ようこそ、狭間へ
「……生き返らせる?」
「まあ正確に言うと「死んでなかったことにする」、だけどね」
それが本当なら、これほど甘い戯言はない。この数日間、何度も願い続けてきたことだ。
しかし、その度に否定した。
自分に言い聞かせてきた。
そして僕は、諦めたのだ。
だってそんなことは、
「ありえない、なんて言わないでおくれよ?」
死神だって、神なのさ。
「寧ろ専門だと言ってもいい」
零は僕を嘲けるように、嗤う。
死神も……、神。
「……本当、に?」
「ああ、保証するよ。君の頑張り次第で、立風 愛莉は生き返る」
僕の頑張り次第。
口角を上げた零は、その部分だけを妙に強調した。死神との取引に代償がないとも思えない。命の代償に命を奪われても、何らおかしい話ではないのだ。
でも、
「僕は、何をすればいい?」
そんなこと関係ない。
「どうすれば、愛莉は生き返る?」
迷う余地なんて、最初からなかった。
「理解が早くて助かるよ」
正直零の言うことを信じたわけじゃない。愛莉を生き返らせる話もそうだし、零が死神だという話もそうだ。零を信じる理由は、ほとんどないと言ってもいい。
でも、もしそれが本当ならば。
1パーセントでも、愛莉が生き返る可能性があるならば。
「お察しの通り、代償は君の命だ」
僕は喜んで、命をベットしよう。
例えこの話が嘘で、嘲笑われ、命を奪われるだけだったとしても。
これ以上愛莉のいない世界で生きるより、何億倍も有意義だ。
「詳しい説明は……、向こうでしようか。どうせ君だけじゃないし、ね」
零はぶつぶつと何かを呟いた後、どこからかスマホを取り出した。スマホを使う死神の話はあまり聞かない。興奮気味だった精神が、少し拍子抜けしてしまう。
本当に零は、死神なのか?
「じゃあ早速だけど……」
その疑問は一瞬で解決することになる。
零が持っていた、スマホ。
一度宙に投げられたそれは綺麗に零の手元に戻り、
「また向こうで会おう」
死神の鎌へと、変貌した。
そして、
「狭間、でね」
「え……?」
僕の首はあっさりと、落とされたのだった。
○ ● ○ ● ○
「優くーん、迎えにきたよー」
騒がしい愛莉の声で目が覚める。学校に行く支度をして、そのまま眠ってしまっていたようだ。一度伸びをしてから玄関に向かう。
何だろう、何かとても悪い夢を見ていた気分だ。
今日ばかりは愛莉の騒がしさに感謝しよう。
「おはよう、愛莉。今日もうるさいね」
「優君は今日もお寝坊さんだ。上がってもいい?」
何故だ、という問いは意味をなさない。愛莉は返事を待たずに部屋へ入り込んでしまった。きっと彼女がアメフトの選手なら優れたポイントゲッターになっていただろう。
「だんだん寒くなってきたねぇ。こたつが体に染みるよ」
「暖をとるのも大事だけど、遅刻しちゃうよ?」
「もうしてるー。既に手遅れなのさ」
そう言われて時計を見ると、普段電車に乗る時間はとうに過ぎていた。なんなら最寄り駅に着く時間も過ぎている。圧倒的な絶望、完全な遅刻だ。
「ごめん僕のせい……、だけじゃないよね」
殊勝に反省しようとしたが、思いとどまる。
僕が寝ていたのは事実だ。愛莉が来ていなければ、まだ眠っていただろう。だから彼女の来訪は歓迎しなければならない。
だけどそれは、愛莉が来た時間が僕の起きた時間だということを意味する。
いつも通りに愛莉が来てこの時間まで黙っていたなんて、そんなことはありえないのだ。
「うむ。秋眠は暁をなんとやら、と言うじゃない?」
「春だけだよ、それで許されるのは」
春でも遅刻は許されないけどね。
まあでも、遅刻してしまったものは仕方ない。愛莉の方針に従って、僕も少しくつろいでから行くとしよう。
「何か温かいものでも淹れてくるよ。ココアとコーヒーなら?」
「ココア一択。紅茶は切らしてるの?」
「うん。完全に油断してたよ」
「じゃあ放課後、買いに行かないとだねー」
放課後の予定が登校前から決まった。確か今は林檎のフレーバーティを売り出していたはずだ。愛莉用のマグカップでココアを作りながら、頭の中の手帳に書き込む。
「あ、そうだ。園長さんからお手紙届いてたよー。栗拾いするから遊びに来なさいってー」
「それはいいね」
人の手紙を勝手に読んだことは、よくないけど。
「週末にでも行こうかな。愛莉もどう?」
「空けておくよー。私も園長さんに会いたいし」
園長さんとは、一昨年まで僕が住んでいた施設の園長のことだ。僕は幼いころに両親を亡くしている。これまでの人生ほとんどを過ごした施設は、僕にとって実家のようなものだ。
「はい、お待たせしました」
「うむ、苦しゅうない。姫は満足じゃ」
人の家の炬燵で暖を盗る姫なんていない。
マグカップを二つ並べ、愛莉の隣に座る。
「二時間目には間に合うようにしようね?」
「昼までは自主休校したい気分であるよ」
「……いくらなんでも長いよ」
僕らの朝はまだ始まったばかりだ。
「あ、そういえばだね優君。昨日の話なんだけどー」
少しの間、愛莉と取り留めのない言葉を交わす。
昨日の晩御飯、最近見つけた本、今日外で見かけた小さな花。
本当に内容のない、明日には忘れてしまうような話。
しかしそれはとても心地よい、心のもっと奥の方が温かくなる話だ。
「愛莉の話はいつ聞いても飽きないね」
僕はこの時間が、たまらなく愛おしい。
「優君が飽きずに聞いてくれるから、私も話し続けられるんだよー」
それは良いサイクルだ。ウィンウィンとは、まさにこのことを言うのだろう。
「だからありがと、優君」
「いや、別にお礼を言われることじゃ……」
言葉がすぐ出てこない僕には聞いている方が楽なのだ。だから愛莉に感謝されるようなことなんて、本当に一つもない。
愛莉の真っ直ぐな言葉に照れくさくなった僕は、窓の外に視線を移す。今日の天気は晴れのち曇り。窓の外では雲に紛れた太陽が……、
太陽、が。
「沈ん……でる?」
昇りはじめたばかりの太陽はいつの間にか眠りにつこうとしていた。差し込む陽光は深い黄昏に染まっている。
楽しい時間はすぐに過ぎるとはよく言ったものだが、これはあまりにも……。
「愛莉、外が……」
そして僕は「また」違和に気づかなかった。
これだけの変化、外を見なくても明らかなはず。
なのに、なら、どうして。
どうして、愛莉は何も言わない?
「外がおかしいんだ、愛莉。どうしちゃったんだろうね?」
振り向けば答はそこにあるのだろう。
本当はわかっているはずだ。
「ねえどうしたの、愛莉? いつもだったら、いつもだったら……」
暮れはじめた陽も、大音量のポップミュージックも、何も言わない君も。
僕は既に、経験している。
「いつもだったら、君は、」
僕の隣に、いるはずなのに。
「――そろそろ、現実を見たらどうだい?」
僕の鼓膜を打ったのは愛莉の声、死神の言葉。
「立風 愛莉は、もう死んだんだ」
くだらなく温かく残酷で優しい僕の夢は、
唐突に、終わりを迎えたのだった。
○ ● ○ ● ○
「やあ。随分と遅い目覚めだね」
聞き覚えのない声だった。霞む視界はまだ何も映さない。四肢は怠く、体を起こす気にもならない。
……今、どういう状況だ?
「起きればわかるさ。いつまでも呆けてるんじゃないよ」
声は朗々と、演技じみた言葉を紡ぐ。その話し方には聞き覚えがあった。
「零?」
死神、零。
突然僕の前に訪れた、人ならざる存在。
「ああ、そうさ」
機能を取り戻し始めた視界が、金髪の輪郭を捉える。でも零の姿は僕の知っている、愛莉の見た目をしていなかった。
「君の体、貸してもらったよ。自分の声がわからないってのは本当みたいだね」
便利の悪いことだ。
僕の声で、零は嘲笑う。
「……」
わからないことは、いくらでもあった。
零の見た目が変わったこと、言葉の意味、見慣れない景色。
でもとりあえずは、一つだけ。
今、明らかにしなければならない問題がある。
「僕は、死んだのか?」
あの時、僕の首は地面へと落ちた。首を落とされた人間は、二度と目を覚まさない。しかし今の僕には、確かな意識と視界がある。この状況は、常識からあまりにも逸していた。
だから、まずこれを聞かないと始まらない。
僕は今、人間なのか。
「ああ、死んでいるよ」
君はもう「まともな」人間じゃない。
零はあっさりと、さも当然かのようにそう言った。
「……なるほど、ね」
じゃあ、僕も納得するしかない。
死神ほど死に関して誠実な神もいないはずだ。
「君は理解が早くて助かるね。他とは大違いさ」
諦めてるだけかも、だけどね。
零は常にこちらを見透かしたかのように話す。これもきっと死神だからなのだろう。諦めるというより、そんなこと考えるだけ無駄……、
ん?
「他?」
問題が一つ解決したことで、他の疑問が息を吹き返した。僕が死んでいるのなら、今起きている事象全ての答がわからなくなる。
それに、他とは何だ。
まるで僕みたいな人が、他にもいるみたいに。
「だから早く起きろと言っているんだ。君が起きないと説明もできないよ」
呆れるように、愉しむように。
零は片目だけを見開いて嗤う。
「そう……だね」
気怠い四肢に鞭を打ち、重い体を起こす。
僕は愛莉を生き返らせるために、殺されたんだ。
横になっているのは楽だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「ここは……」
何もない、広いだけの空間。光は人工的だけど照明器具の類さえない。
壁と床と天井。
その三つが、かろうじてこの空間を部屋だと認識させている。
そして、
「あの人たちは?」
バラバラに立っている、六人の男女。
僕の視界に映ったのは、零を除くとこれだけだ。
「全部まとめて説明しよう。君がいつまでも寝ているから、随分と時間がかかってしまったよ。全員近くに集まって……、」
ああその前に、一つだけ。
「これだけは、教えておいてあげよう」
歩き出した零が、首だけでこちらを振り返る。そして僕に何かを放った。馴染み深い形をしたそれは、緩い軌道で僕の手元に収まる。
スマホ……?
そういえば首を落とされる前、零が持っていたような気がする。死神とスマホの違和感はまだ新鮮だ。
確かにスマホは便利だけど、僕の疑問に答えられる、と、
は?
「ようやく気付いたね。普通は目が覚めた時に気づくようなものだけど」
思考が停止する。零の皮肉なんて聞いていられなかった。スマホの画面に、画面に映った自分の姿に、一瞬にして目と心を奪われる。
高い位置で結ばれたツインテール、丸みを帯びた双眼、猫のような口元。
この顔は、この体は、僕のものじゃない。
ずっと隣で見てきた。
一緒に人生を歩んできた。
だから、見間違えるはずがない。
この体は、
「愛……莉」
紛れもなく、彼女の体だ。
○ ● ○ ● ○
さて、これでようやく全員目を覚ましたね。
君がいつまでも寝てるせいで随分と待たされたよ。
まあいいさ、ゆっくり眠ることもしばらくはないだろうからね。
話を始めさせてもらうよ?
まずは、ようこそ。
ここは君らの言葉で言う「この世」と「あの世」の狭間にある、塔。
狭間の塔、さ。
前提として、人間は命を失うとまずここを訪れる。
君たちは知らないだろうけどね、人間には二つの「カラダ」があるんだ。
言葉通りの「体」と、もう一つの「カラダ」。
所謂「この世」で命を失った人間は、一つ目の体を失う。
そしてもう一つのカラダで狭間の塔に訪れるんだ。
二つのカラダを失った時、人間はようやく本当の意味で死ぬ。
つまり「あの世」行き、だね。
とりあえず状況はわかってくれたかな?
君たちは僕に殺された。
だから狭間の塔に来たということさ。
でも、君たちは普通とは違う。
僕に、死神に殺されたんだからね。
死神に殺されてここに来た人間は、一つ目の体を失わない。
だから君たちはまだ、二つのカラダを持ったままということになる。
二つのカラダは等価値。
如何なる人間のカラダも、等価値。
だから僕は、本来失われるはずだった君たちのカラダを、別のカラダと引き換えた。
今の君たちの見た目、そのカラダさ。
君たちにはこれから、この塔を昇ってもらう。
どこかの階層にいる、本来の体の持ち主を探すためにね。
そして本来の体の持ち主に出会った時、君たちの願いは叶う。
一つと一つを併せて、二つに。
二つのカラダを取り戻した人間は、「この世」へと戻る。
自分の願いぐらい、自分でわかっているね?
つまりおめでとう、というわけさ。
君たちのもう一つのカラダは僕が預かっているよ。
君たちの願いが叶った時、もしくは今のカラダを何らかの理由で失った時、預かっているカラダは返そう。
それからのことは、知らないよ。
改めて狭間の塔で暮らすなり、とっととあの世へ行くなり、好きにすればいいさ。
そもそも君たちのカラダなんだからね。
さて、とりあえずはこんなところかな?
本来のカラダの持ち主に会い、願いを果たす。
そのために君たちは塔を昇るんだ、それだけ覚えていてくれればいい。
○ ● ○ ● ○
零は朗々と、淡々と。
しかし愉しそうに、非現実を語った。
「心の準備ができたら教えてくれ。塔を昇るエレベーターは一つ、何度も動かすのは面倒だからね」
零が空間の隅に向かって歩き出す。
「……」
誰も口を開こうと、しなかった。
人間には二つのカラダがある。
命を失った時、人間は一つ目のカラダを失って狭間の塔に来る。
死神に殺された僕たちは、カラダを失わないままに死んだ。
そしてそのカラダで、「それぞれの願い」を叶える。
話していたことが、わからなかったわけではない。
もちろん常識からはかけ離れている。
でもそんなの、今更だ。
字面だけわかればそれでいい、はずなのに。
「わけわかんない……」
七人の内一人、女子高生がそう呟く。
僕は、きっと、僕たちは。
誰一人として零の言葉を、呑みこむことができなかった。
「……馬鹿馬鹿しい、な」
オタク風の男性は、嘲笑する。
「難しいお話でしたね」
若い女性は、首を傾げる。
「めんどくせぇなぁ……」
高身長の青年は、舌打ちをする。
「動きづらい身体……」
中年男性は、ため息をつく。
「困っちゃいましたね……?」
赤髪の男性は、苦笑いを浮かべる。
「でも……、塔を昇ればいいんですよね?」
そして僕は、諦めた。
呑みこめないなら、それでいい。
どうせ僕は零の言うことに従うしかない。
なら原理がわからなくたって、理解できなくたって、一緒。
零の言うとおり、塔を昇ることだけ考えればいいんだ。
「…………くくっ」
静寂の後、オタク風の男性が笑った。
「くくく……、ははっ。あっはっはっは!」
小さかった笑い声はやがて大きくなり、広い空間に響き渡る。
え……、僕はそんなにおかしいことを言ったかな?
「そうか。ああ、その通りだな。こんなくだらんこと、考えていても仕方なかった」
男性は後ろを振り返り、零の後を追う。
重く確かな足音は、止まらない。
「……いっか。どーせ昇るしかないんでしょ?」
「そうですね、他にできることもありませんし」
「はあ……、仕方ねぇ」
「ちょっと待って私も昇るわよ!」
他の人たちも男性に続いて歩き始めた。口調と見た目が合わないのは零の言葉が説明している。僕も例に漏れずそうなのだろう。
笑われたけど、結果よかったのかな……?
他人の真意はわからないものだ。
「カッコよかったですよ。えっと、お、お嬢さん?」
赤髪の男性が座ったままの僕に手を伸ばす。その呼び方は初めてなので、少しの間動揺してしまった。
「……ありがとうございます。その……」
お兄さんと呼べばいいのか、お姉さんと呼べばいいのか。見た目だけで判断するのは簡単だけど、僕自身違うので即断できない。
「ああ、私は女です。椎名 陽香。大学院に通ってました」
優しい笑みに合わせて複数のピアスが揺れる。赤い髪といい、体中のアクセサリーといい、本来の持ち主はかなりやんちゃだったと見える。
……詮索するのは不躾か。
今はお姉さんだとわかれば十分だ。
「じゃあお姉さんですね。僕は長峰、長峰……」
優と言うのが常だ。自己紹介で迷う必要なんてない。名前は一人に一つだけだ。
でも僕は、言葉に詰まった。
自分の姿を、愛莉の姿を思い返して。
今の僕が長峰 優と名乗るのは、何か違うような気がした。
「どうしたん……、どうしたの?」
話し方を改めた椎名さんが首を傾げる。
僕の……、今の、僕の名前。
「愛莉。長峰 愛莉です」
悩んだ末、僕は嘘を吐いた。
どうでもいい、小さな嘘。
「そっか。よろしくね、愛莉ちゃん」
でもこの嘘は、僕にとって大きな意味がある。
「はい、よろしくお願いします。椎名さん」
長峰 愛莉。
自分を消して、彼女を生き返らせる。
この名前には、僕だけの覚悟が刻まれている。
「それじゃあ行こっか。おいてかれたら多分困るから……」
苦笑を浮かべた椎名さんが小走りで零のところに向かう。僕は少しだけその後ろ姿を見ていた。判断できる材料は少ないけど、きっと優しい人なのだろう。
他の五人がどんな人なのかは、わからない。
もちろん今から昇る、この狭間の塔のことも。
「……待っててね、愛莉」
でも僕は、歩き出す。
迷いも後悔も後ろめたさも、ないまま。
「必ず君を、生き返らせる」
ただそれだけを、心に決めて。