第三話 あっちの世界とは違う世界
第三話 あっちの世界とは違う世界
「ウチはミスズ。…ミスズや。まず言うとくとな、ここ日本やないで? 多分地球でもない、別の世界か別の星や」
焚き火の前に胡坐をかき、タオルぽい布で洗い髪を乾かしながら、ミスズがニッと笑った。焚き火では魚が焼かれているが、先刻獲れた魚は少し離れたところに山積みにされており、焼かれているのは開きにされた干物である。
「…別の星、別の世界。異世界というやつか…!」
俺は実際眼にしたことはないが、そういうものがマンガやアニメで流行しているのだと中村が言っていた。ここにいるのが彼なら、もっと上手に立ち回れるのかも知れないな。
中村というのは、以前令嬢が暴漢に襲われそうになったとき、それを救ってくれた若者だ。
中村とはお互い剣道の心得があったことで話が弾み、その流れで友人たちとゲーム会社を作るのだということを聞いた。暫く会っていないが、元気でやっているだろうか。
俺は彼に返しようのない恩を受けて、なんとか一度恩に報いることはできたが、まだまだ足りないと思っていた。なのに、こんなことになってしまったのは残念ではある。
「…? おっちゃん、どないしてん?」
「あ、あぁ、ミスズさんか。俺は…植草紫苑だ。よろしく」
俺は自分の名前が嫌いだ。親に会ったらぶん殴ってやろうと思うのだが、残念ながら会った記憶はない。
常々相棒に、“子供に名前をつけるなら、自分が明日からその名前になっても我慢できる名前にすべきだ”と忠告して、毎度煙たがられているが、それでも気がついたら口にしている。
俺にとってその名は、若いころは単に”恥ずかしい名前”だったが、四十代間近になった今では、もはや”呪い”のように感じていた。
そういうわけで、正直、苗字はまだしも、名前で呼ばれたくはないが、くだくだしく説明するのも面倒なので、成り行きにまかせることにした。
「ほな“おっちゃん”て呼ぶことにするけど、エエかな?」
杞憂だったようだ。色々考えていたのがバカみたいだ。
「あ、ああ。じゃあ俺は“ミスズさん”と呼ぶことにするよ」
「んはは。大人に”さん”付けで呼ばれんの、こしょばいなぁ」
頬を赤くして、ミスズは身体をくねくねさせた。
「まぁ、キミが先輩だし、色々教えて貰いたいこともあるしな」
「先輩かぁ、エエ心がけやんか。ほな先輩になんでも聞いてや。知ってることなら教えたる」
ミスズが笑って手招きをした。質問カモンという意味らしい。
「ここが地球じゃないかもっていうのは、月がふたつあったから、なんとなく分かったが…」言葉を切って上を指差し、先を続けた。「それ以外は全然状況がつかめないのだ」
「うんうん」
「それではまず、ここはどこだい? 別の世界とか言ってたが…」
異世界人が自分の世界を“別の世界だ”などと言うはずはない。だからミスズは俺と同じ世界の人間なのだろう。
「別の世界は別の世界としか言えんわ。あっちの世界とは違う世界。あっちの世界にも、名前なんか付いてなかったやろ?」
今まで考えたこともなかったが、確かにそうだ。言語は違えど、世界は“世界”に類する言葉で呼ばれているだろうし、よその地球もまた、“地球”をさす言葉で呼ばれていることだろう。
「それもそうだ。質問を変えよう。ここはなんて国…」
「ちょい待ち! トニカクや!」
叫んで、茂みを指差すミスズ。
「トニカク?」
ミスズが差す方向に顔を向けると、白い塊の中心に黒い部分のある、大きさも見た目もサッカーボールのような何かが、俺に向かって飛んできた。
反射的に上半身を後ろに倒して避けると、目の前を通っていったのは角のある白ウサギだ。黒く見えたのは角だったようだ。
「よいしょお!」
右から左へ通り過ぎざま、俺は左手でトニカクの角を掴み、身体を捻った。トニカクの勢いプラス身体の捻りで腰を浮かし、斜めに傾いだまま一回転。そのまま川原の岩に叩きつける。
なおものたうって逃げようとするので、右手で頸に手刀を入れると痙攣するだけになった。どうやら頸が折れたようだ。
「おっちゃん、座ったまんま、バレエみたいにクルクルってしたな!」
「これがバケモノ? トニカクというのか」
「めっちゃ凄いやん! コイツ素早いし、頸ばっか狙てきよるヤバい奴やねんで!」
「羽根のないやつは、途中で軌道や速度を殆ど変えられないから、先を読めば簡単に捕まえられる。跳ばせてしまえばこっちの勝ちだ」
「なるほどなぁ。いきなり跳んできよったしなぁ」
俺はトニカクをその場に置くと、立ち上がって周囲を警戒した。
「他にも居るのではないか?」
「うんにゃ。トニカクはつるまんさかい、コイツの縄張りに他のトニカクが入ってくるまで、暫くは大丈夫や」
ミスズが“落ち着け”と言いたげに、俺の拳を制した。トニカクは一匹狼ならぬ、一匹ウサギというわけか。
「ウサギは寂しがりと言うが、コイツは違うのだな」
「ウサギが寂しがり? そんなわけないやん。あっちで何羽か飼うてたけど、あいつらめっちゃケンカするし、弱いやつボロボロにするで? そんなウソ、誰に聞いたん?」
「誰と言うか、あっちの世界では、常識みたいになっているが?」
「んはは、おっちゃんも別の世界から来たんちゃうか? あいつら割と凶暴やで? 絞めるときはめっちゃ暴れるしな」
「シメル…? なんだいその物騒な言葉は?」
「おっちゃんもやらんかったか? ツガイにしといたらアホみたいに増えよるから、余った菜っ葉とか芋の皮食わして、育ったら頸をキュッと」自分の頸に手を当てて、舌を出すミスズ。「ウチんトコじゃ、ウチがエサやって、父ちゃんがキュッてして、母ちゃんが…」
「いい! もういい! 俺はそんなことはしてない!」
どんどんエグい話になりそうだったので、キュッとする話は強制的に打ち切った。
「ほな、コイツ捌いてまうか」
言うと、ミスズは手際よくトニカクの腹を割き始めた。
こいつもバケモノに類する生物なのだろうが、血は赤いし脂肪は黄色いし骨は白い。角があることを除けば、哺乳類のそれと大差ない。哺乳類(多分)の血は、やはり魚とは違う。
膝の裏がゾクゾクする。
恐る恐る見ていると、手早く心臓らしきものを取り出して、切り開いた。その中から何かを取り出し、川で血を洗い流す。
「…それは?」
ミスズが示したのは、オパールのような、七色に輝く小石だった。
「何かは知らんけど、これ取り出しとかんと獲物が消えてまうねん」
「消える?」
「なんでかは知らんけど、シューって。スパイ大作戦のテープみたいに煙出して、自動的に消滅するねん」
「不思議なこともあるものだな」
「それにな、取っといたら割と高う売れるらしいから、取っとかん理由はないやろ?」そこまで言うとミスズは、鼻をスンスンいわせて後を続けた。「邪魔が入ったけど、ちょうど魚焼けたで。もたもたしてたら焦げてまう」
「お、おお」
魚はたくさん獲れていた。爆発音がしたことから、爆薬を使ったのだろうと推測できるが、詳しくは分からない。焼かれているのは開いた干物なので、今日獲った魚もそうなるのだろう。
「ではご相伴に預かるよ」魚の開きにわしっとかじりつく。「…おお、少し匂いが気になるが味はいい。塩加減もちょうどいいな」
「この魚、ずっと食うてるから、味付けはプロやで。ホンマは魚、苦手やってんけど、こればっか食うてたら平気になってもた」
「確かに、くさやなんて作るの、大変だったんじゃないか?」
「ちっとばかし腹下しても、自分で薬作れるさかい楽なモンや」そう言うと、ミスズは黄色い石を親指で弾き、空中で掴んだ。「それよりおっちゃん、デカい図体してるクセに、動きが早いな」
「それは違うぞミスズさん。筋肉はただの重石ではなくて、身体を動かせるには筋肉が要るのだ。だから俺はデカい身体を動かせるために、たくさんの筋肉を付けた。…そういうことだ」
「どういうことや?」
「平たく言うと、筋肉は多いほどいい。筋肉が多いと、攻撃力と防御力が上がるからな。つまり、筋肉は剣であり鎧なのだ」
「そう言うてもろたら分かったわ。そういうことなんか」
そう言ってミスズは、何かを企んだような顔で数回頷いた。
「ミスズさん、あそこにある魚はなんだ?」
指差した先には、今食べている魚と同じもののほかに、ふたつの山があった。
「あれは、高く売れるヤツやから、後で干物にして、街に持っていくんや」話を切ったミスズは、ここで顔をしかめた。「んで、もひとつは、食べると死にそうなくらい不味いヤツと、ホンマに死ぬヤツや。後でその辺に埋める」
「そ、そうか」
俺が知らないだけかも知れないが、川に毒魚がいるなんて聞いたことがない。さすが異世界だ。
「ほんで、おっちゃんもダンプに轢かれたん?」
魚を小動物のように両手で持って食べながら、大きな眼をきょろりと向けてミスズが言った。
「ダンプ…? いや、そうじゃなくて…」
「ウチが薬草採ってたら、おっちゃんがビューって、金色に光って落ちてきたんや。ほんでな、追っかけてたらあっこの岩にガーンてブチ当たって、岩の裏へ落ちたんや! ほたら、偶然なんか知らんけど、ちょうどウチが住んでるとこやってん。なぁ、どやってここ来たん?」
「どやってと言われても…」
「ほたらおっちゃん、ギフトってなにもろたん? ウチのは“宵越”っていうんや。ギフト言うてもお歳暮とちゃうからな? んはは」
質問のたびに、しゃがんだままミスズは距離を詰めてきた。
質問のたびに意味不明が重なり、逆に後すざる俺。
「ちょっと待て! いっぺんに聞くな」
ついに爆発した俺は、ミスズの顔をアイアンクローのように掴んで押し戻した。
「とと、ごめんなぁ。日本語で話すの久しぶりやさかい、暴走してしもた。ウチはあっちでダンプに轢かれて、死んだと思ったら金色の光に包まれて、いつの間にかこっちに来てたんや」
「なるほど。だから俺にも“ダンプに轢かれたのか”って聞いたのか」
得心が行った俺は、胡坐を組み直して頷く。
「せや。おっちゃんもウチと同じ、金色の光に包まれて落ちて来たんやで。あっちの空から、びゅーんって」軌跡をなぞるように、空を指差す。「ウチと同じことが起こったんやって思うやん?」
「まぁそうだが。俺の場合は、悪ガキを殴っていたら頭の中に女が現れて、声が聞こえてきた。なんと言われたのかは分からないのだが、急に気分が悪くなって、ふらふら歩いていたら目の前が暗くなった。で…」言葉を切って地面を指差す。「気付いたらここだ」
「なかなか豪気やなー」
なぜか眉間にしわを寄せるミスズ。
「まずな、誤解せんといて欲しいんやけど、その女とやらはウチやないで? 確かに誰かが来るのを待ってたけど、おっちゃんをこっちに呼ぶようなことは、ウチにはできひんからな?」
「頭の中に現れた女はミスズさんじゃないから、そこは疑ってはいないよ。しかし、俺は金色の光に包まれた記憶もないから、その記憶があるミスズさんの場合とは、ずいぶん違うな」
むしろ違いすぎるほどの違いで、まったく接点が見つからない。
「もしかしたら、ウチはあっちからほり出された感じやけど、おっちゃんはこっちに呼ばれたって感じやないかな。知らんけど」
ミスズのその言葉は、すとんと腑に落ちた。
「…なるほど。色々違うが、そこが一番の違いか」
「そやな。ぜんぜん、違うわなぁ…」
判りやすく肩を落とすミスズ。俺の言葉のどこに、がっかりする要素があったのだろう?
「違うと、なにか都合が悪いのか?」
「…ウチはあっちに生きて帰りたいんや。絶対に。せやから、ウチと同じように、こっちに来るヤツをずっと待ってたんや」言葉を切って、俺の方に顔を向ける。「…おっちゃんがウチと同じようにして来たんやったら、帰る方法も分かるんちゃうかなって、思うたんやけど…」
「ああ、そういう…」
俺は何も言えなくなった。
そもそも、俺には“死んだ”という実感はない。だから多分、生きたままこっちに来たのだろう。
仮に、俺が帰ることができたとしても、死んでこっちに来たミスズは、俺と同じ方法で、生きて帰ることができるのだろうか?
「うーむ…」
落胆したミスズを眺めつつ、所在無げにボリボリと頭を掻くしかなかった俺だが、とあることに気づいた。
「ミスズさん、がっかりするのはまだ早いぞ。考え様によっては、新たなサンプルができたって事でもある!」
「…サンプル?」
「つまりミスズさんと俺は、二種類の違う方法で来てしまったわけだ。だったら、帰る方法も二種類あるかも知れないだろう?」
ミスズの顔がぱっと輝いた。
「せやな! おっちゃん、めっちゃカシコやん!」
「だが、その方法をどうやって探せばいいのかが分からん」
「なに言うてんねん。おっちゃんを呼んだ女探して、なんで呼んだんか、なにをさせたいんか聞いたらええやんか!」
確かに、わざわざ異世界から呼ぶくらいだから、呼んだやつが到着しなければ、どこに行ってしまったのか探すはずだ。“まぁいいや”で済ませることではないだろう。
「ああ、それで依頼をこなしたら…」
「送り返してくれるはずや!」
互いに相手を指差して、なぜか少し悪い顔になった。
「…おぉ、無理のない計画…だが、依頼というのがわからんな」
「おっちゃん、悪者をどついとったときに呼ばれたんやろ? せやったらやることは決まってるわ。ズバリ正義の味方や!」
「正義の味方…!」
男子なら誰でも心が浮き立つ言葉だ。
「ほんで、ウチも手伝うたら、一緒に帰してくれるはずやん? わざわざ他所から呼ぶようなヘタレ揃いやし、帰してくれんかったらシバくぞ言うて、居直ったったらええねん!」
「正義の味方…?」
浮き立った心に“疑問”という名の杭が刺さったが、俺の疑問などどこ吹く風で、頬を上気させるミスズ。
「ミスズさん? 重要なことなんだが、この辺りで”正義の味方”などを呼びそうな国はあるか? 要するに、悪いやつに攻められているとか、そういう困りごとがあって、俺を呼びそうな国だが…」
「…うーん。ウチ、この国のこともよう知らんし」考え込むミスズ。「ごめんなぁ。知ってそうなふいんき出してもうて」
「いや、気にしないでくれ。テレビもネットもない世界のようだし」
向こうの世界でも、殆どの情報はテレビやネットから伝わる。それらが無ければ、隣の国の一大事だって分からないものかもしれない。
「ネットってなんやの?」
「インターネットを知らないのか。…えーと、物凄く説明しにくいが、簡単に言うとテレビの凄いヤツ、だな。世界中の誰でも出られるテレビで、色々なことが学べるが、嘘と本当がごちゃ混ぜに放送されている、使い方の難しいテレビだ」
インターネットの説明をしている間に、俺は“あのこと”に気付いた。ネットでも、ただ目立ちたいだけの奴が居たりするじゃないか。あれを真似すればいいのではないか?
「はー、ウチがこっち来てる間に、なんや凄いモンができたんやなぁ」
「使い方次第では、凄く便利なものだ」言葉を切った俺は、先ほどの気付きを伝えた。「ミスズさん、ふたりで色々目立つことをしていれば、口伝えで呼んだ人とやらの耳に届くんじゃないか?」
「そ…そやな! ふたりってのがエエな! ひとりじゃないって素敵なことやん!」瞳をキラキラさせるミスズ。「なんやろ、こんなワクワクすんの、こっち来て初めてや! おおきにな、おっちゃん!」
うまくいくとは限らない。
だが、自分の存在が、この少女に笑顔を与えたのは事実だ。向けられた笑顔を、俺は面映い思いで見つめた。