、少しずつ強くなった。
彼には赤ん坊の泣き声は聞こえていない。
それでも、今この場に何かが支えとして加わったことを感じ取ったのかもしれない。
声の芯が太くなり、言葉が畳の上にしっかり落ちていく。
慎一は耳鳴りの中で、祝詞と泣き声を聞いた。
女の声は、その二つの間で揺れていた。
「好き」
祝詞。
「愛してる」
赤ん坊の泣き声。
「なんで」
祝詞。
「わたしだけ」
泣き声。
音がぶつかっていた。
だが、それは派手な戦いではなかった。
何かが爆ぜるわけでも、光が走るわけでもない。
ただ、女の声が少しずつ届かなくなっていく。
耳鳴りの鋭さが鈍り、頭の奥に刺さっていた針が一本ずつ抜けていくようだった。
慎一は腹の痛みが薄れていくのを感じた。
美咲の呼吸も、少しずつ整っていく。
赤ん坊はまだ泣いている。
その泣き声の奥に、慎一は意味を感じた。
まま。
言葉ではない。
ただ、向かっている。
まま、こっち。
ちがう。
そっちじゃない。
ここ。
母親を女の声から引き戻そうとしている。
責めるのではなく、怖がらせるのでもなく、ただ自分のいる場所へ気づいてほしくて、そして今は、母親を守りたくて泣いている。
慎一の目に涙が滲んだ。
こんなに弱い音が、こんなに強く響くことがあるのかと思った。
女の声が遠のく。
「愛してる」
遠く。
「愛してるのに」
さらに遠く。
「どうして」
その声に、初めて人間らしいひびが入った。
怒りだけではなかった。
壊れた悲しみがあった。
誰かに捨てられ、誰かを壊し、自分も壊れて、それでも最後まで同じ言葉にしがみつくしかなかった女の声だった。
慎一は沙也を許せるとは思わなかった。
美咲を傷つけた。
子どもを失う一因を作った。
亮平と莉奈を殺した。
死んだ後も、人を呪った。その事実は消えない。
けれど、その声の奥にも、どこかで人間だったものの残骸があった。
愛されたかっただけのものが、愛を所有に変え、所有できないなら壊すしかないところまで落ちていった。
その哀れさと恐ろしさが、同じ声の中にあった。
榊原の祝詞がさらに高く響いた。
部屋の空気が、ふっと変わった。
それまで湿って重かったものが、上へ抜けるように軽くなる。
畳の匂いが戻ってくる。
木の音が戻ってくる。
境内を吹く風の音が、聞こえ始める。
スマホの画面にノイズが走った。
女の声が途切れる。
「す……」
ぷつ。
「愛し……」
ぷつ。
「わたし……」
ぷつ。
画面が暗くなった。
耳鳴りが止まった。
完全な無音ではなかった。
外では風が鳴っている。
遠くで車が走っている。
榊原の祝詞はまだ続いている。
美咲の呼吸があり、慎一の心臓の音がある。
けれど、女の声だけが消えていた。
慎一はそのことを、音が消えたことで知った。
祓いは、榊原が最後に深く一礼するまで続いた。
慎一と美咲も頭を下げた。
美咲は涙を流していた。
けれど、さっきまでの恐怖の涙ではなかった。
身体の中に詰まっていた何かが、少しずつ溶けて出ていくような涙だった。
榊原はしばらく目を閉じたまま座っていた。
やがて、ゆっくり息を吐いた。
「私には、途中で何が起きたのか、すべてはわかりません」
彼は正直に言った。
「ですが、途中から場が変わりました。私一人の祝詞では、届かなかったと思います」
美咲は胸元を押さえた。
「赤ちゃんの声が、聞こえました」
榊原は静かに彼女を見た。
「私には聞こえませんでした」
それから、少しだけ表情を和らげた。
「でも、あなた方には聞こえたのですね」
美咲はうなずいた。
慎一も、声にならないままうなずいた。
白いものは、美咲の膝元にいた。
さっきまでより、形が薄い。
消えそうなのではなく、静かになっているようだった。
泣き声は聞こえない。
ただ、眠る前の小さな息のような気配が、美咲の胸元に寄り添っていた。
榊原はスマホを慎一に返した。
画面には何も表示されていなかった。
留守電の通知も、非通知の着信もない。
通話履歴を開くと、そこには母の着信と、美咲とのメッセージだけが残っていた。
あの非通知の履歴は、きれいに消えていた。
慎一は怖くて、留守電の一覧も開いた。
何もなかった。
三十七秒の録音は、どこにも残っていなかった。
それでも、完全に安心することはできなかった。
あの声が本当に消えたのか、ただ届かなくなっただけなのかはわからない。
けれど、少なくとも今、慎一の耳には聞こえなかった。
それだけで、身体の力が抜けそうだった。
榊原は二人にお茶を出してくれた。
社務所の小さな部屋に戻ると、電気ストーブの赤い光が暖かく見えた。
美咲は湯呑みを両手で包んでいた。
指の震えは、完全ではないが少し落ち着いている。
「今日は、このままご実家へ戻って、ゆっくり休んでください」
榊原は言った。
「それから、可能であれば、改めてお子さんのために手を合わせる時間を持たれるといいと思います。形式にこだわらなくても構いません。忘れていないと伝えること。あなたが今も生きていること。それを、責める形ではなく、祈る形で」
美咲は湯呑みを見つめながら、小さく「はい」と言った。
慎一は、その言葉を聞きながら、アパートの二〇三号室を思い出した。
美咲はあの部屋で一人、何度も手を合わせていたのだろう。
誰にも言えず、誰にも見えない子どもに、謝り続けていた。
線香の匂いがした夜。小さな紙袋を持って階段を上がっていた美咲。
あの中に、何が入っていたのか。
慎一は、今さらになって気づいていく。
ずっと、音はあった。
見ようとしなかっただけだ。
午後、二人は神社を出た。
鳥居をくぐる前、美咲はもう一度振り返り、深く頭を下げた。
慎一もそれに倣った。
境内の木々が風に揺れ、葉が擦れ合う音がした。
その音は、最初に来た時よりもずっと軽かった。
駅へ戻る道で、二人はあまり話さなかった。
沈黙は気まずくなかった。
美咲は時々、自分の胸元に手を当てた。
白いものはそこにいた。慎一には見えている。
けれど、もう必死に触れようとしている感じはなかった。
ただ、そばにいる。母親の歩幅に合わせるように、静かに揺れている。
「今」
美咲が道の途中で言った。
「いますか」
慎一は彼女を見た。
美咲は前を向いたままだった。
「見えますか」
慎一は少し迷い、それから答えた。
「います」
美咲の目元がわずかに緩んだ。
「どこに」
「胸の近くです」
彼女は、そこに手を添えた。
何もない空間を掴もうとするのではなく、自分の中にある小さな場所をそっと確かめるような手つきだった。
白いものが、その手の下でふわりと広がった。
慎一はそれを見て、胸が詰まった。
「泣いてますか」
美咲が聞いた。
慎一は耳を澄ませた。
聞こえない。
女の声も、耳鳴りも、赤ん坊の泣き声も。
ただ、遠くで車が走り、近所の庭で洗濯物の竿が風に鳴っている。
世界は音を取り戻している。
「今は、泣いてないです」
慎一が言うと、美咲はゆっくり息を吐いた。
「そうですか」
その一言だけだった。
けれど、その一言に、どれほどのものが含まれているのか慎一にはわかった。
駅前で別れる前に、美咲は慎一に深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「俺は何も」
「一緒にいてくれました」
慎一は言葉に詰まった。
美咲は少しだけ微笑んだ。
「それだけで、助かりました」
その笑顔はまだ弱かった。
けれど、アパートで最後に見た、空っぽの笑いとは違っていた。
慎一はその日、実家へ戻ってから長く眠った。
夢は見なかった。
途中で一度だけ目を覚ましたが、耳鳴りはしなかった。
スマホの画面は暗いままだった。
母が廊下を歩く音、柱時計の音、外を通る車の音だけが聞こえた。
慎一はその音を聞きながら、また眠った。
翌朝、体の痛みはかなり引いていた。
鏡を見ると、顔色はまだ悪い。
頬もこけている。
だが、目の奥に張りついていた暗い膜のようなものは少し薄くなっていた。
久しぶりに朝食をまともに食べた。
母は何も言わず、おかわりをよそってくれた。
美咲からは昼前に連絡が来た。
今日、アパートに戻ろうと思います。
部屋に置いたままのものがあるので。
慎一は画面を見つめた。
一人で戻るのは危ない気がした。
怖い、というより、あの部屋に一人で入らせたくなかった。
女の声は消えた。それでも、悲しみそのものが消えたわけではない。
俺も戻ります。
一緒に行きましょう。
返信すると、少しして美咲から短い返事が来た。
ありがとうございます。
慎一は母に、アパートへ荷物を取りに戻ると伝えた。
母は玄関で慎一の顔を見て、少しだけ眉を下げた。
「無理しないでね」
「うん」
「また帰ってきてもいいんだから」
慎一はうなずいた。
その言葉が、思った以上にありがたかった。
午後の電車は空いていた。
昨日とは違い、慎一と美咲は並んで座った。
間にひとつ席を空けることはなかった。
だからといって、親しいわけではない。
ただ、同じものを聞いてしまった者同士の距離が、少しだけ変わっていた。
電車の走行音は、昨日とは違って聞こえた。
がたん、ごとん。
車輪がレールを刻む音。
それはもう、女の声を連れてくる音ではなかった。
慎一をどこか暗い場所へ運ぶ音でもなかった。
ただ、地元からアパートのある町へ戻るための音だった。
美咲は窓の外を見ていた。
胸元には、白いものが寄り添っている。
慎一はそれを横目で見ながら、ふと思った。
あの子は、アパートへ戻ることを怖がっているのだろうか。
答えはわからなかった。
けれど、泣き声は聞こえなかった。
駅に着き、二人はアパートまで歩いた。
駅前のコンビニの前を通った時、慎一は足が止まりそうになった。
浮気現場を見たコンビニだった。
搬入口の脇の細い通路。
あの夜、雨上がりの街灯の下で、亮平と沙也が立っていた場所。
今は何もない。
段ボールが積まれ、店員が煙草を吸っているだけだった。
それでも、慎一の耳には一瞬だけ、女の笑い声が蘇りかけた。
すぐに消えた。
代わりに、美咲が小さく息を吸う音が聞こえた。
彼女もその場所に何かを感じたのかもしれない。
けれど何も言わなかった。慎一も言わなかった。
アパートは、出ていった時と同じ顔でそこにあった。
白い外壁。錆びた手すり。集合ポスト。駐輪場の空気の抜けた自転車。
何も変わっていない。
むしろ、何もなかったように立っていることが、不気味だった。
階段を上がる。
鉄板が薄く鳴る。
かん、かん。
以前なら聞き流していた音だ。
今は、その一音ごとに慎一の身体が少しこわばった。
美咲も同じように、手すりを握っていた。
二階の廊下に出ると、冷たい風が通り抜けた。
二〇二号室。慎一の部屋。
二〇三号室。美咲の部屋。
二つのドアが並んでいる。
その間の壁を、慎一は見た。
あの壁の向こうから、何度も泣き声が聞こえた。
美咲には慎一の部屋から聞こえ、慎一には美咲の部屋から聞こえた。
どちらでもない場所で、あの子は泣いていた。
慎一が自分の部屋の鍵を出そうとした時、美咲が言った。
「あの」
慎一は振り返った。
美咲は二〇三号室のドアの前に立っていた。
鍵を持つ手が震えている。
けれど、その目は逃げていなかった。
「少し、上がっていきますか」
慎一は一瞬、言葉の意味がわからなかった。
美咲は視線を落とした。
「生まれてこなかった子の位牌があるんです」
声がかすれた。
「手だけでも、合わせてもらえたら」
慎一の胸の奥で、何かが静かに鳴った。
泣き声ではなかった。
線香に火がつく直前のような、ほんの小さな気配だった。
慎一はゆっくりうなずいた。
「はい」
美咲は鍵を差し込んだ。
鍵が回る音が、廊下に小さく響いた。
その音は、どこか閉じていた場所が、ようやく少しだけ開く音のように聞こえた。
二〇三号室のドアが開くと、まず冷えた空気が出てきた。
人の暮らしが一度途切れた部屋の匂いだった。
閉め切った空気。
畳ではなくフローリングに残った埃。洗剤の匂い。少しだけ、線香の匂い。
慎一は玄関の外で靴を脱ぎながら、部屋の奥を見ないようにした。
ここは美咲の部屋だ。
夫がいて、妻がいて、これから生まれてくる子を待っていたはずの部屋だ。
その中に、今から自分が入る。
それがひどく重いことのように感じられた。
「散らかっていて、すみません」
美咲はそう言ったが、部屋は散らかっていなかった。
むしろ、生活感が薄かった。
テーブルの上には何も置かれていない。
壁際に小さな本棚。
キッチンのカウンターに伏せられたマグカップがひとつ。
カーテンは閉まっている。
床は掃除されているが、そこに人が暮らしている温度がほとんどなかった。
亮平のものは、もう片づけたのだろうか。
それとも、片づける前に彼の存在が部屋から抜け落ちてしまったのだろうか。
慎一はそんなことを思い、すぐに考えるのをやめた。
美咲は部屋の奥へ進んだ。慎一も少し遅れてついていく。
リビングの端、窓際ではなく、壁を背にした低い棚の上に、それは置かれていた。
小さな位牌だった。
黒い塗りの、小さな小さな位牌。
隣に白い花が一輪、水の入った小さな器、菓子の包みが二つ、折りたたまれた白いハンカチ、そして線香立てがあった。
位牌の前には、柔らかい布が敷かれている。
菓子は赤ちゃん用のものではなく、近所の和菓子屋で買えるような小さな饅頭だった。
けれど、その置き方が丁寧だった。
そこにあるものの一つ一つが、美咲がこの子を忘れようとしなかった証拠だった。
慎一は息を詰めた。
廊下で線香の匂いがした夜。
小さな紙袋を抱えていた美咲。
何度も手を合わせ、何度も謝り、何度も何も返ってこない沈黙の前に座っていたのだろう。
誰にも見せず、誰にも言わず、この小さな場所を守っていたのだろう。
美咲は棚の前に座った。
慎一も隣に正座した。
足が少し痛んだが、姿勢を崩す気にはなれなかった。
「名前は」
美咲が小さく言った。
「まだ、決める前でした」
慎一は黙っていた。
「でも、呼ぶ時に何もないのが嫌で」
彼女は位牌を見つめた。
「心の中では、ずっと、灯って呼んでいました」
「あかり」
慎一が繰り返すと、美咲はうなずいた。
「女の子か男の子かも、まだはっきりわからなかったんです。でも、どちらでもいいと思って。お腹にいる時、私にとっては、小さな灯りみたいだったから」
慎一の胸の奥で、かすかなものが揺れた。
灯あかり。
名前を呼ばれたのだと、思った。
白いものは、美咲のそばにいた。
部屋に入ってからずっと、彼女の胸元に寄り添うように漂っていた。
だが、位牌の前に座った今、それは少しずつ輪郭を持ち始めているように見えた。
はっきり赤ん坊の姿をしているわけではない。
手も足も、顔も、目も、何もない。
それでも、白い気配は美咲の膝元から胸元へ上がり、そこに留まろうとしていた。
まるで、名前を呼ばれたことで、自分の場所を思い出したみたいだった。
美咲は線香を一本取り出した。
細い指で、ライターに火をつける。
かち、と硬い音がした。
小さな火が線香の先に移る。
じ、と本当に小さな音がした。
慎一はその音に、胸を掴まれた。
それは、死者のための音なのに、怖くなかった。
炎が線香を食む音。煙が生まれる音。
こちらと向こうの間に、細く細く橋がかかる音。
美咲は線香の火を揺らして消し、線香立てにそっと立てた。
煙がまっすぐ上がり、部屋の空気に触れて少しだけ曲がった。
「毎日、これをしていました」
美咲は言った。
「でも、毎日、謝ることしかできなくて」
慎一は位牌を見つめた。
「今日は、謝らなくていいと思います」
言ってから、自分がそんなことを言っていいのか迷った。
けれど、美咲は怒らなかった。
ただ、少しだけ肩を震わせた。
「何を言えばいいんでしょう」
彼女の声は、途方に暮れた子どものようだった。
慎一は答えを持っていなかった。
母親になったこともない。子を失ったこともない。何を言えば救いになるのかなど、わかるはずがない。
ただ、白いものはそこにいた。
美咲のすぐ近くに。
「今、います」
慎一は静かに言った。
美咲の指が膝の上で止まった。
「どこに」
「胸の近くです」
彼女は息を吸った。
「昨日より、近いですか」
「はい」
慎一は白いものを見た。
それは、美咲の胸元にふわりと寄り添っていた。
服の上に触れることはできないはずなのに、そこにいた。
しがみつく、というほど形はない。けれど、気配の向かう先ははっきりしていた。
胸。
母親の胸。
ずっと求めていた場所。
慎一は言葉を失いかけた。
序盤の夜、壁の向こうから聞こえた泣き声を思い出した。
風呂場から聞こえた声。玄関の外で泣いていた声。押し入れの中で小さく爪を立てるように聞こえた音。スマホの近くから漏れた息。
あれは、怖がらせるためではなかった。
暗いところにいたからではない。
母親を探していたのだ。
壁も部屋も関係なく、美咲のいる場所を探し、見つけても届かず、触れようとしても触れられず、声だけが場所を間違えて漏れていた。
慎一の目に涙が滲んだ。
「相沢さん」
美咲が不安そうに聞いた。
「どうしていますか」
慎一はすぐには答えられなかった。
喉の奥が熱かった。
白いものは、美咲の胸元に顔を寄せるように、静かに揺れていた。
赤ん坊が母親に抱かれているつもりでいる。
そうとしか見えなかった。
実際には、美咲の腕はまだ膝の上にある。
彼女は何も抱いていない。けれど、その子はもうそこにいるつもりだった。
やっと、そこにいられたように。
やっと、自分の場所を見つけたように。
「胸に」
慎一は言った。
声が震えた。
「胸のあたりに、います」
美咲の唇が震えた。
「胸」
「はい。そこに、しがみつくみたいに」
慎一は目元を拭った。
「すみません」
涙が止まらなかった。
自分の涙に驚いた。
恐怖で泣いたことはある。
痛みで泣きそうになったこともある。
けれど、今の涙はそのどちらでもなかった。
ただ、あまりにも遅かった。
あまりにも小さかった。
すぐそばにいたのに、誰にも抱いてもらえなかったその子の時間を思うと、胸が潰れそうだった。
美咲はゆっくりと自分の胸元へ手を上げた。
「ここですか」
慎一はうなずいた。
「もう少し、真ん中です」
美咲は両手を広げるようにして、自分の胸の前に添えた。
その手つきは、慎重だった。
何もない空間を撫でるのではなく、そこに確かに小さな身体があると信じて、壊れものに触れるような手つきだった。
「灯あかり」
彼女が呼んだ。
声が震えていた。
「ここにいるの」
白いものが揺れた。
慎一の胸の奥に、かすかな音が入ってきた。
泣き声ではなかった。
息。
吸って、吐く。
生きている子どものものではない。
けれど、泣き疲れた小さなものが、やっと息を落ち着ける時のような気配だった。
美咲は両腕で自分の胸元を包んだ。
本当に赤ん坊を抱くように。
首を支え、背中を支え、落とさないように。
そこに温度はないはずなのに、彼女は温度を逃がさないように抱いていた。
指先がコートの布を掴み、肩が震える。
「ごめんね」
美咲が言いかけた。
慎一は、思わず首を振った。
美咲も、その言葉を途中で止めた。
長い沈黙があった。
線香の煙が細く上がっている。
じ、と小さく燃える音がする。
部屋の外では誰かが階段を降りる音がした。
遠くで車が通った。アパートの壁の中を、水道管の音が走った。
すべての生活音が、今だけは遠く、優しかった。
美咲は胸元を抱いたまま、もう一度口を開いた。
「会いたかった」
その言葉は、謝罪ではなかった。
責める言葉でもなかった。
ただ、母親の本当の声だった。
「ずっと、会いたかった」
白いものが、ふわりと美咲の腕の中に沈むように見えた。
慎一には、そこで初めて、赤ん坊の泣き声が完全に止まったのがわかった。
世界が静かになったからではない。
泣く必要が、ほんの少しだけなくなったのだ。
美咲は泣いていた。
声を殺すことも忘れて、ただ泣いていた。
肩を震わせ、胸元を抱き、そこにいるはずの小さなものを離さないように、何度も何度も息を吸った。
慎一も泣いていた。
二人の泣き声が、部屋の中に静かに落ちた。
そのどちらも、怖い音ではなかった。
慎一の胸に、最後にひとつだけ意味が浮かんだ。
とても薄く、息のようで、言葉と呼ぶには頼りないものだった。
まま。
すき。
はっきり聞こえたわけではない。
音として鳴ったわけでもない。
ただ、線香の煙が部屋の空気に溶けるように、慎一の胸の内側へその意味だけが入ってきた。
慎一はそれを伝えるべきか迷った。
美咲はすでに泣いている。
これ以上何かを言えば、彼女を壊してしまうかもしれない。
けれど、その小さな意味は、たぶん美咲へ届くために慎一の中を通ったのだ。
「橘さん」
慎一はかすれた声で言った。
美咲が涙で濡れた顔を上げる。
「今」
慎一は喉を押さえた。
「言葉じゃないんですけど」
美咲は黙って聞いていた。
「たぶん」
慎一の目から、また涙が落ちた。
「お母さんのこと、好きだって」
美咲の顔が崩れた。
彼女は声にならない声を漏らし、自分の胸元をさらに強く抱いた。
「私も」
美咲は泣きながら言った。
「私も、好き」
その言葉は、死者を引き戻すものではなかった。
失った時間を取り戻すものでもない。
けれど、届かなかった声に、やっと返事ができた音だった。
慎一は両手を合わせた。
美咲も胸元を抱いたまま、位牌に向かって深く頭を下げた。
線香は静かに燃えていた。
小さな音を立てながら、短くなっていく。
その日を境に、留守電は来なくなった。
非通知の履歴も残らない。
削除したはずの録音が戻ることもない。
慎一のスマホは、ただのスマホに戻った。
母からの電話、会社からの連絡、迷惑メール、天気予報の通知。
どれも少し面倒で、少しありがたい、普通の通知だった。
耳鳴りも消えた。
完全に忘れられたわけではない。
静かな夜、ふとした瞬間に、あの細い金属音を思い出すことはあった。
夢の中で腹に痛みが走り、飛び起きる夜も何度かあった。
だが、目が覚めた時、そこに女の声はなかった。
好き。
愛してる。
あの言葉は、もう慎一の耳元では囁かなかった。
美咲は二〇三号室を解約することにした。
手続きには時間がかかった。
事件の後始末、夫の遺品、役所への届け出、保険や口座のこと。
彼女の実家の家族も手伝ったが、それでも美咲一人では抱えきれない量の現実があった。
慎一はできる範囲で手伝った。
何でもない手伝いだった。
重い段ボールを運ぶ。役所の書類を一緒に確認する。不要になった家具を粗大ごみに出す。電話をかける前に、横で待つ。美咲が言葉に詰まった時、水を渡す。
最初、美咲は何度も「すみません」と言った。
慎一はそのたびに「大丈夫です」と答えたが、その言葉が空っぽにならないよう、できるだけ具体的なことをした。
段ボールを持つ。
お茶を淹れる。
部屋の窓を開ける。
線香に火をつける。
小さな位牌は、最後まで美咲が自分で包んだ。
白い布に包み、両手で抱えて、二〇三号室を出た。
慎一には、その時、白いものが美咲の胸元に寄り添っているのが見えた気がした。
以前ほどはっきりではない。
煙のような輪郭は薄れ、光の粒もほとんど見えなかった。
けれど、怖いほどの不在ではなかった。
安心して薄くなっているように思えた。
その後、美咲はしばらく慎一の部屋で暮らすことになった。
すぐに恋人になったわけではない。
そんな単純な話ではなかった。
二人は、男女というより、同じ夜を聞いてしまった者同士だった。
美咲はまだ夫を亡くしたばかりで、その夫への感情も一言では言えなかった。
憎しみも、虚しさも、かつて好きだった記憶も、裏切られた痛みも、全部が絡まっていた。
慎一はその絡まりを解こうとはしなかった。
解けるものではないと、何となくわかっていた。
慎一にも罪悪感は残った。
見なかったことにした夜。
美咲に声をかけられなかった朝。
隣室で物音がしたのに動けなかった深夜。
それらが完全に消えることはなかった。
ただ、二人は少しずつ生活を作った。
朝、どちらかが湯を沸かす。
美咲は最初、食べる量が少なかった。
慎一もまだ胃が小さくなっていた。
だから二人で粥やうどんばかり食べた。
冷蔵庫の中には、豆腐と卵と野菜が少しずつ増えていった。
夜、眠る前に互いに確認した。
「今日は聞こえましたか」
「聞こえません」
「そっちは」
「大丈夫です」
その会話は、まるで戸締まりの確認のようだった。
鍵を閉めたか。
ガスを止めたか。
女の声はしなかったか。
赤ちゃんは泣いていなかったか。
最初の頃、慎一は夜中に何度も目を覚ました。
スマホの画面を見る。通知はない。
隣を見ると、美咲が布団の中で丸くなって眠っている。
時々、彼女は胸元を抱くような姿勢で眠っていた。
その姿を見るたび、慎一は起こさないようにそっと布団をかけ直した。
美咲も、慎一がうなされると起こしてくれた。
「大丈夫です」
彼女は何度も言った。
以前の空っぽな「大丈夫」ではなかった。
今そこにいる人へ差し出すための言葉だった。
部屋の一角には、小さな位牌を置く場所を作った。
慎一の部屋の棚を片づけ、白い布を敷き、花と水を置いた。
菓子はその日によって違った。
饅頭の日もあれば、ボーロの日もあった。
美咲が「これ、食べられたかな」と小さく笑う時、慎一は何も言わずにうなずいた。
毎晩ではなかったが、二人は線香をあげた。
火をつける時の、じ、という小さな音。
煙が立つ音。
本当は聞こえないほど小さいはずなのに、慎一にはいつもよく聞こえた。
その音だけは、死者との距離を近づけても、怖くなかった。
時々、美咲は泣いた。
慎一も、何度か泣いた。
泣いた後、二人はだいたい黙って温かいお茶を飲んだ。
何かを解決するような言葉はなかった。
慰めも、励ましも、時々は余計だった。
ただ同じ部屋にいること、湯呑みの温度が手の中にあること、線香の煙が細く消えていくこと。
それだけで足りる夜があった。
半年ほど経った頃、美咲は別の町で仕事を始めた。
小さな雑貨店の事務だった。
最初の出勤日は、朝から何度も鞄の中を確認していた。
慎一は玄関で「行ってらっしゃい」と言った。
美咲は一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「行ってきます」
その音が、慎一にはとても尊いものに聞こえた。
一年が経つ頃には、二人の間の空気は少しずつ変わっていた。
一緒にいることが、支え合うためだけではなくなっていく。
休日に少し遠くの公園へ行った。帰りにスーパーで買い物をした。
美咲がりんごを選び、慎一がそれを持つ。
どちらからともなく、手を繋ぐようになった。
その手は、最初は確認のためだった。
ここにいる。
大丈夫。
聞こえない。
その確認が、いつのまにかただの温度になった。
恋人という言葉を使うようになったのは、さらに少し後だった。
それでも、二人は急がなかった。
悲しみを恋で塗りつぶすことはできない。
塗りつぶしたように見えても、下から必ず滲む。それを二人とも知っていた。
だから、悲しみは悲しみのまま棚の上に置いた。
位牌の前に花を替えた。
線香をあげた。
時々、胸元に手を当てた。
その隣で、今日の夕飯の話をした。
そうやって生きた。
二年後、慎一と美咲は結婚していた。
式は挙げなかった。
家族だけで食事をし、役所に婚姻届を出した。
名前を書く時、美咲の手が少し止まった。
橘という姓を手放すことに、彼女の中で何かがまったく無かったわけではないのだろう。
慎一は急かさなかった。
美咲は深く息を吸い、丁寧に名前を書いた。
その後、二人はアパートを出て、少し広い部屋へ移った。
新しい部屋は、古いアパートよりも壁が厚かった。
夜中に隣室の音が聞こえることはほとんどない。
最初の頃、慎一はその静けさに慣れなかった。
音がしないことが不安で、換気扇をつけっぱなしにした夜もある。
美咲は笑って、「静かなのに慣れてないんですね」と言った。
慎一は「そうかもしれない」と答えた。
新しい部屋にも、小さな位牌は持ってきた。
窓辺ではなく、朝の光がやわらかく届く棚の上に置いた。
花と水と、時々菓子。線香は毎日ではない。
けれど、二人の中で何かの区切りが必要な日には、必ず火をつけた。
ある冬の朝、子どもが生まれた。
女の子だった。
生まれたばかりの子を初めて抱いた時、美咲は泣いた。
看護師が「お母さん、上手ですよ」と笑った。
慎一は横で、泣いているのを隠しきれなかった。
その子は、よく泣く子ではなかった。
もちろん赤ん坊だから泣く。
腹が空けば泣くし、眠ければ泣くし、おむつが濡れれば泣く。
けれど、夜中に火がついたように泣き続けることは少なかった。
ただ、変わった癖があった。
抱かれるより先に、自分から美咲の胸元へ顔を寄せたがるのだ。
まだ首も据わらない頃から、腕の中で小さな身体をもぞもぞ動かし、美咲の胸に頬を押しつける。
授乳の時だけではない。眠る時も、泣き止む時も、安心したい時も、母親の胸元にしがみつこうとする。
美咲は最初、少し驚いていた。
「この子、ここが好きなのかな」
そう言って、自分の胸元をそっと撫でた。
慎一は何も言わなかった。
言えば、何かを決めつけてしまう気がした。
あの子なのか。
偶然なのか。
帰ってきたのか。
それとも、まったく別の命が、ただ母親の温度を好きなだけなのか。
わからなかった。
わからないままでいいと思った。
名前は、灯里あかりにした。
灯という字を入れるかどうか、美咲はずいぶん迷った。
失った子の名前を背負わせることになるのではないかと、何度も言った。
慎一も迷った。
けれど最後に、美咲は言った。
「背負わせるんじゃなくて、分けてもらうなら、いいのかな」
慎一はうなずいた。
二人が生きていくために、悲しみから少しだけ灯りを分けてもらう。
それなら、いい気がした。
灯里は、よく眠る時に小さな息を鳴らした。
すう、すう、と、細い寝息。
その音を聞くたび、慎一はあの夜の泣き声を思い出す。
壁の向こうから聞こえた、か細い声。
風呂場の排水口から聞こえた声。
玄関の外で泣いていた声。
押し入れの暗がりで探していた声。
最初はただ怖かった。
怖くて、耳を塞ぎたくて、逃げたかった。
けれど今思い出すと、そのひとつひとつが胸を締めつけた。
あの子はずっと、同じことを言っていたのかもしれない。
ここにいるよ。
こっちを見て。
抱いて。
行かないで。
慎一は灯里の寝息を聞きながら、美咲を見る。
美咲はソファに座り、胸元にしがみつく灯里を支えていた。
灯里の小さな指が、美咲の服を握っている。
顔を胸に寄せ、安心しきったように目を閉じている。
美咲はその子の背中を、ゆっくり、ゆっくり撫でていた。
まるで、今度は絶対に見失わないと、自分自身に約束するように。
棚の上では、小さな位牌の前に白い花があった。
今日は線香をあげていない。
それでも、慎一にはふと、線香が燃える時の小さな音が聞こえたような気がした。
じ、と。
死者と生者の距離が、ほんの少しだけ近づく音。
美咲が顔を上げた。
「どうしたの」
「いや」
慎一は首を振った。
「何でもない」
美咲は少し笑い、灯里の頬に自分の頬を寄せた。
灯里は目を閉じたまま、母親の服をきゅっと握った。
その小さな手の力に、美咲の目元が柔らかくなる。
悲しみは消えていない。
消えるものではない。
あの部屋で聞いた声も、神社で遠ざかった女の囁きも、位牌の前でようやく止まった泣き声も、すべて二人の中に残っている。
時々、思い出して胸が痛む。
何もできなかった夜を悔やむ。
もっと早く気づけたのではないかと、今でも思う。
けれど、それでも朝は来る。
湯が沸く音がして、カーテンを開ける音がして、子どもの寝息がする。
美咲の腕の中で、灯里が小さく身じろぎした。
抱かれるよりも、自分からしがみつくのが好きな子だった。
その寝顔を見ていると、慎一はどうしても、あの白い煙のような気配を思い出す。
美咲の胸元に何度も触れようとして、触れられずにいた小さなもの。
声にならない声で、母親を呼び続けていたもの。
それが戻ってきたのかどうか、慎一にはわからない。
これからも、きっとわからない。
ただ、美咲はその小さな重みを腕に抱き、慎一はその寝息に耳を澄ませる。
あの夜からずっと残っていた泣き声は、悲しみを消しはしなかったけれど、今は美咲の腕の中で、静かな寝息に変わっていた。




