物忘草の花言葉
彼は昔から非道く病弱な体質であった。
近所の子供らにお外へ遊びに行こうと言われ喜びいさんで出掛ければ、次の日にはこじれ風邪を引いて一週間家に篭ってしまうと言ったものだ。お陰で彼、藤沢有作には友人と云うべき友人が居らず、かく言う私もたまたま隣の家に住んでいるだけである。幼い頃は互いを名前で呼び合うくらいの仲ではあったが、もう十年も顔を見ていない。
しかし、彼と年の離れた姉には私は世話になったものだ。いつの頃からか全く外に出なくなった藤沢に代わり、彼の姉は良い近所付き合いをしていた。藤沢と同い年の私を見かけては「吉ちゃん、いつも有作がありがとうねえ」とよく金平糖をくれた。綺羅々と陽に透けるそれを、幼い私は何時までも眺めていたものだ。
そんな私がどのような経緯で、今まで一度も中に入ったことの無かった彼の家を訪れたか。
彼の姉が疾っくの昔に嫁いで以来、老夫婦と病気の藤沢だけが住むばかりの淋しい家。そこに東京土産を持っていくためである。
私の母と妹とが開業した東京駅を一目見ようと計画した旅のものだ。大正なんておめでたい年号になって直ぐに出来上がるなんてねえ、と呟く母が持ち帰った土産はかなり数が多く、隣家なのだし藤沢家にも差し上げようと言った口である
インタアホンを鳴らすと、すぐに狭い家屋の中から軽い足音がした。
「あら、こんにちは。どうされました?」
玄関を開き、藤沢の母親は品のある所作で首を傾げた。私は早速、両手に持った菓子折りの袋を差し出す。
「いえ、母と妹が東京に行きまして。その土産を、と」
「まあ、わざわざありがとうございます。どうぞお上がりになって」
ゆるりと手で奥を示されてしまった。どうしたものか。
普段用事があっても藤沢の家に入ることは無く、全て玄関先で済ませてしまっていた。しかし今回ばかりは、何故か私はこの家にお邪魔しようという気になったのである。木造の敷居を踵で踏まぬよう乗り越えた。
「ではお邪魔いたします」
客室に通され、出された茶菓子を嗜んだ。狭そうだと思っていた藤沢の家は意外にも大きく、ここ以外に幾つも部屋があるようである。
暫くすると茶菓子を置いていった後、姿を消していた老婦人が戻ってきた。私が立ち上がり礼を言おうとすると、彼女は何やら少々困った様子でこう言った。
「ごめんなさいね、有作が貴方のいらっしゃったことを聞いて、どうしても会いたいって言いますの。どうか会ってくれませんか」
「はあ、彼が、ですか。勿論ですが」
「あの子、滅多にお客様になんて会いたがりませんのに・・・すいませんねえ、突然」
「いえ、お気づかいなく」
婦人は私を客室から出た奥の間に連れていった。ひんやりとした空気が、板貼りの廊下の隙間を流れている。そうして婦人がある扉の前で立ち止まった時、私はどうにも心臓が縮こまる思いがした。この部屋の中には一体全体何者がいて、如何にしてこの世のものとは思えぬ気配を作り出しているのか。
婦人はそれを全く気にしないようにドアを叩いた。
「有作、入りますよ」
キイと少しの音をたて開いた扉の向こうには、簡素な部屋が広がっていた。途端に先程まで感じていた息苦しい空気は嘘のように霧散する。そろり、足を踏み入れた部屋には寝台と一つの椅子と小さな棚と、車椅子と。そして壁に何処かの画家の描いた油絵が飾ってあるのみであった。
私たちが入ったことを知ると、その寝台に横になり、肩まで布団をすっぽりと被った青年がこちらに目を向ける。
「吉くん、吉くんだろう。久しぶりだな。久々過ぎて一寸気付かなかったよ」
なんて、顔色をしているのだろう。最初に感じたのはそのことであった。病気であることは知っていたが、彼のそれはまるで死人のように蒼白い。
私の遠い思い出の中では、藤沢は幼い頃何時でも儚く笑っている少年であった。まるで女子のよう、と様々な人に言われていた顔の造形は、何年も経った今でもその面影を残し、美しいままである。起き上がることはせず、私を見て穏やかに細められた目は、そこだけ病人などではないかのように、生き生きと輝いていた。
「ゆっくりしていって下さいね」と藤沢の母親が出ていったのち、私は漸く口を開いた。
「本当に久しいね。もう十年は会っていないだろう」
「最後に遊んだ時の記憶がもう無いくらいだものなあ。まあ、そこに座ってくれ」
そうして示された寝台近くの椅子。
流行り病に掛かっているわけではないから安心したまえ、と言われるが別にそのような気を起こしたわけではない。引っかかるものがあるだけだ。兎にも角にも、私はその藤沢の示す椅子に言われるがまま腰掛けた。
「本当に十年会っていないかもしれないなあ…。吉くんは僕と同い年だから…今は学生だね?将来は何の職に就くつもりなんだい?」
「まあ、学校を卒業したら都会へ出て雑誌関係の仕事をしたいと思っているよ。知り合いが編集長をしていてね。ツテはあるのさ」
ところで、と私は続ける。
「何故急に私を呼んだのかい?客が来ても、滅多に呼んだりはしないのだろう?」
世間話に入る前に、その程度は聞いておいても良いだろう。案の定藤沢は、目論見が早速ばれてしまったなと苦笑した。彼が家から全く出なくなる前、隠れんぼをして遊ぼうと誘った際のごめんね、僕はすぐお風邪をひいてしまうから出来ないよと返された時の表情をふと思い出す。
「イヤァ、少しばかり人に聴いて欲しい話があってだね。吉くんには、僕の話を聴いて欲しいんだよ。母さんにはとてもじゃあないが出来ん話だ」
綺麗な眉を下げて苦笑した彼から、私はその瞬間何かしらの悪寒を感じた。あるいはそれは、大学で奇妙奇天烈な虫ばかりを寝食を削り研究している教授の纏う空気に似ていた。黙ってしまった私に何を思ったのか、藤沢はこう続けた。
「勘違いしないでくれたまえ。別に母さんでないなら、誰でも良かった訳では無いよ。吉くんに久しぶりに会いたかったことは本当だ」
「私で良ければ話を聞こうか」
気づけばそう返していた。今すぐにでも死んで仕舞いそうな顔色の藤沢には、そうさせる不思議な威圧感があったのである。
彼は私の返答ににこりと笑い、目線をすぐに小さな窓の外へと流した。そうして何でもない戯言のように呟く。
「僕には、嗜虐癖というものがあるやもしれぬ」
「嗜虐?」
「そうなんだ。人に非道いことをして、快楽を得ようとしている」
私はもう驚いてしまって、口をあんぐり開けるしかなかった。藤沢の方を見れば、まだ穏やかな眼のままである。
「綺麗なもの、美しいもの、可愛らしいものは昔から好きなんだ。姉はそんな僕のために、しばしば川原の光る小石だの、抜け落ちた鴨の毛だのを持って帰ってきてくれたものだ。だが僕はそれを眺めていると、どうも変な心地になる。こう、手に取って思い切り石膏固めの壁に投げつけてしまいたくなるんだ。君、わかるかね」
「急にそんな妙ちくりんな事を言われても困ってしまうよ。一体どうしたんだい」
彼はもぞりと動いて私のほうに体を向けた。色素の薄い瞳が、じっとこちらを見つめる。
「そうして僕はある時、貰ったビー玉を故意に割ってしまったのだがね。その時の姉の顔が今でも忘れられない。哀しそうな、しかしそれを許そう許そうとするような表情であったのだ。哀れな姉は私を仕様が無い子ね、と叱ることしかしなかった」
「全く可哀想なお姉さんだ」
「だが父には酷く怒られた。その時には私は何も感じなかった…ただ人に怒られた後の不快感が残るばかりだったのさ」
藤沢はなおも、自らの事を口にし続けた。
「臥せりながらも色々考えたのだよ。結果分かったのは、僕は人が自らの負の感情と他人を許そうとする善の感情との間で揺らぐ、哀しい表情を好いているという事だ。僕は外に出れやしないから、必然的にその対象は家族になってだね。哀しい顔を見る為に、姉にも両親にも随分と非道い事をしてきてしまった」
「それで君、その世紀の大発見を誰かに伝えたかった訳だね」
「そうだね、吉くんは全く、容赦が無いな」
また、消え入りそうな笑顔を藤沢は見せた。
「姉は何年も前に結婚して家を出ていったが、先日僕に旅行に行った先の土産をくれたんだ。硝子で細工された花瓶さ。日に透かしたらさぞや綺麗だろうなあ」
そこの棚に入っているから、取ってくれるかい。そう言われ私は引き出しを開いた。そこには様々な品が詰め込まれている。洋の小物入れから、洒落た造りの蝶番まで。藤沢には収集の趣味でもあったのだろうか。私は彼の言う花瓶を手に取った。
「これかい?」
「ああ、それだよ」
私はそれを当然のように彼に手渡そうとした。先ほどから藤沢は半身を起こす様子もないのだ。ここまで呼びつけられたのだから、それくらいはしてくれてもいいだろう。
しかし藤沢は困ったような笑みを更に深くするのみだった。
「どうしたんだい、いらないのか」
「そういう訳ではないよ。少し不快なものを見せてしまうかもしれないが、僕の布団を剥いでみてくれまいか」
そう促されては。疑いの心を持ちながら私はゆっくりと薄い掛布団を捲る。私がこの部屋に入り一目彼を見た時の違和感の正体が、ここで漸くわかった。
藤沢の上半身は、一本の棒の様であった。彼の着用している寝間着は、その両袖の部分が本来人間の二の腕が通っている箇所でくるりと結ばれていた。
彼には、肩から先の腕が存在しないのだ。
支える両腕が無いために、ずっと起き上がることが出来なかったのだと、今更ながらに気が付いた。
「吉くん、真逆とはおもうが、僕が自傷したとでも思ってはいないかい?」
「そんな訳ではないよ、しかしそれが理由で君は愈々外に出なくなったのだなあと思っただけだ。事故かい?」
「マアね。歩道を歩いている時に発作で倒れてしまってね。そこを自動車に轢かれて、そのままドンさ。知っているかい?脚が二本とも付いていようが、両の腕が無ければ人間は歩くことが出来ないのさ。バランスを崩して仕舞って、如何にも僕は歩けなくなった」
家族にした数々の事の報いだろうか、と藤沢は無い両腕の先を見つめて苦笑いをした。
「それを、陽に透かして見てはくれないか」
その時、何故だろうか。私は不意に彼がどうしようも無く哀れに思えてきたのである。幼いころから病弱であるが故に様々な行動を制限されてきたというのに、唯一の楽しみと両腕を奪われてしまったのだ。彼は自分が悪いのだと言うが、私から見れば、藤沢は単なるどうにも救いようのない被害者である。私と同い年の彼は、普通の体であれば今頃女子生徒共に持て囃される存在だったに違いが無い。友人も多かったことだろう。
「有作君、どうせなら外に出ようじゃないか。その方がきっと綺麗に見えるだろう」
勿論その提案に、藤沢は目を丸くした。一瞬の迷いの中で視線の端に部屋の隅の車椅子を入れたのを、私は見逃しはしなかった。
「私が車椅子を押そう」
「いいのかい」
「外に出るのも久しいのかい。庭に出るくらいなら毎日した方がいいと思うがね」
車椅子はやはり埃を被っていた。永らく使われていなかったのだろう。私はそれを払うと寝台の近くに寄せた。それから未だ戸惑いの色を瞳に滲ませている藤沢の腕が無い分いくらか軽い体を支え、彼を車椅子の座席に座らせた。
「妙な気分だ。十年振りに会ったと思えば、車椅子を吉くんが押してくれるとはね。ああ、部屋を出て左に、すぐ外に出ることが出来る裏口がある」
私は庭に出るまでの道中、こっそりと藤沢の顔を盗み見た。死人の様であった顔色は、幾分か良くなったように見える。そうして裏口から私たちは外に出た。ちょうど昼頃の日は高く、穏やかな風は春をゆうるりと伝えていた。
「まぶしい」
藤沢は憂いを帯びた目を光に細めた。彼の白い肌と色の細い髪はただ光の下にあって今にも溶けてしまいそうに見える。
私は彼と太陽とを結んだ直線上に、花瓶を翳してやった。藤沢の姉が贈ってきたというその硝子細工は、確かに川の水面のように煌めいていた。思わず藤沢も私もしばらくそれに見入ってしまった程である。
やがて彼はそれを自分の膝の上に置くよう、私に頼んだ。その小さな重量を何と感じたのかはわからない。ただ藤沢は、下を俯いた。
「ああ、綺麗だなあ、壊してしまいたいなあ。僕は全く、駄目な人間だなあ」
その声が震え、私は彼から強烈な病人の腐臭がするのを感じた。何となくそれで、私はこの青年がもうすぐ死ぬのだということを悟った。
「どうしようもないくらいに綺麗だ。こんなものが、この世にあったのだなあ」
何の変哲もないその花瓶を、彼は今膝を跳ね上げるだけで地面に落として割ることができる。ぽたり、ぽたりといくつも滴を落としながら、それでも彼は消え入りそうに笑うのみであった。
風がまた一つ吹いた。今ここに在る者へ平等に、春が来ていた。