「翼なきものの飛翔」
思い立ったが吉日。古畑叶翠はいつもとは逆方向の電車に乗り込む。朝のラッシュは苦痛だったが、今日限りだと思うと名残惜しかった。
馬喰町から総武線に乗り換える。車窓から流れる景色を目に焼き付けた。並ぶビルの群れ、住宅地。トンネルを抜ければ、景色は一面の畑に変わる。もう二度と見ることのない、人の営み。車内の人の行き先は分からないが、自分の行き先には予想がつく。きっと地獄、石積みですめば上等だ。途中で買ったおにぎりに手を伸ばす。やはり旨い。ツナマヨは至高だ。昔はマヨネーズなんて大嫌いだったのに、今となってはやみつきになっている。出来ればもっと食べたかったな、なんて。
死にに行くのに、何かを食べるのは逆転していた。
銚子駅からバスに揺られること15分。昼過ぎになって、ようやく犬吠埼に到着した。潮の香りのする風が心地よい。辺りにある白い灯台の周りは平日とはいえど人が多かった。美しい景色、人々の笑う、声。
(―いつから、私は彼らを愛せなくなったのだろう、記憶が蘇る。あの、あの時の、忌々しい出来事がなければ、私は怯えることなく暮らせていたのだろうか。それとも、あの時、私が彼を信じなければ。そうすれば、こんなことをせずとも―)
決断が鈍る前に、早く行かなければ。古畑は頭を振り、崖へ急いだ。崖から見下ろす海は台風接近のためか荒れていた。ちょうど良い、楽にとはいかないが、死ねないことはなさそうだ。ああ、やっと、やっとサヨナラできる。この苦しくて、辛い日々から。やっと逃れることができる。
そのまま一歩踏み出した。
さようなら。もう二度と戻らないであろう、大嫌いで、大好きな、私の世界。