第8話
二度寝というのは何とも心地良いものである。時にはこうした怠惰な時間も悪くはない。心を痛めることも、心を捕らえることも全て意識の外にある。悪夢は夜だけで十分だ。
うつらうつらをしながら、ヴォルフは“真夜中の狂気”を思い出していた。あれはただの気の迷い。夢魔が同情を欲情へといたずらに替えた結果だ。だがその少年も今夜はこの部屋から出て行く。昼過ぎになれば客が減り、埋まっていた部屋も空くだろう。そうなれば会話すら交わさない相手になるかもしれない。もっとも彼があの魔物に変な復讐心を燃やさなければという事が前提ではあるが。
“忘れよう。そうだ、忘れるんだ”
自分にそう言い聞かせながら、ヴォルフは権利を取り戻したベッドの上で惰眠を貪った。
再び眠りの中に溶け込もうとしたその瞬間、廊下を駆けてくる足音が聞こえてくる。続いて、扉が激しく開かれそして閉じられる音に、何事かとヴォルフはベッドから飛び起きた。
扉の前に少年が立っている。彼は両拳を握りしめ、怒りの為か顔を赤らめ一点を見据えていた。
「どうした?」
「クソ忌々しい!」
「どうしたと聞いてるんだ?」
その時になって初めて、ユーリィ少年はヴォルフの存在に気付いたようだ。彼は同じ視線のままヴォルフを見返し、唇を噛みしめる。
「何かあったのか?」
「部屋は貸せないと言われた」
「……なんだって?」
「子供には貸せないと言われた。一晩だけでも貸してくれと、下げたくもない頭を下げたにも関わらずだ!」
ユーリィ少年が本当に頭を下げたかどうかは少々疑問が残るが、子供には貸せないというのは確かに酷い理屈だ。
「俺が言ってやろうか?」
「いいよ、別に」
「じゃあ仕方がない。今夜もここに……」
「嫌だ!」
ユーリィは即答すると、口を尖らせ自分の荷物の方へと歩いていった。
「どうするつもりだ?」
「出ていく。別に野宿したって構わないんだし」
「オイオイ、君は病み上がりだろう? そんなことをすれば、また熱がぶり返すよ」
「そんなのは………」
ヴォルフはベッドから降り、荷物を持った少年へとゆっくり近付いた。途端、警戒の表情を浮かべられる。よほど例の事が嫌だったのか完全に信用を失っているようだ。もっとも少年は知らないが、本当に信用を失うことをしたのも事実だが……。
少年はヴォルフから逃げるように数歩下がる。だがヴォルフの方が一瞬早く、荷物を持っていない彼の腕を掴んだ。
「や、やめろ!」
「何を怖がってる?」
「だ、だって……」
「何もしないと言っただろう? ただ腕を持っているだけだ、違うか?」
そう言ったヴォルフだが、いきなり激しい衝動に駆られてしまった。彼を引き寄せ、空いた自分の腕を背中に回す。驚いた少年の青い瞳がヴォルフを見上げている。
「な、なにを?!」
「昨日のあんなのは本物じゃない」
「やめろっ」
逃れようとするユーリィを力で押さえつけた。掴んできたか細い腕を放し、代わりにその柔らかな金の髪に指を絡ませて、背けられた顔を強引に上を向かせる。
「なんなら、本当のキスを教えてやろうか?」
ヴォルフは己の顔を、ゆっくりと少年の方へと近付けていった。相手は抵抗を諦めたのか、それとも恐怖の為に硬直しているのか、逆らうのを止めたように動きを止める。
だが青く悲哀に満ちた双眸は閉じられることもなく、じっとヴォルフを見つめていた。温かな息が頬にかかり、否応なくヴォルフの熱情が呼び覚まされる。気の強そうなその口元は真一文字に結ばれていた。もう一度それをこじ開けてみたい、そんな欲情が頭と体を包み始める。あと少し……。
唇と唇が触れ合う寸前、突如ヴォルフはユーリィを突き放した。体を折って狂ったように笑い始める。驚愕した少年がじっとこちらを見つめているが、笑いの発作は止めることは出来なかった。
俺は変だ。衝動が抑えきれない。何とか理性を取り戻したが、魔法にでもかかったのだろうか。それはいつだ? あの魔物と対峙した時か、それとも老神官が白魔法を使った時か。とにかく何かが狂い始めている。
一頻り笑い、発作が収まると、ヴォルフは真っ直ぐ立ってユーリィを睨み付けた。茫然としていた相手は“ウッ”と呻って後ろに下がる。たぶん狂っていると思われただろう。
「そんな趣味はないと言っただろ! 何もしないと何度も言っただろ!!」
昨日までの穏やかさを失いそうだ。思わず声を荒げた自分に苛立ってしまう。本当に何かが変だった。力無く肩を落とし、ヴォルフは足元を見つめた。張りつめた空気が更に気を重くさせる。
「……怒鳴って悪かった。寝不足で……」
言い訳だ。下らない言い訳。相手を信じさせると言うよりも、自分を騙す為の……。
深呼吸をして気を落ち着かせたヴォルフは、やがて態とゆっくりとした足取りでユーリィの横を通り過ぎた。少年はビクッと体を固くしたが、ヴォルフは彼に一瞥もくれずに扉に近付く。取っ手を握りしめて振り返り、ユーリィの背中に静かな口調で話しかけた。
「君は出ていく必要はない。少し頭を冷やしてくる」
言い残し、ヴォルフは部屋を後にした。