長峰 優の、はじまり
何でもない、いつも通りの放課後だった。
目を擦りながら登校して、惰性と義務感で授業を受けて、聞きたい話だけ適当に聞いて。
当たり前のようにやってきた、待ち望んだ放課後。
「――っほー! 起きてるー!?」
教室の扉が叫びと共に開け放たれる、僕にとっては何でもない日常。
「起きてるよ、愛莉。今日もうるさいね」
だから僕も、いつも通りに返事をした。幸い教室には他に誰もいない。気まずさで頭を掻く手間が省けただけ、昨日よりもマシな一日だった。
「寝ている可能性も考慮したから。彼女に起こされるなんて彼氏冥利に尽きる目覚めでしょ?」
「……人によるんじゃないかな?」
僕は無機質な電子音も嫌いじゃない。
「私の知ってる優君だったら感動で咽び泣くはず」
「じゃあ僕は愛莉の知らない優君だ」
扉の衝撃で噎せそうではあったけれど。
「さて、まあそんな話はおいといて。今から暇かね?」
話が突然ヘアピンカーブを曲がる辺り今日の愛莉は絶好調だ。授業中にしっかりメンテナンスをしていたと見える。感動で咽び泣く系優君だったら説教の一つでもしているところだろう。
「暇だよ。出かけるご予定でも?」
しかし残念ながら、当優君は真面目でも熱血漢でもない。
正直言うと僕も直前の授業は片輪ピットインしていたし。
「うん。気になるカフェを見つけたんだー」
小動物のようにツインテールを揺らす愛莉は取り出したスマホをこちらに押し付ける。既視感のある鮮やかなパンケーキに、初見では決して読めない店名。評価の星が三つ踊っているのも含めて、いかにも彼女の好きそうなお店だ。
……僕はもう少し、落ち着いた喫茶店も好みだけれど。
「いいね。紅茶がおいしそうだ」
それ以上に、喜んでいる愛莉を見るのが好きだ。
だから少しぐらい店構えが派手でも、誘いを断る理由にはならない。
「でしょー! 優君ならそう言ってくれると思ったんだー。えーとね、最寄駅が二つ隣の駅だから……」
明確な返事を待たないまま、彼女の両手は忙しなく動く。僕は少しだけ苦笑いを零しながら、教室に掛けられた時計を見た。
学校を出る時間は、いつもより遅くなりそうだ。
○ ● ○ ● ○
最寄りという言葉は、範囲が広い。
徒歩二〇分でも、二キロ近く距離が離れていても、一番近い駅は最寄り駅だ。
「それでね、今日はダンスの授業があったんだけどー」
僕たちが通っている学校の最寄り駅。自称地域の拠点であるそこは、学校から丁度二キロ離れた場所にある。だから最寄り駅の駐輪場を借り、学校と最寄駅の間を自転車通学する学生も少なくない。
「先生が考えた振付がびっくりするぐらい本格的でさー。私の目じゃ追い付かなくて……」
徒歩で通うのも無理な範囲じゃないが、僕の足だと大体二十分はかかる。二十分切れ目なく話すというのは存外難しい。特に下校時間は静かになる二人組が頻出する、のだが。
「結局みんな始まりしか踊れなかったんだよねー。ダンスの授業なのにほとんど立ってるだけだったよー」
愛莉と下校している場合だと、その例にはあてはまらない。
「先生、ダンス好きなんだろうね」
「うん、元々ダンサー志望だったみたい。あ、それでねそれでね」
会話というよりは、愛莉の言葉が途切れないだけだけど。
一つの話題から話を膨らませる才能は、テレビで紹介されても不思議じゃない。
「ダンスと言えば、最近の流行なんだけど……」
……たまに膨らみ方が理解できないこともあるが。
「……へー、そりゃまた随分と派手だね」
「でしょー? さすがの私もついていけそうになくてだねー」
これぐらいのヘアピンならまだましだ。寧ろ緩いと言ってもいい。彼女の幼馴染を十年以上続けている地元民の僕なら、これぐらいブレーキなしでも曲がりきれる。
十年以上……か。
自分で思って、自分で感慨にふける。燃費のいい話だ。愛莉の言葉を右耳で受け止めながら、左の脳で懐古する。
彼女と、立風 愛莉と知り合ったのは今から十三年前。僕と彼女がまだ三歳だったころだ。明確な出会いなんて覚えていない。ただ記憶のある限りいつも隣には彼女がいて、彼女の隣には僕がいた。
僕たちの関係に幼馴染以外の名前が付いたのは、一年前。当初はクラスメートにしつこく言い寄られていた愛莉を助けるための避難策だった。
それが返上されることのないまま、早一年。
今でも彼氏と彼女、つまり恋人として僕たちは日々を過ごしている。
幼いころから彼女に憧れていた僕にとって、それはどうしようもなくうまい話。
彼女の本心を聞いたことのない僕にとって、それはどうしようもなく不安な話。
今まで明確な言葉にするのは避けてきた。人の本心を聞くのはとても怖いことだ。友達がほとんどいない僕にとっては、尚更。
「……愛莉、あのさ」
それでも今日は、何だか話してみたい気持ちになった。
暮れなずむ秋の夕日を、眺めていたせいかもしれない。
昔を思い返して、少しセンチメンタルになったからかもしれない。
……理由なんて、どうでもいいか。
「少し聞きたいことが、」
とにかく今、話そう。
義務感に近い衝動を抱えていた僕は、しばらく続いていたらしい違和に気づいていなかった。数歩後ろで立ち止まっている、愛莉の方を振り返る。
「愛莉?」
彼女はいつの間にか、口を噤んでいた。
下校中の愛莉を黙らせることはインフルエンザでもかなわない。僕の知らない間にどんな超常現象が起きていたというのだろう。
「……あー、えっと、優君。私用事を思い出しちゃったんだよ!」
「用事?」
「うん、用事。だから今日の予定はいつかにしてもらってもいいかな?」
「僕は別に構わないけど……」
愛莉が用事を忘れることなんて、よくある話。
今更そんな常識を問いただすつもりはない。
「なにかあった?」
「え?」
僕が気になったのは、彼女の「癖」。
「視線、ずっと合わないけど」
それは幼馴染だからこそ分かる、一つのサイン。
愛莉が隠し事をしている時に見せる、SOSだ。
「いや、えっと、ちょっと目にゴミが入っちゃって……」
それは涙を誤魔化す時の言い訳だ。嘘をつき慣れていない証拠である。
愛莉が汚れていないことがわかったのは嬉しい、けど。
このサインを見逃すか、否か。
「…………用事、なら仕方ないね。僕は明日も暇だから、いつでも声かけてよ」
しばらく思案した結果、今回は目を瞑ることにした。気づいたこと全てを言葉にするのが正義だとは限らない。愛莉が隠そうとしていることを、無理に聞くのも悪いだろう。
愛莉が話せるようになってから、また話してくれればいい。
僕は短絡的に、安直に。そんな決断を下した。
「……うん、ごめんね。私から声かけたのに」
「そんなこともあるよ。ほら、急いでるんでしょ? まだいつもの電車に間に合うよ」
学校を出た時間はいつもより遅かったけど、歩調を速めれば埋められる差だ。腕時計に視線を落とした愛莉は大きく頷き、僕の前方に立つ。
「そうだね。じゃあここでお別れにしよっか」
「ああ、うん。僕じゃ足手まといになるだろうし」
僕の運動音痴は既に周知の羞恥だ。今更愛莉に隠すことでもない。
だから後は、僕をおいて駆けだせばいいだけなのに。
「……」
「愛莉?」
彼女は黙ったまま、僕の手を掴んだ。
「ここで、お別れだね」
それは一日の終わりにしては、深刻な。
幾度となく繰り返したどの挨拶よりも、丁重な。
「じゃあね、優君」
まるで数秒後に世界が滅んでしまうような、そんな挨拶。
「う、うん。じゃあね?」
それに対する僕の返事はとても軽薄で、いつも通り。だってこんな展開、予想外すぎる。
僕は言葉を紡ぐのが、得意ではない。
咄嗟に対応できるのなら、きっと僕の人生は変わっていた。
「それじゃあ。うん、それじゃあね!」
一度目を伏せた愛莉はしかし、次の瞬間には満面の笑みで駆けだしていた。眉間に皺を寄せた僕だけが一人、置き去りにされる。
……一体なんだったんだろう。
愛莉の様子がおかしかったのは明らかだ。彼女が悩みを抱えていたのは間違いない。問いたださなかったのは悪手かな、と今更になって思った。僕はよく後悔をする。
「……愛莉に怒られる、か」
あの時の自分はそれが最善手だと思っていた。すぐに自分を否定するのはよくない。
普段全く怒らない、温厚で慈悲深い愛莉もこの癖には過敏に反応する。
治さなければならないと、今朝方思ったばかりだった。
「またいつか、聞こう」
愛莉の真意も、彼女の悩みも。
僕たちはまだ十六歳。未来ある若人が刹那を後悔するものじゃない。
僕の彼女は、たまに哲学的なことを言う。
折角だし……、本屋にでも寄ろうかな。
どうせ遅く帰る予定だった。放課後僕が一人でいる機会もそう多くない。鬼のいぬ間に……、おっと。天使のいない間に私事は済ませておこう。
学校の近くにある本屋はもう通り過ぎてしまった。戻るのも何だか馬鹿らしいし、次の本屋まで歩くのもいい。
音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを挿す。
軽快なポップミュージックは、沈みゆく夕日には似合わない。
たまには楽観的に考えるのも悪くないな。
これからはもう少し、軽い足取りでいこう。
大きく息を吐き出した僕は意識して大股で歩く。ノスタルジックな雰囲気をぶち壊すため、プレーヤーの音量を上げた。
だから僕は、気づかなかった。
空気を切り裂く、破裂音に。
一つの命が、終わる音に。
○ ● ○ ● ○
「…………ん」
窓から射しこむ光が微睡を破る。もうどれくらいの間こうしているだろう。今が朝か昼か。それさえもわからない。
……どうでもいい、そんなこと。
鬱陶しいことに代わりはない。目を開けていることさえ億劫だ。重たい布団で、再び頭を隠す。何も見えないぐらいが、今の僕には心地いい。
「っう……」
粘っこい眠気が僕を包もうとした時、不意に胃酸がせり上がってきた。空腹特有の吐き気が、僕を無理矢理布団の外へと追いやる。肌寒い外気に、堕落した睡魔が霧散した。
最後に何か食べたのは、いつだろう。
何も口にしたくないのに、生存本能が体を起きあがらせる。ついでに開いた目の先では、時計が午後三時半を指していた。
どうでもいい。
重い体を引きずり、台所に向かう。
冷蔵庫の扉を乱雑に開け、ペットボトルの水を無理矢理飲む。血の味しかしない。空になった容器を適当に放る。冷蔵庫には他に、何も入っていなかった。
水だけでは吐き気が収まらない。首を回した僕の目に、いつ買ったかもわからない菓子パンが映った。袋を乱雑に破り、齧る。今度は何の味もしなかった。乾いた笑いは何のためか、自分でもわからない。
……寝よう。
起きていても意味がない。立っているだけ億劫だ。重い体に鞭を打ち、寝床に戻る。
「やあ、長峰 優」
そこに愛莉が、立っていた。
色々な疑問が浮かんだ。幻覚でも見ているのかと思った。まだ夢の中にいるのかと思った。腐った脳が、久しぶりに回った。
「…………誰?」
そして出た結論は、「彼女」を彼女と認めないことだった。
「あれ? もう少し驚くと思っていたんだけど」
愛莉の顔をした少女が首を傾げる。金色のツインテールが滑らかに体を伝った。既視感のある、いやな動きだ。
「……驚いたよ。でも、愛莉じゃない」
彼女を愛莉と認めるには、あまりにも違和が多すぎる。
まず髪の色が違う。愛莉は黒髪、彼女は金髪だ。次に目の色が違う。愛莉は茶、彼女は蒼。そして話し方が違う。愛莉はこんなに演技じみた口調で話さない。
身長や造形は完全に愛莉と一致しているけど、それだけだ。
指摘しようと思えば、幾らでも異なる点はある。
それに、
「愛莉がここに、いるわけがないんだ」
彼女がこの部屋に、存在していること自体おかしいのだ。
それは部屋の鍵が云々とか、そんな些末な理由じゃない。
もっと根本的で、具体的で、
どうしようもない、理由。
「だって愛莉は、」
もう、死んでいるんだから。
○ ● ○ ● ○
『放課後を襲った悲劇』
『身勝手な男による凶行』
『科学の進歩がもたらす、隣人の恐怖』
僕と愛莉が最後に会った、暮れなずむ夕日で別れた、次の日。
いつも通り学校へ行く支度をしながらテレビを見ていた僕は、そこで初めて知った。
テレビに映る、見慣れた駅。
ちらっと見えた、血に濡れた鞄。
モザイクがかけられた、卒業写真。
この国で起こった、珍しい「銃による」殺人事件。錯乱した男が「自作の銃」を使って起こした、無差別殺傷事件。
その被害者の一人が愛莉であることに。
「だから、愛莉じゃない」
すぐにはその現実を、受け入れられなかった。
……或いは、まだ受け入れられていないのかもしれない。
あの日の、まま。
制服を着たまま、愛莉が扉を叩くのを待っている、僕は。
……いや、僕の心境はひとまずおいておこう。
今は他に解決しなければならない問題がある。
「お前は、」
目の前の「愛莉」は、愛莉じゃない。
一つの疑問に答えが出ると、また新たな疑問が生まれる。
「誰だ?」
彼女は、愛莉の姿形を模したこの少女は、何者だ?
何故愛莉の姿をしている?
何故僕の名前を知っている?
どうやってこの部屋に入ってきた?
そして何故、僕の前に現れた?
「そんなに一気に聞かれても困るんだけどねぇ? まあいいや、一つずつ答えてあげよう」
気になることは多くある。しかし実際に声に出したのは一つだけのはずだ。
気づかない間に口から出ていたか……?
今の僕なら、何をしでかしてもおかしくない。
「まずは名前。僕は零。数字の初めにあるだろう? あの、零」
愛莉の姿をした少女、零の口調はまるで演技のようだ。感情を直接声にする愛莉の話し方とは違う。視覚と聴覚の違和感は、やはり気持ち悪い。
「言ってくれるねぇ。次は……、何者だったかな?」
……また無意識に言葉にしていただろうか。
零は僕の心を読んだかのように話を続ける。
「これがその後三つの答にもなるね。今の疑問も解決できる。いいかい、よく聞いておくんだよ」
こちらに歩み寄った零は、細い指で僕の頬を撫でる。
そして口角を片方だけ上げて、嗤った。
「僕は、死神だ」
「………………は?」
「死神も神だからね。君たちの常識ぐらいなら覆せるよ。これで最後の質問以外には答えたつもりだけど……、おや?」
零が片目だけを見開いて僕の顔を覗き込む。
「どうしたんだい? 長峰 優」
その顔は愛莉のものだが、表情はやはり愛莉のものじゃない。
死神……か。
「……それで、僕に何の用?」
「あれ、いいのかい? 「その」疑問にも答えてあげるけど」
「その」とは、僕が言葉に出した疑問のことではないのだろう。しかし僕は、これ以上口を開かない。
愛莉が、ずっと隣にいてくれた愛莉が突然いなくなった。
その事実に比べれば、死神の存在なんて大したことじゃない。寧ろほとんどの疑問が「死神だから」で解決するんだ。こんなに万能な最適解は他にない。
「まっ、君がいいならいいよ。話を続けよう。君に何の用か、だったね」
零は不満げな表情で首を振る。僕はほとんど無感情で次の言葉を待った。
「僕は君に聞きたいことがあってここにきたんだ、長峰 優」
死神が僕に、聞きたいこと。
そんなこと推測しても仕方ない。
神のみぞ知るとはまさにこのことだ。
「君は、望むかい?」
わざとなのか、死神は愛莉みたいに笑う。
目を細め、白い歯を見せながら、口角を惜しみなく上げて。
そして、告げた。
「立風 愛莉を、生き返らせることを」
紛れもない愛莉の、彼女の声で。