【第1話】
「はぁ、上着を羽織ってくればよかったかしら」
井戸の水を汲みながら、独り言つ。ロープの付いたバケツを井戸に落とし、引き上げる。
家の裏手から通りを少し歩いたところ、まだ人の気配の薄い時間帯だ。家から少しの距離でさえ、そんなことを呟いてしまうくらいには寒い。
陽の光が地平線の向こう側から雲を照らしている。日の出は目前だが、地表を温めるまでにはまだ時間がかかるだろう。
持っている容器は少し小さく、水を溜めるためには何往復かしなければならないだろう。そう考えるだけで思わず両の手をこすってしまう。汲んだ水をバケツから容器に入れ替え、来た道を戻る。
何往復かして、家の裏にある、これもまた小さな水甕に半分くらい水を溜めた。これで店の仕込みには不自由しないだろう。
勝手口を開けて、寒さから逃げるように家に入った。入ってすぐに窯がある。そこは所謂キッチンになっていて、隣の部屋は寝室になっている。
リビングと言われるような大層なものは無く、壁際にある小さな木のテーブルがそれの代わりとなっていた。キッチンの奥には通りに面した部屋がある。そこには少しの商品が並べらるだけのテーブルと、小さなカウンターがあるのみである。
冬の時期は乾燥しているため、火を起こすのは容易だ。打ち金を打って火種を作る。窯に火種と木を入れ、火を大きくする。
「これで大分ましになったわね」
窯から漏れる熱が、付近を暖める。隙間からの風を押し返し、また押し戻される。そんな攻防が壁際で繰り返される。
「これで火入れも終わったし、次は生地を……」
今日売る分の材料をテーブルに並べていく。生地を作るのは大変だ。特にこの時期は、生地に使うために温めた水もすぐに冷えてしまう。そのたびに温めなおすのも面倒なので、いつもそのまま使ってしまう。
強力粉、卵、塩、バターなどをレシピの順番通りに混ぜていく。無論レシピはすべて彼女の頭の中にある。分量においても彼女の長年の経験から、もはや量る必要もない。
「砂糖があれば、もっとおいしいのが作れるのかしら、」
高価な砂糖は富の象徴である。ただの庶民である彼女に買えるはずもなく、そもそもこの街に出回ること自体稀だ。そんな無駄な思考を彼方へと追いやり、作業を進める。
それから少し時間が経って、ようやく生地を作り終えた。そうしたら後は寝かせるだけだ。しかし、彼女は休むことなく、次は朝食を作り始めた。スープを火にかけ、硬くなったパンを窯の手前に置き温める。パンは2つ、スープの皿も2個。つまり2人分である。
彼女には娘がいる。もうすぐ7歳になるだろうか。そろそろ起きてくる頃だろう。いつも決まった時間に起きることを考えれば、朝食の匂いにつられているのだろう。そんな些細なことでさえ、彼女には微笑ましく感じられる。
火にかけたスープが沸騰し、部屋には出汁と野菜から滲み出た旨味を感じさせるような、そんな匂いが広がっていく。
―ガチャリ
寝室のドアが控えめな音を立てながら開く。
「おはよう、エマ」
「おはようお母さん」
エマは少し眠そうに、瞼をこすりながら答えた。
「ちょうど朝食ができるところよ。顔を洗ってきたら食べましょう。」