さようなら?
体勢を崩すさくらをなんとか昨夜が支える。後ろに控えていた彩果は幽霊が守ったらしい。
「な、何事!?」
「ティタニアの怒りだろう。子どもを盗られて俺達を排除する気だ」
「ど、どうするの!? このままじゃ倒すどころか帰ることもできないんじゃ」
「とにかく逃げるぞ。どうせバレてるだろうが立ち止まってるよりマシだ」
説明も要求できずに昨夜に手を引かれて木々の中をくぐり抜ける。昨夜が前にいるので木と衝突することはないが、疲労を抱えているさくらではそのスピードに追いつけず何度かよろけた後、揺れる地面に足を盗られこけてしまった。
「さくら!」
「いた……っ」
『坊や。出てきなさい。お仕置きしなくてはいけないわ。坊や。坊や』
森中に響き渡るティタニアの声が怒気を含んでいる。完全に人間側が不利な状況だ。さくらに限らず全員ティタニアの餌食となるだろう。さくらが最悪なことを考えている間に禍々しい黒い気配が辺りを包み込んだ。
『ああ坊や。追いかけっこは終わりよ。もう逃がさない。一生この森で暮らしなさい』
ティタニアはその美しい顔を歪め、鬼のような形相でさくらに手を伸ばす。逃げられないさくらはあの痛みがまた来るのかと身構えたが、誰かに押されてティタニアから逃れた。
『お前は……』
「奪うなら私を奪えばいい! この子はあなたの子どもじゃない! 早く人間界に帰して!」
さくらの元いた場所から彩果はティタニアと対峙する。その顔には再び奴隷紋が浮かび上がる。
「待って先輩! それは駄目!」
「ねえティタニア。私だけじゃ駄目なの? もうあなたから逃げない。だからこの子達を帰してあげて。妖精ちゃんは……さくらちゃんは帰りを待ってる人がいるんだから」
しばし彩果を見下ろしたティタニアはその歪んだ顔に歪んだ笑みを浮かべた。
『坊や。あなたはいい子ね。あなただけが私の坊やよ』
ティタニアが手を彩果の両頬に置く。そのまま彩果を自分の胸へ引き寄せて包み込んだ。
「待って! 先輩!」
「……あの二人を帰して」
『いいわよ坊や。あなたは可愛いからわがままも聞いてあげるわ』
「先輩!」
さくらが彩果に手を伸ばそうとするが、寸での所で止められる。止めたのは幽霊だった。
「どうして! あなたは私達の味方じゃ……」
「妖精ちゃん」
ハッとしてさくらが彩果を見ると、彼女は寂しそうに目を細めて微笑む。
「もう、ここには来ちゃ駄目よ」
「先輩……っ!!」
彩果やティタニアの輪郭が薄れていく。そして森が白く輝き、さくらの意識も薄れていった。
さくらは飛び起きた。そこはよく見る自室。ベッドも机も制服も何もかも自分の部屋のものだ。そして窓から差し込む太陽の光はその色だけで既に正午に近いことがわかる。
「……どういう、こと?」
さくらが呆然と呟いていると、誰かが扉をノックして入ってきた。
「おはよう。あら、起きていたのですね。合宿疲れで寝るのは構いませんがあまり遅すぎると生活リズムが狂いますよ」
「おかあ、さま?」
「はい? そうですよ。どうしてそんなに驚いた顔をしているのです」
いつもと変わらず母は少しきつい口調でベッドに座っているさくらを問いただす。
「だって私、まだ合宿に」
「合宿なら昨日帰ってきたでしょう。まったく。まだ中学生なんですからボケないでください。ほら、起きたのなら身支度を整えてきなさい。もうお昼の時間ですよ」
そう言うと母は出て行こうとした。その母を慌てて引き止める。
「お母さま! 先輩は? 彩果先輩はどうなったの!?」
「……彩果先輩? 誰のことです?」
「お母さまだって知ってるでしょ! 一つ上の未名河彩果先輩! 何度も家に来てるよ!」
「私が今まで招いた部員の子は未奈ちゃんと泉ちゃん、それと高岡さんだけでしょう。彩果なんて子、聞いたこともありませんよ。合宿で頭がおかしくなったのかしら。わかりました。今日は一日そこで休んでいなさい」
「待ってお母さま! 話を……」
さくらが再度引き止める前に母は出て行ってしまった。途方にくれるさくらだが、不意に手が携帯に当たる。
「……そうだ相澤君! 相澤君なら何か知ってるかも」
さくらは携帯から昨夜の電話番号を見つけ発信する。
『はい』
「あ、相澤君! ねえ、合宿のことなんだけど」
『さくらか。ちょっと落ち着け。なんでそんな早口なんだ』
「急ぎだから! ねえ、私達ティタニアに襲われた後どうなったの? 彩果先輩は?」
『……』
「気づいたら合宿も終わってるし、お母さまが彩果先輩のこと覚えてないの。これってどういうこと?」
『……さくら』
「なに? 何か知ってるの?」
『彩果先輩って誰だ?』
「…………え?」
『さくらが先輩と面識持つとしたら部活だけだよな。でもどこにも彩果って名前の先輩はいないぞ。それにティタニアも、空想の妖精だろう? 急にどうしたんださくら。熱でもあるのか?』
昨夜の心配そうな声音からして彼が嘘を吐いている可能性は限りなく低い。そもそも昨夜はこんな悪質な嘘を吐く人間ではない。とすれば、本当に彩果の存在はなかったことにされた。彼女が生きてきた記憶も思い出も全て。全員が忘れてしまった。なのに。
「どうして……私だけ残ってるの?」
さくらは携帯を持っているその手を力なく落とし、目から一筋涙を零した。
「どうして……先輩」
さくらの枕元に、枯れた白い花びらが数枚落ちている。そしてその花びらは風に吹かれることもなく、塵となって消えていった。
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