先生の話
君は悪い魔法使いに騙されていたんだ、良い魔法使いは言いました。
「わたしがきみをたすけてあげよう」
その四肢に巻き付いた透明の鎖を引き千切って、この冷たく無機質な檻から出してあげよう。それからその羽の使い方も教えてあげるよ。
僕には何一つ見えやしないのに。
僕の痩せこけた手足には鎖があると言ったその男は、穏やかな動作で見えぬ鎖を断ち切った。
――――――
「私は己の生涯にあの男を縛りつけ、そうして生きてきました」
が、故に。
「誰がそれを傲慢だと罵ろうが、私が彼を愛し、そして愛されるという事は決して赦されざることだったのです」
己の唇と同じ、深紅の革が張られた椅子に浅く腰掛けた彼女は、静かに言葉を綴っていく。
仕舞い忘れたまま窓辺を飾る風鈴の、季節外れな音色を添えながら。
「ねぇ、先生。貴方は御存知かしら」
問いかける女の視線はただ僕を見ている。
あぁ、気味が悪い。誰も彼も。吐き気を催す程に。
目に、耳に、僕の身体に伝わる情報の全てが、どうにも歪で恐ろしい。耳も目も塞いでしまえたらどんなに良かっただろうか。
幾らこの場から逃げたいと望んでも、その術を何一つとして持っていない僕が此処から逃げ出すことは許されない。
どうすることも出来ないままに硬く口を閉ざし、そうしてこの場で唯一の日常を縋る様に睨み付けた。
そんな僕をクスクスと笑いながら彼女はまた「先生」と呼んだ。それから。
「愛はかなしく、情はなさけない、のよ」
まるで仮名を覚えたての子供が、促されるまま紙に書かれたそれを倣う様な酷く拙い言葉で綴られた詞の羅列。
それら全ては、その瞳の恐ろしさに委縮した僕には何も響かず、何の意味も成せず、歪な音のままに紡がれ、消えていった。
あれは、あの言葉はきっと正しく、あの人の呪いの言葉であったのに。
見送りは要りませんので、こちらで失礼致します。
秋の訪れを思わせる木枯らしの中で頭を下げた客人を、玄関先で見送った僕は新鮮な空気で肺を満たすべく大きく息を吸い込んだ。
残念なことに酸素の良し悪しを知らない僕が、それを美味しいと感じることはないのだけれど。
それでも至って澄んでいる分類に入るのであろうそれは、疲労した思考を入れ替えさせるには十分すぎるほどの役目を果たしてくれる。
さて、後片付けをしなくては。
僕は、客間に向かって踵を返した。
僕がお世話になっている書類上『僕の保護者』に当たる人物は、小説家を生業としているらしい。
小説家の先生。
だから『先生』、それはほんの少しの気恥ずかしさから定めた呼び名だ。
周りからすれば保護者と養い子の関係として距離感があると懸念を抱くらしいけれど、その呼び名に慣れた彼としては特に問題に思わなかったらしい。
早い内に定着した呼び名は、その後も互いに不便を感じる事もなく今に至っている。
一概に小説家と言っても、先生が手当たり次第に手がけた文学作品は多岐ジャンルに亘り、彼は数々のペンネームと同じだけの作風を持っているのだとか。
恥ずかしながら保護者が作家とはいえ、文学全般に全くと言っても良いほど明るくない僕は、どの名前を挙げられようが首を捻ることしか出来ないのだけれど。
因みにこれは彼の担当編集を務める、ネコさんこと根子澤さんから聞いた話だ。
先生の持つ中でも特に人気らしい名を幾つか挙げたネコさんは、何の反応も示さない僕にほんの少し驚いたように瞬いてから苦笑しつつ教えてくれた。
名前を出せば誰もが分かるとか、そんな大層な知名度があるわけではないけれど『それでも、先生の名前で出版される本を心待ちにする読者はそれなりにいるんだよ』と。
本人が何を考えていようと、これだけ続けて本が出せるという事は詰まるところ望まれているということだから、と。
幼い頃から文字に触れていればまた別だったかもしれないが、所謂『活字』に苦手意識のある僕が自ら手に取ったことのある本といえば調理法が記載された料理本程度。
つまり、何が言いたいのかと云うと、僕は彼に会うまで彼を知ることは無かった、ということだ。
今まで僕が先生の著作を読んだことはないし、きっとこれからもよっぽどのことがない限り目を通すことはないと思う。
それでも楽しそうに、嬉しそうに先生を語るネコさんを見ていると、もったいないと心の片隅で思ってしまう自分も確かに存在しているのだけれど。
そういえば、今日のお客さんはネコさんの紹介だったっけ。
先生は『生き資料』と称した客人を招くことがある。
それが何のために必要なのか直接聞いたことがないから分からないけど、小説のモデルになる人のことだと僕は認識している。
ネコさん以外の知人が居るのか疑問の残る先生だけれど、それなりに来客があるのはその為。
先生と客人達を繋ぐのは主にネコさんだ。
曰く「先生が良作を生み出すための手伝いがしたいから」というネコさんの好意によるものだから仕事の一貫ではないらしい。
沢山のお客さんを紹介してくれるその気持ちはとても嬉しいんだけど、恋多き彼の紹介人はその殆どが彼のお手付きで当たりが少ないんだ、と今日だって彼女が来るまで先生が苦い顔をしていたから良く覚えている。
そして僕は、そんな先生の客人を招き入れ、先生と共にただその口から漏れ出す吐露に耳をすませ、それらが終われば客人を見送り、そして後片付けをする。
それはいつも通りの工程で、与えられた役割のひとつだ。
僕は日が落ちて明りの消えた廊下を進む。
この季節は葉が装いを変えて美しいに限ると思うけれど、日が落ちるのが早いのはよろしくない。
夜は好きでも、夕と夜の境目は好きじゃないのだ。
あぁ、そういえば今日の夕ご飯はどうしようか、何にしよう。僕は当たり障りのないことを考えながら、辿り着いた客間の扉を開けた。
それなりに重さのある木扉が開くと、僕の表情は驚きに染まった。
そこには、いつもであれば早々に己の書斎に篭ってしまう先生が居たからだ。彼はただぼんやりと彼の向かい側、温もりを失った無機質な椅子を眺めていた。
「あれ?先生、まだこちらにいらしてたんですね」
寒くはないですか、僕は虚ろな目をした彼に声を掛けた。
ほんの少し色素の薄い瞳は、数度揺れた後に僕を捉えて微かに歪んだ。
「あぁ、お帰り。廊下は寒かったろう、向こうに行こうか」
「まだそこまでの冷え込みではないので大丈夫ですよ。僕はここを片付けてから向かいます、もうすぐ夕餉の時間ですしね」
居間に行こうか、そう誘ったのは先生なのに彼は湯呑に視線を落としたまま動かない。
「お茶のお代わりを御用意しますか?」
「いや、必要ないよ。ありがとう」
それでも彼は動かない、僕の動く音だけが大きく響く空間で二人分の呼吸音は聞こえない。空白、停滞、その中で彼の眼だけが僕を追っている。
そんな時間がしばらく続き、やがてギシリと椅子が小さな悲鳴を上げた。
「君は、あの女性をどう思った?」
「僕は……」
何と言おうか、突然問われた言葉に一瞬の躊躇いを濁した僕はそれでもいつものように当たり障りのない感想を続けた。
「怖いと思いました」
「ほう、なぜ」
「あの人はまるで亡霊のようだと思ったのです」
亡霊、先生は僕の言葉から一遍だけを抜き取り復唱した。
あの人が綴る言葉は難しかった、でもそれ以上にこちらを見透かすような視線が恐ろしかった。
だから僕はずっと血よりも赤い紅に縁どられた彼女の口元を見ていた。
ふとした瞬間に、まるで動かす事を思い出したばかりかのようにぎこちなく動く指を見ていた。
「僕は亡霊を見たことはないし見たいとも思わないけれど、あの人は、あの人はまるで」
僕は言葉を呑み込んだ。伝えたかった言葉が思い付かなかったからだ。
その時。チリン、音が聞こえた気がした
開けていた窓は客人が冷えてはいけないと早々に戸締りをしたために風が鈴を揺らすことがある筈は、無い。
だというのに耳に残ったそれは未だにチリン、チリン、と鳴いていた。
鳴いている、気がした。
「先生……」
特に何かを言いたかったわけでもないのに口に出てしまったそれが、余りにも情けない声で僕自身驚いてしまった。
そんなことで、酷く動揺してしまった。
だから普段であれば聞かない事を聞いてしまったのだ。
「先生の元に訪れるお客さんはどうしてみんな泣いてしまうのでしょうね」
案の定、先生は何も応えない。
彼は空の湯呑を(いつかテレビで見たワイングラスのように)クルクルと回しながら「あれの言葉はまだ君には少し難しかったかなぁ」と云った。
彼女の言葉の真意を知れと言われればそれは確かに難しい、でもそれ以上に目の前にいるこの掴み処のない男の言葉の方がよっぽど難しいのだ。
きっとそんな事を伝えたところで、彼が僕に分かり易く応えることなんてないのだろうけれど。
僕は思わず眉間に皺を寄せたが、そんな僕を見た先生は小さく笑って立ち上がり、それからまるでこの話は終いだと告げるように「今日の晩御飯は何にしようか」と呟いた。
だから僕も何も言わないままそれに乗るしかなかった。
「そういえば先日頂いた小鯛の笹漬がありますよ」
「それはいいねぇ」
気がつけば、いつの間にか風鈴の音は止んでいた。