第二話 おっちゃん、日本の人やろ?
第二話 おっちゃん、日本の人やろ?
目覚めたとき、空には二つの月が昇っていた。
『飲み屋のネオンか…? いや、赤と、青の月? 紫色の空…?』
二つの月が作り出すグラデーションの美しさに、しばし目を奪われたが、その空に黒い縁取りがあることに気付いた。
よく見ると、それは木々の陰であり、ここは森の中の、少し開けた場所であることが分かった。
ついさっきまで街中に居たはずなのに、気が付けば森の中で、草の上に大の字になっていた。これは何かの冗談なのか?
起き上がろうとした俺は、黒い塊が胸の上に載っていることに気付いた。危険な動物なら頸を噛んで来そうだが、その気配はないし、もぞもぞ動いているが大して重くはない。
「…なんだこりゃ?」疑問を口に出したとたん、黒い塊がぐるんと動き、顔が現れた。「うわ」
思わず叫んでしまった。黒い塊に見えたものは、つばの広いトンガリ帽子と、黒い頭髪、黒い外套が一塊に見えたものだった。
顔が現れてみれば、それは童話に出てくる魔法使いのような姿の人物である。帽子のトンガリ部分は、中ほどで“くたっ”と折れていて、まさに童話に出てくる魔法使いだ。
ちなみに俺は、結構最近まで“中折れ帽”というのは、この魔法使いの帽子のことだと思っていた。言葉通り中ほどで折れているから、間違いではないだろう。ない筈だ。
話を戻すが、童話と違ったのは、中身がリンゴを持った老婆ではなく、大きな目が印象的な少女だったことである。
「目ぇ覚ましたな、おっちゃん!」
なんと関西弁だ。
街なかで倒れて、関西少女に助けられたか。などと考えていると、なぜだか分からないが、関西少女の眼に、みるみる涙が満ちてきた。
「おっちゃん、日本の人やろ? なぁ、そうなんやろ?」
少女は、飼い主を見つけた犬のように、俺に顔を寄せてきた。
「あ…?」
「なぁて! 日本人なんやろ?」
涙なのか希望の光なのか、目をキラキラさせながら、俺に詰め寄る。
「…そう」なにを訊ねられているのかは分かるほどに目は覚めたが、なぜ訊ねられているのかは未だ分からなかった。タジタジしながら俺は答えた。「…そうだ」
「…やったぁ! ようやっと来よったぁ!」
少女は、弾けるように両手を挙げ、しばしの硬直の後、掲げた手をそのままに、ゆっくりと俺の胸に倒れこんだ。
そのまま動かなくなる。
「…お、おい?」
異変に気がつき、俺は慌てて身を起こそうとしたが、金縛りにかかったように身体が動かない。頭の中もグニャグニャドロドロで、芋虫が蛹になったとき、一旦中身がクリーム状になったりするが、あいつらもこんな気分なのではないかと思ったりする。
少女はと言えば、穏やかな寝息を立てていた。
「…なんなんだ? この子、俺が日本人だったらなんだって?」視線を上げる。「それにあの月、あの空。気を失う前は街なかにいたはずなのに、なんで森の中にいるんだ?」
分かるものがひとつもないのである。
胸の上で眠る、小柄な少女の顔を覗き込んだ。
月明かりに照らされた少女は、俺が仕えていた令嬢ほどではないものの、整った顔をしていた。
十代に見えるが、詳しい歳はわからない。女の歳など、知りたければ聞けばいい思っていた。相棒にそう言ったところ、朴念仁と呼ばれて笑われた。
「まぁ、この子が眼を覚ませば全部わかるか…」
未だに頭の中は、かき混ぜられたように混沌状態で、色々考えることが億劫だ。それほど重くはなかったし、だいいち暖かいので。俺は少女を胸の上に載せたまま、再び目を閉じた。
眼を覚ますと、胸の上の少女は居なくなっていた。
周囲は既に明るくなっており、漂う白い靄に光の筋が射して、ペールギュントの“朝”が似合いそうな、いかにも森の朝といった風情である。公園の木立が森に見えたのかも、などと思っていたが、木立程度でこんな靄は出ないだろう。ここはどう見ても本物の森だ。
夢ではない証拠に、少女がいないことを除き状況は昨晩のままなので、そこだけが夢だったとは考えられない。
緊急性がない場合は、いきなり動いてはいけない。
仰臥したまま身体のあちこちを順番に動かして、異常がないかどうか確かめる。幸い、身体は昨夜の状態から脱したようで、問題なく動かせるようになっていた。
「おいおい、俺を待っていたとか言ってなかったか…?」
独語しながら起き上がった俺は、辺りを見回して少女の姿を求めた。
今の俺には、自分の身に起こったことがなにひとつ分かっていない。訳知りらしき彼女だけが頼りなので、居なくなっては困るのだが、名前を知らないので呼ぶこともできない。
俺のものではない荷物が近くに置かれていたが、状況から考えて、彼女のものと考えて間違いない。どうやら彼女は、ちょっと離れただけのようなので、少し安心した。
俺が倒れていたのは大きな岩の陰だったが、その岩の向こうから、陽が射していることと、水音がしていることに気付いた。水音を聞いたせいで喉の渇きを覚えた俺は、音のするほうに歩を進めた。
岩を回り込むと、太陽に照らされた水辺があった。
「ああ、太陽はひとつなんだな」
まぶしさに、細い眼を細めながら、昨夜見た二つの月を思い出す。
明順応した俺が眼を開いたとき、そこには川原と、さらさらと流れる透き通った水があり、その水で身体を洗う少女がいた。
少女は、突然現れた俺に視線を向けたものの、さして驚きもせず、笑顔のまま長い黒髪を梳っている。
「おっ…」
絶句。少女と眼が合ったまま、しばし凝視。
ふと視界の際に、水辺に置かれた帽子と外套を認めた。そのときになって初めて、水浴びしているのがあの少女であることに気付き、慌てて顔をそらした。
「おっちゃん、おはようさん!」
屈託のない笑顔を弾けさせ、大きく手を振る少女。
「す、すまん! かなりじっくり見てしまった!」
言う必要はないと思われるかも知れぬが、俺は正直に告げた。
ラッキースケベは、その後の人間関係にとって決してラッキーではない。それを認識しておかねば人生を誤るということを、俺は知っているのだ。
「別にかまへんよ? そこで見ててもろた方が安心やし」
けろりとして少女は言った。
「見てられるか!」と言ったものの、既に穴が開くほど見てしまっていた。「…いや、かなり見てしまったが、これ以上は色々ダメだ。向こうを向いているから、何かあったら叫べ!」
「んはは、わかったぁ」
胸に載られても呼吸の妨げにならないほど軽かったから、子供だと思っていたのに。色々小ぶりであったものの、ちゃんと身体は女の形をしていた。あんなのずるいだろ。女の形をしているのは!
俺は自分の両頬を、音高く平手打ちした。
「あ、朝風呂ってヤツか」
視線をそらしたまま、平静を装って言う。
「せやで。明るいうちやないと、夜はバケモンが出るさかいな。今まではずっと、昼間にうっつらうっつらするだけで、夜は起きっぱなしやってん」
「だから、昨晩はいきなり寝てしまったのか?」
「せや。昼間も絶対に安全てわけやないし、こっち来てからずっと寝不足やってんけど、ゆんべはおっちゃんのお陰で、ぐっすり眠れたわ。あんなん久しぶりや。ホンマおおきになぁ」
自分だって身体が動かない状態だったのだから、昨晩”バケモン”とやらが出なかったのは、ただの幸運だったのだろう。ずっと寝不足だったのは可哀想だと思うが、買いかぶられては困る。
「こっち来てからと言ったが、ここは日本ではないのか? ここはどこだ? どうして俺はここに? なにひとつ分からんのだが…」
横を向いたまま俺は言った。
視界の外からは、キラキラとまぶしい光が誘ってくる。
「んはは。まぁ慌てんといてーな。なんやろな、髪洗っとかんと魔法の効きが良うない気がするさかい、今は大人しゅう髪洗わして」
マホウ? 魔法だって?
「なんと言った? 魔法? ここには魔法なんてものがあるのか?」
「そっからか。そっから説明せんとあかんのか。まぁそやろなぁ」やれやれといった声で答える少女。「素っ裸でする話でもないし、後にしてや」
まぁ正論だ。
「あ、ああ。すまん」
“髪が魔法に影響する”そういうこともあるのか。
言われてみれば、物語の中の”魔法使い”は、なんとなく髪や髭が長かったような気がした。俺は勉強は嫌いだが、図書室や図書館は割と好きだったのだ。
「おっちゃん、ついでに魚獲るから、ちょっと岩の陰に隠れといて」
「んぉ? おお」
水浴びのついでに魚を獲る。なかなかワイルドな組み合わせで、隠れる理由も分からないが、俺は言われたとおり岩陰に隠れた。
ドゥン!
水中で起こったと思しき、くぐもった爆発の音。
「なんだ?」
少女のことが気になって、岩陰から覗こうかと思ったとたん、何かが降ってくる音がした。無意識に頭を手でかばったとき、足元に魚が落ちてきた。
「おっちゃん、もうええで」
何事もなかったかのような少女の声。
「魚が降ってきたぞ? これは、キミがやったのか?」
魚の尻尾をつまみ、岩陰から顔を出すと、少女は水に浮いた魚を泳いで集めていた。もちろん全裸のままである。
俺は慌てて顔を引っ込めた。
「どこが“もうええで”なんだ!」