もう一つの魔術
大企業の社長と秘書の間に生まれた少女がいた。
豪勢な屋敷に住まい、身の回りのことは全て使用人が世話してくれ、欲しいものなら何でも手に入る。
だが、彼女の手に入れられるのは〝物〟だけであり、〝自由な時間〟は一切与えられなかった。
物心付いた時から毎日の習い事に通わされ、空いた時間には知りもしない学校の受験勉強をさせられた。更には親の知り合いの社長から、経営のための勉強をも教わった。
毎日のスケジュールを分刻みに監理され、ずれることは決して許されない。
――私は、自由に生きたかった。
唯一の娯楽が、授業中に盗み見る漫画だけだった。
鎖で縛り付けられたような人生を送っている少女にとって、漫画の中の世界は理想そのものだった。登場人物が自分の夢や目的のために、必死になる姿に少女は憧れを抱かずにはいられなかった。
そして、憧れが強くなると同時に、少女は思うようになった。
今いる世界は、私のいるべき世界ではないと。
空想の世界こそがいるべき場所であり、私はここにいてはいけない存在なのだと。
少女の絶望を決定づけたのは、縁談の話だった。
相手は親の会社の顧客で、完全に利害関係のみで進められた話である。
――ここにいちゃいけないんだ。だから世界は私に厳しいんだ。
この世界にいても未来はない。
そして逃れることもできないというのなら……旅立つしか無い。
新しい世界に。
腕から伝うのは、ミツの過去。
世界から逃げると決めた少女は、禁断の毒薬に手を出した。ミツはすべてを忘れて生まれ変わるため、死に至るまで激痛を伴うことを決めた。
その痛みは、十代半ばの少女が味わうにはありあまる強さだった。拷問に慣れている大の男であろうと、正気で保てるかどうか怪しい。
「せんせい……!」
「俺に構うな!」
ミツの〝罪毒〟を食らい表情が歪む。
いくら耐性があるといえど、過去に勇者の魔術を食らっていなければ、間違いなく卒倒していただろう。
「あの……町長さん、結構大きくなりましたけど……本当に私の術が効くんでしょうか?」
直径三百メートル以上になるほど増幅したロードリックの体。
この岩すべてがロードリックの精神ではあるのだと思うが、そう問われると自信がなくなる。多発できない以上、確実に仕留めるよう動くべきなのかもしれない。
精神の魔術化は稀有なケースであり、術一つ一つ性質が全く違う。攻略するための定石というものが存在せず、その場で特性を見切り対処しなければならない。
「チャンスは一回きりだ」
「え……?」
俺には乾燥魔術以外に、一つだけ使える術がある。
しかしそれを使えば魔力をほとんど失い、ミツの罪毒を数発打たせられる余裕はなくなってしまうだろう。
だから、チャンスは一度だ。町長の本体がある場所に、直接罪毒を食らわせる。
「ミツ、行けるか」
ロードリックに悟られないようにするため、何をしようとしているかは言わない。
けれど、ミツは頷いてくれた。
「はい!」
俺は足元に向かって手を振る。すると、黒い光が渦を巻き始めた。
それは数ヶ月前……クネイトゥラから、セニルへ訪れるときに使った術。
「目をつぶるなよ」
瞬間、体が浮遊感に包まれる。
現れたのは、ロードリックの本体がある真上。彼は周囲に広く岩を展開していたが、上空にはほぼ展開していない。
「これは……瞬間移動!」
「俺のとっておきだ。さて、もう地上まで数秒もない。狙いを定めておけよ」
「分かっています」
ロードリックの本体を見据え、ミツは俺と手を繋いでいない方の剣を構える。
幸いにも風は強く吹いていない。丁度近くに落下できるだろう。
「――――――っ!」
ロードリックの声にならない叫びが、衝撃波となって響き渡る。周囲に展開した岩が、こちらへ向かって徐々に伸びてくる……が、あまりに遅い。
「いっけええええぇぇ!」
ミツは水流で岩の茨を掻い潜り、剣を振り下ろす。甲高い金属音が鳴り響くが、剣は僅かにロードリックの体を包む岩に傷付けただけ。
だが、それで十分だ。
「〝罪毒〟!」
「――――――っ!」
念押しするように、再び唱える。
声になっていないのは同じだが、先ほどとは違う……苦痛の叫びが空を揺るがした。
「……やったのか?」
構えたまま、俺とミツはしばらく様子を見る。森のざわめきだけが耳に入る。
もし今の一撃が効いてなければ、絶体絶命だ。周りには余すことなく岩の茨があり、人が通れる逃げ道は一つもない。
俺の魔力も残りわずかで、ミツももう一度〝罪毒〟を使える魔力を有していない。
「先生……あれ!」
ミツが指差す方を見る。
本体からかなり離れた場所に展開していた岩が、徐々に崩れ始めた。俺たちの周りにあった岩もヒビが入り、ぼろぼろと崩れ落ちる。
「町長さんは……?」
すべてが崩れ落ちたとき、ミツは尋ねた。
岩の茨だけでなく、巨岩兵本体まで崩れきってしまっている。ミツは体があるだろうはずの場所の瓦礫を退けるが、崩れた岩しか見つからない。
俺は思わず顔を背けた。
「……人間の魔術化とは、文字通り〝人間〟としての全てを魔力に変換し、精神を方向性として魔術を形成することだ。つまり……だな」
「死んじゃったってことですね」
「……ああ」
ロードリック=チェスタートンは死んだ。
それは紛れもない事実だが、俺は言うのを躊躇ってしまった。彼女は人を傷つけることに対して、怯えている節がある。
この前の鍛錬では、俺に躊躇いなく剣を振るえていたが……それは殺せないと分かっていたからというのもあるだろう。
「……でも、これもセニルのためなんですよね」
「捉え方の話だが……少なくとも俺はそう思っている」
全てはセニルのため。
この世のために動こうとする転生者のために行った。
ミツは瓦礫の山の上でしゃがみ込み、手を合わせる。
先程まで命を狙ってきていた相手を、顔見知りの人間として祈っている。
俺ら……いや、この世界では考えられない価値観だ。でも、そんなミツだからこそこの街を任せたいと思えるのかもしれない。
「さ、ミツ。俺たちの街に戻ろう」
「はい! ウラボス先生!」
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