【第5話】喪失
私はいつも、朝早くからお店の手伝いをしている。お母さんはもっと早く起きているから、ほんとは一緒に起きて、お手伝いしたい。でも、私は早起きが苦手だから、結局朝ごはんの匂いがするまで起きられない。だからその分、お手伝いもっと頑張ろうって、毎朝頑張っているんだ。でも朝早くから頑張るせいで、お昼ご飯の後眠くなって、いつもお昼寝してしまう。
その後は、起きたらお母さんがお店を閉める準備をしているから、一緒に手伝う。今日は誰が来たとか、何のパンが人気だったとか、そんな話をしながら。
その日も、お昼寝から目が覚めて、お店の片づけを手伝おうとベッドから起き上がる。でも、いつもなら外に看板を出していて、お客さんはもういないはず。少し早く起きちゃったのかな。男の人の声が聞こえた時、そう思った。
いつも通りの日常が始まって、終わっていく。それが当たり前だと思っていた。なんて愚かなのだろう。日常を信じて疑わなかった自分に、ひどく失望した。
―――――――
光が消える。世界から光が、色が、何もかもが失われていく。どこまでも色彩にあふれていた過去の世界は、今となっては喪失をことさらに強調する、残酷な記憶になり果てた。
――嗚呼、神様はなんて残酷なんだろう。
寝室の扉を開けた時から、私は色を失った。お母さんが襲われてるのを見た時、何もできなかった。後ろから押さえつけられて、苦しそうに藻掻いていたのに。ただ茫然と立ち尽くしていただけ。
――お母さんを、助けないと。
そう思う程、体が動かない自分に苛立った。時間は幾何もない。そんなことは痛いほどに分かっていたのに。焦燥感だけが募っていく。
本当は分かっていた。子供の自分が助けに入ったところで、何ができるだろうか。お母さんを助けたり、ましてや強盗を追い払うなんて不可能だろう。
血だまりが広がっていく。赤黒い血が、ゆっくりと地面を染めていく。鉄っぽいような臭いが、残酷な現実を突きつけてくる。どうしようもない程の絶望が、彼女の頭の中を埋め尽くす。
お母さんが動かなくなった時、私を支配したのは虚無感だった。お母さんを助けようとしなかった自分への怒りも、無慈悲な暴力を前にした時の絶望も、今はどうでもいい。
「お母さん……なんで……」
なんで、私を一人にするの。お母さんのいない世界に価値なんてないよ。私はただ、お母さんと一緒にいたいだけなのに。
遂に男の人たちが彼女の存在に気付く。何か言い争ってるように見える。でも、彼女の耳に音は入ってこない。
この瞬間も、お母さんが遠くに離れていっているような気がして。何としても、お母さんを引き留めたかった。もし、この世界に奇跡があるなら、お母さんの傷を治してよ。物語の中の英雄や魔法使いの魔法で、お母さんを治してよ。
いまにも消えそうなお母さんの気配を前に、彼女はただ懇願した。しかし、そんな彼女をよそに、一人の男が近づいて来る。
男が、彼女に迫っていく。床に押し倒され、身動きが取れなくなった。死を覚悟した。
どうしたって、この状況を脱するのは無理だって分かってるのに。こんなに必死に足掻くのは、お母さんと少しでも一緒に居たいからかな。最後は、最後だけはお母さんの近くに居たいからかな。
男が彼女の頭を押さえつける。その手に持ったナイフが、彼女の目に近づいていく。世界がゆっくり動いて見えた。まるで空間が粘性でも持ったかのように。しかし、無情にも時間が止まることはない。ただ、ナイフが右目に近づくのを呆然と眺めた。これが最後の光景なのだと。
男の握るナイフが瞼を貫き、その下の瞳に達する。激痛が脳を焼く。力の限り暴れるが、圧倒的な体重差の前には無力だった。そして直ぐに、左目の激痛が襲ってきた。どれだけ痛みに叫んでも、押さえられた口から、その悲鳴が誰かに届くことはないだろう。
次に私は、目を失った――