4. シラヌイ (34歳) ヤシロ (9歳)
本殿から少し離れた場所に書物を保管している蔵がある。外から見てもそこそこの大きさに見えるこの建物は、六角形の形をしていて六角蔵と呼ばれた。中には所せましと古今東西から集められた書物がズラリと並ぶ。貴重な書物の保存を最優先に設計されたこの建物は、湿気がたまらぬよう通気性がよくなる工夫はしてあるものの、日光の侵入を最大限にカットしている。そのため日中でも薄暗く気味の悪い場所だと思われていた。そんな六角蔵に日夜閉じこもって一つ一つの書物を熱心に読み解いている者がいた。
シラヌイ。カエンが猛将なら彼は知将と言えるだろう。知らないことを知る事。それが彼に課せられた使命なのだろうか。抑えられない知識欲によって、膨大な文字量が彼の眼から頭に流し込まれただろうが、決してそれが満たされることはない。むしろ知れば知るほど知らないことがあることに気づかされ、ねずみ算的に知りたい事柄が増えていく。そんな彼を尊敬する者も、気味悪がって揶揄する者も、彼のことを「万学鬼」(ばんがくき)と呼んだ。学問の話になると鬼神のごとき目つきになるからだ。
しかし、彼のその才能によってこのカムナ皇国は良く栄えたと言える。先の戦に勝利したのも彼の起点がきいたからだというのも一理ある。領内の区画の整理や、建築、治水、医術、外交、易学、結界師の育成、民の争いの仲裁や裁きなど、あらゆる政を陰で支えた。そんな彼がまだ幼かった頃に、その才に気づき、そばで召し抱えはじめたのが先代の殿皇(イザナの父)だった。先見の明があったと言わざるをえない。
イザナを支える右腕がカエン、左腕がシラヌイ。この構図によって今のカムナ皇国は平和という均衡を保ち続けている。さらに、カエンのもとには彼女の武勇を慕う若き猛者たちが、シラヌイのもとには彼の博学多才を慕う若き秀才たちが切磋琢磨している。イザナの元には自然と必要な人財が集まった。まるで金色の血統を守らんとするかのように。
シラヌイが閉じこもった六角蔵の入口に立ち尽くす者がいた。彼を慕い、彼から少しでも学ぼうと四六時中シラヌイを追いかけまわす若き秀才の一人、ヤシロだ。彼女はまだ幼いが、シラヌイが直々に自分の元で学べるよう手配した。しかし、あまりの貪欲ぶりに度々シラヌイも手をやいてしまうのだ。
「シラヌイ様、開けて下さい。ずるいですよ、いきなり居なくなるなんて。まだ聞きたいことがあったのに。」
返事はない。扉を開けたいのだが容易に触る事ができない。理由があるようだ。
「どうせ結界はってるんでしょ。絶対に解いて見せますからね。」
ヤシロはに足元にあった小石を拾い、軽く扉に投げつけた。石が当たった部分から一瞬だが白いヒビがが薄くひろがって消えた。石は弾かれることなく真下に落ちた。
「見くびられたものですね。この程度の結界ならチョロイチョロイ。」
胸の前で手を合わせて額に全神経を集中させる。
「これは水気を冷気に変換する理論を応用した結界。すなわち、疑似的に凍結現象を再現して扉を固めるというカラクリ。解けたが最後。対処法はいくらでもあるものです。」
両手で印を刻みながらブツブツと何かを唱えるヤシロ。
「冷気を滅する精霊たちよ、その力を示したまへ。おおおおーっ破!」
右手を扉にかざすヤシロ。扉に張り付いていた透明の壁にヒビが入り、たちまち粉々になって消えた。
「さあ、解けましたよ。シラヌイさま・・・・。」
扉に手をかけた瞬間、ヤシロの体は吹っ飛ばされて、向かいの建物に叩きつけられた。解いた結界の下にもう一つ、異なる種類の結界が張られていたようだ。がれきが体を覆いつくす。何とか這い出してきたヤシロの前に一人の男が立っている。シラヌイだった。
「詰めが甘いですよヤシロさん。ある程度の結界師になると、二枚張るのは当たり前になります。つまり、あなたはまだまだ初級も初級。産毛が生え始めて喜んでいるていどの練度です。ま、私がその気になれば三枚、四枚の結界を張ることも可能ですが、今回は特別に手加減してさしあげました。ちなみに、二枚目に張っていた結界はオハジキとよばれているものです。ふれた者を容赦なく吹き飛ばします。開錠を試みるやからに恐怖心を与えるには最適なんですよ。」
面白くなさそうな顔をしたヤシロ。しかしながら、彼女の幼さと無邪気さと才能に無限の可能性を感じずにはいられない。シラヌイは決して口にはしないが、彼女の計り知れないポテンシャルに大きな期待を寄せている。それと同様に、彼女のような逸材を立派に育てなければならいプレッシャーもひしひしと感じている。つい厳しくなってしまうのだ。
「まったく、相変わらず意地悪ですねシラヌイ様は。そんな性格じゃ何年たっても女の人にはモテませんからね。」
言ったころには、シラヌイは六角蔵の扉を開けて中へ入っていった。
「あ、待ってくださいよ。寡黙な男、シラヌイ様ぁぁぁ。なんちゃって。」
ヤシロは続けてあとを追った。
履物を脱いで中に入る。やはり薄暗い。六角の壁沿いに棚があり、書物や巻物がぎっしりと詰め込まれている。足元の板張りがひんやりと冷たい。中央には一段上げて畳が敷かれている。その4畳の畳の空間に足の低い机があり、書き物ができるよう筆とすずりが置いてあった。ろうそくの柔らかな明かりが周囲を照らす。シラヌイはそそくさとその机に向かって正座し、筆をとって書き物の続きを始めた。
「まったく、こんなところに一日中閉じこもって体に悪いですよシラヌイ様。たまには町中へ遊びにでも行って羽を伸ばしたらどうですか。」
チラリとヤシロを見てまた視線を戻した。すらすらと書く手はけっしてやすめない。
「人には役割というものがあります。今生、わたしが仰せつかっている役割はいっときたりとも無駄にできないものなのです。残念ながらそんな時間はないのですよ。」
もう一度チラリとヤシロを見る。ふくれっ面をするヤシロ。それを見てシラヌイは、はたと気づいた。この子は秀才と言えど9歳。甘えたい気持ちを無意識にシラヌイにぶつけているのだ。
まだ赤ん坊だった当時、ヤシロは戦で両親を亡くして寺に預けられていた。こうした子たちをその寺では十数名預かって育てていたのだが、住職が読み書きを教えるとヤシロの非凡な才能はすぐに知れ渡ることとなった。一度写経したものは全て暗記し、次は経本なしですべてを書き上げた。わずか一年で寺の経本は全て暗記。置かれた書物も全て読破。そこから学んだ結界術を、見よう見まねでかわやの扉に施し、入るに入れない坊主たちを陰から覗いてゲラゲラ笑う始末。いろんな意味で自分の寺で預かることに限界を感じた住職がシラヌイに相談し、神殿側で預かる運びとなったのである。
シラヌイは筆を止めた。今度はしっかりとヤシロのほうに向き直り、ゆっくりと話しかけた。
「ヤシロさん、あなたに見せたいものがあります。もう少し先になる予定でしたが、今にしましょう。こういった機会は逃すべきではありませんね。」
ヤシロに対してシラヌイが改まった態度を示すのは珍しい。机を畳の端において段から降りる。しゃがみこんで段差に開けられた二つの穴に両手を入れて中で何かをつかんだ。両方を内側にひねると手前の畳一畳分が斜めに持ち上がり、下へと続く階段が現れた。
ポカンと口を開けるヤシロ。
「さ、付いてきなさい。」
ろうそくを持って降りていくシラヌイのあとに、ピッタリとくっついていく。やや不安そうだが、内心ワクワクもしているようだ。
一番下まで降りると分厚そうな木の扉があった。扉には木の歯車が四つ付いており、それぞれの歯には番号が刻まれている。その上に一本のカンヌキが横にさしてあった。4桁の数字を正しく合わせないとカンヌキが外れないような仕組みになっているらしい。
「ヤシロさん。」
察したのか、ヤシロは両手で目をふさいだ。ゴロゴロゴロと歯車の回る音がしてカンヌキが外れた。
「もういいですよ、さあ中に入って。」
部屋に入ると思った以上に広い。左の壁沿いには3種類の衣装が掛けてある。シラヌイが神殿の祭祀に詣でる際の衣装だ。正面の壁には大きな障子紙が2枚張られており、一枚はカムナ皇国の地図のようだ。結界を張っている場所とその結界の種類、見張りを置いている場所、斥候を待機させる場所も記してあった。そして、もう一枚は農地と水の流れが詳しく書かれたものだった。過去に川が氾濫したと思われる場所には印がつけてあった。その下の机の上には特に重要と思われる書物が大事そうに置いてある。「争事裁定記録」「医術指南書」「薬草調合術」「結界術」などと書かれている。そして右の壁を見てヤシロは唖然とした。壁にズラリと掛けられている小さな木札。およそ二千は超えるであろう数だ。その一つ一つに名前が記してあった。
「これは・・・・、弔い札・・・。」
カムナ皇国では死亡者がでると、身内や近親者が弔い札と呼ばれるものを三つ用意するのが慣例となっていた。小さな木札に名前を書いたものだ。一つは寺に預けて焚き上げ供養をしてもらうため、もう一つは土葬する際に遺体の手に握らせた。あの世で生前の名前を忘れぬようにとの信仰からだ。そして最後の一つは神殿に預けた。これは天への報告という意味あいが強いと考えられている。神殿に預けられた弔い札は、取次者を介して今上殿皇に預けられ、夕刻の祈りによって殿皇自らその名を天に奏上申し上げた。その後、神殿側でも弔い札は丁重に焚き上げて終わりにしていたのだが、シラヌイはこれをやめさせた。イザナに懇願し、神殿が預かる弔い札は自らが回収して保管するようにしたのだ。しかもよく見ると、病気や災害や火災、事件など死因別に分けて掛けられている。その中でもひときわ数が多いのが戦だった。
「これまで神殿では弔い札を保管する習慣などありませんでした。天に報告申し上げたらそれで終わりです。私はそれが納得できなかった。この者たちの死を決して忘れるべきではない。そして、一人でもその死を減らすための探究をし続けなければならない。そう決心しました。天に代わって民を預かる。それが私たちカムナ皇国の神殿に使える者の使命です。」
ヤシロは圧倒されていた。万学鬼と呼ばれ、陰で揶揄する者も少なくないシラヌイ。しかしその人物の根底には、ゆるぎない信念と使命感によって、盤石につくり固められた礎があった。単純に好きだからという理由だけで書物を読みふけっているわけでない。そこで得た知識を生かして、皇国の民たちがより良い営みができるよう探究・模索しているのだ。
「ヤシロさん、ここへおいでなさい。」
シラヌイは右の壁のやや左めにヤシロを呼んだ。すっかり口数が減ったままソロソロと壁際まで近づくヤシロ。シラヌイは9歳の幼子を背後から包むようにしてしゃがみ込み、同じ目線になった。右手をそっと握り、一枚の弔い札に触れさせる。
【リョウザ】と書かれた札。
「あなたの、お父さまですよ。」
続けてそこからやや左上にある札を触れさせる。
【サエラ】
「あなたの、お母さまです。」
ヤシロはハッとした。いつからか気が付いていたんだ。自分には両親がいないってことを。そして、周りの大人たちがなるだけその話題には触れまいと気を使っていることを。自らも眼を反らし、逃げ続けていた。だけど、目の前に今それが現れた。顔を覚えていない両親。そして初めて知るその名前。自分でも受け入れがたい複雑な感情がおそってくる。
「お二人は、7年前の戦で亡くなりました・・・。お父さまは弓の名手、お母さまは医術師でした。ヤシロさん、あなたのその非凡な才能はご両親から授かった大切な宝物ですよ。大切に育ててくださいね。」
「父さんと、母さん・・・。」
ポロポロと大粒の涙がほほを伝っていく。シラヌイはくるりとヤシロの肩を回して向き合った。何も言わずにそっと抱きしめる。シクシクと泣くヤシロ。
「我慢しなくて良いのですよ。子供は泣くものです。」
せきを切ったごとく、部屋にひびくヤシロの嗚咽がシラヌイの胸に突き刺さる。
あの戦は何としても回避しなければならなかった。しかし、あの時それができる力と知恵が自分には無かった。リョウザは矢を放ちながら自らも矢に打たれた。サエラは前線の負傷者を治療しているところを襲われた。大勢が死んだが、こちらも大勢を殺した。そして、その大半をカエンにやらせてしまった。自分にできたことは、結界を駆使して多少の加勢をした程度だった。何もかもが足りていなかった。
ろうそくの炎はゆらゆらと二人の影をゆらした。
伝説ともなったカエンの一騎当千。その働きがなければ、七年前にこの国は亡きものにされていただろう。