砂糖漬けの赤ちゃん
静まり返った戸建てのトイレ。芳香剤の臭いが充満した狭い個室において、尊い命が生まれ、そして失われた。
それは仕方のないことだった。
宮沢佳奈は誰にも知られることなく、誰にも頼ることなく、たった一人で出産を迎えた。何の知識も持たない女子高校生である彼女が、無事に赤ん坊を産むことは困難だったのだ。
それでも彼女は便座の水と羊水で濡れた赤ん坊を床に仰向けの状態で置き、左手の三本の指で、赤ん坊の小さな胸を一定のテンポで圧迫し、蘇生を試みていた。
「私の赤ちゃん……。私の赤ちゃん……」
相手はネットで知り合った職業不定の中年男性だった。
共働きの両親の仲は、佳奈が生まれた時からすでに冷めきっており、二人とも仕事を理由にめったに家に帰ることはない。佳奈は幼いときからずっと庭付きの広い一軒家に、たった一人で一日の大半を過ごしてききた。
学校では孤立気味で、友達はいない。彼女の寂しさはどこまでも深く、そこを覗くと、古井戸のように暗く底は見えなかった。
だからこそ、一回りも年が離れた男の甘い言葉が、雨水のように溜まっていった。
「寂しかったんだね」
同じような境遇の女性に繰り返し使っているであろうその言葉に、佳奈は感涙し、彼に言われるがままに処女を捧げた。彼だけが私のことをわかってくれる。若い彼女にとって、それは初めての経験だった。
逢瀬を重ね、次第に彼の態度が氷のように冷たくなっていっても、佳奈は彼から離れられなかった。お腹に新しい命が宿った時も、彼女は望まぬ妊娠を悲嘆するどころか、むしろ彼との間にできた愛の結晶だと信じて疑わなかった。
この子さえいればいい。この子はあの人との間にできたかけがえのない命なのだから。
妊娠を知った男が身をくらませた後はさらに、佳奈はお腹の子供への精神的な依存を強めた。彼女は知り合いや両親から巧みに妊娠の事実を隠し、じっと陣痛を待ち続けた。他の人間が知れば、きっと私とこの子を引き離してしまうだろう。人間不信気味な彼女はそのような固定観念から逃れることはできなかったのだ。
しかし、結果的に出産は失敗した。
彼女は産声を挙げることなく死んだ赤ん坊を抱き上げた。重力に屈し、赤ん坊の頭部がだらりと垂れ下がる。陣痛との戦いで疲弊しきっていた佳奈は朦朧とした意識の中で、赤ん坊に優しく語り掛けた。
「私の赤ちゃん……」
赤ん坊の死体は次第に冷たくなり、その後、ゆっくりと時間をかけて腐敗していく。
殺人や死体遺棄で逮捕されることは怖くない。
ただ、たとえ息をしていなくとも、胸に抱く嬰児は愛する彼の半身であることに違いはなかった。愛する彼と自分を結びつけてくれるこの存在から引き離されることはどうしても避けたかった。
佳奈は嬰児を抱いたまま、トイレを出る。おぼつかない足取りでリビングへと歩いて行った。股の間からは血と羊水が混じった液体がぽたぽたとしたたり落ち、佳奈の通った場所にはウサギの足跡のような模様ができていた。
佳奈はリビングを見渡す。すると、キッチンに置かれた大きなガラス瓶が佳奈の目に映った。中には、お手製のレモンシロップが入っていた。
佳奈はテーブルの上に赤ん坊を優しく置き、ガラス瓶を手に取る。おそらく両親のどちらかが趣味として始め、そのまま飽きてほったらかしにしていたものなのだろう。ふたを開けると、レモンの酸味の利いた香りとシロップの甘い香りがした。
佳奈は迷うことなく中身を流しに捨て、中を水できれいに洗った。そして、テーブルに置いていた、我が子をガラス瓶の中に入れる。栄養が足りず、やせ細った嬰児はすんなりとガラス瓶の中に収まった。
そのまま彼女はキッチンの扉という扉を開け、目的物を探し始めた。
そして、下の収納棚の奥に、乱雑に突っ込まれたグラニュー糖の袋と大びんに入ったはちみつを発見した。
佳奈の頭の中にはその時、昔、家庭科の授業で習った食材の保存方法が思い浮かんでいた。
彼女はためらうことなく、ありったけの砂糖とはちみつをガラス瓶の中に投入した。砂糖とはちみつは混じり合いながら、赤ん坊の肩のあたりまで達した。これで少なくともすぐに腐ってしまうことはない。佳奈はぼんやりとした頭でそうつぶやいた。
佳奈は砂糖に浸された我が子を愛おし気に眺めた。そして、大声で泣き叫び、壊れるほどに赤ん坊の入ったガラス瓶を抱きしめたのだった。
それから佳奈と砂糖漬けの赤ちゃんの生活が始まった。
家の仲であろうと、必ずガラス瓶は目の届く範囲に置く。時々話しかけたり、体にいいだろうということで、庭に出、日光を浴びさせてあげる。トイレに行くときも、大きなガラス瓶を持ったまま移動し、寝るときは、目が覚めた時、真っ先に自分の視界に入れるために枕元へ置く。大量の砂糖のおかげで腐敗は進まず、寝るときには部屋に置いている以上、両親から発見されることはない。万事がうまくいった。
そうやって佳奈は赤ん坊とともに、一か月を過ごした。
砂糖漬けにされた赤ん坊は、浸透圧の働きによって、体内の水分がすっかり外へ流れ出し、その姿はまるでミイラのように干からびていた。
しかし、佳奈はそんなことは気にならなかった。彼女はこうやってそばに置いておくだけで満足だった。姿かたちが変わろうとも、それは愛しい我が子であること、愛する彼の半身であることに変わりがないからだ。
ガラス瓶のふたを開けるとき、中から甘い匂いがした。時々、佳奈は赤ん坊をガラス瓶の中から取り出し、べたべたするのも気にせずにギュッと抱きしめながら、その匂いを何時間も嗅ぎ続ける。もちろん、砂糖とはちみつの甘い臭いしかしない。しかし、その香りの奥に、大好きだった彼の匂いがするような気がした。彼女はその匂いを求め、干からびた赤ん坊に自分の鼻をうずめるのだった。
しかし、このような生活がいつまでも続くはずがない。
まぶしすぎるほどに晴れ渡ったある日。佳奈は新鮮な風を家の中に入れようと、庭につながるリビングの窓を全開に開け、窓際で日光浴をしていた。ガラス瓶から赤ん坊を取り出し、それを胸に抱きながら、想い人のことを考える。いつも通りの至福のひと時だった。
しかし、その時、玄関のチャイムが家中に響き渡る。
佳奈は滅多にならないチャイム音に思わず身体を強張らせる。両親のどちらかがネットで何かを注文したのだろうか。いや、家が嫌いで仕方ない彼らがそんなことするはずがない。
佳奈はそっと赤ん坊をその場に置き、インターホンで来客の確認をした。画面に映っていたのは、高校の担任教師だった。担任教師は不潔な長髪をぼりぼりとかき、時々顎のひげを触り、中にいるはずの佳奈の返事を待っていた。年配の人がかけるような眼鏡の奥では、細く小さい目が眠たそうに瞬いてた。
私の可愛い赤ちゃんを奪い取りに来たんだ。
担任の姿をみた瞬間、佳奈はとっさにそう判断した。どこから情報が漏れたのかなんてわからない。しかし、佳奈の直感が彼を自分と赤ん坊を引き離そうとする悪魔だとささやいていた。そして、孤独と悲劇で頭をとっくにやられていた佳奈が、その悪魔のささやきに常識的な懐疑を挟むことは難しかった。
佳奈は突然現れた敵に、怯えることはなく、むしろ心の奥底からは、マグマのような怒りと警戒心が沸き立っていた。佳奈は台所から一本の包丁を取り出す。それを背中に隠した状態のまま、玄関へ行き、ゆっくりと扉を開けた。
担任はすっかりやつれ、髪も荒れ放題になっていた佳奈の姿を見るやいなや、小さな目を大きく見開いた。そして、ぞっとするような佳奈の低い声に、担任は震え上がった。すっかり恐れをなした担任は、佳奈の機嫌を少しでも損なわないようにと、一言一言慎重に取捨選択しながら、佳奈に言うべきことを伝えた。
出席日数がこのままでは足りない。不登校の原因は何なのか。学校でいじめられているのか。
しかし、担任の言葉は佳奈の耳を通り抜けていくだけだった。佳奈はただ敵意を抱いたまなざしで担任の顔を見つめ続けた。そして、担任の言葉を最後まで聞く前に、すっと後ろに隠していた包丁を担任につきつける。
突然の佳奈の行動を、担任はよく理解できなかった。しかし、佳奈が右手に持った鋭利な刃物の存在を認識すると同時に、担任の顔はみるみるうちに青ざめていく。そして、佳奈が呪文のように邪魔をするなとつぶやく姿を見て、自分の命の危険を知った。
担任は、教師としての義務、職分を放棄し、自分の命のためにその場から全速力で逃げていった。佳奈はその担任を十秒ほど、包丁を突き出した状態のまま追いかけたが、追いつくことは無理だと悟り、そうそうに追いかけることをあきらめた。
少なくとも、私は敵から赤ん坊を守ることができた。彼女は一秒でも早く赤ん坊の下へ戻ろうと、リビングへと足早に戻っていく。
担任がこの家のチャイムを鳴らしてから二十分程度。思った以上に時間がかかった。そう考えながら佳奈はリビングへと戻った。
そして、愛しい赤ん坊を置いた場所へと視線を移す。確かにそこに赤ん坊が置かれていた。しかし、赤ん坊の頭部に、なにやら髪の毛のような黒い汚れが付着しているのが見えた。
なんだろうと怪訝に思いながら佳奈は近づいていった。
そして、赤ん坊に付着した黒い何かの正体に気が付いた時、佳奈は金切り声をあげた。
赤ん坊の頭部に着いていた黒い汚れではなかった。それは、砂糖漬けにされた赤ん坊に群がる、無数の黒蟻だった。
佳奈は赤ん坊に飛びつき、慌てて抱き上げる。しかし、赤ん坊に群がっていた蟻もまた一緒に佳奈の腕に抱きかかえられる形となり、そのうちの何匹かが餌の強奪を防ごうと白く細い佳奈の腕にがぶりとかみついた。
突然の痛みに驚いた佳奈は、不覚にも赤ん坊を床へと落としてしまう。鈍い落下音の後、赤ん坊は数メートル離れた場所へと転がっていき、瞬きする間もなく、蟻が赤ん坊に群がっていく。
頭部は一瞬のうちに全体が蟻に覆われ、その覆われた形からすでに頭の上半分は蟻に巣へと持ち運ばれてしまっていることが見て取れた。そのように赤ちゃんを観察している間にも、庭からおびただしい数の蟻が次々と開け放たれた窓からリビングへと侵入し、赤ん坊がいる場所と庭の巣とを、河川のような黒い一筋の行列でつないでいた。
「私の赤ちゃん! 私の赤ちゃん!」
佳奈はその場に這いつくばり、赤ん坊がいる場所と巣との間を行きかう蟻を、半狂乱になりながら叩き潰し始めた。しかし、潰せども潰せども蟻は庭から湧いてきて、自分が持てるだけの甘い物質を口にし、巣へと帰っていく。
それでも佳奈は髪を振り乱し、狂ったように平手でフローリングの床を叩き、蟻をつぶしていく。彼女の頭は錯乱しており、とりあえず赤ん坊をテーブルの上に避難させたり、殺虫剤か何かを持ってくるということは全く思いつかなかった。
ただ佳奈の頭の中にあるのは、自分の愛した恋人の半身を、巣へと持って帰ろうとする蟻に対する怒り。それと、自分の存在理由を奪われることへの恐怖だった。
しかし、彼女が蟻を必死になってつぶしている間にも、赤ん坊は無数の蟻によってみるみるうちに砂糖の粒へと解体され、蟻の巣の中へと運ばれていった。赤ん坊の頭部はすっかり失われ、赤ん坊の身体全体が黒い蟻によって真っ黒に染め上げられていた。
佳奈はそのことに気が付くこともなく、一心不乱に家に忍び込んでくる蟻を相手にしていた。彼女の周りには大量虐殺された蟻の死体が積みあがっていた。
それでも蟻はとめどなく庭から進行してくる。佳奈もついに肉体的な限界を迎え、蟻の虐殺を中断し、全身の力が抜けきったかのように動かなくなった。
そして、自分の愛する赤ん坊へと視線を移した。赤ん坊は黒い蟻たちによって完全に覆い隠され、毬ほどの大きさにまで解体されてしまっていた。そして、黒い物体のある場所から庭とをつなぐ蟻の行列を眺めた。
佳奈は自分が愛した男のことを思い出す。思い出の中で美化された彼は、出会った時と同じような優しさ彼女を包み込んだ。
「寂しかったんだね」
佳奈は、何気なしに、行列の中の数匹の蟻に狙いをつけ、それらを人差し指でつぶした。
蟻の死骸は佳奈の人差し指にくっつき、黒いほくろのような染みを作った。佳奈はそれを目の前に持ってきて、じっと観察する。すると、黒い染みに混じって、白い砂糖の結晶のようなものが見えたような気がした。
佳奈は吸い込まれるように見つめ、不意に人差し指を自分の口の中に突っ込む。自分の舌で丁寧に人差し指の先をなめあげる。もちろん味などあるはずがない。しかし、ずっと遠くの方から、かすかな甘味が消え入るような声で佳奈を呼んでいるような気がした。
佳奈は確認するかのように、もう一度目の前の数匹の蟻をつぶし、口の中へ入れる。目をつぶる。今度はしっかりと、甘い味を感じることができた。。
もう一度。もう一度。佳奈は繰り返し、蟻をつぶし、それを食べる。
「私の赤ちゃん……。私の赤ちゃん……」
赤ん坊はとっくにテニスボールほどの大きさになっていた。もはやわずかばかりとなった砂糖の塊を得ようと、無数の蟻が醜い争いを始めていた。
佳奈は蟻をつぶし、食べ続けた。いつまでも、いつまでも。いつまでも、いつまでも。