真矢の過ち1
さくら達を人間界に帰した後、彩果に待っていたのはティタニアの脅威のみだった。
『坊や。いい子ね坊や。さあ、こちらにいらっしゃい』
背筋が一気に凍る感覚を抱えながら彩果はティタニアに向き直る。十年経っても変わらない、人間離れした身長と半透明の四枚の翅。切れ長な瞳と白すぎる肌。桃色の髪。
『どうしたの坊や。また私に逆らうというの』
「……い、いえ。そんなことありません。ティタニア様」
ティタニアがその長い両腕を彩果に向かって差し出す。まるでそこに入ってこいというように。
彩果は恐怖を覚えながらも逆らえずに腕の中へ入る。
『ああ、可愛い坊や。もう二度と離さないわ。あなたには奴隷紋をつけたもの。他の人間とは違う。永遠に私の元で生きるのよ』
「……っ!」
ティタニアが彩果の左頬に手を置いた途端、蝶の形をした痣が浮き出た。彩果は鋭い熱さと痛みに顔を顰める。
『ずっと一緒よ坊や。坊や。真矢』
ティタニアの言葉に彩果は驚愕を込めた瞳を向ける。その瞳は段々恐怖に変わり、最後には諦めと失望を称えたまま光を失っていく。
(ああ、そうだ……私は彩果じゃない。二度と、彩果には戻れない。永遠に真矢のままだ)
彩果は薄れていく意識の中、走馬灯のような過去を思い出した。
あの日、真矢は退屈だった。両親は何かの準備、姉の紗矢もその手伝いをしていた。真矢に手伝わせるとすぐ何かを壊すからと言われ、椅子に座って待っているようにのみ言われ早十分。
天真爛漫、悪く言えば不注意な真矢にとっては五分じっとしていることさえ苦痛である。誕生日に買ってもらった赤いリボンも弄りすぎて皺ができる程だ。
(ひまだなー。おかあさんたちまだかなー)
真矢は視線をあちらこちらに移し、両親や姉の様子を具に観察する。それしかすることもないからだが、そんな真矢の視線にあるものが映った。
「?」
山の奥の方。木々の隙間から何かがキラキラと光っている。その光は真矢が肉眼でわかるほど強く放たれているが、準備をしている三人は気づいていないらしい。
危険だから山へ一人で入ってはいけない。何度も両親から念押しされていた真矢だが幼い子どもの好奇心には勝てない。
(ちょっとだけならいいよね)
真矢は勢いよく椅子から降り、光っている山の方へと駆け出す。
「真矢! 山の方へは行かない約束でしょ!」
母親の叱声に一度止まる真矢だが、茶目っ気のある顔で頼み込む。
「ちょっとだけ! すぐ戻ってくるから」
「全く……いい? 絶対すぐに帰ってきなさいね」
「はーい!」
母の許しが出た真矢は光が消えないうちに急いで奥の方へと走っていく。雨が降っているわけではないが、年中湿気を含むこの山の地面は走りにくい。真矢は必死に光を見失わないようにしながら走る。
段々と近づいていく光。もう少しで手が届きそうというところで真矢は急に嫌な予感を覚えた。この光に触れてはならないと。
しかしそう思った時には遅い。光に夢中になっていた真矢の足元が急に開き、重力に逆らうことなく真矢の体は奈落の底へと落ちていった。
「きゃあぁぁぁぁぁ……あ?」
暗闇に落ちた真矢は絶叫を上げて落ちた。だが、すぐにその速度は緩やかに減少していき、最後には緑色の草が生い茂る地面にゆっくりと降り立った。
「ここ、どこ?」
怪我なく地に着いた真矢だが、突然の光景に疑問を隠し切れなかった。
「おかあさん? おとうさん?」
不安を覚えた真矢は元来た道を戻って親の元に帰ろうとする。
しかし歩けど歩けど見えるのは緑が生い茂る木々だけ。
「なんで? なんで?」
幼い真矢にとって少し自分の思った通りにならないことが起きるとそれは恐怖の対象になる。楽しく遊んでいたはずの真矢はその場に座り込みぐずり始めてしまった。
「ここどこ? まやかえるの……」
泣き始める真矢だが、それで両親が迎えに来たわけではない。だが違うものが真矢の側に近づく。
『あらあら坊や。そんなところで泣いてどうしたの? こちらにいらっしゃい』
母親の声ではない。母親よりも高く、優しい声が頭上から降りかかる。
涙を浮かべながら真矢が顔を上げると、見知らぬ人物がそこに立っていた。驚く真矢を目の前の女が抱き上げる。
『あらあら坊や。怖がらないで。私の可愛い坊や』
「!」
背の高い人間離れした美貌を誇る女に抱き上げられた真矢は女の背に透明な羽がついていることに気づく。
「ようせいさん!」
絵本で見たことのある羽のついた人間。可愛いものが大好きな真矢は初めて見る妖精というものに興奮した声を上げる。
『あらあら坊や。笑顔になったわね』
「はねあるよ! ようせいさんだ!」
満面の笑みで羽を指す真矢に女は微笑ましそうに笑う。
『坊や。あなたはいい子ね坊や。ずっとここで遊びましょう』
「あそぶ!」
幼い真矢は女の言葉にすぐに頷いて周りに飛んでいた小人のような妖精と遊び始めた。
女──ティタニアはそんな光景を暗い笑みを浮かべながら見ていた。
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