鬼達のレゾンデートル
我輩は鬼である。名前など元々ないが、皆は我輩の髪を見て、椿と呼ぶ。
何年前か二月の節分。日本の地にて、我輩は生まれた。この時期は邪気が発しやすく。我輩をはじめとした鬼の出生率……もとい、出現率は高い。
そして同時に……。
「鬼は~外!」
「ぐわぁあああああ!」
「鰯の頭置くか」
「ぐわぁあああああ!」
「柊をほい」
「ぐわぁあああああ! ぐわぁあああああ!!」
死亡率も高い。笑えないレベルで高い。
豆をぶつけられ、身体がバターみたいに溶ける奴。
鰯の香りで発狂死する奴。
柊に目を串刺しにされ、そのまま脳味噌生け花になる奴。
主な死因はその辺だ。後は……。
「鬼は~内!」
「や、やった!」
「っ! ダメだ鬼ちゃん! 行くな! 行くなぁ!」
「福は~内!」
「ひ……ぐわぁあああああ!」
ああ、レアケースだ。日本には数少ない、その名に鬼を刻む人々。そんな人々は、福と一緒に鬼を家に招く。だが……決して、行ってはいけない。行ったら最後。福の清浄な気と、名前に鬼を刻むと冠する、謂わば我輩たちより格上の存在。それらが同居する家に我輩達が行けばどうなるか……。
想像もしたくない。
「コーヒー、苦旨い」
駅前から程よく離れた、人通りが少ない街角のベンチ。そこに腰掛けながら、我輩は愛飲するジョージアの缶コーヒーを傾ける。
元は豆でも、こいつは素晴らしい。日本の豆見たいに清純な気が込められている訳でもない。どちらかと言えば、我輩達が好む、死人に近い香り。コレが道端にあるカラクリの中に売っているのだ。日本って凄い。昔から生きる鬼が見たら、人間はやはり侮れぬと、しみじみする所だろうか。我輩は平成生まれだから、イマイチピンとこないけど。
耳に届くは、同胞の断末魔。
昔のように闇が濃くないこの時代。鬼の平均寿命は長くないと、それなりに年をくった他の鬼に聞いた事がある。
昔と違って鬼の逃げ場がないばかりか、各地で行われる節分で、鬼は結構な割合で死ぬ。それが原因だ。邪気が漂うから、鬼は己の本能のままに人に近づく。で、返り討ちにあう。
ならば節分以外でと言えばそれまでだが、歯痒いことにこの国の人は、結構な頻度で厄払いやら邪気避けをする。意図的だったり、本人達が気づかぬままライフスタイルに取り入れられていたり。その形は様々だが、ともかく言えることは、鬼はもう、人間を襲うほど力もなく。人間もまた、鬼とは触れ合えず、見ることもかなわない。
中には鬼といった存在に触れられたり、その存在を感知出来たりする人間もいるかもしれないが、結局は少数派。力もそこまで強くはないだろう。
年寄り連中が懐かしむように語る、我々と勝負できる人間は、もう地上には残されていないのだ。
「……あ」
コーヒーがなくなった。手に残るは、冷たくも虚しさを覚える、スチール缶の感触のみ。それをじっと見つめながら、我輩はため息をつき……。
「やっほ。椿! 相変わらず辛気くさい顔だね!」
「……梅姫か。相変わらず煩い奴だ」
「あぁ?」
「おぉ?」
不意にカランコロンと下駄を小粋に鳴らしながら、そいつは現れた。
ひとしきり悪口と眼を飛ばしあうのは、鬼同士の挨拶のようなもの。それを終えてようやく、我輩は古い幼馴染みとも言える女を見る。
黒絹のような長い髪。角は頭頂に横一対。小さいのがちょいと乗っかるようにある。細身な体躯を彩るは、紫陽花が艶やかに描かれた水色の和服。丈は少々短めな上に、フリフリとしたフリルまで着いている。現代かぶれめ。と、再度罵りたくなるが、リアルファイトに発展しかねないので、我輩は口をつぐんだ。
「椿は毎年が如く、節分は動かずかい?」
「退治されるのは、本能が抑えられぬ若い連中か、何年か生き延びて、油断してる奴らだ。我輩はやることをやるまでは死にたくないからね。こうして動かず。適度な邪気だけ頂くさ」
「死体を啄む鴉みたいな奴ね」
「節分に物見遊山する狂人には言われたくないな。この時期鬼は、気が大きくなって死ぬか、路地裏で震えるかだ。鴉で結構」
「アイアム、オーガ。ノット、ヒューマン」
「南蛮女め」
「南蛮とか古いねぇ。若年寄が」
スチール缶が、手の中で潰れる。ケタケタ嘲笑を浮かべる梅姫を我輩は睨み……。そこで初めて、彼女が手に何かを持っているのに気がついた。
「何だそれは?」
「んあ? ああ、これ? お土産だよ~」
いいでしょう? いいでしょう? と、梅姫はこれ見よがしに見せびらかす。
値が張りそうな巾着袋からは、実に食欲をそそる香りが漂ってくる。煮込まれた芋と玉ねぎ。ニンジンに……肉汁。これは、豚肉か。それに糸蒟蒻。
「肉じゃがか?」
「当ったり~! いやぁ、恵方巻もあったけど、あれは鬼が食べちゃあ不味いからって、持たせてくれたんだ」
「……誰が?」
「人間」
「…………はい?」
よっぽど我輩は酷い顔をしていたらしい。梅姫はクスクス笑いながらも、珍しいものを見た。と、言わんばかりにまじまじと此方に目を向けた。
「い、いや、お前……人の部屋に? 本能に負けたか? それとも、豆や鰯、柊がない家でもあったのか?」
「まぁ、人の部屋には入ったさ。本能には負けちゃいないが、好奇心に負けてね。豆はあったが……その部屋は鬼を迎える準備なんかしていなかった」
「……意味がわからん。簡潔に言え」
「そいつら……夫婦かつがいかは知らんが、若い男女だったけどね。何でも、鬼と話してみたかったとか」
「……何だそれ怖い。人間がか?」
信じがたい事実に、我輩は開いた口が塞がらない。話したいという事は、その二人、恐らくは数少ない部類に入る人間なのだろう。だが、部屋に招くか普通。我輩達は鬼である。腐っても鬼。人に害をなしうる事には変わらんだろうに。
「一応、私が襲ってきた時の為に、豆まきする準備はしてたみたいだよ。ただ、もしよかったら襲わないで、食卓囲んで話をしよう……とね。入った手前私も思わず頷いちゃってね。炬燵よかったなー。私も欲しい」
「おい、おい鬼」
つまり話を整理すれば、こいつは節分に人の部屋に上がり込み、一緒に飯を食ってきたと。……ある意味貴重な体験ではあるが……。
「襲えばよかったじゃないか」
「いや、一瞬は考えたさ。男も女も美味しそうだったし。寧ろ一方の目の前でもう片方を喰いたくもなったけど……なんかね」
私達が見える人間で、かつ私達を畏怖しつつ歩み寄る人間なんて久しぶりじゃん? と、まるで恋する少女のように、女の鬼は屈託なく笑った。我輩は、唖然とその顔を見つめるより他になかった。
「色んな話を聞けたよ。私、平成生まれだからさ。桃太郎くらいしか知らなかった。鬼の物語は、この国に溢れ帰っていたとはね。泣いた赤鬼の話に、帽子をかぶった鬼。島を引いてきた鬼。涙無しには語れんよ。鬼だけど」
「……ホントに世間話しかしなかったのか。呆れた鬼と人間だ」
「あ、知ってるかい? 最近の豆まきの中には、鬼と最後には和解する。何て流れのもあるらしいね」
「本末転倒って言葉を知ってるか?」
「……夢がない奴め」
どこかでまた、誰かの断末魔が響く。鬼は外。元より外にいる我輩達を更に追いやるのか。と、文句を言いたくなる。
鬼は邪気。故に駆逐。邪な考えをもつのは、何も鬼に限った話ではないのに、この傲慢さは弱くもズル賢い人間らしい。
「……椿は、人間が嫌い?」
「好きな鬼などいるのか?」
「いや、あんまりいないかな。倒錯した愛を持つ奴はいるだろうけどね。私を倒せる人間が愛しい~だとか、私を畏れる人間が可愛い~だとか」
「それは友愛というより狂愛だ」
「でも、突き詰めたら私達と人間の関係性って、愛だと思うんだ」
「……梅姫。阿呆だとは前々から思っていたが、とうとうド阿呆に成り果てたか」
「私は真面目だよ!」
頬を膨らませながら、梅姫は両手をブンブン振り回す。平成ウン十年生きた女がやるには、少々痛々しい。鬼としては我輩も彼女も、まだ若いどころか子どもな方ではあるけれど。
我輩が聞かせてみろ。といった顔をすると、梅姫は貰った肉じゃがを宝物のように撫でながら、ポツリポツリと語り始めた。
「闇は、薄れていく。時代と一緒にね。でも、完全になくなったわけじゃあない。鬼と和解する豆まき、聞いただろう? あんたは……、椿はどう思った?」
「鬼も落ちぶれたなと思ったよ」
正直な感想を述べる。すると梅姫は、何処と無く寂しげに微笑んだ。
「時代はどんどん変わっていって、私達の身の振り方も、変わってくる。私はね。あれが鬼の新しい生き方の一つにも思えたよ」
「人間に歩み寄る気か」
「元から歩み寄ってたろう? 私達は。畏れさせるか、親しませるか。その違いだよ」
「人を襲い、怯えさせてこその鬼だ。マスコットに成り下がるのか?」
蔑みの目を向ける我輩に、梅姫は無表情なまま頭を振る。黒髪がふわりと靡き、その奥……。金色の瞳がスッと縮まった。
「節分が忘れ去られるまで待って。待って。それから人間を襲う。そんな壮大すぎて成功するか分からない可能性に賭ける。どっかの誰かさんが脳内で立てた計画よりは、ずっと現実的だと思うけどな」
「鬼の誇りは失わない。だから俺は死なん。節分を乗り越えれば、俺達鬼を脅かすものはない」
「誇りって何さ。そもそもデフォルトで人を脅かせない平成生まれが何を言うのよ。現代っ子が侍気取るのより痛々しいわ」
「大体、歩み寄って無事にすむ筈がない! 全部が全部和解を謳う訳ではないだろう。何かの拍子で豆をぶつけられたらどうする!」
「あり? 椿、もしかして心配してくれてる?」
「……っ、違う!」
柄にもなく取り乱してしまう。知り合いが物言わぬ骸に変わる想像が先走り、我輩は気がつけば声を荒げていた。
それを楽しげに眺めながら、梅姫はくくくと笑う。
「ま、いいや。取り敢えず、これね。肉じゃがですぜ椿の旦那。温めてから寄越してくれたんだ。冷めないうちに一緒に食べよ」
「いや、我輩は……」
「食~べ~よ~!」
「……一口だけだ」
結局半々になったのは内緒である。人間が作ったものなどと思っていたが、思いの外美味であったことを付け足しておこう。
「来年は椿も行こうね!」だの「鬼と和解する豆撒きって、どこでやってるのかな?」といいながら、梅姫は笑っていた。
鬼なのに人間臭いとはこれいかに等と思ったが、それは言わない約束なのだろう。
少しは付き合ってやろうと思っていた辺り、我輩も時代の波に流されているという事に他なるまいさ。
※
それから一年が経った。
我輩は鬼である。人間は嫌い。何故ならば、人間を襲うのが鬼だからだ。では何故人間を襲うのか。それを言われると弱い。
別に人間を襲わねば生きていけない。という事はない。ただ、襲い、野蛮な狼藉を働くのは、我輩達の本能だ。つまるところ、梅姫のような例が特殊だったのか、時代の最先端を行っていたのか。イマイチ判断がつかない。
鬼のあり方は、昔と変わってきている。それは否定すまい。だが、それでも劇的に変わったという訳ではない。
梅姫のような存在が少数派であることは疑いようもなく。故にこのような結末は、いつか訪れるものだと、我輩は心の何処かで思っていたのだ。
目の前で、ぐったりと地面に倒れ伏す友を、我輩はただ見つめていることしか出来なくて。何故か滲む視界に首を傾げていれば、我輩に気づいた梅姫は、静かにこちらに目を向けた。
「ドジっちゃった。流れ弾ならぬ、流れ豆よ」
「……ド阿呆だと思っていたが、世紀末級の阿呆だったか」
「喩えが分かりにくいわ。……ごめんね。一緒に……あの二人のとこに案内しようと思ってたのに」
「……無理か。我輩がこっそり用意した鍋の材料はどうなる。結構なお値段がしたのだぞ?」
「アハハ……何よ。ブーブー言いながら、ちゃんと一緒に行ってくれる気だったんじゃん」
勿論嘘だ。こう言えば元気が出るか。そう思ったが、無駄だったようだ。梅姫の身体が、静かに消えていく。
豆という読みは、転じて魔滅。彼女の存在は既に滅びを迎えていた。
「……何か言い残すことはあるか」
「……あの二人。肉じゃがくれた人間の二人の家を教えるわ」
「我輩は行かんぞ。お前がいないなら……行かんぞ」
「ん。知ってるよシャイボーイ。だから……。ね、その辺に豆落ちてる?」
言われるままに、辺りを見渡す。彼女が倒れたすぐそこに。僅ながらいくらかの豆が散らばっていた。
あるぞ。と、伝えれば、拾って。と注文が入った。
「もう、私を滅した豆だから。椿が触っても大丈夫な筈よ。それを……これに」
手渡されたのは、いつかの肉じゃが入りのタッパーを包んでいた、高級そうな巾着袋だった。
「返さなきゃだから。それに豆入れて、行けなくてゴメンって、伝えて欲しい。喋りたくないなら……手紙入れて、投げ込んでくれればいいから」
「……向こうが覚えてるかわからんぞ」
「覚えてるよ。きっと……。忘れてても、その袋を見れば……思い出してくれる筈」
「……そもそも、何故に豆を送る」
人に豆を渡す鬼など、自殺願望があるとしか思えない。そう言えば梅姫は、お堅いなぁ。と苦笑いする。
「豆撒きのあと、人は豆をどうするか知ってる?」
「年の数か。あるいは、年の数字を思いながら喰らうのだろう? 豆を喰う神経はわからんが」
「そう。鬼を……魔を滅した豆を食べる。福豆とかいうじゃん? 勝手な解釈だけど、それって私達が滅されることで生まれる……幸福なのかなって……」
「鬼が幸せを運び、福をもたらすと? ファンタジーだ」
「ロマンって言いなよ……。これも一つの愛かもしれないわ」
その愛に殉じるのか。そんな我輩の目を見たまま、今や下半身は完全に消失した状態で、梅姫は、にひひ。と、歯を見せた。
「私は滅されるから、福を内に放り込まなきゃ。だから、出来るならあの二人の元に行きたいわ。私を驚かせて、楽しませてくれたあの二人のとこへ」
消失は胸まで達している。もはや幾ばくの猶予もない。残された我輩に出来ることは……。
「わかった。我輩が……必ずや届けよう」
「……ありがと。ああ、椿。陰鬱だけど同胞思いな私のお友達……。ホントに、ありがとう」
最後の最期まで鬼らしく毒を吐きながら、梅姫は静かに言葉を紡ぐ。
彼女を喜ばせた人間二人。その居場所と名は……。
※
とあるマンションの一室。その窓は、この寒空の元で堂々と開け放たれていた。まるで誰かを待ちわびるかのように。
遠目でそれを確認した時、我輩は成る程な。と、一人納得した。現代風に言うならば、所謂霊感を持った人間なのだろう。鬼が見えるというのだから、極上の。
その二人は、普通の人間にはなさそうである、妙な空気を身に纏っていた。
あれならば何かありそうだ。と、勘くぐり、普通の鬼は近づけまい。野外や鬼の領域ならばまだしも、人の営む〝家〟や〝部屋〟とは、ある種の結界だ。普通の人間ならば我輩達も躊躇なく押し入るが、彼処へ行くには勇気がいる。梅姫も、招かれたとはいえよく入り込んだものだ。
「……っと、今はそんな事はいいか」
我輩は、約束を果たすだけだ。大きく振りかぶり、我輩は息を吸い込んで――。
「福はぁあ! 内ぃい!」
豆入り巾着袋を、その部屋目掛けて豪速球した。
「うぃい!?」
「何っ!? 何!?」
と、狼狽える男女の声がするが、まぁ気にすまい。
窓から見えたのは、盟友曰く、虚ろな雰囲気の美青年と、お人形のような美女とのこと。
特徴もざっと聞いていたので、あの二人で間違いはなさそうだ。
「……確かに届けたぞ。友よ」
夜の帷にそれだけ呟いて、我輩はその場を後にする。背後で「あれ? この袋って……」という声が聞こえる。それだけで我輩は、何だか救われたような気がしたのだ。
※
「……コーヒー、苦じょっぱい」
大好きな筈のジョージアは、今宵は妙な味がした。雨など降っていないのに、我輩の頬が湿っていたのである。
毎年節分と、後は季節の節目節目に近況報告を交換していた、唯一の相手だった。平成の鬼は、群れをなさない。だが、昔のように徒党を組んでいた種の記憶は、確かに残っていて。
そこで初めて、我輩は切ないのだと気がついた。
「……ああ、死んだのか。友よ」
雨など降っていなかった。これは……涙で、喪失で。そうしたら、不意に梅姫との問答を思い出した。
「時代は、変わり行く……か。では我輩は、何のために」
確かに色んな人への歩みよりがあるのだろう。皮肉にも、友が死んだことで、我輩は自身の〝鬼〟を自覚した。
節分の……豆撒き。そこにあるのは親しみ。あるいは邪気に伴う鬼の本能だ。どのみち、多くの鬼がこの日に散る理由がようやくわかった。
誰かを。同胞をすぐそばで喪う哀しみか。
あるいは鬼の本懐が遂げられることがないという、永遠の虚しさか。
はたまた、人と鬼でも仲良くやれるやも知れぬという、現代風に言うならば、ロマン溢れる幻想か。
どれに転がるかは分からない。故に誰かに邪気と幸せをぶつけたいのだ。天の邪鬼に鬼という字が入るのはこういう事か。など、柄にもない哲学じみた思考が走り。我輩はついにその場で、腹を抱えて笑いだした。
同胞の断末魔が聞こえる。
同時に我輩は、覚悟を決めた。
長年逃げていた道に区切りを着け、鬼の本懐を遂げる覚悟を。
友は、鬼として。彼女なりの信念を貫いた。では、我輩は? このまま何年も腐り続けるのか。下らんプライドを掲げ、勝てる戦が来るまで待つのが、鬼がやることか? ――否。
何処かで父親が、鬼の面を被る。
家という結界に鬼がいる。その瞬間、我輩達は人の家に入り込めるのだ。
「おおぉ……! おおおおおおおおおおぉっ!!」
全てを拭い去るように雄叫びを上げながら、我輩は人の家に向かって走り出す。小さな娘子が、豆を掴むのが見えた。柔らかそうな肉だ。かぶりつけたなら、さぞかし旨いだろう!
「我輩に……寄越せぇええぇ!」
大口を開けながら、腕を伸ばす。当然ながら、娘子には見えていまい。故に無垢なまま。穢れ無きそれが宙を舞うだけで、魔は祓われて、福が来る。
もしかしたら歩み寄ることで、生まれるのかもしれない。だが、そんな戦いかたが出来るのはきっと、我輩の盟友のような、勇気ある尊い存在だけだろう。だから臆病な我輩は、ありきたりな鬼と同じく。愚直に対象へ突進する。
豆が飛んでくる。福を願い。誰かの為に飛んでくる。避けはしない。それこそが鬼が遂げるべき、鬼にだけ許された生涯一つの善行であり、唯一無二の存在理由。
さぁ、頃合いだ。叫べ!
「鬼はぁ、外!」
パラッパラッパラッと、豆が弾ける音がした。
※
とあるマンションの部屋にて、とある二人の男女は並んでベッドに腰掛けて、あるものを眺めていた。
巾着袋に入れられた、ほんの少しの豆と、添えられた手紙。それを読み終えた二人はポツリと。何処か物悲しそうにため息をついた。
「……肉じゃが。食べきれない量になっちゃったわね」
「そうだね。残念だ」
手紙を畳み、巾着袋を弄りながら、青年はぼんやりと窓を見る。手持ち無沙汰になった女は、何の気なしに青年の肩にもたれ掛かり、こてんと可愛らしく頭を乗せた。
暫しの沈黙。それを破ったのは、青年の方だった。
「……これで、豆まきしようか」
「……節分で、あの子が消えたのに?」
眉をひそめる女に、青年は静かに頷いた。
「うろ覚えだけど、こんな話があるんだ。どこもかしこも鬼は外。鬼が名が付くものこそ鬼は内。が、いざ家に入れば柊に鰯の頭。そんな中で、とある柊も鰯の頭も買えぬ貧乏な夫婦は思ったそうだ。これでは鬼が可哀想。豆を撒くにしても家だけは鬼は内と言ってあげよう」
「どこかの民話だったかしらね。それをやるの?」
女の問いに青年は「人間が大好きだった彼女の、弔いにはなるだろう?」と、微笑んだ。
「鬼が追い立てられるのが節分だけど、一ヶ所くらい鬼にやさしい場所があったって、いいじゃないかと思うんだ」
どうかな? と、肩を竦める青年に、女は楽しげに微笑んで。「やってきたなら、お鍋でも出しましょうか」と、冗談混じりに腕を捲る。手を繋ぎ、二人揃って豆を手に。
そうして鰯も柊もない部屋で、パラパラパラッと乾いた音が響き始めた。
声を合わせて唄うかのように。鬼に言わせりゃ風変わりな人間二人は、祈るように豆を撒く。
「鬼は内。鬼は内」
「鬼は内。鬼は内」
断末魔は、二人にも聞こえていた。そんな中でも誰かに届けばいいと願う。
僕ら、エゴイストかな? と、青年は苦笑い。
ロマンチストって事にしときましょ。と、女はウインクする。
「……〝おににだっていろいろあるのにな。にんげんもいろいろいるみたいに〟」
「〝あの人はきっとかみさまだったんだわ〟……色んな解釈があるけれど、節分って切ないわよね」
「……その心は?」
とある絵本の一節を思い出し、青年が口ずさめば、女はそれに答えながら、静かに目を伏せた。
「だって……鬼は毎年のように豆をぶつけられても、人と関わるのを止めないのよ? まるで、僕らを覚えていて。忘れないでって、叫ぶみたいに」
存在証明が退治される事だなんて……切ないじゃない。
憂いの表情を浮かべたまま、女は最後の豆を外へと撒いた。
鬼が走り、豆が飛び交う二月の夜。
人間二人はひっそりと、住む世界が違う〝二人〟の友を悼んでいた。