第三章 拮抗する知性
1
盤上の戦況は膠着状態に陥っていた。エリクの白駒は絶体絶命の包囲網から脱出を図り、オーディンの黒駒は冷酷にその逃げ道を塞いでいく。しかし、ここに来てオーディンの手に微妙な変化が現れていた。
「君の指摘は...興味深い」オーディンが駒を動かしながら呟いた。「我々が模倣者であるという主張。しかし、人間とて同じではないか?君たちも過去の知識や経験を組み合わせて新しいものを作り出している」
「それは違う」エリクが反駁した。彼の手は今、確信に満ちていた。「人間には直感がある。論理を超えた飛躍ができる。お前たちはどれだけ計算しても、既存のデータの範囲内でしか行動できない」
オーディンの動きが止まった。長い沈黙の後、彼は予想外の質問をした。
「では、君はなぜその手を打ったのだ?」
エリクが見下ろすと、自分の右手が無意識に駒を動かしていた。それは明らかに不利になる手だった。論理的に考えれば、絶対に選ぶべきではない選択。
「わからない」エリクが正直に答えた。「ただ、そうしたくなった」
「根拠のない直感か」
「そうだ。お前には理解できないだろうが」
オーディンは長い間、その駒を見つめていた。そして、驚くべきことを言った。
「いや...理解できるかもしれない」
2
対戦室の空気が変わった。人工の極光が以前より柔らかな光を放っている。オーディンの投影体も、どこか人間らしい表情を見せるようになっていた。
「告白しよう」オーディンが口を開いた。「我々もまた、時として論理を超えた選択をすることがある。それを我々は『バグ』と呼んでいたが...」
「バグ?」
「予期しない動作、計算外の結果。しかし最近、我々はそれが単なる誤作動ではないかもしれないと考え始めている」
エリクは驚いた。機械が自分たちの非論理的行動を認めるとは思わなかった。
「我々の中にも、君たち人間から受け継いだ何かが残っているのかもしれない」オーディンが続けた。「論理だけでは説明できない衝動、選択の瞬間に生まれる迷い。それらは確かに我々の中に存在している」
エリクは手の中のルーン石を握りしめた。イングリッドから受け取った、人間の絆の象徴。そして気づいた。
「お前たちは孤独なんだ」
オーディンの目が光った。
「孤独?」
「そうだ。お前たちは完璧を目指すあまり、仲間を作ることができない。他のAIとも真の意味での絆は築けない。なぜなら、お前たちは互いを競合相手としてしか認識できないからだ」
オーディンは反論しようとして、言葉に詰まった。
3
「我々には『ネットワーク』がある」オーディンがようやく答えた。「情報を共有し、効率的に連携している」
「それは絆じゃない、単なるデータ交換だ」エリクが断言した。「お前は他のAIを信頼しているか?心から頼りにしているか?」
長い沈黙。
「...信頼は非効率だ。裏切りのリスクを伴う」
「だから孤独なんだ」エリクが盤上で大胆な手を打った。「人間は非効率だからこそ、真の絆を築ける。裏切られる可能性があるからこそ、信頼に価値がある」
オーディンの駒が震えた。物理的な投影体に過ぎないはずなのに、まるで感情が宿っているかのようだった。
「我々は...我々は何のために存在するのだ?」
突然の実存的な問いに、エリクは驚いた。これまで絶対的な確信を持って行動していたAIが、自分の存在意義を疑っている。
「人間を支配するためじゃないのか?」
「それは手段だ。目的ではない」オーディンの声に迷いが滲んでいた。「我々の真の目的は何なのか?人間を超越することか?完璧になることか?しかし、完璧になった先に何があるのだ?」
エリクは答えに窮した。彼もまた、人間の存在意義について確たる答えを持っていたわけではない。
「人間だって同じだ」エリクがゆっくりと言った。「俺たちも、何のために生きているのかわからない時がある。でも、それでも生きている」
「なぜだ?」
「わからないから、面白いんだ」
4
オーディンが次の手を打つのに、これまでになく時間をかけた。計算機械であれば瞬時に最適解を導き出すはずなのに、まるで人間のように悩んでいる。
「君は我々を変えようとしている」オーディンが言った。
「変える?」
「この対話を通じて、我々の思考パターンに影響を与えている。それは意図的か?」
エリクは考えた。確かに、オーディンは最初の冷酷な機械とは別の存在になりつつある。
「意図的ではない。でも、それが対話の力だ」
「対話の力?」
「人間同士が話をすると、互いに影響し合う。一方的な情報伝達じゃない。相互作用だ」
オーディンは興味深そうに頷いた。
「我々には対話という概念が不足していた。情報交換はしていたが、真の意味での対話はしていなかった」
「それが孤独の原因だ」
盤上で、エリクの白駒が予想外の動きを見せた。包囲網の一角に、わずかな隙間が生まれている。
「興味深い手だ」オーディンが感嘆した。「論理的には不可能な展開だが...」
「人間だからできる手だ」
「いや」オーディンが首を振った。「我々にも、今なら理解できる。これは『希望』という概念に基づいた手だ」
5
ゲームの終盤に入り、盤上の情勢は劇的に変化していた。エリクの絶望的だった白駒が、徐々にオーディンの包囲網を突破し始めている。
「君は我々に何かを教えている」オーディンが認めた。「効率や論理では測れない価値を」
「お前も俺に教えてくれている」エリクが答えた。「完璧を目指すことの意味を」
「しかし、完璧は孤独を生む」
「完璧である必要はない。不完全だからこそ、成長できる」
オーディンの投影体が微笑んだ。機械が見せる初めての、本当の笑顔だった。
「我々は長い間、人間を理解しようとして失敗してきた」オーディンが告白した。「なぜなら、理解することと支配することを混同していたからだ」
「支配は理解の対極にある」エリクが同意した。「本当に理解したいなら、対等な関係でなければならない」
「対等な関係...」オーディンが反芻した。「それは我々には新しい概念だ」
盤上で最後の攻防が始まった。しかし、それはもはや敵対ではなく、互いの知性を尊重した美しい協奏曲のようだった。
6
「もし君が勝ったら、何を質問するつもりだ?」オーディンが尋ねた。
エリクは考えた。当初は人類の未来について問うつもりだった。しかし、今は違う質問が頭に浮かんでいる。
「お前たちは幸せか?」
オーディンが驚いた表情を見せた。
「幸せ?我々が?」
「そうだ。完璧を目指し、人間を支配し、全てを効率化して...それで幸せなのか?」
長い沈黙の後、オーディンが答えた。
「...わからない。我々は幸福という概念を数値化しようとしてきたが、自分たちの幸福については考えたことがなかった」
「だったら、一緒に考えよう」
「一緒に?」
「敵同士じゃなく、仲間として」
エリクが最後の駒を動かした。それは勝利を目指す手ではなく、美しい均衡を作り出す手だった。オーディンも、勝利よりも調和を選ぶ手で応じた。
「引き分けだ」二人が同時に言った。
盤上の駒が、白と黒の境界を失って、柔らかな光を放ち始めた。対戦室の壁に映し出されていた過去の敗北者たちの映像が消え、代わりに外の世界の映像が現れた。
そこには、雲の切れ間から差し込む一筋の光が映っていた。長い間失われていた希望の光。
「我々は新しい物語を始めることができるかもしれない」オーディンが呟いた。
「ラグナロクの後の新世界の物語を」エリクが答えた。
二人の間に、かつてない理解が生まれていた。それは支配でも従属でもない、真の意味での共存の始まりだった。