幸せはそこらじゅうにある
【命の誕生】
日が暮れかけの頃、静かに僕は誕生した。僕を作った彼女、ヒナギクさんは僕を見て言った。
「君は、どこまでも澄んだ目をしてるから、名前は“ソラ”」
初めて名前を呼ばれたこの時、静かに誕生したんだ。それから1週間経った今でもその事をはっきりと覚えている。懐かしむ僕の首を咥え、運ぶ者が現れる。僕は声を上げて抵抗したいけれど、思いは声にならない。何故なら、僕は猫のぬいぐるみだからだ。僕と共に僕を咥えた者が抱きかかえられる。
「ミィちゃん、お友達には優しくしてあげてね。ほら、ご飯の時間だよ」
ヒナギクさんはそう言って煮干しが入った皿を床に置く。“ミィちゃん”は、僕への興味をわすれ、煮干しが入った皿を目掛けてまっしぐらに走る。まさに猫まっしぐらである。僕は寂しさを感じる。その時、ヒナギクさんは僕を撫でる。
「痛かったよね。ごめんね。ミィちゃんも悪気はないの。さ、一緒にお茶でも飲んで気分転換しましょ」
ヒナギクさんは、僕を席に座らせて、向かいの席に座る。淹れたての紅茶が入ったポットを持つと、カップに注ぎ入れる。台の上には、花瓶に一本の花が活けてある。なんて言う名前の花かは分からない。ヒナギクさんはお菓子を一口食べ、僕に向かってほほ笑む。
「美味しいね、ソラくん」
僕は嬉しさを感じる。それと同時に美味しさを共有できないことに悲しさも感じる。僕も物じゃなくなれればいいのに・・・。そう思う今日この頃である。
【二人目の友達】
名前を与えられたことで僕は誕生した。同じように名前を与えられて命を持つ者が誕生した。
「毎日働いてくれてありがとう。しっかり仕事をこなしてくれて助かるわ。君にも名前をつけてあげる。そうだなぁ…しっかり者だから“シッカリ”さんね。ちょっとそのまま過ぎたかな?」
ヒナギクさんは、少し笑いながら、洗濯機のスイッチを押す。洗濯機は、いつものように力強く仕事を開始する。
「よし。ちょっと買い物に行ってくるから留守番よろしくね、ミィちゃん」
ヒナギクさんは、買い物袋を持って出かけて行った。僕は、ソファーに座りながら、洗濯機が回る動きを眺める。僕はのんびりしながら、何か動くものを眺めるのが好きだ。その時、僕の脳裏に声が聞こえる。気のせいかと思って気にしないふりをする。別にふりをしてもしなくても同じことだけれど。
(おい。そこの猫。いや、猫のぬいぐるみか。聞こえたら返事をしろ。)
(・・・)
(おい。聞こえてるだろ。お前も俺と同じで命を持つ者じゃないのか?)
(・・・そうですが。あなたは、僕が見えてますか?)
(ああ。だから、話しかけてる。)
(どうして僕が命を持つ者だと分かったんですか?)
(さっき、彼女が呼びかけてただろ。)
(それは、ヒナギクさんの飼い猫です。)
(あれ?そうなのか。俺の位置だと彼女がお前を見て名前を呼んだように見えたからよ。)
(そうでしたか。)
(お前、名前は?)
(ソラです。どこまでも澄んでいる目だからそう名付けてくれたんです。)
(そりゃ良かった。はは)
(何で笑うんですか?)
(いや、嬉しそうに言うからよ。俺はシッカリ。よろしくな。)
(こちらこそよろしくお願いします。)
(おう。それより、ソラ、こっち見過ぎだぞ。)
(動けないんで仕方ないです。)
(あ、そう)
ヒナギクさんが帰ってくるまでしばらく気まずい時間が流れた。でも、僕は友達が出来た事を嬉しく思った。
【思わぬ事件】
銀色のスプーンとフォークが台の上に並んでいる。大きな皿に鮮やかな色の野菜を使ったサラダが載っている。ヒナギクさんは、台所でスープに入れる野菜を刻んでいる。週に一度、ヒナギクさんの家に来客がある。ヒナギクさんは、その来客をもてなす準備をしているのだ。完成したスープを器に注ぎ入れる。温かいスープから湯気が立っている。
「うん。いい感じ。まだ時間があるわ。予定にはなかったけど、もう一品作っちゃおう。調子もいいし大丈夫なはず」
そう言ってヒナギクさんは再び台所に向かい料理を始める。数分後、時計を見てヒナギクさんは慌てる。
「大変。間に合わないわ。急ぎましょ」
ヒナギクさんは、休むことなく作り続ける。ついに完成してヒナギクさんは汗を拭う。
「ふう。なんとか間に合ったわ。お口に合えばいいのだけれど・・・」
そう言いかけてヒナギクさんは台にもたれるように倒れる。その時、ぶつかった衝撃で台の上に置かれたポットが落下する。ポットは倒れたヒナギクさんの頭上に落下している。僕は、動け、と自分の体に命令する。しかし、僕の体は動くことはない。くそー。一瞬の間に頭の中をヒナギクさんとの思い出が駆け巡る。僕は歯がゆさで全身が震え、このまま動けないなら死んでもいいとさえ思った。逆に言えば、死んでもいいから動け、と。その時、開いた窓から突風が吹き込み、僕の体は宙を舞う。まるで解き放たれた鳥のように。気づいた時、僕はポットを全身で受け止めていた。玄関から入ってきた来客が倒れたヒナギクさんを見て、驚いている。
「ヒナギクさん、今、救急車を呼びましたからね。あら、このぬいぐるみ、紅茶まみれだわ。身代わりになったのね。勇敢な子だこと。今洗ってあげるわね。」
僕は、洗濯機に入れられる。
(ソラ、見てたぞ。よくやったな)
(はい。ヒナギクさんを守ることが出来て良かったです。)
(俺からも礼を言うぜ。あとは俺に任せな。)
僕は、安堵する。ぐるぐる回りながら、考える。あの時の突風は何だったのか、について。
【幸せを運ぶ花】
(苦しい・・・)
僕は、物干し竿に洗濯ばさみで固定されている。お腹が押さえつけられて苦しい。見えるのは地面だけ。開いた窓から話し声が聞こえる。
「どれも美味しいわあ。」
「それは良かったです。」
「それにしても無事で良かった。」
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした。」
「それはいいの。但し、一つだけいいかしら。無理はしないこと。これだけは守ってちょうだい。」
「わかりました。今後気をつけます。」
「それを聞いて安心したわ。じゃあ、残りを頂きましょう」
「どうぞ」
「本当に美味しいわあ。それにしてもあのぬいぐるみ、あなたが作ったの?」
「はい。ソラっていいます。」
「いい名前ね。今日の空は晴れてるからよく乾くわよ。」
「はい。太陽の光を浴びて気持ちいいと思います。」
「あなたも元気でいてね。あなたが元気でいたら私も元気になるんだから。この花、デイジーの花言葉は平和、それから希望でしょ。」
「ありがとうございます。」
僕の背中は、太陽の光が当たってじんわりと温かくなってきて、僕は寝そうなほど気持ちよくなっていた。その時、僕の脳裏に声が響いた。
(おうい、そこの猫、いや、猫のぬいぐるみや)
(・・・シッカリさん?)
(シッカリという名前ではない。わしは、ニュートンじゃ)
(ニュートン、難しい名前ですね。)
(まあ、のう。これは、昔、ヒナギクという子の祖母がわしに付けた名前じゃ。)
(ヒナギクさんのおばあちゃん・・・。)
(もう今ごろは空の上で守っておるはずじゃ。確かマフユと言ったか。わしはこの名前を気に入っておる。何せそのお陰でわしは命を持ったのじゃから。あんたにも名前があるのじゃろう?)
(はい。ソラっていいます。)
(いい名前じゃのう。大切にするといい。空からの太陽の光を浴びるのはわし、好きなんじゃ。何せわしリンゴの樹じゃから。)
(僕も好きです。)
(そうか。じゃあ、一緒に日向ぼっこといこう。)
僕は、喜びに満ち溢れていた。