真矢でいたかった
真矢は顔の半分を奴隷紋に埋め尽くされたまま仰向けに倒れ込む。意識ははっきりとしているのに体はピクリとも動かない。あの日と同じだ。
(でももう私は帰れない。あの時のように、奈子と遭遇しない限り)
既に彩果の中で人間界に帰るという思いは消え去っていた。仮に戻れたところでそれはまた数十年後の話。自分の親も姉も友達も彩果を置いていなくなっていく。
あの日からずっと真矢は孤独だった。自分の母は白髪と皺が増えた老人になり、年の近かった姉は成長し、親となっていた。小学校の友達も、誰も真矢の知っている顔ではなかった。
(喜納川真矢は死んだ。これからは未名河彩果として生きろ。でも、彩果ももうすぐ死ぬ)
いつだって自分だけが取り残されてきた。自分は生きているのに両親も姉も真矢を見てくれなかった。そこに存在するのは新しい娘だと毎日病室で洗脳のように聞かされた。
真矢も最初こそ抵抗した。自分は喜納川真矢だと。神隠しに遭ったとしても、何年経っても自分は喜納川真矢だと。それでも誰も聞き入れてくれなかった。
『お前はこれから未名河彩果だ。真矢の名前は出してはいけない』
実の母からそう告げられた時、真矢は幼いながらに一種の絶望を受けた。自分を名づけてくれた母が、真矢を六年間愛してくれた母が、真矢の存在を否定した。
それだけではない。母や姉は、自分の姪にあたる奈子にも未名河彩果を強いた。忘れない。決して忘れないあの日。
『いいわね奈子。この子は未名河彩果になるの。あなたの友達よ。絶対真矢と呼んではいけないからね』
奈子は真面目でいい子だ。毎日病室に見舞いに来ては『彩果』と会話をした。何度も何度も奈子は『彩果』の名を呼んだ。だが、『真矢』の名は一度も呼んでくれなかった。
その純粋な心が、真矢の最後の抵抗を完全に壊した。
大人は聞いてくれなくとも、歳が近い奈子ならきっと味方になってくれるだろうと。その奈子が母の言いなりになったら、真矢は独りぼっちだ。
真矢はその日から抗うことを放棄した。ただがむしゃらに彩果を作った。
自分が笑えば母達が安堵の表情を浮かべることを知っていた彩果は天真爛漫な性格を作り、苦しむ真矢を心の奥底に沈めた。
(その代償が、一気に降りかかった)
ティタニアは狂気に満ちた妖精だが、知性や力は高い。以前のように人間を誤って返すことは二度としないだろう。そして、ティタニアに抗う者も現れるはずがない。
つまり、真矢だけでなく、彩果も死ぬことになる。
(妖精の世界で暮らす奴隷紋の子どもは不老不死になる。意識も記憶も残ったまま、永遠にこの世界で生き続ける)
なんと残酷な世界だろうか。絵本で読んだ妖精は、テレビで見た妖精の世界はもっと可愛くて、優しい世界だ。
(もう、楽になりたい。何も考えることなく、眠っていたい)
唯一動く瞼を彩果はゆっくりと閉じようとする。このまま目を閉じれば、死の世界へ行けるのではないか。彩果はそんな思いを抱えたまま意識を失おうとした。しかし、目を完全に閉じる直前に、叫び声が聞こえた。
「真矢!!!!」
ティタニアでも、妖精でもない声。人間界に帰ってから毎日聞いていた声。
彩果は驚愕に開かれた目だけを声のした方へ向ける。
『あらあら。呼ばれざるお客ね』
真矢に優しく声をかけていたティタニアが一気に全てが凍てつくような声を出す。
その視線の先は彩果と同じ方向を向いている。
(な、こ……?)
信じられないというような表情を浮かべる彩果の瞳には息を切らせた奈子の姿が映っていた。合宿中と変わり映えのしないその姿に彩果はまだそれほど時は経っていないのかと不思議な安堵を覚える。
『なぜお前のような子がここに足を踏み入れているの』
怒りを抑えることなくティタニアはその鋭い視線を奈子に降りかける。
奈子は一瞬怯んだもののすぐにティタニアに啖呵を切るように言葉を捲し立てた。
「彩果を取り返しにきただけよ。彩果はあなたの子どもではない。あなたの操り人形でもない!」
『ただの小娘が何を偉そうに言い出すかと思えば。私が我儘を聞いてあげるのは可愛い坊やだけ。呼んでいない人間の我儘なんて聞くと思って?』
「これは我儘じゃない! 大体、自分を束縛し、自由を奪う母親を愛する子どもなんてどこにいると言うの!」
奈子が激怒したところを見たことがない彩果は一部始終をただ呆然と眺めるしかなかった。だが、ふと我に返って気づく。
(奈子、駄目よ。今ならまだ間に合う。ティタニアは侵入者には容赦ない。ただの人間であるあなたなんて、すぐに殺される)
彩果は何とか奈子を説得しようとするが奴隷紋によって行動を封じられているため声を出すことすらできない。
(お願い奈子。私はもういいの。元々こうなる運命だったんだから。私を助けるなんて、絶対に無理よ)
せめてティタニアに彩果の意思が通じれば。自分は人間界に戻る気はない。だから奈子を返してくれ。そう願えればティタニアの怒りも収まるはず。
しかしそんな彩果の思いは届かず、ティタニアは奈子に近づく。
『下劣な人間だこと。妖精に逆らうなんて身の程知らずね』
ティタニアはその威圧的な言葉と共に奈子の首を掴んで自分と同じ目線まで持ち上げる。少し力を加えれば奈子の首は簡単に折れてしまうだろう。そんな中でも奈子は変わらずティタニアを睨む。
「彩果を返してもらうまで私は帰らない。何度だってこの世界に来てやる」
『……そう。それなら、永遠に闇の中を彷徨っているといいわ』
そうティタニアが吐き捨てるように言うと、空から鋭い稲妻が奈子に降りかかった。
蛇足
奈子は一度ティタニアに遭っています(真矢が帰ってきた時)。奴隷紋はつけられていませんが、記憶として妖精世界のことを植え付けられていたのでそこから自分で入ることができました。一方さくらは彩果と引きずり落とされただけなので探すことができません。




