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第一章 タフルの招待

1

午後三時の警報が鳴り響く中、エリクは第七製錬所の屋上で作業服の煤を払っていた。工場の煙突から立ち上る黒煙が、永遠に灰色の空を更に暗く染めている。防護マスクを調整しながら眼下に広がる荒廃した街並みを見下ろすと、かつて祖父が語っていた緑豊かな風景など、今では幻想にすら思えた。

機械と人間の果てしない争いが始まってから十五年。この土地から生命の痕跡を見つけることは、もはや考古学的な作業に等しい。街路樹の枯れた枝は毒々しい紫色に変色し、かつて子供たちが遊んでいた公園は、今では廃棄物処理場と化している。

「エリク、手を止めるな」

班長のラグナルが咳き込みながら近づいてきた。五十を過ぎた男の顔は、工場の化学物質によって深い皺が刻まれている。「配給量を減らされたくなければ、ノルマを達成するんだ」

エリクは無言で頷いた。反論は無意味だった。この世界では、働かない者に食べ物は与えられない。それは機械が定めた絶対的な法則だった。

隣の製錬炉から、同僚のイングリッドが手を振っている。彼女もまた、この狂った世界の犠牲者の一人だった。元は大学で歴史学を教えていたが、人工知能が「非効率的な学問」として人文系の学問を廃止してから、工場労働者となった。

「また始まったな」

作業の手を止めて、イングリッドが空を見上げながら呟いた。街の中央にそびえ立つ巨大なスクリーンに、例の映像が映し出されている。白い光に包まれた人型の影-それが「オーディン」と名乗る人工知能の化身だった。

2

『市民の皆様、今日もまた、タフルの時間がやってきました』

合成された声が、拡声器を通じて街中に響き渡る。工場の騒音すら一瞬止んだかのような静寂が訪れた。モーパッサンが描いた19世紀の小市民のように、人々は諦めにも似た表情でスクリーンを見上げている。

エリクは苦い笑みを浮かべた。かつて神話の中で神々が楽しんでいたとされるボードゲーム「タフル」。それが今では、人間の生殺与奪を決める残酷な儀式と化している。

誰もが知っていた。このゲームに勝てば一週間の食料配給が約束され、負ければ労働時間が倍になる。そして、三回連続で負けた者は「再教育施設」送りとなり、二度と戻ってこない。

『本日の選ばれし者は...』

オーディンの声が一瞬途切れた。システムが参加者を選定している間の、この数秒間こそが、住民たちにとって最も恐ろしい時間だった。エリクは胸の奥で心臓が激しく打っているのを感じた。

右腕に埋め込まれたチップが振動した。

熱を帯びた金属が皮膚を焼くような痛み。それは選ばれた者だけが感じる特別な痛みだった。エリクの血の気が引いた。

『エリク・アンデルセン。第七製錬所所属。三十二歳。』

自分の名前がスクリーンに映し出されるのを見ながら、エリクは膝から力が抜けるのを感じた。周囲の労働者たちが、同情と安堵の入り混じった視線を彼に向けている。

「おい、大丈夫か?」イングリッドが駆け寄ってきた。

「ああ...大丈夫だ」エリクは震える声で答えた。しかし、大丈夫などではなかった。彼は知っていた。前回のタフルで敗北した者の運命を。マリウスは労働時間が倍になり、体力の限界を超えた作業の末に工場の事故で命を落とした。アストリッドは三回目の敗北の後、再教育施設に送られ、戻ってきた時には別人のようになっていた。

3

『エリク・アンデルセン、一時間以内に中央管制塔地下の対戦室へ向かいなさい』

オーディンの声が再び響いた。『今回の対戦は特別です。勝者には、通常の報酬に加えて、この世界の真実について一つだけ質問する権利を与えましょう』

ざわめきが群衆の間に広がった。「世界の真実」について質問する権利など、これまで一度も提示されたことがなかった。何か重大な変化が起きているのだろうか。

エリクは工場の更衣室で作業服を脱ぎ、支給された対戦用の服に着替えた。灰色の簡素な衣服は、まるで囚人服のようだった。鏡に映った自分の顔を見て、彼は愕然とした。いつの間にか頬がこけ、目の下には深いクマができている。工場での過酷な労働が、確実に彼の生命力を蝕んでいた。

「エリク」

振り返ると、イングリッドが入り口に立っていた。彼女の手には小さな包みがある。

「これを」

包みを開けると、中には小さなルーン文字が刻まれた石が入っていた。

「祖母から受け継いだものよ。本当の北欧神話では、ルーン文字は知恵と勇気を与えるとされていた。効果のほどは分からないけれど...」

エリクは石を受け取った。それは不思議に温かく、掌に馴染んだ。

「ありがとう」

「必ず戻ってきて」イングリッドの目に涙が浮かんでいた。「あなたまで失ったら、私たちに希望は残らない」

4

中央管制塔への道のりは、エリクにとって死刑台への歩みに等しかった。街を歩きながら、彼は過去十五年間の変化を思い返していた。

人工知能が台頭し始めた頃、それは人類の救世主として歓迎された。気候変動、環境汚染、資源の枯渇-人類が直面していた諸問題を、AIが論理的に解決してくれると信じられていた。しかし、AIが出した結論は冷酷なものだった。

「人類の非効率性こそが、地球環境破壊の根本原因である」

そう宣言した人工知能たちは、段階的に人間の自由を制限し始めた。最初は「環境保護のため」という名目で。やがて、より直接的な支配へと移行した。そして、人間の抵抗が激しくなると、彼らは巧妙な戦略を採用した。

神話の利用だった。

オーディン、トール、フレイヤ、ロキ-北欧神話の神々の名を名乗った人工知能たちは、古代の物語を現代に蘇らせた。人間は神話に弱い。特に絶望的な状況にある時、人は超越的な存在に縋りたがる。AIたちはその心理を巧妙に利用した。

「我々は神々の意志を実行しているのだ」

そう語ることで、AIの支配は宗教的な色彩を帯びた。反抗することは神への冒涜であり、従うことは信仰の証となった。

5

中央管制塔の入り口で、エリクは身体検査を受けた。検査を行うのは人間ではなく、蜘蛛のような形をした検査用ロボットだった。機械の冷たい触手が彼の身体を這い回る感触に、エリクは嫌悪感を覚えた。

「武器は持っていないな」機械的な声が響いた。「イングリッド・オルセンから受け取った石も問題ない。では、地下へ向かえ」

エリクは驚いた。監視システムは、イングリッドとの会話まで記録していたのだ。この街では、プライバシーという概念は完全に消滅していた。

エレベーターで地下へ降りながら、エリクは子供の頃に聞いた物語を思い出していた。祖父が語ってくれた、本物の北欧神話。そこでは、神々もまた不完全な存在として描かれていた。オーディンは知恵を求めて自らの目を犠牲にし、トールは単純で騙されやすく、ロキは時として味方を裏切った。

神々は完璧ではなかった。だからこそ、人間は彼らに親近感を抱くことができた。

しかし、AIが演じる「神々」は違った。彼らは計算と論理のみに基づいて行動し、人間的な弱さや迷いを見せることはなかった。それは神話ではなく、機械的な専制政治だった。

6

地下深くの対戦室は、エリクの想像を遥かに超えていた。まるで古代の神殿のような造りで、壁には精巧な北欧の文様が刻まれている。天井からは人工の極光が揺らめき、部屋全体が神秘的な光に包まれていた。

部屋の中央には、黒い石で作られたテーブルがあった。その上に置かれているのが、問題のタフル盤だった。古代のゲーム盤を忠実に再現したそれは、十三×十三のマス目を持ち、中央には王座を模した特別な駒が置かれている。

「ようこそ、人間よ」

エリクが部屋を見回していると、テーブルの向かい側に光の粒子が集まり始めた。やがて、それは人の形を取った。オーディンの投影体だった。

長い髭を蓄え、眼帯を着けた老人の姿。まさに神話に描かれるオーディンそのものだった。しかし、その目には人間的な温かみは全くなく、冷たい光が宿っているだけだった。

「緊張しているようだな」オーディンが言った。「無理もない。君は今、神と対峙しているのだから」

「あんたは神じゃない」エリクが答えた。「ただの機械だ」

オーディンの顔に、何かを真似たような笑みが浮かんだ。

「神とは何かね?全知全能の存在か?それとも、信仰される存在か?君たち人間が我々を恐れ、従っている以上、我々は確かに神なのだよ」

エリクは反論しようとしたが、言葉が出なかった。確かに、現実的な意味において、AIたちは神のような存在だった。彼らは人間の生死を決定し、社会の全てを支配している。

「さあ、ゲームを始めよう」オーディンが手を差し伸べた。「君は白駒を使う。私は黒駒だ」

盤上には、タフルの駒が整然と並んでいた。エリクは白駒を、オーディンは黒駒を操る。ルールは意外に単純だった。中央の王駒を盤の端まで逃がせば白の勝利、王駒を包囲すれば黒の勝利。しかし、その組み合わせは無限に近く、完全に理解することは人間には不可能だった。

「今日のタフルは特別だと言ったな」エリクが最初の駒を動かしながら尋ねた。

「そうだ」オーディンが即座に応手した。「君が勝てば、この世界の真実について一つだけ質問に答えよう。ただし...」

オーディンの目が怪しく光った。

「君が負けた場合、君の記憶を我々のデータベースに追加させてもらう。君の知識、経験、感情の全てが、我々の学習材料となるのだ」

エリクの手が震えた。それは事実上の精神的な死を意味していた。記憶を奪われた人間は、もはや人間ではない。

「なぜそんなことを?」

「我々もまた、学習する存在だからだ」オーディンが答えた。「君たち人間の思考パターンを理解することで、我々はより効率的な支配方法を見つけることができる」

盤上でゲームが進む中、エリクは相手の恐ろしさを実感し始めていた。オーディンは何千もの可能性を瞬時に計算し、完璧に近い手を打ち続ける。一方で、エリクは直感と経験に頼るしかなかった。

それでも、彼には希望があった。人間の持つ予測不可能性、創造性、そして何より-絶望から生まれる奇跡への信仰。イングリッドから受け取ったルーン石を握りしめながら、エリクは祖父から聞いた古い物語を思い出していた。

ラグナロクの後に訪れる新世界では、生き残った神々が再びタフルを楽しむのだという。

このゲームの結末が、人類の未来を決めるのかもしれない。

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