幸せならば
大成が運転していた車の中には応急処置ができる救急箱が設置されていた。
奈子の傷は見た目こそ酷かったが、打撲以上の傷はなかったため、救急箱の中身だけで十分足りた。
「他に痛い所や気分の悪い所はあるかい?」
「いいえ。今のところありません」
奈子は顔や四肢に貼られた絆創膏を見ながら一つ大成に向けて頷く。
「そうかい。でも一応遅くないうちに病院に行くようにね。傷の説明は僕がご両親にしておくから」
「ありがとうございます」
「あの……」
奈子と大成の話が一段落したところで彩果が恐る恐る声を上げる。
「うん? ああ狭いかい? 後でさくらを助手席に動かそうか」
「いや、そういうことじゃなくて。本当にこのまま帰って大丈夫なんでしょうか」
彩果の問いに大成は穏やかな表情を浮かべたまま首を傾げる。
「大丈夫だよ。ティタニアの近くにいた君たちや精露山付近の住民に、山の中にいた僕さえ何も外傷がないんだから東京の人達に影響はほとんど及んでいないさ。それでも何か心配かい?」
「……私は、一度死んだような人間です。未名河彩果となってから十年経ちましたが、今でも思うんです。私は本当に彩果として生きたいのかって」
大成は微笑みを絶やさないまま彩果の主張を黙って聞く。奈子も戸惑いながら近くで様子を見る。
「私はあの日、親の言いつけを守らずに山に入った。その結果、三十年も失踪し、周りの人を振り回した。両親を傷つけた私が、これ以上普通の人間として生きていいのか、わからない。彩果として、真矢の罪悪感を抱えたまま生きることが辛い」
彩果は唇をきつく噛みしめ、苦しそうに顔を歪める。そんな彩果に声をかけたい奈子だが何と言っていいかわからない。たとえ全員に記憶が戻ったとして、『神隠しに遭った真矢』という傷跡は深く残る。この先ティタニアの脅威はなくなっても、彩果のトラウマは纏わりついてくる。一生をかけて。
大成は彩果の話が終わったところでゆっくりと口を開く。
「君は不幸だったかい?」
「え?」
「この十年間、彩果として過ごした日々は不幸だったかい? 毎日後悔と悲痛だけで生きてきたかい?」
大成に問われた彩果はこの十年間を振り返ってみる。初めは奇異な目で見られ、心ない言葉を吐かれ、辛い毎日が続いていた。
それでも今まで生きてきたのは何故か。ティタニアに怯え、他人に散々言葉の暴言を受け、真矢を殺しながらも生きてきたのはただの諦めからか。
(違う)
真矢はいなくなっても、彩果という新しい娘として世話をしてくれた母。姿が変わっても姉妹のように接してくれた姉。
戸惑いながら、ティタニアに傷つけられながらも最後まで自分を救おうと命がけで妖精の世界に来てくれた奈子。
そして、自分の心の支えとなったさくら。さくらが中学生となり、部活に初めて来た時。
『あ、あの、じ、神海しゃくら……さくらです。よろしくお願いします。未名河先輩』
『彩果先輩。いつまで私のこと妖精ちゃんなんて呼ぶんですか。恥ずかしいです』
『彩果先輩一人だけですか? それなら一緒に行きましょう。一人でいるよりきっと楽しいですよ』
『全員で、帰りたいだけだぁぁぁ!!』
さくらがいたから自分も笑顔でいられた。自分を鬱陶しそうに見ていても、さくらはその腕を振り払うことはなかった。ティタニアと対峙することは恐ろしかっただろうに、その小さな体で声を振り絞ってくれた。
「いいえ。いいえ。幸せでした。苦しかったこともあったけど、奈子や妖精ちゃんに会えたことは、とても幸せでした」
彩果は両の眼から溢れんばかりの涙を両手で覆い、嗚咽を漏らしながら大成に主張した。大成は彩果の言葉を聞いて笑顔を浮かべながら頷いた。
「それでいいんじゃないかな。人が死ぬのには理由があるけど、生きるのに理由はいらない。君が少しでも幸せだと思うなら、生きるべきだ。それが、きっと君の言う親への償いだろう」
大成が彩果の頭を優しく数回撫でると、彩果も応えるように何度も縦に頭を動かした。
「帰ろうか。君の家族がいる場所へ」
「……はい」
次に顔を上げた時、彩果の顔には涙と一緒に、いつもの笑顔が戻っていた。
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